八百屋お七悲恋物語
八百屋お七(1668‐1683)。「天和笑委集」によると、江戸本郷追分の森川宿で商いを張る八百屋市左衛門は、もと駿河国富士郡の農民で、その末娘のお七は数え16歳の器量よしだった。天和元年12月28日、駒込大円寺から発した大火で一家は焼け出され、菩提寺の駒込正仙院に難を逃れた。この寺に生田庄之介という小姓がいた。数え17歳の美少年だった。お七と相思相愛の仲となった。そのうちに森川宿の新宅が仕上がり、一家は寺を出ることになったが、お七の恋心はいよいよ燃え上がり、ついには再び焼け出されれば、また寺に戻って庄之介に会えると思い込み、近所の商家に火を放った。しかし、すぐ見つかって放火はボヤで終わり、お七は奉行所に引き出される身となった。
講釈師の馬場文耕による宝暦7年(1757)の「近世江都著聞集」の説によれば、お七の父親はもと前田家の足場だった山瀬三郎兵衛で、寛文年間に浪人して駒込追分願行寺門前で武家相手の八百屋を開業、八百屋太郎兵衛と名乗る。一家が焼け出されたのは天和元年2月に丸山本妙寺から起きた大火のためで、太郎兵衛の弟が住職をしていた小石川円乗寺に避難、お七はそこで山田左兵衛という修行中の美少年に出会い、恋におちる。お七に放火をそそのかしたのは、近くの吉祥寺の門番の子で、吉三郎という無頼漢。ボヤ騒ぎにまぎれて盗みをはたらこうとした吉三郎が捕らえられ、その自供からお七も縄を打たれた。調べに当たった改役、中山勘解由はお七のあまりの若さに驚き、15歳以下ならば、死罪を免れるという法もあることとて、お七を助けてやろうと考えた。「おまえはまだ十五であろう」「いえ、十六にございます」お七は正直に答えてしまい、死罪が決まった。
お七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火刑に処せられた。庄之介は高野山に上り出家したという。庄之介は吉三郎という説もある。吉三郎は大円寺(目黒行人坂)の西運上人だったことが最近判明している。大円寺阿弥陀堂にはお七地蔵尊と西運上人の木像が祀られている。上画像はお地蔵尊。(参考:大島幸夫「伝説の女たち」)
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