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2022年12月31日 (土)

たかが紅白、されど紅白

 日本の大晦日は「炬燵みかんで紅白歌合戦」が定番だった。昭和38年、視聴率が81.4%を記録し、8000万人が見たといわれる。第73回NHK紅白歌合戦。今年のテーマは、「LOVE&PEACEみんなでシェア」で、2年ぶりにNHKホールから有観客で生中継される。大泉洋、桜井翔、桑子真帆、それに若者に人気の橋本環奈が司会する。初出場は紅組のive、ウタ、Aimer(エメ)、緑黄色社会、LE SSERAFIM(ル・セラフィム)、白組のSaucy Dog、JO1、なにわ男子、vaundy、BE-FIRSTの10組。でも高齢者になじみのないミュージシャンが多く、シニア世代も「紅白離れ」が加速している。Kポップ重視、演歌切り捨てのNHK改革が形となった年であろう。一方で、ジェンダーフリーの時代に男女対抗というのは時代遅れだという声もある。今年の紅白、注目されるのは何といっても橋本環奈の司会ぶりだろう。2013年に「1000年に1人のアイドル」と評され、明るく飾らないキャラクターで、幅広い世代から人気を集めてきた。今年の独身男性対象に「合コンしたい女性俳優」アンケートで第3位「有村架純」、第2位「永野芽郁」を抑えて1位に輝いている。オープニングはSixTones、大トリは福山雅治。「たかが紅白、されど紅白」贅沢な趣向が凝らしている。

 そんななかこれまでNHK紅白歌合戦に一度も出場していない人気歌手が結構いる。「負けないで」「揺れる想い」などヒット曲をもつ坂井泉水(ZARD)は、2000年の紅白歌合戦の出場に前向きであったが、体調不良のため出場を辞退した。7年後、入院先の病院で転落死により、結局生涯一度も紅白に出場することがなかったが、一度見たかった。それぞれの事情により紅白出場していない歌手・俳優は多い。古くは岡晴夫。井上陽水、山下達郎、佐野元春、浜田省吾、松山千春、桑名正博、円広志、やしきたかじん、小田和正、氷室京介、スピッツ、B'z、CHAGE and ASKA、奥田民生、大黒摩季、辛島美登里、JUJU、増位山太志郎など。ヒット曲がある俳優、勝新太郎、高倉健、石原裕次郎、天知茂、萩原健一、柴咲コウなどが一度も出場していない。

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

 

大晦日

    大晦日から元日にかけて日本列島は穏やかな天気となりそうだ。ただし元日の夜から早々に寒波が襲来し、日本海側は大雪になるだろう。家族がそろってお正月を迎える人、ひとり暮らしで年を越す人、病院で年を越す人、住む家なく路上生活を余儀なくされる人、さまざまな大晦日。テレビや炬燵で過ごせる人は幸せだろう。昨夜のレコ大は司会の有村架純のミニスカのファッションに注目が集まった。大晦日の夜は紅白歌合戦を見ているが、J-ポップと歌謡曲・演歌の割合が毎年変化している。演歌勢の縮小が続き。歌謡曲を聴きたい人は「年忘れ!にっぽんの歌」を見るだろう。洋楽ファンなら「年越しクラシック」その他、お笑い、バラエティ、格闘技などある。やはり身体を清めて、お神酒を供えて歳神様がやってくるのを寝ずに待つ。除夜の鐘を聞き、近くの神社に参拝するというのが理想の過ごし方かな。

 

 

ご冥福をお祈りいたします

 2022年も残すところあとわずかとなlりました。今年も新型コロナの猛威が続き多くの命が奪われた。また災害や事故など不慮によって亡くなられた方々も多くいる。謹んでご冥福をお祈りいたします。テレビ朝日の「徹子の部屋」も年末恒例となった追悼特集。今年お亡くなりになった方々をありし日の映像で振り返る。9月27日午後、日本武道館で安倍晋三元首相の国葬が行われた。海外からは218の国と地域・機関の約700人の要人が出席した。国内からは約3600人が参列した。それにしても安倍晋三、エリザベス女王、ゴルバチョフ、三遊亭円楽、アントニオ猪木、仲本工事、村田兆治と・・・2022年は、有名人も多数亡くなられ、ことのほか悲しい年となった。われわれの生まれ方は1つだが、死に方はさまざまである。死はある日、突然にやってくる。予期せぬ死に方で多いのは、転倒や転落、航空機や車などの交通事故死。通り魔に刺殺されることや銃撃されることもある。歩行中に鉄パイプが落下したり、熱中症で死んだり、遊泳中に鮫に襲撃されたり、落雷に遭ったりする。生きているものすべては、常に死の恐怖と隣り合わせである。とにかく何もしないことが一番である。 

 スペインのオペラ歌手テレサ・ベルガンサさんが5月13日に死去した。享年89歳。数多いレパートリーの中でもカルメンが代名詞として名高い。1977年にエディンバラ音楽祭で初めて披露した。訃報記事を書いていると、次々に訃報が飛び込む。▽3月5日、俳優・志垣太郎さんが死去。70歳。▽6月11日に松平直樹さんが肺炎で亡くなった。88歳。1959年和田弘とマヒナスターズは「誰よりも君を愛す」で第二回日本レコード大賞を受賞している。▽フランスの俳優ジャン・ルイ・トランティニャンさんが17日死去した。91歳だった。クロード・ルルーシュ監督の「男と女」(1966年)は代表作である。▽「ボヘミアン」で知られる女性ロックシンガー葛城ユキさんが6月27日病気のため死去した。昔のことだがテレビで芸能人の運動会を見ていたら、葛城ユキさんが走り高跳びで優勝されたことを鮮明に記憶している。番組は石川秀美などのアイドル中心で、若手の歌手が活躍するほうが番組的には視聴率がよかったのだろうが、ロック歌手がガチで勝負したのが気持ちよかった。そのことはネットでは確認できなかった。ただし葛城さんはバレーボール選手で国体に出場経験があるスポーツ少女で芸能人相手の競技で勝つのはたやすい事だろう。▽「水戸黄門」などで知られる俳優の佐野浅夫さんが6月28日、老衰のため京都市内の自宅で死去した。96歳だった。

7月▽人気ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た!」などで知られる名わき役、野村昭子さんが7月1日、自宅で倒れているのを親族が発見した。死因は熱中症と思われる。95歳だった。映画デビューは左幸子主演の「思春の泉」(1953年)。岩崎加根子さんは俳優座養成所第1期生の同期。▽台湾の歌手ミウ・チュウ(朱俐静)さんが3日、病気のため死去した。40歳だった。代表曲には「存在的力量」「一千万次的涙水」「我会在称身辺」などがある。▽4日、シンガーソングライターの山本コータローさんが、脳内出血で死去した。72歳だった。代表作「走れコウタロー」「岬めぐり」。▽6日、「遊戯王」で知られる漫画家、高橋和希さんの損傷した遺体が、沖縄県名護市沖で発見された。シュノーケリング中の事故死と思われる。60歳だった。▽6日、ハリウッドの俳優、ジェームズ・カーンさんが死去した。「ゴッドファーザー」では悲劇的な最期を遂げる長男ソニー役で知られ、ほかに「シンデレラ・リバティー」「ローラー・ボール」「ミザリー」などがある。82歳だった。▽安倍晋三元首相が8日、参院選遊説先の奈良市で演説中に銃撃を受け死去した。その動機であるが、銃撃容疑者の家庭は母親が宗教にのめりこみ破産したという。この団体を国内に広めたのが安倍氏だと思い込み、恨んでいた。安倍氏の戦後レジームや憲法改正などの政治信条に対するテロではないと供述しているが、安倍政権が国民を騙してきた真実が明るみに出る結果となる。(この記事は進行中のため書きかけです)。▽12日、東京都内の病院で石川忠久さんが死去した。NHK漢詩番組で知られた中国文学者。90歳だった。▽16日、元横綱2代目若乃花の下山勝則さんが死去した。69歳だった。幕内優勝4回。▽21日、考古学者の大塚初重さんが、肺炎のため死去した。95歳だった。▽24日、英国の俳優デビッド・ワーナーさんががんで死去した。80歳だった。「オーメン」や「タイタニック」に出演した。▽バイオリニストの佐藤陽子さんが肝臓がんのため死亡した。72歳だった。池田満寿夫さんのパートナーとしても知られた。▽25日、女優の島田陽子さんが、都内の病院で死去した。69歳だった。国際派女優として活躍した。▽26日、元大蔵省事務次官の吉野良彦さんが死去。91歳だった。竹下内閣の下で89年4月に消費税が導入される道筋を付けた。▽31日、フィリピンの元大統領フィデル・バルテス・ラモスさんが死去した。94歳だった。1986年、エドゥサ革命で政権崩壊に貢献した。

8月▽8月1日、早稲田大学教授の川岸令和さんが死去。60歳だった。「知る権利」や「学習の自由」など憲法学を基盤にした論稿が多い。▽1日、市田ひろみさんが死去。90歳だった。大映の専属女優から服飾評論家に転向し、テレビ・著作などで活躍した。▽5日、ファッション・デザイナーの三宅一生さんが肝細胞がんで死去した。84歳だった。▽5日、ブラジルで中林順さんが多臓器がんのため死去した。76歳だった。ブラジル労働党(PT)の創立者の一人。▽7日、米匡の作家、歴史家のデビッド・マカレールさんが死去した。89歳だった。「ジョンズタウン洪水」「ブルックリン橋」「パナマ運河」「セルジア・ルーズベルト」「ライト兄弟」などの伝記などの著作が多数ある。▽7日、米国の俳優ロジャー・E・モズレーさんが死去した。83歳だった。「私立探偵マグナム」「ラブボート」「刑事スタスキーハッチ」「刑事コジャック」などテレビ作品が多数ある。▽6日、作家の青木新門さんが死去。85歳だった。葬儀屋での体験をもとにして書かれた「納棺夫日記」(1993)がベストセラーとなる。▽8日、オーストラリアの歌手・女優のオリビア・ニュートン・ジョンさんが死亡した。73歳だった。代表曲「ジョリーン」「カントリーロード」「そよ風と誘惑」「グリース」「ザナドゥ」など。「知性と美貌の歌姫」といわれたが、イルカ問題で来日を拒否したこともある。▽8日、精神科医の中井久夫さんが死去した。88歳だった。「兵庫県こころのケアセンター」の設立に尽力したり、ギリシアの詩人「カヴァフィス全詩集」などを出版した。▽9日、英国のイラストレーター、レイモンド・ブリッジズさんが死亡した。88歳だった。「さむがりやのサンタ」「スノーマン」「風が吹くとき」。▽9日、英国の作家ニコラス・エヴァンズさんが心臓発作のため死亡した。72歳だった。「モンタナの風に抱かれて」(1995)は映画化もされた。▽11日、ファッションデザイナーの森英恵さんが老衰で死亡した。96歳だった。1996年にはファッション界で初の文化勲章を受章している。▽12日、アメリカ女優のアン・ヘッシュさんがロサンゼルスで交通事故で死去した。53歳だった。「6デイズ/7ナイツ」「フェイク」「ラストサマー」などの映画に出演。▽12日、ウォルフガング・ペーターゼン監督が膵臓がんで死去した。81歳。「U・ボート」「エアフォース・ワン」▽14日、漫画家の牧野圭一さんが胃がんのため死去した。84歳。街の薬屋さんの店頭にある小象「サトコちゃん」のデザインなど漫画文化の普及に広く活躍した。▽15日、報道写真家の笹本恒子さんが老衰のため死去した。107歳だった。▽21日、演歌歌手の新川二郎さんが死去した。82歳だった。東京五輪が開催した64年、「東京の灯よいつまでも」がヒットした。▽劇団四季の久野綾希子さんが乳がんで死去した。71歳だった。「キャッツ」「ウエストサイド物語」舞台だけでなくテレビのサスペンス物のヒロインだった。▽23日、古谷一行さんが死去した。78歳だった。代表作に「探偵・金田一耕助シリーズ」「失楽園」、2時間サスペンスドラマ多数ある。▽24日、京セラの稲森和夫さんが死去した。90歳だった。▽27日、落語家の三遊亭金翁さんが死去した。93歳だった。小金馬、4代目金馬として知られ、テレビ番組「お笑い3人組」や「ミスター・エド」の吹替えで人気者だった。▽28日、芸能レポーターの前田忠明さんが死去した。81歳。梨本勝さんとともにお茶の間にも親しまれた。▽30日、元ソ連の大統領ミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフさんが病気で死去した。91歳だった。▽30日、歌手の三條町子が老衰のため死去した。97歳だった。「かりそめの恋」がヒットした。

9月▽9月5日、歌手おおたか清流さんが病気のため死去した。69歳だった。喜納昌吉さんの曲をカバーした「花」などで知られた。▽8日、英王エリザベス女王が死去した。96歳。在位70年は、神武天皇の76年、フランスのルイ14世の72年に次で、史上3番目の長さであった。▽10日、アメリカの写真家ウィリアム・クラインさんがパリで死去した。96歳。▽11日、スペインの作家ハビエル・マリアスさんが肺炎のため死去した。70歳だった。代表作「すべての魂」「白い心臓」。▽12日、ジャズ・ピアニストのラムゼイ・ルイスさんが死去した。87歳だった。65年のアルバム「ジ・イン・クラウド」が大ヒットし、グラミー賞を獲得する。▽作家の宮沢章夫さんがうっ血性心不全で死去した。65歳だった。著書に「時間のかかる読書」「わからなくなってきました」など。▽13日、映画監督ジャン・リック・ゴダールさんが死去した。91歳だった。1959年に「勝手にしゃがれ」を発表し、ヌーヴェルバーグを牽引する監督して脚光を浴びた。▽13日、東洋フライ級の王者プロボクサー矢尾板貞雄さんが小脳出血のため死去した。86歳だった。▽14日、ギリシャの女優イレーネ・パパスさんが死去した。93歳だった。「ナバロンの要塞」「その男ゾルバ」で国際的名声を得た。▽16日、作曲家の彩木雅夫さんが肺炎のため死去した。89歳だった。「花と蝶」「長崎は今日も雨だった」「なみだの操」「夫婦鏡」など200曲以上を作曲した。▽16日、俳優の梶田冬磨さんが急逝した。22歳だった。「恋する週末ホームステイ」などに出演した。▽17日、韓国の歌手パク・ジョンウンさんが肝硬変のため死去した。57歳だった。「今日みたいな夜は」(1991年)などのヒット曲を残した。▽17日、漫画家の石井いさみさんが急性心不全で死去した。80歳。「750ライダ―」で知られる。▽22日、イギリスの作家ヒラリー・マンテルさんが死去した。70歳だった。「ウルフ・ホール」「罪人を召し出せ」でブッカー賞を受賞した。▽23日、アメリカ女優ルイーズ・フレッチャーさんが死去した。88歳だった。「カッコーの巣の上で」でアカデミー賞主演女優賞を受賞した。▽24日、ジャズ・サックス奏者ファラオ・サンダースさんが死去。81歳。代表作は「ザ・クリエイター・はず・ア・マスター・プラン」(69年)など。▽25日、プロ野球西鉄ライオンズの投手、池永正明さんが癌で死去した。76歳。1970年「黒い霧事件」で永久失格処分を受けたが、2005年に解除されて復権した。▽26日、ノンフィクション作家の佐野真一さんが肺癌のため死去した。76歳だった。「旅する巨人」「東電OL殺人事件」など。▽27日、将棋の有吉道夫さんが誤嚥性肺炎のため死去した。87歳だった。攻めの棋風で「火の玉流」と呼ばれた。▽27日、俳優の江原真二郎さんが死去した。85歳。映画「米」「純愛物語」。▽28日、元新党さきがけ代表、武村正義さんが死去した。88歳だった。1993年の非自民連立による細川護熙政権の誕生に貢献した。▽29日、絵本画家の山脇百合子さんが死去した。80歳。姉の中川李枝子さんとの共作の絵本シリーズ「ぐりとぐら」のイラストで広く知られている。▽30日、落語家の三遊亭円楽さんが死去した。72歳だった。日本テレビの「笑点」の大喜利メンバーとしてお茶の間の人気者だった。▽評論家の渡邊みどりさんが自宅で死去した。88歳だった。皇室報道など60余年にわたり活躍した。

10月1日、「燃える闘魂」のうたい文句で人気があった元プロレスラーのアントニオ猪木さんが心不全で死去した。79歳だった。1976年、ボクシングのモハメド・アリーとの格闘戦は注目を浴びた。▽2日、漫画家のかざま鋭二さんが膵臓がんのため死去した。75歳だった。ゴルフ漫画「風の大地」など。▽4日、カントリー歌手ロレッタ・リンさんが死去した。90歳だった。「コール・マイナーズ・ドーター」などヒット。1980年に「歌え!ロレッタ愛のために」が伝記映画化された。▽4日、1951年のボストンマラソンで日本人初優勝を果たした田中茂樹さんがせ心不全などのため死去した。91歳だった。▽7日、作曲家でピアニストの一柳慧さんが死亡した。89歳だった。代表作は交響曲「ベルリン漣詩」、オペラ「愛の白夜」など。オノ・ヨーコさんは最初の妻だった。▽8日、女優の松原千明さんがハワイで死去した。64歳没。▽8日、プロ野球選手・藤尾茂さんが死去した。巨人の捕手として活躍した。▽11日、女優のアンジェラ・ランズベリーさんがロサンゼルスの自宅で死去した。96歳。初の映画出演作「ガス燈」でアカデミー助演女優賞にノミネートされている。テレビシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」では主役を演じ、人気を博した。▽12日、淡路島のわらび餅の移動販売業、川西俊一さんが老衰で死去した。102歳。タイガースと阿波踊りをこよなく愛した。▽12日、沖縄のラジオパーソナリティー比嘉美由紀さん、急性白血病のため死去した。46歳だった。FMよみたんの情報番組などを担当した。▽14日、俳優ロビー・コルトレーンさんが死去した。72歳。ハリー・ポッターシリーズ8作品全てに出演した。▽15日、ハイチの歌手ミカベン(本名ミカエル・ベンジャミン)がパリで急死した。41歳だった。▽16日、女優の片桐夕子さんが死去した。70歳。「女子高生レポート 夕子の白い胸」などロマンポルノで活躍した。▽17日、ドイツ出身の米ピアニスト、マイケル・ボンティーさんが死去した。84歳だった。▽19日、ザ・ドリフターズのメンバーの仲本工事さんが前日に車にはねられ、病院で死去した。81歳だった。「8時だョ!全員集合」で人気を集めた。▽19日、漫画家の永田竹丸さんが老衰のため死去した。88歳没。「トキワ荘」に住んだ漫画家たちとの交流で知られ、初めてスクリーントーンを使ったとされる。▽21日、講道館柔道十段、大沢慶己(おおさわよしみ)さんが死去した。96歳だった。小柄ながら、体重無差別の大会で活躍し、その軽快な身のこなしから「今牛若丸」と呼ばれた。▽26日、文化人類学者の小山修三さんが肺炎のため死去した。83歳没。国立民族学博物館、吹田市立博物館を務めた。▽27日、撮影監督の金宇満司(かなうみつじ)さんが死去した。89歳。主な作品に「黒部の太陽」「サンダ館八番娼館 望郷」テレビドラマ「大都会」「西部警察」など。▽28日、米国歌手のジェリー・リー・ルイスが死去した。87歳没。「火の玉ロック」など数々のヒット曲を世に送り出した。▽28日、漫才師の酒井くにおさんが死去した。74歳没。▽31日、経済学者の小宮隆太郎さんが老衰で死去された。93歳だった。高度成長の分析で優れた研究業績を残す。著作「戦後日本の経済成長」「現代日本経済研究」。

11月1日。作曲家の普久原克恒勇さんが死去した。89歳没。代表作「芭蕉布」。▽2日、元福音館書店の社長、松居直さんが老衰のため死去した。96歳没。戦後、児童文学の発展に貢献した。▽4日、作詞家の松本一起さんが死去した。73歳没。80年代アイドル全盛期にヒットチャートを席捲した。代表作「急いで!初恋」(早見優)、「ジプシー・クイーン」(中森明菜)など。▽5日、米歌手アーロン・カーターさんが死去した。34歳没。アルバム「アーロンズ・パーティ」は3000万枚を超えるヒットとなった。▽9日、ブラジルの歌手ガル・コスタさんが死去した。77歳没。代表曲「ベイビー」など。▽11日、プロ野球選手、村田兆治さんが自宅火災で死去した。72歳没。オーバースローで、鉞を打ち下ろす豪快なフォームから、「マサカリ投法」の異名をとった。通算215勝。▽12日、写真家の芳賀日出男さんが死去した。101歳。日本各地の祭りを撮影した。著「日本の民俗」など。▽12日、映画監督の大森一樹さんが死去した。70歳没。「ヒポクラテスたち」「風の歌を聴け」「恋する女たち」など80年代森田芳光、相米慎二らと共に若い映画監督の旗手と呼ばれた。▽16日、バレーボール女子のイザベル・ザルガドさんが死去した。62歳没。ブラジル女子バレー界の第一人者で、日本リーグにも在籍した。▽24日、作家の佐川一政さんが死去した。73歳。パリ人肉事件(1981年)の犯人として知られる。▽24日、文芸評論家の樋口覚さんが死去した。74歳。著書「三絃の誘惑 近代日本精神史」など。▽25日、歌手のアイリーン・キャラさんが死去した。63歳没。1983年「フラッシュ・ダンス」の主題曲を歌い大ヒットした。▽27日、映画監督の崔洋一さんが死去した。73歳。「月はどっちに出ている」「血と骨」など在日コリアンの物語をリアルに描いた作品で知られる。▽28日、俳優の渡辺徹さんが死去した。61歳。「太陽にほえろ!」でデビュー。妻は榊原郁恵。▽30日、江沢民・元国家主席が死去した。96歳。共産党では毛沢東、鄧小平に続く世代の最高指導者だった。中国の高速経済成長を成し遂げた。

12月1日。フランスの俳優ミレーヌ・ドモンジョさんがパリの病院で死去した。1950年代から活躍し、「サレムの魔女」「お嬢さんお手やわらかに」「上と下」など。日本でも人気が高く、アニメ「ヤッターマン」のドロンジョ様は彼女がモデルといわれる。▽6日、仏文学者の山田兼士さんが死去した。69歳。著書「ボードレール パリの憂鬱論」など。▽6日、歌手の水木一郎さんが肺がんのため死去した。「マジンガーZ」「バビル2世」などアニメソングの帝王と呼ばれた。▽8日、映画監督の吉田喜重さんが死去した。89歳。代表作「秋津温泉」「戒厳令」「エロス+虐殺」。▽10日、俳優の佐藤蛾次郎さんが死去した。78歳。映画「男はつらいよ」で車寅次の弟分源吉を務めた。▽11日、女優の藤山陽子さんが死去した。80歳。若大将シリーズではスミちゃんのライバル役だった。▽12日、漫画家の桜多吾作さんが肺炎のため死去した。74歳。代表作「釣りバカ大将」。▽14日、漫画家の御厨さと美さんが死去した。74歳だった。代表作「裂けた旅券」「イカロスの娘」。▽14日、バンドCCBのドラマー・笠浩二さんが死去した。60歳。1985年「Romanticが止まらない」が大ヒットした。▽18日、俳優の仲田育史さんが急死した。47歳という若さだった。舞台「親父の記憶」の公演中に倒れ、救急搬送されたが帰らぬ人となった。映画「フラガール」「さくらん」「勝手にふるえてろ」にも出演している。▽19日、イギリスの歌手テリー・ホールが死去した。63歳。英バンド「ザ・スペシャルズ」のメンバーで、「ギャングスターズ」(79年)は伝説の名作とされる。▽19日、漫才師の新山ノリローさんが死去した。86歳。テレビ草創期、新山ノリロー・トリローとして活躍した。▽20日、女優あき竹城さんが死去。75歳。明るいキャラクターと山形弁で知られた。映画「楢山節考」。▽21日、タレントの高見知佳さんが死去した。60歳。▽米国音楽プロデューサーのトム・ペル(トーマス・ランドルフ)さんが死去した。79歳。スタイリスティックスの「愛がすべて」(1975年)などが広く知られる。▽23日、英歌手のマキシ・ジャズさんが死去した。65歳。1995年、電子音楽バンド「フェイスレス」を結成し、ダンス音楽で知られた。▽25日、歴史家の渡辺京二さん死去した。92歳。著書「逝きし世の面影」「黒船前夜」。▽25日、フランス文学者の篠田浩一郎さんが老衰で死去した。94歳。「ロラン・バルト 世界の解読」文芸評論家としても活躍した。「小説はいかに書かれたか」。▽26日、女優の絵沢萌子さんが老衰で死去した。83歳。「濡れた唇」「月はどっちに出ている」。▽28日、建築家の磯崎新さんが死去した。91歳。代表作「北九州市立美術館」「ロサンゼルス現代美術館」▽29日、サッカーの元ブラジル代表ペレさんがサンパウロで死去した。82歳。▽28日、天体写真家の藤井旭さんが死去した。81歳。著書「星になつたチロ」。▽29日、英ファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドさんがロンドンで死去した。81歳。▽30日、ジャーナリストの矢崎泰久さんが死去した。89歳。元「話の特集」編集長。▽31日、民俗芸能研究家の山崎一司さんが死去した。83歳。著書「隠れ里の祭り」「失われた祭り」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大晦日の餃子

   日本では大晦日の夜は年越しそばを食べるという習慣があるが、中国北方の北京では大晦日の晩に家族が集まって餃子をつくる。映画「妻への家路」(2014)にもそのようなシーンがある。ちなみに中国で餃子というば水餃子のこと。焼き餃子は「鍋貼(ゴーティエ)」と言う。年越しに餃子を食べるという習慣は明代のころから始まったといわれる。

大晦日の祖先祭祀の風習について

 大晦日から元日にかけて、日本海側中心に強風や厳しい寒さとなる。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

2022年12月30日 (金)

女性歌手たちのデビュー曲

  年末になると各局音楽特番が企画されるが、2022年11月TBSで放送された「歌のゴールデンヒット」は1954年以降リリースした日本の女性歌唱の楽曲の中からランキングBest100を紹介するという内容である。採点の方法は、シングルレコード・CDの売り上げ枚数、ダウンロード数、ストリーミング再生数の3つをポイント化して、集計するらしい。昭和・平成・令和のなかで普通であれば大物女性歌手といえば美空ひばり、島倉千代子、都はるみ、石川さゆり、などが考えられるが、ダウンロード・ストリーミング数という採点数が重要視されるので、おそらく21世紀になって活躍しているJ-POP系歌手が選ばれるでろう。予想を覆すランキングになった。結果、第1位はYOASOBI「夜に駆ける」。そこでこれまでの歌姫たちをデビュー曲と共にふりかえってみよう。小笠原美津子が先日、宝塚市内の病院で99歳で亡くなられた。1938年にビクターよりデビューした。2年後の「十三夜」のヒット曲や東海林太郎とのデュエット曲で知られる。榎本美佐江は戦時中は工場や軍隊の慰問などに回っていたが、1946年にテイチクに入社し、市丸の代役で歌った「十三夜」(オリジナルは1940年の小笠原美都子)がヒットした。当時レコード化されていなかったが、実質的に榎本の初ヒットといえる。鈴を鳴らしたような美声と美貌で新東宝で多数出演したが、レコード歌手として地位を確立したのは1949年ビクター移籍後のことである。由紀さおりの「ヒッチハイク娘」はどんな歌なのだろう。

小唄勝太郎「島の娘」 1933
渡辺はま子 「海鳴る空」 1933
美ち奴 「さくらおけさ」 1934
二葉あき子「愛の揺り籠」  1936
菅原都々子「お父さんの歌時計」 1937
越路吹雪「ブギウギ巴里」 1946
笠置シズ子「東京ブギウギ」 1947
吉岡妙子「昼も夜も」 1947
平野愛子「港が見える丘」 1947
美空ひばり「河童ブギウギ」 1949
織井茂子「安南夜船」 1949
宮城まり子「なやましブギ」 1950
江利チエミ「テネシーワルツ」 1952
ペギー葉山「ドミノ」     1952
雪村いづみ「想い出のワルツ」 1953
楠トシエ「僕は特急の機関車で」 1953
大津美子「千鳥のブルース」 1955
島倉千代子「この世の花」 1955
西田佐知子「伊那の恋唄」 1956
浜村美智子「バナナ・ボート」 1957
伊東ゆかり「かたみの十字架」 1958
ザ・ピーナッツ「可愛い花」 1959
こまどり姉妹「浅草姉妹」 1959
森山加代子「月影のナポリ」 1960
坂本スミ子「黒い天使」 1960
多摩幸子「明子の唄」 1961
弘田三枝子「子供ぢゃないの」 1961
岸洋子「たわむれないで」 1962
木の実ナナ「東京キカンボ娘」 1962
梓みちよ「ボッサ・ノバでキッス」 1962
三沢あけみ「ふられ上手にほれ上手」 1963
九重佑三子「シェリー」 1963
いしだあゆみ「ネェ、聞いてよママ」 1964
水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」 1964
都はるみ「困るのことヨ」 1964
大月みやこ「母恋三味線」 1964
小林幸子「ウソツキ鴎」 1964
日野てる子「カイマナ・ヒラ」 1964
渡辺順子(黛ジュン) 「ダンケ・シェン」 1964
笹みどり「女の舞台」 1965
三船和子「ベトナムの赤い月」 1965
由紀さおり(安田章子)「ヒッチハイク娘」 1965
青江三奈「恍惚のブルース」 1966
山本リンダ「こまっちゃうナ」 1966
加藤登紀子「誰も誰も知らない」 1966
日吉ミミ「涙と艶歌船」 1967
E7acacefbc90efbc91e99b86テレサ・テン「鄧麗君の歌第1集」 1967
森山良子「この広い野原いっぱい」 1967
瀬川瑛子「涙の影法師」 1967
渚ゆう子「早くキスして」 1967
和田アキコ「星空の孤独」 1968
ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」 1969
芹洋子「野に咲く花のように」 1969
藤圭子「新宿の女」 1969
藤野ひろ子「浜でギターを弾いてたら」 1969
北原ミレイ「ざんげの値打ちもない」 1970
八代亜紀「愛は死んでも」 1971
天地真理「水色の恋」 1971
小柳ルミ子「わたしの城下町」 1971
天童よしみ「風が吹く」 1972
森昌子「せんせい」 1972
松任谷由実「返事はいらない」 1972
谷山浩子「銀河系はやっぱりまわっている」 1972
山口いづみ「緑の季節」 1972
山口百恵「としごろ」 1973
石川さゆり「かくれんぼ」 1973
キャディーズ「あなたに夢中」 1973
川中美幸「新宿天使」 1973
高橋真梨子「ジョニィへの伝言」 1973
キム・ヨンジャ「教えてください」 1974
伊藤咲子「ひまわり娘」 1974
中島みゆき「アザミ娘のララバイ」 1975
岩崎宏美「二重唱(デュエット)」 1975
金沢明子「津軽じょんから節」ほか(LP若い民謡」収録)1975
大場久美子「あこがれ」 1977
榊原郁恵「私の先生」 1977
渡辺真知子「迷い道」 1977
矢野顕子「いろはにこんぺいとう」 1977
柴田まゆみ「白いページの中に」  1978
高見知佳「シンデレラ」 1978
竹内まりや「戻っておいで・私の時間」 1978
紅屋おかめ 「泣くなオカメちゃん」  1978
久保田早紀「異邦人」  1979
松田聖子「裸足の季節」 1980
山下久美子「バスルームから愛をこめて」 1980
小泉今日子「私の16才」 1982
中森明菜「スローモーション」 1982
原田悠里「俺に咲いた花」 1982
星ひろみ(伍代夏子)「恋の家なき子」 1982
小久保尚美「誰にも云わないで」 1983
菊池桃子「青春のいじわる」 1984
中山美穂「C」 1985 
南野陽子「恥ずかしすぎて」 1985
森川美穂「教室」 1985
浅香唯「夏少女」 1985
渡辺美里「I'm free」 1985
今井美樹「黄昏のモノローグ」 1986
中村美律子「恋の肥後つばき」 1986
島津亜矢「袴をはいた渡り鳥」 1986
椎名恵「今夜はANGEL」 1986
伊藤智恵理「パラダイス・ウォーカー」 1987
伍代夏子「戻り川」 1987
坂本冬美「あばれ太鼓」 1987
森高千里「NEW SEASON」 1987
藤あや子「ふたり川」 1987
工藤静香「禁断のテレパシー」 1987
香西かおり「雨酒場」 1988
山口由子「幾千の涙を贈りたい」 1988
遊佐未森「瞳水晶」 1988
西田ひかる「ぼくらのセディ」  1988
小野リサ「カトピリ」 1989
夏川りみ(旧芸名・星美里)「しほり」 1989
林原めぐみ「約束だよ」 1989
山口弘美「つよがり」 1989
高橋由美子「Step by Step」 1990
西野妙子「A級キッス」 1990
田川寿美「女…ひとり旅」 1992
音羽しのぶ(司千恵子) 「涙という名の港町」 1992
広瀬香美「愛があれば大丈夫」 1992
藤田恵美(ルクプル)「海の底でうたう唄」 1994
安室奈美恵「太陽のSEASON」 1995
華原朋美「keep yourself alive」 1995
水森かおり「おしろい花」 1995
宇多田ヒカル「Automatic」 1998
浜崎あゆみ「poker face」 1998
椎名林檎「幸福論」   1998
aiko「あした」       1998
川野夏美「あばれ海峡」 1998
MISIA「つつみ込むように」 1998
島谷ひとみ「大阪の女」 1999
クミコ「接吻」     2000
水樹奈々「想い」     2000
中島美嘉「STARS」   2001
一青窈「もらい泣き」   2002
加藤ミリヤ「Never let go」 2004
木村カエラ「Level42」    2004
JUJU「光の中へ」    2004
Beni「harmony」     2004 
Perfume 「リニアモーターガール」 2005
新妻聖子「夢の翼」   2006
青山テルマ「ONE WAY」  2007
越智志帆(superfly)「ハローハロー」 2007 
ステファニー「君がいる限り」 2007 
西野カナ「I」        2008 
miwa「don't cry anymore」 2010
出光仁美「おんな七厘」 2010
藍井エイル「MEMORIA」 2011
家入レオ「サブリナ」   2012
杜このみ「三味線わたり鳥」  2013
大原櫻子「頑張ったっていいんじゃない」2014
あいみょん「生きていたんだよな」 2016
栞菜智世「Hear 信じあえた証」 2016
羽山みずき「紅花慕情」 2016
三浦透子「おかあさんへ」 2016
朝花美穂「なみだの峠」 2018
門松みゆき「みちのく望郷歌」 2019
鈴木愛理「Escape」 2019 
望月琉叶「失恋慕情」  2020
石川花「空に咲いて」    2022

 

 

 

 

 

 

酒井忠次の軍配

    酒井左衛門尉忠次(1527-1596)。大永7年の生まれで徳川四天王のなかでは最年長。晩年は眼疾で目が見えなかった。徳川家の家老かつ四天王なのに何故か印象が薄い。だが忠次の軍配がその人間性を物語っている。木製の黒漆塗で、中央には干支暦があり、その上にルーペと方位磁石(コンパス)が付いている。2023年大河ドラマ「どうする家康」では大森南朋が演じる。徳川四天王、榊原康政は杉野遥亮、井伊直政は板垣李光人、本多忠勝は山田裕貴。

 

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 黒塗軍配団扇(致道博物館)

迎春準備をお忘れなく

Photo いささかの金欲しかりぬ年の暮れ 鬼城

  年末になると売っているお惣菜が高くなる。じゃがいもやタマネギのバラ売りがなくなる。正月商品は、普段100円だった蒲鉾が正月用の蒲鉾だと1000円以上する。高級品であるのはわかるが、100円商品が棚から消えるのは困る。うどんやお雑煮に入れる蒲鉾なら「寿」の文字や三色のものはいらない。値上がりする前に買っておけばよかった。ソフトブレーン・フィールドが調査したところ、好きな「おでん」の具はダントツで大根が1位だった。以下、たまご、こんにゃく、ちくわ、餅入り巾着、はんぺん、牛すじ串、厚揚げ、じゃがいも、しらたき、がんもどき、さつま揚げ、つみれ、ちくわぶ、ウィンナー、ごぼう巻き、こんぶ、糸こん、ロールキャベツ、お豆腐、さといも、おでん餃子。年末の買い忘れないようにチェックしておこう。

年越しそば、そばつゆ、海老天、にしん、お寿司、ローストビーフ、オードブル、雑煮の具、数の子、ごまめ、栗の甘露煮、ロースハム、さといも、たけのこ、伊達巻き、黒豆、田作り、煮しめ、棒鱈、千枚漬け、海老、カニ、キヌサヤ、たけのこ水煮、金時人参、百合根、ぐわい、銀杏、焼豚、昆布巻き、生珍味、餅、鏡餅、串柿、甘栗、みかん、とり肉、いくら、海老天、魚、イカ、うに、湯たこ、イクラ、ほうれん草、小松菜、三つ葉、トマト、レタス。ポテトチップス、チョコレート、ジュース、コーラ、アイスクリーム、牛乳、チーズ、ブロッコリー、サラダ、食パン、玉子、菓子、祝箸、しめ飾り、ごみ袋、乾電池。万一、地震発生のための非常時用に水など飲料水を備蓄しておこう!! ああややこし、ややこし。

 

 

 

 

 

 

「なまはげ」祭りと歴史

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   秋田県男鹿半島本山の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。

   この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣ぐ子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。

   以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。

 ナマハゲの同様の習俗はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。(12月31日)

おせち料理の由来について

新しき年の始の初春の今日降る雪のいや頻(し)け寿詞(よごと)

 

   大伴家持

 

Photo_2  元日の朝、正月のお祝い膳にかかせないのが「おせち料理」である。「おせち」とは御節供(おせちく)のつまったもので、昔は五節供の節目に用いられる料理のことをいったが、次第に正月の料理だけをいうようになった。正月の祭事の食物に里いものような穀類を特別重要視する習慣は縄文時代からの穀類起源神話からもうかがえる。インドネシアの神話に、ハイヌウェレという少女の死体から芋などの作物が生まれ、人びとの主食となったという神話がある。ドイツの学者アドルフ・イエンゼン(1899-1965)はこれを「ハイヌウェレ型神話」と呼び世界に同類の神話が存在するとした。日本の記紀にみられるオオゲツヒメも縄文時代の中期に南方から渡来した可能性が高いと学者は説く。おせち料理は年神様にお供えして、家族の繁栄や、多産、豊年、長寿、家内安全のなどを願う、縁起物の家庭料理である。

 

   「数の子」は、にしんの卵だが、「二親・にしん」から、たくさんの子がうまれてめでたいと、子孫繁栄の縁起をかついでいる。古くからおせちに使われる。

 

 「田作り」は、ごまめともいい、かたくちいわしのの幼魚を炒って飴煮したもの。昔たんぼの肥料に使ったところ、たいへん米がとれたため、豊年万作を祝う農民が正月に田作りを食べるようになった。

 

   「黒豆」は、一年中の邪気を払い無病息災を願って屠蘇で祝うが、そのときに用いられる祝い肴のひとつ。黒豆(くろまめ)・まめ(丈夫)に暮らせるようにという縁起に因んだもの。 

 

 「昆布巻き」は、昆布と「よろコブ」をかけて幸福を願う。

 

 「海老」は長いひげをはやし、腰が曲がるまで長生きすることを願って使われる。

 

 「鯛」は、鯛と「めでタイ」をかけて幸福を願う。

 

 「くわい」は芽が出る事から「出世しますように」という縁起物です。

 

 「れんこん」は沢山の穴が開いていることから「先が見える・先の見通しが良い」とされる縁起物です。

 

 「たたきごぼう」は根がしっかり根付くことから「家の土台がしっかりするように」とされる縁起物です。

 

 「棒だら」は鱈腹(たらふく)食べられるという意味で腹=福から来ています。

 

 「栗きんとん」金団と書き、その色から黄金・財産に見たてた豊かな1年を願う料理です。

 

   「屠蘇」とは魏の名医華佗の処方という、年始に飲む薬・屠蘇散に由来する。屠蘇散を入れて、酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、齢を延ばすという。平安時代から行われている。(1月1日)

 

参考:『江馬務著作集5』 中央公論社 P191~196

 

 

2022年12月29日 (木)

地味にスゴイ、室生犀星

鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな

 室生犀星、大正13年に詠んだ一句。6年ほど前に「蜜のあはれ」が映画化された。二階堂ふみが金魚の役で、老作家が大杉漣、かなりシュールな映画で低評価だったように思うが、晩年の室生犀星の作品であることに驚きを覚えた。犀星は多作の人である。20代後半で詩人として名を成し、俳句でも成功し、当然のことながら出版社から原稿の依頼は殺到し、生涯それに応え続けた。多作・乱作ながら名作も数多く残している。長い文学活動で晩年まで瑞々しく、新鮮であった。「蜜のあはれ」「杏っ子」、「かげろふの日記遺文」など。クリアカラー「国語便覧」(数研出版)を見ると「ふるさとは遠きにありて思うもの」の感情詩派としての犀星の解説しかないが、昭和期の中心的な位置にいた小説家だと思う。でも文化勲章は受賞していない。志賀直哉や太宰治などが高く評価されがちであるが、戦後の志賀直哉は寡作であり、スランプ気味だった。芥川や太宰ははやくに自滅し、文学活動をマラソンに例えるならば、無事ゴールに完走したのは谷崎潤一郎と川端康成、そして室生犀星であった。室生犀星は地味にスゴイ作家である。

 

シャンソンの日

5969788  本日はシャンソンの日。1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

    日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。エディット・ピアフの「愛の讃歌」。およそ愛をテーマにした曲は数々あるが、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。今年の紅白にはシャンソンが一曲も選ばれていないのは残念だ。(12月29日)

 

 

 

 

2022年12月28日 (水)

年の瀬の情景

   官公庁などの御用納めである。明治6年1月、太政官日誌で、官庁の公休日が、1月1日から3日、6月28日から30日、12月29日から31日までと決まった。このため、お役所勤めの人は28日を御用じまいとか、御用納めと呼んだ。証券取引所も終い相場となる。このころになるとお正月飾りや門松の設置など新年を迎える準備に忙しい。各地の寺院では除夜の鐘の試しづきが行われる。市場やスーパーでは正月商品が並んで買い物客で賑わう。3年ぶりの行動制限がない年末年始、帰省ラッシュも始まる。

   テレビ番組も本日から年末モードに入ったらしい。NHK「あさイチ」は5日までお休み。NHKスペシャル29日放送の「未解決事件第9弾、松本清張と帝銀事件」は注目すべきか。実録ドラマし30日ドキュメンタリーの2部構成。BSテレ東の゜最後の秘境 黒部源流紀行」(再放送)。読売の「今年一番聴きたい歌」一挙放送は「マイファミリー」「ハコヅメ」ドラゴン桜」「最愛」「着飾る恋には理由がある」「どてらい男」など。激動の2022年をニュースで振り返りたい方には29日「池上彰のニュースそうだったのか」がお勧め。NHKは「舞いあがれ!」「鎌倉殿の13人」の総集編。

 

 

八百屋お七悲恋物語

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  お七の墓 円乗寺(文京区)

 

    八百屋お七(1668‐1683)。「天和笑委集」によると、江戸本郷追分の森川宿で商いを張る八百屋市左衛門は、もと駿河国富士郡の農民で、その末娘のお七は数え16歳の器量よしだった。天和元年12月28日、駒込大円寺から発した大火で一家は焼け出され、菩提寺の駒込正仙院に難を逃れた。この寺に生田庄之介という小姓がいた。数え17歳の美少年だった。お七と相思相愛の仲となった。そのうちに森川宿の新宅が仕上がり、一家は寺を出ることになったが、お七の恋心はいよいよ燃え上がり、ついには再び焼け出されれば、また寺に戻って庄之介に会えると思い込み、近所の商家に火を放った。しかし、すぐ見つかって放火はボヤで終わり、お七は奉行所に引き出される身となった。

    講釈師の馬場文耕による宝暦7年(1757)の「近世江都著聞集」の説によれば、お七の父親はもと前田家の足場だった山瀬三郎兵衛で、寛文年間に浪人して駒込追分願行寺門前で武家相手の八百屋を開業、八百屋太郎兵衛と名乗る。一家が焼け出されたのは天和元年2月に丸山本妙寺から起きた大火のためで、太郎兵衛の弟が住職をしていた小石川円乗寺に避難、お七はそこで山田左兵衛という修行中の美少年に出会い、恋におちる。お七に放火をそそのかしたのは、近くの吉祥寺の門番の子で、吉三郎という無頼漢。ボヤ騒ぎにまぎれて盗みをはたらこうとした吉三郎が捕らえられ、その自供からお七も縄を打たれた。調べに当たった改役、中山勘解由はお七のあまりの若さに驚き、15歳以下ならば、死罪を免れるという法もあることとて、お七を助けてやろうと考えた。「おまえはまだ十五であろう」「いえ、十六にございます」お七は正直に答えてしまい、死罪が決まった。

 

Ositi_daienji    お七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火刑に処せられた。庄之介は高野山に上り出家したという。庄之介は吉三郎という説もある。吉三郎は大円寺(目黒行人坂)の西運上人だったことが最近判明している。大円寺阿弥陀堂にはお七地蔵尊と西運上人の木像が祀られている。上画像はお地蔵尊。(参考:大島幸夫「伝説の女たち」)

2022年12月27日 (火)

小野道風忌日

Photo_2    漢字の和様化をなしとげた平安時代の能書家小野道風(894-966)は国民にたいへん親しまれた人物である。それは柳の枝に飛びつこうとして幾たびも跳躍を試みる蛙を見て発奮、精進の結果ついに書道の奥義を極めたという逸話によるものであろう。しかしその生涯には謎が多い。道風は小野妹子の子孫で、小野篁の孫、大宰大弐小野葛絃の子である。その生年は「日本紀略」によって寛平6年に生まれ、康保3年、73歳で没したことは定説になっている。名の「道風」は本来、「みちかぜ」と訓読すべきであるが、「とうふう」と音読しているのは、唐風化の影響である。しかしながら、道風の生まれた寛平6年には菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が停止され、道風が生きた時代は国風化が流行したときである。また若いときから書道家として認められたが、生涯官位は低く73歳で没したとき、正四位下内蔵権頭にすぎなかった。小野妹子の末裔にしては不自然であろう。生まれは愛知県の春日井市と伝えられる。小野葛絃(くずお)が任地の時、里人の娘との間に生まれたのが、小野東風だというのである。この説は尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山が「張州府志」で小野道風生誕地と述べ、以後尾張藩諸学者の通説のようになった。現在、春日井市には「道風記念館」があり、ゆるキャラの「道風くん」まで生まれた。だが、本当に道風が春日井市出身が史実であるかは疑わしい。(12月27日)

 

 

2022年12月26日 (月)

徳川家康

Photo   徳川家康(1542-1616)の人生はまさに「忍」の一文字であった。天文11年12月26日、三河の岡崎城で呱々の声をあげた。信長よりおくれること8年、秀吉からは5年。歳の順序に気がねしたわけではあるまいが、このとおりの序列で後を追い、天下をとった。元和2年4月17日(1616年5月22日)73歳で没した。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。ちなみにシェークスピアは同年4月23日に世を去っている。

    幼名は竹千代、父は松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘於大。天文16年、三河岡崎城の広忠は、織田信長の猛攻をうけ、今川義元に援けを求めたが、このとき竹千代はわずか6歳で今川氏へ人質に送られることとなった。今川氏の本拠駿府への途中、義理の祖父である渥美郡田原城主戸田康光にだまされて信秀の手中に落ちた。康光がうけとった礼金は永楽銭五百貫とも一千貫ともいう。いずれにせよ家の仇、父の敵へ売りとばされたわけだ。だが、父広忠が信秀の脅迫にのらず毅然たる態度で臨んだのが逆に幸いして、信秀の心を打ち、人質とはいえその扱いは鄭重であった。幼い竹千代は、尾張の万松寺での人質生活のあいだに、14歳の荒くれ信長と知りあった。8歳のとき一度岡崎に戻ることがてきたが、半月ほどで再び今川氏の人質として駿府に移された。今川義元が桶狭間で仆れるまでのことであるから、前後を通じて足かけ13年の人質生活であった。しかし、その生涯をみると、ものごころついてから秀吉の死後に至るまでの50余年間、家康はいつも誰かに頭を押さえられて過ごしている。ひたすらの「忍」であった。誰にでもできることではない。家康には、信長のような鋭利で独創的な才能はない、また秀吉のような奔放・豪快、しかも機略縦横といった華やかさもない。だが、めだたぬ聡明さと組織力とで、打つ手の一石一石は実に着実であった。だからこそ波瀾ふくみの秀吉死後を無事に切り抜けとおし、ついに天下の覇権を掌中にしたのである。常用の印文には天下の匂いも布武の臭みもなく、「福徳」または「忠恕」という、道学先生を思わすような字句であったのも、いかにも家康らしいといえる。(参考:岡本良一「国民の歴史12 天下人」)

徳川家康関係図書

逸史12巻首1巻7冊 中井竹山、浅井吉兵衛等 明治9年

列祖成績20巻20冊 安積澹泊 徳川昭武 明治11-12年

仮名挿入皇朝名臣伝4 中沢寛一郎編 溝口嘉助 明治13年

東照宮実記仰晃雑誌1-9 細谷蕉露編 仰晃社 明治16年

日本百傑伝 第8編 松井広吉編 博文館 明治26年

東照宮御一代記 沼崎重孝 明治28年

徳川家康 本城正琢 公愛社 明治30年

徳川家康公 吐香散人 日吉堂 明治32年

 

 

2022年12月25日 (日)

孝明天皇崩御

  幕末激動期のなか孝明天皇は1866年年12月25日(新暦1867年1月30日)崩御した。この日は明治7年から明治45年までは、国の祭日として孝明天皇祭が実施されていた。孝明天皇の急死をめぐって、痘瘡病気説と毒殺説が生まれたが、真相はいまだに不明である。 幕末維新史を専門とする国立大学系の学者の方には、孝明天皇毒殺説はとるにたらぬ俗説であるとされる人が多い。佐々木克は「岩倉具視」(吉川弘文館)において、「古くからの俗説に、孝明天皇の死因は毒殺で、それを計画したのが岩倉だという説がある。岩倉犯人説は、岩倉が王政復古を構想し、その実現のためには幕府との協力体制を維持しようとする孝明天皇が邪魔であったからという、あまりにも単純・短絡的な考えに基づいた理由付けによるものである。岩倉にとって孝明天皇は欠くことのできない存在であったことは、いま述べた通りである。そして死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉の構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である。」(本書99頁)

    そして、佐々木克は原口清の文献をあげている。「孝明天皇は毒殺されたのか」(日本近代史の虚像と実像1巻 大月書店 1990年、「孝明天皇と岩倉具視」(名城商学39巻別冊、名城大学商学会、1990年)

   佐々木克は、大久保利謙の弟子にあたる学者で、岩倉関係の史料を全て渉猟したうえでの見解であり、傾聴すべきであろう。ただ、岩倉が天皇毒殺という謀事を日記や書簡に得意げに書き残すことはしないであろう。孝明天皇の死を知った岩倉は、翌日の坂本静衛に宛てた手紙で「仰天恐愕…千世万代の遺憾」と嘆いていた。これほどまで落胆したのは、この手紙で「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」として、岩倉を弁護しているが、犯人と思われないように知人に証拠として残る手紙を書くという工作は誰しもやるこではないだろうか。

   孝明天皇毒殺説は、俗説として一笑に付す事柄ではなく、かなり真面目な日本史通史にも必ず記述されている歴史的事件である。昭和40年代からのシリーズ物「日本の歴史」において孝明天皇の急死をどのように記述しているか列挙する。

中央公論社「日本の歴史、第19巻、開国と攘夷」(昭和41年)小西四郎(東京大学教授)著

    こうして見ると、毒殺説はどうも風説にすぎないように思われる。東京大学史料編纂所の吉田常吉氏は、この問題について論じている中で、「天皇も疱瘡にかかられる可能性がある」との見解を示し、「当時天皇の御周囲で、疱瘡をわずらっていた者が全然なかったとはいいきれない」と、例えば天皇の側近に奉仕した公卿の子女で疱瘡にかかった者があるとか、あるいは同じころ関白二条斉敬の二人の男の子が痘瘡で死亡したことなどをあげている。さらに孝明天皇毒殺事件については、それが「白か、黒か、読者諸君に正面きって切り込まれると、筆者は困る。推論に推論を重ねたうえでの筆者の論旨なのだから、そこは諸君の良識にまつ以外にない。ただ筆者の見解を述べるならば、毒殺事件そのものは、確乎たる史料がない限り、従来の定説を覆すわけにまいらぬ。云々」と。わたしもこれと同意見である。

文英堂「国民の歴史、第18巻、開国」(昭和45年)高橋磌一著

  慶応2年12月25日に、孝明天皇が36歳で急死したのも、謀略のにおいがする。痘瘡わわずらっていたとはいえ、だいぶ容態もよくなっていたのが急変し、「御九穴から御出血」という異常な死を迎えたのである。徹底した攘夷論者ではあったが、幕府打倒などは毛頭考えていなかった天皇は、討幕派にはやっかいな存在となっていたことはじゅうぶん考えられるのである。

「日本の歴史23 開国」芝原拓自(名古屋市立大学)昭和50年

    天皇のこのふしぎな死が、毒殺説を流布させる一根拠ともなった。その風評や憶測はたちまちひろがり、犯人をさしむけたのは岩倉具視だとさえ、まことしやかにささやかれた。その噂は、死去から一週間後には、長州の一豪商の日記にさえ登場し、通訳官サトウの記録のなからもでてくる。しかし、王政復古から戦前をつうじて不敬の毒殺説はタブーとなり、宮内庁編「孝明天皇紀」などは、もちろん病死として史料を配列している。けれども、かんじんの24日夜のことについては、なぜか典医たちの医学的な記録はなく、真相はいまだに不明である。戦後になってねづまさし(禰津正志)氏などは、この病状急変と死のようすこそ、古くから中国や日本でみられた砒素による毒死に特有であることなどを根拠にして、毒殺説にかたむいている。他方、吉田常吉氏などは毒殺説に確証なしとし、病死であったろうと推定している。ところが、昭和50年4月4日付の「サンケイ新聞」の記事によれば、近江八幡市の開業医伊良子光孝氏宅の蔵から孝明天皇の典医をつとめていた同氏祖先光順の日記形式のカルテ「拝診日記」が発見され、そのカルテの天皇死去当日の描写は暗に薬物中毒症状をにおわせるものである、と紹介されている。

    奈良本辰也(立命館大学教授)著「明治天皇即位の舞台裏、孝明天皇崩御と討幕工作」(歴史読本、昭和52年12月)

   日本医学史学会の佐伯理一郎氏などは、これらの日記を検討した結果、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(日本医事新報)と大胆な断定を下している。

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 奈良本辰也が引用した京都の佐伯理一郎医学博士の説とは、昭和15年7月に日本医史学学会関西支部大会で発表したものである。当時の侍医の織部正伊良子光順の病床日記を資料とし、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官にでている姪をして天皇に一服毒を盛らしめたものである」としている。

    新人物往来社など一般歴史雑誌の読物などは孝明天皇毒殺説を支持する記事が多い。国立系の学者は、とるにたらぬ俗説として斥けるであろう。しかし孝明天皇毒殺説をとると、聡明な明治天皇は毒殺犯をさがして必ずや復讐すると考えられるので、鹿島昇の明治天皇すりかえ説がセットになって浮上する。ただし、大室近祐の証言、あるいは存在そのものが実在性があるのか一読する限りでは確証できない。いまだ孝明天皇急死には事件性が認められ、幕末・明治の宮中には謎が多い。

シャルルマーニュ(カール大帝)

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  カール大帝は西暦800年12月25日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でローマ皇帝とし教皇レオ3世から戴冠した。カール大帝の逸話を集める。ピピンの子。フランク王(768~814)・西ローマ帝国皇帝(800~814)。仏名はシャルルマーニュ、英名はチャールズ、独名はカール、西名はカルロス。 

    シャルルマーニュは西ヨーロッパの大部分をひとまとめにして、かつての西ローマ帝国が復活したかのような大帝国・フランク王国をつくりあげたので、彼の偉大さはヨーロッパ人の心の中に、いつまでも残った。そして彼の死後、詩人たちは『シャルルマーニュの歌物語』を書いた。その中でも、大帝の第1回スペイン遠征の際に戦士した勇士ローランを歌った「ローランの歌」はとくに有名だ。歌物語では、シャルルマーニュが200歳を超え、髪もひげも雪のように真っ白な姿で登場し、キリスト教徒を守るためにサラセン人と雄々しく戦っている。もちろん、現実のシャルルマーニュは、そんな高齢まで生きたわけではなく、72歳で死んでいる。しかし中世の君主としては、彼はかなり長生きだった。このように長寿を保つために、彼は独特の健康法を実践していたという。そのひとつがスポーツで、乗馬と狩猟も好きだったが、とくに水泳が大好きで、彼のアーヒェンの宮廷には大温泉プールがつくられていた。彼は宮廷の人びとを引き連れて水泳を楽しみ、ときには100人もの人がプールを埋めたと伝えられる。 

    彼は酔っぱらいが嫌いなので大酒はしなかったが、大食いで、「断食は体をこわす」といって、好物の焼肉をむやみに食べた。医者が慎むようにいうと、ひどく立腹した。5回結婚し、そのほかに第2夫人が4人いた。そのため20人ほども子どもがあった。彼は遠征にも旅行にもこの大家族全員を引き連れていた。息子たちは早死にする者が多く、彼の死後まで生き残ったのは、たったひとりだった。娘たちは、たいてい無事に育ったが、彼は娘の結婚をなかなか許さなかった。婿が強大になることを恐れたのである。そこで彼女たちは、親の許しを得ずに勝手に結婚したりして、宮廷のスキャンダルになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

お菓子が入ったクリスマスブーツの起源は?

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 へろへろとワンタンすするクリスマス(秋元不死男) 

 クリスチャンではないけれど、クリスマスが近づくこの季節になると気分がうきうきする。クリスマスのプレゼントを靴下に入れるのは、4世紀の聖ニコラスが貧しい家族に金貨を靴下に投げ込んだことに由来することは良く知られている。日本ではこの季節、銀のブーツにお菓子やおもちゃが入ったクリスマス・ブーツがスーパーの売り場でよくみかける。日本独自のもので外国にはないらしい(韓国にはあるかもしれない)。おそらく戦後からだと思うがその起源についてははっきりしない。クリスマスプレゼントは1906年に救世軍が籠に果物や菓子・パン・玩具などを詰め込んだものを貧しい人にプレゼントしたという記事があるが、今日みられるような駄菓子を詰め込んだ市販用のクリスマス・ブーツが一般に普及したのは1960年頃といわれる。一説によると滋賀県の草津市の業者「近江物産」が1947年に売り出し、全国に広まったといわれている。1960年当時、わたしは小学生だったが市場の菓子店にクリスマスブーツがたくさん並んでいるのをはっきりと記憶しているので、おそらく1950年代にはどこの家庭でも、クリスマスを祝うスタイルが定着していたものと推測する。

 

 

 

 

2022年12月24日 (土)

キリスト降誕

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Where did Jesus born in Bethehem? Jesus was born in a stable in Bathehem.

 

イエスはベツレヘムのどこで生れましたか? イエスは馬小屋でお生れになりました。(12月24日)

室蘭カレーラーメン

 カレーラーメンは、ラーメンをカレー仕立てのスープで調理した料理。新潟県三条市にあったラーメン店が、戦前に東京・向島の修業の食堂から持ち帰ったのが始まりとされ、三条市では70年の歴史がある。また北海道においては苫小牧市が発祥地とされる。70年ほど前に、鉄鋼の街、室蘭市では工場員によって、みそラーメンにはない辛さとボリュームで好まれた。1999年頃、モーラング娘の安倍なつみがラジオ番組で紹介したことから、室蘭といえばカレーラーメンというイメージが定着したとされる。

 

「怒る時のコラってなに?」雑学365日

 「コラ」は、元々は「ねぇ、ちょっと」を意味する薩摩の方言である。明治初期、警察官のうち最も階級の低い邏卒(らそつ)に当たる人たちは、薩摩藩出身の下級武士が多く、ことばもわかりにくく、鹿児島弁の「ねえねねえ」と優しく「コラ」と語りかけたつもりでも、強いイントネーションで怒っているように聞こえた。巡査によって「コラ」は怒る時の言葉として全国に広まった。

なぜ日本ではクリスマス・イブは恋人と過ごすものというイメージが根強いのか

Sc02   師走に入ると街中にクリスマス・イルミネーションが点灯され、クリスマス気分を盛り上げてくれる。クリスマスという、現在の日本にとっても馴染みのある習慣は、老いも若きも何となくうきうきする季節だろう。家のリースやツリー、クリスマス・ケーキ、そしてプレゼント。「我が持てる包の中もクリスマス」(山内山彦)だが欧米のクリスマスはキリストの生誕を祝い家族が集まって過ごすものだが、日本では宗教観はなく、恋人と過ごすものというイメージが定着している。このの違いはなぜ生まれたのだろうか?

  クリスマスの歴史は長く複雑な意味をもつ。キリスト教とのつながりや、キリスト教以前の、ずっと古代に遡る、ヨーロッパ・地中海に面している諸文化の世界観や信仰の形態の影響が認められる。したがって、今日の世俗化されたサンタクロースの意味を理解するためには、キリスト教またはキリスト教以前の様々な信仰の形態の理解が前提になってくる。とくにサンタクロースは死者の象徴であると、レヴィ・ストロースが主張している。古代からのヨーロッパの民間信仰では、我々一般人にあの世から豊穣をもたらすのは、国家に認定された公式の神々ではなく、むしろ地域の小さな神々であった。これらは、多くの場合、先祖に限りなく近い性質をもっていた。現在、クリスマスが主に家族中心の祝いになっているのも、古代からのこの伝統的思想を継承しているからだと思われる。サンタクロースの根底には、冬に関する古代からのシンボリズムが認められる。キリスト教がこの複雑なシンボリズムを横領し、それをキリストの降誕と習合させた。

   このようなキリストの生誕を祝うクリスマスの風習や行事が世界中に広まったのは19世紀に入ってからのこと。とくに今日のようにみんなでお祝いするのは一冊の本がきっかけとなっている。英国の文豪チャールズ・ディケンズが1843年に書いた「クリスマス。キャロル」である。内容は守銭奴スクルージがクリスマス・イヴに超常的な体験をして改心というスートリー。ちなみにアンデルセンの「マッチ売りの少女」はその5年後の1848年のことである。クリスマスが本格的に日本に入ってきたのは、明治時代以降のことである。キリスト教の信者がそれほど多くないため、文化的な形だけが定着した。ここに日本のクリスマスの特徴がある。戦後、クリスマスは徐々の家族のイベントになっていまーきます。その後、女性の社会進出が進むとね1980年代には「恋人と過ごす日」というイメージが強くなります。1988年のJR東海のクリスマス・エクスプレスのCMは遠距離恋愛のカップルが新幹線でクリスマスに再会を果たすストーリーを描いた。このCMが(歌・山下達郎)が放映されると、日本において恋人同士でクリスマスを過ごすという新たな文化が生まれるなど社会現象となった。そして「クリスマス・イブは一番大切な人のそばにいたい」というメッセージが拡散されます。同様のイメージはバブル期のトレンディ・ドラマなどで定着されます。いわば日本のクリスマス=聖夜のイメージは電通がしかけたものであるといえる。(参考:ファビオ・ランべッリ「サンタクロースの文化史のための覚え書き」比較文化論叢 札幌大学文化学院紀要19、2007年)

2022年12月23日 (金)

有名人になる前の職業

Chuckconnorsdodgers  ウクライナの大統領ゼレンスキーは政治家になる前、俳優でありコメディアンだった。菅義偉は18歳で秋田の田舎から上京して板橋の段ボール工場に2年間住み込みで働いた。全世界の元首の経歴を見回してみてもゼレンスキーや菅のようにゼロから身を起こした例は少ない。歴史上、豊臣秀吉、漢の劉邦、朱元璋くらいか。そこで著名人の前歴を調べよう。「独眼竜政宗」で知られる脚本家ジェームズ三木は若い頃、レコード歌手だった。陶芸家の北大路魯山人は帝国生命保険のサラリーマン。「有楽町で逢いましょう」フランク永井はトレーラー運転手、三橋美智也は温泉のボイラーマン。料理研究家平野レミはシャンソン歌手。村上春樹は作家になる前はジャズ喫茶の経営者だった。タレント友近は松山で旅館の仲居をしていた。おのののかは野球場のビール販売員。壇蜜は葬儀屋の社員。演歌歌手の羽山みずきは出羽三山神社の巫女。建築家の安藤忠雄はプロボクサー。竹内力は銀行員。「純烈」の白川裕二郎は大相撲の力士だった。「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンはチヂミの行商人。

   ハリウッド・スターの前歴は多彩である。男優はフットボール、プロレス、ボクシングなどスポーツ関係が多い。ジョン・ウェイン、リチャード・ウィードマークはフットボールの選手だった。「ライフルマン」のチャック・コナーズは大リーガー。身長は2m2㎝もある。カーク・ダグラスは本名をハサー・デニロビッチ・デムスキーといい、貧しいロシア移民の子で、売れない時代プロレスラーだった。ウディ・ストロードもプロレスラー。ラフ・ヴァローネはトリノ大学時代、国際的なサッカーの選手として鳴らしていた。ロバート・ライアン、ジャック・バランス、リノ・ヴァンチュラはプロ・ボクサー、マイケル・ランドンは槍投げ。ユル・ブリンナーは空中ぶらんこ。ピーター・オトゥール、アラン・ラッド、コーネル・ワイルドは新聞記者。リチャード・ベースハート、ロナルド・レーガンはラジオのアナウンサー。マルチェロ・マストロヤンニは家具職人。ハリソン・フォードは端役で映画に出るが大成せず、一時は大工をしていた。

 

600fullgregorypeck   ロック・ハドソンは郵便配達夫。ショーン・コネリーは棺桶みがき。ロバート・レッドフォードは画家志望。グレゴリー・ペック(画像)は学生時代ボート部に在籍していたが1938年のレガッタに出場して背中を痛めたため兵役を免除された。出征で男優がいなくなっていた映画会社からハンサムなペックが注目されてスターの道を歩む。最近では「ハムナプトラ2」「スコーピオン・キング」のザ・ロックのように映画俳優の合間にプロレスを続けてやっているスターもでている。「エド・サリバンショー」テレビのバラエティショーの司会者エド・サリバンはスポーツ新聞の記者だった。ロサンゼルス市警の刑事コロンボ役で世界的スターになったピーター・フォーク。実際はインテリで高学歴。名門シュラキューズ大学院で行政学の修士号を得て官庁に勤務していたが、演劇に興味を覚えて俳優を志した。

 

 

2022年12月22日 (木)

「胸キュン」雑学365日

   少女漫画や韓国恋愛ドラマなどを見て、「胸がキュンとする」という意味合いで用いられる語。心のときめきやノスタルジーなどにより催される、胸の締め付けられるような切ない感情を指す表現である。「胸キュン」の語源はいつだろうか。1980年の河合奈保子の楽曲「ヤング・ボーイ」(作詞:竜真知子)に「胸がキュンとなるの」という表現が初出である。同年に山下久美子も「胸のここんとこがキュウンとなるような歌が唄いたのよね・・・」とキャッチコピーで使っている。さらに、ファンクラブの名称「胸キュンClub」と用いているなど、「胸キュン」の普及に大きく貢献している。1983年にYMOの楽曲「君に、胸キュン」(作詞:松本隆)に使用され、一般的な言葉として定着した。楽曲タイトルに採用された際には、山下久美子の許可を得たとされている。

 

かぼちゃと柚子湯

   本日は冬至。太陽が冬至線に直射する時で、一年中で最も南に位置し、北半球における正午の太陽の高さが最も低く、日照時間も最短である。わかりやすくいうと、年中で昼がもっとも短く、夜がもっとも長い日である。冬至粥を食べ、カボチャやコンニャクを食べる。またこの日、冷酒を飲み、柚子湯に入る習慣がある。なぜカボチャを食べるのか?かぼちゃを漢字で書くと「南瓜(なんきん)」。つまり、「ん」のつくものを食べると「運」が呼び込めるという運盛りのひとつ。小豆(あずき)を使った冬至粥は、昔から小豆の赤は邪気を払うといわれているから。柚子風呂に入るのは、柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合わせから柚子風呂に入る習慣があるが、もともとは運を呼び込む前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられている。柚子湯に入ると1年中風邪をひかないといわれる。

庭掃除すませ今宵は柚子風呂に  大原雅尾

鴉啼いて年が暮れゆく冬至かな  厄助

意外と知られていない有名人が広めた言葉

  「最初はグー」「バツイチ」「ツーショット」「胸キュン」…私たちがいつも使っているこれらの言葉のなかには、実は有名人が広めたものがある。例えば、大宅壮一の「口コミ」。人の口から口へ個人的に伝えられる評判・うわさのことで、マスコミとの対比で造られた言葉であり、「口頭でのコミュニケーション」の略とみられる。大宅が1962年頃から使っていた。「イカす」は俗に魅力的な、かっこいいという意味だが、元は軍隊での隠語らしいが、石原裕次郎が1958年ころ映画で広めた。原義は「行かす」でとても素晴らしい世界へつれて行ってくれる、という意味の感嘆詞で使っていたらしい。豊かな乳房のことを「豊胸」というが、これを「ボイン」という新語で表現するようになったのは1967年のことで(最近はセクハラになるので死語化している)、これは大橋巨泉が「11PM」というテレビ番組で朝丘雪路の胸をみて使ったのが始まりといわれている。

   「ネクラ」はタモリがタレントの九十九一を指して言ったのが最初らしいが、「笑っていいいとも」でミュージシャンの織田哲郎が出演のとき、学生時代に卓球部に所属していたことを明かすと、タモリが「卓球ってネクラだよね!!」とからかった。このことは社会的に大きな影響を与えたらしく、翌年(1990年)から全国の中学生の卓球部入部人員が激減したといわれる。そのほか、有名人が広めた言葉として、女子プロレスラー神取忍の「心が折れる」、ダウンタウン松本人志の「どや顔」や「へこむ」。「どや顔」はさておき、物体に対してのみ使われていた「へこむ」という表現を、精神的に落ち込むという意味で使ったのは松本が最初という説がある。しかし広辞苑の旧版を調べると、松本以前にも精神的に「へこむ」という意味は日本語として存在していたとみられる。「胸キュン」は歌手の山下久美子が最初だといわれる。デビュー曲「バスルームから愛をこめて」(1980年)のキャッチコピーに「胸のここんとこがキュウンとなるような歌が唄いたいよね・・・」と使っている。3年後にYMO「君に、胸キュン」が大ヒットして一般に広まった。

 有名人がつくった言葉で今もなお広く使われている言葉は「団塊の世代」である。堺屋太一が1976年に発表した小説で使われた。

 

 

ベート―ヴェン「運命」

  1808年のこの日、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第6番「田園」がウィーンでベートーヴェン自身の指揮により初演される。交響曲第5番ハ短調(作品67)を「運命」と呼ぶのは日本だけで、外国ではほとんど通用しない。ベートーヴェンのレコードの解説に由来しているらしい。(12月22日)

 

 

円覚寺帰源院と漱石

    夏目漱石(1867-1916)は神経衰弱の病状が著しかったので、親友・菅寅雄に相談して、明治27年12月22日あるいは23日に鎌倉円覚寺に参禅している。搭頭、帰源院に釈宗活をたづね、その手引きで管長の釈宗演(1959-1919)のもとで座禅をした。翌年の1月8日には帰京しているので、わずか半月の修業だった。しかしこの体験は小説『門』などいつくかの作品に出てくる。『門』の一窓庵は帰源院のことで、老師は釈宗演、宣道は釈宗活がモデルであろう。後年、漱石は「私は円覚寺で座禅をしたように言うが、私には何も出来ていません。全くの唯の凡夫です」と語った。ところで、釈宗演老師は明治26年9月にシカゴで開かれた世界宗教会議で「仏教の要旨並びに因果法」と題する講演をした。禅が世界の「ZEN」となる海外普及の端緒を開いた人物である。

2022年12月21日 (水)

応仁の乱、終わる(1477年)

 1467年から1477年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、1467年1月18日、畠山義就が京都・上御霊社の畠山政長を襲い、応仁の乱が始まった。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、1468年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政弘の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。1473年、持豊、勝元が相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。1477年11月12日(あるいは11日)、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国し、足利義視と畠山義就はそれぞれ京都を離れるにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。大内が帰国した日を終結したとすれば、11月11日(新暦12月16日)であるが、なし崩し的になしくずし的に収まったので終りの日がはっきりしない。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも戦国の争乱の中で滅んでいった。(12月21日)

 

 

 

 

 

政治家は年の瀬になると慌てだす

Ph1312303  年の瀬である。百貨店やスーパーでは買物客で混雑している。街ではクリスマスや忘年会で盛り上がっている。映画館や劇場もこの月はいつもより満員。役所では来年度の予算配分が大方この月に決まる。財政課で査定した額が12月28日のギリギリに内示の通知をして、文句をいわれないように年を迎える。仕事に一定のケリをつけたいらしく、「よい正月を迎える」と言って落選した知事がいたが、あれは本音である。年末に政治が動くのも、政治家さんが「よい正月を迎える」ためのものらしい。だが今年は少し様子が変だ。防衛費の増額、物価高騰、相次ぐ閣僚の辞任、旧統一教会問題、新型コロナ対策などに国民の不安が高まって、岸田政権への支持率が毎日新聞の調査によると、25%とみるみる下がり過去最低を更新し続けている。これまでずっと無為無策だったくせに、防衛増税だけは強引に速攻で決定している。保守派と財務省を味方につけ政権維持を図るのがねらいである。だが民意を失った岸田政権は近いうち崩壊すると感じている国民も多いだろう。

国定忠治、磔刑となる

Photo1 国定忠治慰霊碑

 

   戦前の日本の時代劇でいちばん人気があったヒーローは、四十七士の面々を別とすれば、「赤城の山も今宵限り」でおなじみの国定忠治(1810-1850)ではあるまいか。舞台では澤田正二郎だが、活動写真ではギョロリと目玉をむいた尾上松之助が国定忠治を演じている。「国定忠治(日光円蔵と国定忠治)」(大正3年)、「国定忠治」(大正7年)など。だが目玉の松ちゃんの映画は歌舞伎調で女優を使わず女形がでている。阪東妻三郎などのスマートな役者が現れると古臭く感じられた。そんなとき昭和2年に大河内伝次郎の「忠治旅日記」三部作が大ヒットした。群馬県の誇るモダニズムの詩人・萩原朔太郎も国定忠治に入れ込んでわざわざ自転車で忠治の墓まで出かけて詠んだ詩がある。

 

 わが村に来りし時

 

 上州の蚕すでに終りて

 

 農家みな冬の閾を閉ざしたり

 

 太陽は埃に暗く

 

 悽而たる竹藪の影

 

 人生の貧しき惨苦を感ずるなり。

 

 見よ 此処に無用の石

 

 路傍の笹の風に吹かれて

 

 無頼の眠りたる墓は立てり。

 

   萩原朔太郎は、おそらく伊藤大輔の映画「忠治旅日記」を見たことであろう。彼の訪れた忠治の墓は金城山養寿寺(伊勢崎市国定町)の墓だろう。これとは別に忠治の処刑場跡には「侠客国定忠治慰霊碑」がある。(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)

   国定忠治が大戸で磔刑になったのは41歳のときである。嘉永3年12月21日。師走で雪が降って、錆槍が縦横に突き刺した。忠治には一人の男の子がいたことはあまり知られていない。もちろん勘太郎ではない。勘太郎は勘助の子である。大谷国次(1844-1867)、幼名を寅次という。忠治の刑死後、その母お貞は寅次を連れて、貞の父である大久保一角の生地・野州都賀郡大久保村へ行き、出流山千手院にたくして僧となり千乗と名乗った。寅次は生来、武芸が好きであり、僧になることを好まず武術家になることを志し、還俗する。戊辰戦争の折には、慶応3年、官軍の出流山挙兵のとき、大谷刑部と改名し、軍資の調達に奔走する。岩船山の戦いで幕府軍に捕らえられて、慶応3年12月18日、佐野河原で処刑された。わずか24歳であった。大谷国次の名前は人名事典に収録されているが、勘太郎より年上であるが、お芝居には登場しないのはなぜだろうか。中風で病む忠治を訪ねて成長した国次と親子の対面。そのとき名刀の小松五郎義兼を渡され、父の形見の名刀を抱いて国次は幕末の国事に大活躍というチャンバラ映画があってもよさそうに思うのだが。どうやら国次の実在性を疑問視する学者もあるらしい。

2022年12月20日 (火)

黒田長政と後藤又兵衛

   黒田官兵衛の子長政は父ほどの知略の人物ではなく、武勇に優れた勇将であった。後藤又兵衛は幼少より官兵衛に引き取られ、長政とは兄弟のように育てられた。だが長政が家督を継ぐと、又兵衛は黒田家を出奔する。京都で浪人生活の後、大坂の陣では豊臣秀頼に味方し、長政とは敵味方として対決した。慶長19年大坂冬の陣で又兵衛は討ち死にする。黒田長政は関ヶ原の戦いで大きな戦功をあげ、福岡藩初代藩主となった。しかし黒田藩には呪われた過去がある。長政が城井谷城を攻めるとき、宇都宮鎮房を謀殺したため、亡霊に悩まされた。宇都宮鎮房の墓石には、何度変わっても強い怨念が同じヒビを走らせるといわれる。

 

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史上最大の海難事故ドニャ・パス号の沈没

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  史上最大の海難事故は、あのタイタニック号ではなくてドニャ・パス号である。1987年12月20日、フィリピンタブラス海峡で客船ドニャ・パス号が沈没した。死者は公称では1575名(定員1518名)だが、実際は4375名の死者を出していた。これは史上最大の海難事故である。ちなみにタイタニック号の犠牲者は1513名といわれる。

    ドニャ・パス号はもともと1963年、尾道造船で建造された琉球海運の「ひめゆり丸」(定員608名)で、元の面影がなくなるほどの改造で1493人の定員に増加されていた。ところが当日はクリスマスを5日後にひかえた帰省客で切符のない人が多数乗っていた。乳幼児や兵士たちもおり、4000人以上が乗っていたと推測される。乗客の証言によると、満杯の乗客で船は初めから傾いていたという。しかし、悪天候の中、定員オーバーで、レイテ島のタクロバンからマニラへ向けて出航した。フィリピン国内航路では、乗客名簿が徹底されていないことが、後で大きな問題となった。

    事故は夜中の10時に起こった。ミンドロ島附近のタブラス海峡で小型タンカー「ビクトル号」と衝突した。ビクトル号には8000バレル以上の石油や灯油を積んでおり、大爆発を起こし、火災となった。パニックになった乗客は海に飛び込んだが、多くの人は燃える海で焼け焦げて死んだ。生存者はわずかに乗客24人、乗組員2人だった。ミンドロ島にはたくさんの焼死体が流れ着いた。

    衝突の原因は過載積による機動性に欠けるドニャ・パス号の操縦ミスと考えられるが、海事調査委員会の結論は、スルピシオ社に責任はなく、ビクトル号側にあるものとした。ビクトル号には適切なライセンスをもった航海士や見張りもなかった。またなぜ2隻の船は無線で交信しなかつたのか、事故当時、生存者の証言からドニャ・パス号の船上では乗組員らがパーティーをしていたという話もあるが、結局は事実の解明はなされなかった。こうして史上最大の海難事故ドニャ・パス号沈没事故は謎のまま20年以上が過ぎて人々の記憶から忘れさられようとしている。

     1980年代はソ連軍による大韓航空機サハリン沖撃墜事故・死者269人(1983.9)、日航ジャンボ機墜落事故・死者520人(1985.8)、大韓航空機爆破事件・死者115人(1987.11)など飛行機事故・事件も相次いだ。だが史上最悪の惨事であるドニャ・パス号沈没事故が吉川弘文館「世界史年表」など多くの記録にないことは一つの謎である。日本の中古貨物船の払い下げが悲惨な事故の背景であることの事実を隠蔽しようとする日本人の体質なのだろうか。Dona Paz

2022年12月19日 (月)

ユン・ポンギル処刑される

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File1238   1932年4月29日、上海爆破事件がおこる。上海で行われていた天長節官民合同祝賀会で、突然壇上の後ろから手榴弾が投げられた。そのため壇上に並んでいた上海派遣軍司令官白川義則大将、第三艦隊司令長官野村中将、駐華公使重光葵らが倒れ、白川大将は重傷を負って入院、5月26日に死亡した。重光は片足を失い、野村は負傷した。犯人は朝鮮人・尹奉吉(1908-1932)で、日本帝国主義反対のテロ行為だと胸を張り、現場で取り押さえられた。12月19日、金沢で銃殺刑に処せられた。今年4月29日、金沢市で尹奉吉の記念館が開館する。記念事業会側では「上海にも記念館はあるが、尹義士が立ち向かい殉死した日本に記念館ができることは意味がある」と話している。ユン・ポンギルの名前は韓国で小学校で教わり、だれもが知っている抗日の英雄である。日本では歴史専攻の大学生でさえ、その名前を知る人は少ない。

 

 

 

 

2022年12月18日 (日)

ハリウッドのイタリア女優

Photo  イタリア女優ヴィルナ・リージ2014年12月18日、ローマの自宅で死去した。60年代ハリウッドに進出し国際派女優として活躍。イタリア女優がハリウッド進出の成功例が数少ないのは、ドイツのエルケ・ソマーのように語学が堪能でないと言葉の壁がある。ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレですら成功したとはいえない。

 

   戦後、イタリアからハリウッドに進出した女優を年代順にあげてみる。

 

アリダ・ヴァリ 「パラダイン夫人の恋」  1947

 

ジーナ・ロロブリジーダ 「悪魔をやっつけろ」 1953

 

ピア・アンジェリ「傷だらけの栄光」 1956

 

ソフィア・ローレン「誇りと情熱」 1957

 

クラウディア・カルディナーレ「ピンクの豹」 1963

 

ヴィルナ・リージ「女房の殺し方教えます」 1965

 

シルヴァ・コシナ「キッスは殺しのサイン」 1967

 

モニカ・ベルッチ「ドラキュラ」 1992

2022年12月17日 (土)

最後の仇討ち

 明治13年のこの日、臼井六郎が父母と妹の仇討ちをした。安政4年、秋月藩の家老臼井亘理が干城隊の山本克己(のち一瀬直久と改名)に殺害された。その後、成人した息子の六郎は一瀬に復讐を志し、明治13年に念願を成就した。当時の新聞は美挙として報じたが、すでに「仇討ち禁止令」が発令されており、仇討ちは当時の法律では死罪に当たる。なんとか終身刑に原型されたが、服役した。のちに大日本帝国憲法発令により特赦を受け、釈放される。後半生の人生は詳細は述べる暇がないが市井の人として60歳で他界した。明治の人物としては「日本最後の仇討ち」として著名らしく、あの森鴎外も紀行文「みちの記」(明治23年)に記している。(12月17日)

岸壁の母

 第二次世界大戦後、ソ連からの引き揚げ船が着くたびにいつでも桟橋の脇に立つ一人の女性が見受けられた。これがいつしか人々の目に止まり、「岸壁の母」として取り上げられるようになった。モデルとなったのは、端野いせ(1899-1981)。息子の新二は軍人として1944年に満州に渡った。息子の生存を信じて37年間帰還を待ち続けた端野せいは病で昭和56年7月1日、享年81歳で死去した。中国残留訪中調査団が前年に結成されたが、成田空港に「岸壁の母」せいの姿はなかった。直前に病気で倒れて、車いす生活だったので「みなさんに迷惑がかります」といって固辞した。2000年に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海で生存していることを確認した。しかしその人物が本当に新二であるのかはいまだ明らかではない。新二が生存していたとすれば何故帰国しなかったのか?これから先は推測になるが、もし新二が中国で立派に生きていて妻子を養っているとすれば、中国から離れることができずにそのまま現地での生活を優先したとも考えられる。

 

ライト兄弟が初飛行に成功(1903年)

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   本日は「飛行機の日」。1903年12月14日、ウィルバーとオービルのライト兄弟はノースカロライナ州キル・デビル・ヒルズで大西洋からの風を利用して翼で浮かび上がる実験を試みる。キティホークの丘に上り駆け降りて風にのる。14日の飛行はわずか3秒半で失敗。3日後の17日、ついに852フィート(255m)の飛行に成功。この飛行はわずか59秒間であつたが、人を乗せた機械がみずからの力で空中に舞い上がり、速度をおとすことなく前進しつづけ、出発したところと同じ高さの地点に着陸したのは、世界の歴史上これがはじめてのことであった。人類の長い間の夢は、ここに実現した。ライト兄弟の初飛行地に1932年、記念塔が建てられた。

2022年12月16日 (金)

気づけば今年もあとわずかとなった

スーパーの 今夜のおかずは てまえどり (厄介)

 円安、コロナ政策、ウクライナ情勢などの影響で日本経済も低迷し、暗い1年だった。流行語年間大賞は「村神様」に決まった。ヤクルトの三冠王村上宗隆選手のことだがつまらない。それ以外の新語・流行語には「キーウ」「てまえどり」「宗教2世」「スマホショルダー」「悪い円安」などのほか「#ちむどんどん反省会」「ブラボー」「三苫の1ミリ」「質問権」「インボイス制度」「鈍感力」などがある。知らない言葉が次々と生まれる。自分が時代についていけず鈍感なのだろう。「知らんけど」は関西人なのでなんとなくわかる。自分の発言したそのことについて確証が持てない会話の結びに用いる。本来は「よう知らんけど」という言い回しだったものが現在では最後に付け加えるという形式で流行したらしい、わてよう知らんけど。昨年は「リアル二刀流、ショータイム」、3密(2020)、ONETEAM(2019)、そだねー(2018)、インスタ映え、忖度(2017)。ここ数年のこともあまり覚えていない。

 安倍晋三銃撃事件、韓国ソウル・雑踏事故、ウクライナ侵攻など映像を繰り返し見ていると「検索うつ」になることがあるそうだ。一年を振り返ることもサブカルチャー中心でブーレバック。1月箱根駅伝、青山学院大学、独走の優勝。2月、北京冬季オリンピック、金銀銅18個のメダルを獲得。3月将棋・藤井聡太、10代初の5冠。4月知床遊覧船沈没事故。佐々木朗希、完全試合達成。5月映画「シン・ウルトラマン」が大ヒット。6月BTS活動休止。7月羽生結弦が競技生活にピリオド。8月17歳の馬場咲希、全米女子アマゴルフで優勝。9月ヤクルト、セ・リーグ優勝。10月「きつねダンス」が流行。11月アニメ「すずめの戸締り」が公開。AKB46の岡田奈々が年内休養。12月氷川きよしが活動休止。サッカーW杯カタール大会はアルゼンチンがフランスを破って優勝を果たした。優勝賞金58憶8000万円。あっという間に1年がすぎていく感じがする。

白木屋ズロース伝説

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 「チコちゃんに叱られる」で広瀬すずは「ズロース」を知らなんだ。若い女性には今や「ズロース」は死語である。和製英語でドローワーズ(drawers)に由来する。一般に日本の女性がパンツ下着をつけるようになったのはある火災事故がきっかけと俗に言われる。いわゆる「白木屋ズロース伝説」である。昭和7年12月16日午前9時半、新装なったばかりの東京・日本橋のデパート白木屋(現・COREDO日本橋)の4階玩具売り場のクリスマス・ツリーの電飾から出火した火災は、死者14人、重軽傷者約130人を出す大惨事となった。わが国初の高層ビル火災(当時、白木屋は8階建て)であった。「当時の女性は和装でズロースをはいていなかったため、裾の乱れを気にして犠牲者を増やした」という噂が巷間まことしやかに伝えられ、日本女性のパンツの着用が普及していったとする「白木屋ズロース伝説」が生まれたが、俗説である。

    この説に対して、高倉テル(1891-1986)は『女はなぜズロースをはくか』という本を書いて反論した。高倉は、大正中期から職場に進出した女性たちが、手縫いのパンツをはきはじめたことをあげ、ズロースは銀座から普及したものではなく、工場や女性の職場から生まれたと主張している。白木屋7の女店員たちは、スカートの下に都腰巻をしていたのではないだろうか。

   当時の新聞には「外出にはズロースを」という女性のズロース着用を促す論調の記事が見られるものの、白木屋火災の後に目だってズロースを着用する女性が増えたという歴史的な事実は見られない。一般に日本女性がパンツをはくようになったのは、太平洋菟戦争中のモンペが用いられるようになって、戦後から一般化したと考えられる。

 

 

2022年12月15日 (木)

似たものはあるものだ

 朝ドラ「舞いあがれ!」54話。舞と柏木が北海道のお花畑で初デート。あさイチの華丸が花畑を「ラベンダー畑」と言っていた。実は「ブルーサルビア」という花だと訂正があった。世の中、似たものはあるものだ。 インドネシアとモナコの国旗はほとんど区別がつかない。オーストラリアとオートリアはよく言い間違える。イタリアは長くつの形、群馬県は鶴が舞う姿に似ている。

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    富士山に似た山は世界にいくつかある。芥川賞候補のピース又吉と筧利夫はよく似ている。ほかにも、二階堂ふみと宮崎あおい。田山涼成と海原はるか、筧利夫とピース又吉、相葉雅紀と城みちる、長澤まさみと鈴木ちなみ。

 

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ニュージーランドのタラナキ山(2518m)は富士山に似ている

 

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映画パンフレット。「早春物語」と「四月の雪」 構図が似ている。

 

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スケートの鈴木明子と漫才師の今くるよ。

 

 

 

 

 

 

「い」 ファースト・ネームから引く人名一覧

600fullirinademick   「い」から始まる英語圏の外国人名は少ない。「ドリナの橋」で知られるイヴォ・アンドリッチはユーゴスラビアを代表するノーベル賞作家。▽「史上最大の作戦」のイリナ・デミック(画像)フランス女優だが、実はロシア人。イ・ビョンホン、イ・ヨンエなど韓国姓「李」は大数なので省く。▽「イエジ―・カヴァロヴィッチ」ポーランドの映画監督。代表作「影」「夜行列車」「尼僧ヨアンナ」1922-2007。▽「イーゴリ1世」865-945。キエフ公国の大公。▽「イレネウス・アイブル・アイベスフェルト」1928年オーストリア生まれの動物行動学者。

E・G・マーシャル
イアン・ソープ
イアン・フレミング
イアン・ホルム
イアン・マキューアン
イアン・マッケラン
イヴ・クライン
イヴ・モンタン
イヴァン・モジュヒン
イヴォ・アンドリッチ
イヴォンヌ・ジョルジュ
イヴォンヌ・ストラホフスキー
イヴォンヌ・プランタン
イーヴリン・アンダーヒル
イーヴリン・ウォー
イヴリン・ヴェネブル
イヴリン・ブレント
イエジ・J・ヴィアトル
イエジ―・アンジェイエフスキー
イエジー・カヴァロヴィッチ
イオアニス・メタクサス
イオアニス・ラリス
イオアン・ヴェニアミノフ
イオセブ・ベサリオニス・ジュ・ジュガシヴィリ(スターリン)
イグナツィ・ヤン・パデレフスキー
イグナティウス・デ・ロヨラ
イクノ・アムラク
イーゴリ1世
イーゴリ・ストラヴィンスキー
イゴール・タム
イサイアス・アフェウェルキ
イサーク・バーベリ
イサドラ・ダンカン
イザベラ・デステ
イザベラ・バード
イザベラ・ロッセリーニ
イザベル・アジャニー
イザベル・ユペール
イーサン・ホーク
イスマーイール・パシャ
イスメト・イノニュ
イズライル・ゲルファント
イタリア・アルミランテ・マンツィーニ
イタロ・ズヴェーヴォ
イーデス・ハンソン
イーデス・シットウェル
イナ・バウアー
イナマ・シュテルネック
イビチャ・オシム
イブン・アラビー
イブン・アル・ハイサム
イブン・サウード
イブン・シーナー
イブン・ハズム
イブン・バットゥータ
イブン・ハルドゥーン
イブン・ファドラーン
イブン・マイムーン
イブン・マージド
イブン・ルシュド
イベット・ジロー
イベンダー・ホリフィールド
イポリット・テーヌ
イポリット・プティジャン
イメルダ・マルコス
イーライ・ウォラック
イライザ・タルカット
イライザ・ドゥシュク
イライジャー・ウッド
イリア・カザン
イリア・トラベルグ
イリエール・ジェルマン・エドガー・ドガ
イリナ・デミック
イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン
イリヤ・グリゴリエビッチ・エレンブルク
イリヤ・フランク
イレーヌ・ジャコブ
イレーヌ・ジョリオ・キュリー
イレーネ・パパス
イレネウス・アイブル=アイベスフェルト
イワン・アイワゾーフスキー
イワン・ゴンチャロフ
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ
イワン・ニコラーイェヴィチ・クラムスコイ
イワン・パブロフ
イワン・ピエトロビッチ・パブロフ
イワン・プイリエフ
インガー・スティーブンス
インキジノフ
イングマール・ベルイマン
イングリッド・クリスチャンセン
イングリッド・バーグマン
インディラ・ガンディー
インノケンティウス3世
インノケンティウス4世
インラック・シナワトラ

 

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 イヴリン・ヴェネブル

 

 

蝦夷共和国

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    明治元年12月15日、蝦夷地・箱館五稜郭を本営とする佐幕派の政権が誕生した。一般に蝦夷共和国という。投票によって、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸海裁判官に竹中重固、今井信郎、陸軍奉行並に土方歳三らが選ばれた。蝦夷共和国は明治2年5月18日、箱館戦争終結とともに消滅した。

2022年12月14日 (水)

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

 

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)

 

 

2022年12月13日 (火)

なぜ年末になると第九が演奏されるのか?

 1824年5月7日、ウィーンのケルントナートア劇場においてベートーヴェンの交響曲第9番がはじめて演奏された日である。ベートーベン自身が指揮した。合唱曲「歓喜に寄す」が入った第九は、今日、世界中で平和と国際協調のための賛歌とされ、もっとも有名で人気のあるクラシック作品のひとつである。ところで日本では、第九は年末の風物詩といわれ、12月になると毎年全国各地でコンサートが開催される。その理由は明らかではないが、ベルリンでは戦前からニューイヤーコンサートとして、大みそかの深夜に、ただ幾第九を演奏することが多かった。その風習が日本に持ち込まれたのかもしれない。年末に第九を演奏するというのは、もともと第一次世界大戦後、平和を願うドイツのライプツィヒで始まった。いまでも伝統行事として、大晦日に第九の演奏会が開かれている。だが海外では、年末にはヘンデルの「メサイア」(ハレルヤコーラスで有名な曲)が一般で、第九を演奏することは少ない。ではなぜ、日本に第九演奏が定着したのか?これには諸説あるが、太平洋戦争で亡くなった人々への鎮魂歌だったという意味が大きい。日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮(1884-1953)で3夜も第九の演奏会で成功を収めた。これが契機となって全国各地でも第九の演奏会が行われた。つまり、第九の演奏は貧乏な楽団員にとって年越しの餅代稼ぎとなった。第九は大合唱付きで、チケットがさばきやすかった。また12月はベートーヴェンの誕生月でもあることや、日本人に第九は絶大な人気があることがあげられる。

 

 

戦艦シュペー号の最期

   1939年12月13日、ラプラタ沖海戦でドイツの戦艦シュペー号は甚大な被害を受けた。冬季の北太平洋の激浪に耐えて本国に帰還できる状態になく、艦長ハンス・ラングスドルフは、中立国のウルグアイに寄港した。しかしウルグアイは中立国とはいえイギリスの影響力の強い国であり、修理もできないまま帰国が絶望的な最後の航海に出ざるをえなかった。艦長は12月17日、乗組員をドイツ商船に移乗させ、シュペー号に残る40名の乗組員とともに自沈させた。乗組員は全員タグボートで退避、艦長は半ば力づくで艦から引きずり降ろされた。だが艦長は自沈の責任をとり、19日に逗留先であるブエノスアイレスでピストル自殺を遂げた。

 

 

2022年12月12日 (月)

「今年の漢字」雑感

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   今年一年を表わす漢字が「戦」であるという。ロシアによるウクライナ侵攻などを反映したからだそうだ。しかし私はコロナ流行の年でやはり「命」という漢字を推したい。一昨年の紅白で竹内まりやが「いのち歌」を歌っていた。教科書に載っていたり、学校の合唱曲としてとても有名な曲だそうだ。たしかに生まれてきたことに感謝する内容でわかりやすく若い人に向いている。だが万人向きではない。老人会で披露すると少し年寄りにはキツイ歌詞がある。「いつかは誰でもこの星にさよならをする時が来るけれど命は継がれていく」。つまりあなたは死ぬが子孫がいるじゃないか、ということ。良い歌とは婉曲的で詩的な余韻があるものだ。人がいつか死ぬのは当たり前のことだが、合唱で大勢の人からいわれたくないものである。ひっそりと静かに死にたい。さしずめ竹内まりやは現代の一休だろう。

   一休和尚は正月早々、竹棒の先にされこうべをさすと、洛中へと歩き出した。町中に入ると、家々の門の口にこの髑髏を差し出して、「御用心、御用心」といいながら、歩きまわる。正月気分で祝っているところへ、髑髏であるからたまったものではない。どの家も門を閉ざしてしまった。

   一休いわく「この髑髏よりめでたいものはない。目が出て、穴ばかりが残ったのを目出たしという。人間、死んでこの髑髏にならねば、めでたいことはひとつもない」一休、歌っていわく。

 門松は 冥途の旅の 一里塚

    めでたくもあり めでたくもなし

 (参考:『禅門逸話選』 禅文化研究所)

小山田庄左衛門

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   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。ドラマ「大忠臣蔵」(1971年)では中山仁が演じている。鳥居利左衛門の娘に惚れられ、大高源五の頼みを叶えるために、利左衛門の娘と添い遂げている。池田一朗の脚色である。

最初の電話帳

Photo_2    1876年グラハム・ベルが電話を発明したわずか2年後の1878年2月21日、アメリカ・コネチカット州ニューへブンで世界初となる電話帳が発行される。日本で電話営業が開始されたのは、1890年12月12日のことで、東京横浜で市内営業が開始した。初めての電話帳が発行されたのは1890年10月のことで、197件の加入者が1枚の紙に印刷された「電話加入者人名録」だった。電話番号1番は東京府庁、2番が逓信省電務局。個人は69名が掲載されており、渋沢栄一、大隈重信、後藤象二郎、岩崎弥太郎、前島密、大倉喜八郎など著名人が登録されていた。(Connecticut,old telephone book)

 

 

 

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 日本最初の電話帳「電話加入者人名録」 

 

 

 

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 世界最初の電話帳

 

 

 

 

2022年12月11日 (日)

糞ころがし王

Tutan2   世界には可笑しな名前の王様がいる。シャルル2世は禿頭王、シャルル3世は間ぬけ王、エゼルレットは無能王。これらは渾名だが、自らを「糞ころがし王」と名乗った王がいる。古代エジプトのツタンカーメンである。古代エジプト人は、糞をころがすスカラベ(scarab)をみて、日輪の回転を司るケペラ神の化身とみなした。古代エジプト語の「再生」「復活」を意味する「ケペル」と音が近いため、スカラベは再生の象徴として崇拝された。下図はカルトゥシュ(王名枠)に入っているツタンカーメンの即位名「ネブ・ケペル・ラー」の象形文字。(scarab  )

 

 

 

 

 

 

中国文明 その悠久の歴史

35d2b0b0s   広大なユーラシア大陸の中央から東端にまで位置する中国にはいつ頃から人類が住みついたのだろうか? 現在の人類の直接の祖先はおよそ20万年前にアフリカに現れ、10万年前にアフリカを出て、ヨーロッパやアジアに進出し、6万年前に東アジアに到達した、と考えられている。かつて最古の人類の一つといわれた北京原人、藍田原人、元謀原人などもアフリカに起源をもつ原人のひとつであるが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられる。

  アジアの人類の起源に関して、1979年に新しい発見があった。雲南省の赤鹿洞窟から1万1500年から1万4000年前のものとみられる人類化石が発見された。発見場所から鹿を食べていた痕跡があることから赤鹿人(画像)と呼ばれている。約1万年前に氷河期が終わって、気候が温暖となり、動物や植物の分布が変わるなかで、採集・狩猟の生活にも変化があらわれた。人類は東アジア各地に広がって住んでいく。中国では前5000年ころ、新石器文化が生れた。黄河の中・下流域の黄土地帯の住民は、村落生活にはいった。かれらが磨製石斧や彩文土器を用いたことから、この最初の黄河流域の文化を彩陶文化という。黄河と長江の大河流域に芽生えた中国文明において、農業が生まれ、都市が形成され、やがて多大な人口を擁する帝国を形成するようになる。

 

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 赤鹿人
の故地は、ロシア南部アルタイ山脈のデニソワ洞穴で、そこから発見された5万年前から3万年前のデニソワ人が移住したと考えられている。

 

   新石器時代の末期から青銅器時代にかけて、各地に都市国家が生れた。のちに邑国などの名でよばれたこれらの都市国家は、氏族制的遺制の強い国家であった。そのなかでも最も先進的な地位にあったのが殷であり、その文化を示すのが後半期の都のあとの殷墟である。王権はかなり発達して、犠牲と殉葬を伴う巨大な王墓が営まれており、亀甲獣骨を用いて神意を占い、政治を行った。すでに文字が生れて、占いの内容を記録しており、青銅器鋳造の技術は最高の段階に達していた。殷は前11世紀に西方の周に滅ぼされた。周は祖先の宗廟のある鎬京と、中原を統治するうに便利な東の洛邑という2つの都があった。この二都並立時代を西周時代という。武王から数えて12代目の幽王が犬戎に攻め滅ぼされて、その子の平王が都を洛邑に移した。それ以後を東周という。

 

   周のつくりあげた政治体制は、「封建制度」の名で知られる。西洋中世フェーダリズムとの違いは、周では本家と分家の血縁関係でつながれているが、西洋では君主と家臣とのあいだの個人的契約に基礎をおく主従関係である。前8世紀から、諸国家の上に君臨していた周の権威が失われた。都市国家を構成していた族制的秩序は解体して小家族が独立し、他方諸国家は征服併合をくりかえして中央集権的な領土国家に成長していった。この過渡期が春秋戦国時代であり、このような変動の原動力となったのが、春秋時代の鉄器の発明とこれに伴う農業生産力の発展であったと考えられる。族秩序の解体に伴い、新しい豪族、大商人が抬頭し、有能な個人は学者、官僚として諸君主や実力者の下に集まり、古い君主は実力ある臣下に国を奪われた。強大な君主は他国の領土を併合し、また大規模な灌漑工事によって未墾地を切り拓いた。このようにして広大な領土は、郡、県の行政単位を通して君主の直接支配をうけた。封建制度は郡県制度に変わっていった。この時代には、儒家・墨家・道家・法家をはじめとする諸子百家の思想が開花し、時代の指導理念を争った。ここに、のちの中国諸文化のさまざまな原型がつくられた。

 

   前3世紀末、中国は秦の始皇帝によって統一された。始皇帝は郡県制度を全国にしいたのをはじめ、あらゆる面で中央集権政治をおしすすめた。それは近代にいたるまで中国を支配した専制政治の確立を意味する。始皇帝の改革は急激にすぎ、旧貴族と農民の反乱を起こした。そのなかから漢が成立したが、漢も基本的には秦の体制をひきついだ。武帝の時期に漢の国力は絶頂に達し、ベトナム、北朝鮮を支配し、匈奴を討って西方との交通路を開いた。この時期に採用された儒教は、以後中国専制国家の指導理念となった。秦漢帝国の体制は、前代の族秩序の崩壊の結果生まれた小農民を、天子が直接支配する体制である。しかし、大土地所有者、商人としての豪族の成長は、このような小農民を没落させ、国家支配の危機を招いた。漢の天下を一時奪った王莽の豪族抑圧策が失敗したのちに、後漢の王室は豪族勢力によって擁立された。豪族勢力の拡大と、その結果としての農民反乱のなかで漢は崩壊する。

1850img_7577   漢の崩壊後、魏晋南北朝と総称される分裂時代にはいり、豪族の全盛時代が到来した。豪族勢力の基礎は、郷里に代々たくわえた資産と名望、同族の結合、奴隷、小作人、私兵などの多数の隷属民にあった。豪族の大土地経営を奴隷制とみるか農奴制とみるか、意見が分かれている。王朝の権威は否定されたわけではなく、この時代「九品中正」とよぶ官吏任用法によって、豪族は上級官僚の地位を独占した。こうして貴族政治が生れたが、貴族政治は江南でとくに盛んであった。しかし北朝では国家権力が強化され、5世紀の北魏で均田法が始まった。これは国家が、一定の土地を農民に与えるもので、これによって秦漢以来の伝統的な小農民支配が再編復活された。貴族の大土地所有も国家支配の下に組み入れられて、合法的に認められた。この時代、老荘思想、道教、仏教などが流行したが、形式化した儒教に代わって、国家宗教としての地位を獲得したのは仏教であった。中国の分裂は外民族の侵入を誘った。4世紀の初め、五胡諸民族は華北に侵入して多くの国を建てた。これよりさき中国文明の影響は周辺諸民族に及んだが、この動乱に際会して、朝鮮、日本などでも国家の形成がうながされた。中国民族の一部は華北を追われて揚子江の南に移住し、この地方の開発を進めて、新たな政治、文化の中心地をつくった。こうして長期にわたる分裂の反面、東アジアの歴史的世界が拡大したのもこの時代の一つの特徴である。つづく隋唐帝国の出現は、この東アジアの世界に統一性をもたらした。

   6世紀末に中国を再統一した隋は、大運河をつくって南北の中国を結び、科挙によって新官僚を登用しようとした。まもなく隋末の広範な農民反乱をへて唐が成立した。隋唐の支配階級は依然として貴族階級であり、均田法による農民の人頭支配をうけついだ。国家機構の運用を限定した律令法典は、この時代に整備された。唐は高句麗を滅ぼし、突厥、ウィグルなど周辺の諸民族を服属させ、ペルシア、アラビアへの道を通じ、東アジアの諸国家からは模範国と仰がれた。日本、新羅、渤海などの国々は、唐の制度、文化にならって国づくりを行なった。唐は中頃の安史の乱から衰亡にむかった。均田法は早くから解体をはじめ、新興地主と科挙官僚の台頭をみた。辺境では府兵に代わる傭兵が現われ、その指揮官として節度使の勢力がました。安史の乱は彼らの反乱から起こったが、乱後、節度使は内地に割拠するようになった。均田法下の定額均等の人頭税(租庸調)に代わって両税法が生まれ、資産に応じて課税されるようになった。土地所有者の拡大と商品流通は活発となり、破産した農民は黄巣の乱を起こして唐を崩壊させた。そして下層の兵士、農民のなかから節度使が出、節度使の天子が出て、五代の王朝が交替したが、この混乱の中で旧来の貴族階級は完全に没落し去った。

 

   960年に後周にかわり開封を都とした宋の趙匡胤(太祖)は混乱をおさめたが、つぎの太宗になって中国の統一を達成した。宋・遼・金・元・明と王朝は交代した後、1610年ヌルハチが清朝を建てる。清は1840年、アヘン戦争に敗れ、以来列強諸国による植民地化が進められる。1911年に辛亥革命がおこり、翌年に清朝は滅んだ。その結果、秦朝以来2100年あまりつづいてきた中国の専制王朝は終わりを告げた。こののち列強の援助を受ける軍閥が各地で勢力をふるうが、1921年7月1日、中国共産党が誕生する。毛沢東は日中戦争には国共合作して抗日戦を行い、戦後は蒋介石を打倒して国共内戦に勝利した。1949年に中華人民共和国が成立、敗れた国民党政府は台湾に逃れ、中台間の対立は現在もなお続く。毛沢東は文化大革命を推進するが、毛沢東が亡くなってからは、鄧小平が1979年から改革開放政策を推進し、農工業が発展・活性化して、2010年にはGDPで日本を抜いて世界第2位の経済大国の地位を得る。鄧小平の死後、指導者は江沢民、胡錦濤へと引き継がれ、現在は習近平に到っている。習近平fは2013年に巨大物流網である「一帯一路」構想を打ち出した。そして中国が主張している領土面でのおもな核心的利益は、ウイグル、チベット、南西諸島、台湾、尖閣諸島である。 またアフリカの経済支援に熱心である。(堀敏一)

参考:窪田善雄「中国史の概括的な理解のための再考察 斎藤忠和論文の検証を中心に」(世界史の研究244) 歴史と地理686、2015
中国の文明 全8巻 北京大学版 潮出版社 2015年から刊行中

 

 

 

 

長いタイトル、短いタイトル

Photo_3     楽曲や映画、小説にとって、そのタイトルをどう付けるか、というのは言うまでもなく大問題。2013年12月11日に発売されたAKB48のタイトルがやたらと長かった。「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」。何と76字ある。miwaの新曲「あなたがここにいて抱きしめることができるなら」は22字。

   小説では2014年刊行の村上春樹の新作も長かった。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年に」は20字。2010年のベストセラー「もしドラ」は33文字あった。2011年の「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」や浅田次郎のエッセイ「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい」は19文字。奇抜で刺激的なタイトルで人の目をひこうという魂胆がみえる。ワンセンテンスがタイトルとなるのは片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」あたりからの流行だろうか。作家が小説のタイトルをつけるには、それなりの思い入れがあるのだろうが、こうしてダラダラと長いタイトルが出てくるのだが、むしろ漢字一文字という題名が、ことさら強い印象がのこる。漱石「心」「門」、芥川龍之介「鼻」、森鷗外「雁」、長塚節「土」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、丹羽文雄「顔」などなど。

2022年12月10日 (土)

女優は歌う

   女優が映画の中で歌うのは、ドロレス・デル・リオの「ラモナ」(1928)やマレーネ・デートリッヒの「嘆きの天使」(1930)以来めずらしいことではない。1931年「会議は踊る」でリリアン・ハーヴェイが歌った「唯一度だけ」は世界中で大流行した。ジャネット・マクドナルドの「恋人よ我に帰れ」(ニュー・ムーン)もジャズのスタンダードになった。30年代活躍したアイリーン・ダンも歌手としてスタートしている。1946年にはリタ・ヘイワ―スが「ギルダ」で歌い、50年代になるとマリリン・モンローは「帰らざる河」ほか何本も劇中で歌うシーンがある。モーリン・オハラ(ジョン・フォード監督作品やジョン・ウエインの西部劇に出演)はウエールズやアイルランド民謡などをさらりと歌い、歌手としても活躍した。ブリジッド・バルドーやクラウディア・カルディナ―レも映画のシーンで歌った。60年代から70年代にかけてはアン・マーグレットやバーバラ・ストライザンドなどミュージカル・スターも現れた。80年代には1982年フィービー・ケイツが「パラダイス」で歌う。近年「レ・ミゼラブル」のアン・ハサウェーや「美女と野獣」のエマ・ワトソンの歌唱力が話題となった。近年女優のもう一つの才能として歌唱力が問われることが多い。韓国でも人気女優キム・ソヒョン(17歳)新ドラマ「戦おう、幽霊」(2016)の中で「Dream」を歌う。

  わが国では大正6年(1917)芸術座「生ける屍」で松井須磨子が劇中歌「今度生まれたら」(北原白秋作詞、中山晋平作曲)が歌う女優第1号である。映画界では1930年代トーキーの時代になると歌う女優が注目された。ポーラ・ネグリ「夜のタンゴ」(1937)などなど大女優は歌っている。歌う女優№1はジュディ・ガーランド。近頃の日本の女優さんはあまり歌わない傾向にある。堀北真希主演の映画「麦子さんと」は死別した母の故郷でその青春の足跡を追う、親子愛を描いた作品で佳作であったが、残念なことに堀北が歌唱力不足のため自身で「赤いスイートピー」を歌う場面がなかった。

 

191312    日本映画界で歌う女優としては高峰三枝子、高峰秀子、田中絹代、美空ひばり、奈良光枝、朝丘雪路、浅丘ルリ子、吉永小百合、倍賞千恵子、梶芽衣子、由美かおる、山口百恵、桜田淳子、薬師丸ひろ子、原田知世などがいる。最近の女優さんはおおむね歌いたがらない傾向にあったが、21世紀になると変化がおこる。2016年橋本環奈が映画「セーラー服と機関銃 卒業」でソロデビューする。橋本は福岡のローカル女性アイドルグループの一員。2013年5月「博多のタケ」さんというアイドルを追っかけているブロガーが彼女の歌って踊る写真をネットに投稿したところ「天使すぎる」と話題になり、「千年に1人の逸材」として注目を集めた。「動きのあるステージ中は、こちらに顔を向いてもどうしても目を瞑ったり失敗写真が多くなるのですが、彼女の場合はそれがほとんどありません。ダンス中の表情は常に変化し、見られる、撮られる事を意識しているのでベストショットがすごく撮りやすい」とタケさんは語る。土屋太鳳もアニメ「フェリシーと夢のトウシューズ」の主題歌に初挑戦。葵わかなもミュージカルに挑戦している。「ドライブ・マイ・カー」の三浦透子も精力的に歌手活動している。

 

「あの女優も歌っていた年表」

 

42mikan   「歌は三分間のドラマ」というが、女優が歌うと説得力がありヒットする確率は数パーセントは高くなる。1960年代の青春歌謡ブームのなかで吉永小百合と本間千代子らが競うように歌っていた。最近では、大竹しのぶが舞台で「愛の讃歌」などを歌っているが、全体としては歌唱力のある女優は少なくなった。歌手から女優へというパターンもある。永作博美は成功例。

轟夕起子「お使ひは自転車に乗って」 1943
十朱幸代「いたずら恋の風」 1961
吉永小百合「寒い朝」 1962
倍賞千恵子「下町の太陽」 1962
本間千代子「愛しあうには早すぎて」 1964
西尾三枝子「スカーレットの花」 1965
高田美和「アキとマキ」 1966
和泉雅子「二人の銀座」 1966
内藤洋子「白馬のルンナ」 1967
由美かおる「みんなあげましょう」 1967
扇ひろこ「新宿ブルース」 1967
藤純子「緋牡丹博徒」 1968
朝丘雪路「雨がやんだら」 1970
岡崎友紀「私は忘れない」 1970
渥美マリ「可愛い悪魔」 1970
関根恵子「愛の出発」 1970
梶芽衣子「怨み節」 1972
坂口良子「あこがれ」 1972
Img_789504_39219346_0 野際陽子「非情のライセンス」 1973
島田陽子「勇気をだして」 1973
桃井かおり「六本木心中」 1973
大竹しのぶ「みかん」 1976
十朱幸代「セイタカアワダチ草」 1977
伊藤かずえ「ひとりぽっちの村祭り」 1978
竹下景子「結婚してもいいですか」 1978
松坂慶子「愛の水中花」 1979
大空真弓・若原一郎「愛しているかい」 1979
薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」 1981
杉田かおる「鳥の詩」 1981
川上麻衣子「白夜の世代」 1981
桃井かおり「ねじれたハート」 1982
安田成美「風の谷のナウシカ」 1983
伊藤麻衣子「微熱かナ」 1983
荻野目慶子「愛のオーロラ」 1983
富田靖子「オレンジ色の絵葉書」 1983
沢口靖子「潮騒の詩」(刑事物語3) 1984
安田成美「風の谷のナウシカ」 1984
斉藤由貴「卒業」 1985
高岡早紀「真夜中のサブリナ」 1988
深津絵里「マリオネット・ブルー」 1988
裕木奈江「硝子のピノキオ」 1990
観月ありさ「伝説の少女」 1991
篠原涼子「恋しさとせつなさと心強さと」 1994
坂井真紀「太陽が教えてくれる」 1993
酒井美紀「永遠に好きと言えない」 1993
永作博美「My Home Town」 1993
奥菜恵「この悲しみを乗り越えて」 1995
中谷美紀「砂の果実」 1997
松たか子「明日、春が来たら」 1997
広末涼子「MajiでKoiする5秒前」 1997
満島ひかり「パラシューター」 1997
木村佳乃「イルカの夏」 1998
深田恭子「最後の果実」 1999
柴咲コウ「月のしずく」 2003
上戸彩「愛のために」 2004
国仲涼子「琉球ムーン」 2004
福田沙紀「アタック№1」 2005
沢尻エリカ「タイヨウのうた」 2006
長澤まさみ「セーラー服と機関銃」 2006
綾瀬はるか「ピリオド」 2006
松下奈緒「Moonshine 月明かり」 2007
新垣結衣「赤い糸」 2008
宮崎あおい「ソラニン」 2010
上野樹里「えがおのはな」 2010
北乃きい「サクラサク」 2010
川島海荷「MajiでKoiする5秒前」 2010
真木よう子「星影の小径」 2011
武井咲「恋スルキモチ」 2011
剛力彩芽「友達より大事な人」 2013
瀧本美織(LAGOON)「君の待つ世界」 2015
橋本環奈「セーラー服と機関銃」 2016
上白石萌音「なんでもないや」 2016
門脇麦「REBORN」 2017

 

 

2022年12月 9日 (金)

王政復古の大号令

    慶応2年12月25日、孝明天皇(1831-1866)崩御の知らせに京都では毒殺説の噂が流れた。アーネスト・サトウの日記には次のようにある。「風評では崩御の原因は天然痘だといわれたけれど、幾年か後に、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝はたしかに毒殺されたのだと教えられた。」

    そして暗殺の首謀者は岩倉具視ではないかとする説が有力である。崩御の前日、岩倉が天皇に新しい筆を二本献上したが、その筆先に毒がつけられていたのだという。天皇は筆を舐める癖がおありで、その癖を岩倉が利用したという。日本医学史学会の佐伯理一郎は「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(「日本医事新報」)と断定している。また、ウィキペディアには「1975年孝明天皇の典医を努めていた伊良子光順の拝診日記が発見されたが、その内容には毒物による中毒死を推察させるものである」とあり、「コンサイス日本人名辞典」にも「その病状からも(毒殺による)疑いが濃厚といわれる」とある。

 孝明天皇には、6人の子がいるが、うち5人は早死にしている。結局、典侍中山慶子の産んだ皇子祐宮(さちのみや)が天皇に即位する。祐宮もほかの子どもたちと同様にひ弱な少年だったという。なんとか他の皇子皇女のように早死にすることは免れたのである。明治天皇の幼少時の写真は存在していない。横井小楠は「色浅黒く、見るからに聡明な天皇だった」と印象を述べている。おそらく現存する内田九一が撮影した写真の「豪毅英邁」とうたわれた風貌であろう。宮中で育ちでありながら、なぜか相撲と乗馬が得意という。慶応3年、突如、文武両道に長じた青年君主に大変身している。慶応3年12月9日、大政復古の大号令を発する。

 

        *  *  *  *  *  *

 

順子内親王(1850-1852)  3歳

 

第一皇子(1850)   0歳

 

第二皇子(1852-1912) 睦仁親王、明治天皇

 

皇女富貴宮(1858-1859)  2歳

 

皇女寿満宮(1859-1861)  3歳

 

皇女理宮(1861-1862)  2歳

 

  養子文秀女王(円照寺)福喜宮

 

  養子敦宮貞愛親王、妙法院

 

  養子泰宮智成親王(北白川宮)

 

  養子易宮戴仁親王(三宝院)

 

  猶子山階宮晃親王

 

 

 

 

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名は「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

 

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

 

 

2022年12月 8日 (木)

足利義詮

 延文3年(1358年)4月に尊氏が没し、12月8日に義詮は征夷大将軍に就任した。初代将軍足利尊氏の三男であり、3代将軍義満の父であるが、知名度が低い。はたして義詮は暗愚か、名君か? 尊氏の死後、南北朝動乱を終息させた政治的手腕から、名君だったと思うのだが。

 

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。陸軍がマレー半島に上陸してイギリス軍を攻撃し、同時に海軍がハワイの真珠湾を攻撃した。米大統領ルーズベルトはこれを激しく非難して、アメリカ国民を結束させた。昭和17年6月、ミッドウェー海戦において日本は主要航空母艦3隻の沈没をはじめ致命的な敗北を喫した。8月には米軍はガダルカナル島上陸し反攻体制をととのえ始めた。昭和19年7月、日本軍がサイパン島で全滅、8月グアム島・テニアン島も占領された。米軍の進攻はさらに進み、昭和20年3月には小笠原諸島南端の硫黄島が、6月には沖縄本島が攻略され、日本の敗戦は濃厚となった。しかし、軍部は「一億玉砕」を叫び、本土決戦を強く主張した。昭和20年7月28日、無条件降伏を勧告したポツダム宣言が発表されたが、日本はこれを「黙殺する」との談話を発表した。米軍は8月6日広島、9日長崎に原子爆弾を投下した。昭和天皇は14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、翌15日、降伏をラジオで放送し、ここに太平洋戦争は終結した。

  昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2022年12月 7日 (水)

B級映画の愉しみ

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  菅原文太 三原葉子

 

    本日は二十四節気のひとつ「大雪(たいせつ)」。もう山の峰々は積雪に覆われているので、大雪という。いよいよ冬の到来が感じられる時季である。

  B級映画とは主に洋画の西部劇の娯楽作品をさすことがおおいが、日本映画の新東宝の作品などは娯楽的趣向が満載でB級と呼ぶにふさわしい感じがする。昨夜みた宇津井健の「猛吹雪の死闘」(1959)は三原葉子、菅原文太が共演し、山岳アクションも新鮮だった。以前にみた天知茂の「恐怖のカービン銃」(1954)も実録タッチでB級と呼ぶにふさわしい。いずれも公開当時は場末の映画館でひっそりと上映されたと思われるが、半世紀を経ると珍品になる。

 

   「猛吹雪の死闘」の石井輝男監督は宇津井とはスーパー・ジャイアンツの名コンビ。後年には大雪原を舞台に高倉健「網走番外地」シリーズを撮っている。

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

 

 

2022年12月 6日 (火)

映画のキス・シーン

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 終戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和20年12月6日、西部劇「ユーコンの叫び」(ビヴァリー・ロバーツ主演,1938年制作)が東京の日劇と日比谷映画で上映された。そして翌年昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン主演)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン主演)も大ヒットした。(ともに1943年制作) 映画館は長蛇の列をなした。

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)、昭和24年「汚名」(1946年製作)、昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)、昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)、昭和27年「凱旋門」(1948年製作)、昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)。

    6年間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。「汚名」の「あらすじ」を紹介する。

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚を受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

2022年12月 5日 (月)

曹操と華佗

688965f754472d45e0b2fffd9d3665d7   「立てば芍薬、座れば牡丹」といわれるが、芍薬は牡丹と並んで美しい花を咲かせる。また「芍薬甘草湯」という漢方薬としても用いられる。この芍薬に薬効があることを発見したのは三国時代の名医、華佗である。

  三国志「魏」の英雄・曹操も60を過ぎると病の床に就くことが多くなった。「乱世の姦雄」も、「猶お人のごとき也」と死期が近づいて来るのを恐れた。そこで呼び寄せられたのが、名医華佗である。曹操は発作の度に華佗の鍼で救われたが、猜疑心が強くて、華佗の治療を謀殺の手段と思い込んで、彼を獄死させてしまう。曹操が死に至るのはそれから間もなくのことであった。2006年に曹操の墓が発見された中から遺骨や愛用の枕が出土した。晩年、歯が悪く、頭痛や歯痛があり、死につながる深刻な病が解明されている。

 

北朝鮮の長距離ミサイル

 北朝鮮がミサイルの発射回数は2022年になって過去最多の39回である。北朝鮮が日本に向けてミサイルを撃ってくるのはなぜでしょうか?北朝鮮は長年に渡ってアメリカと敵対関係にある。そのため、アメリカと仲がいい他の国々とも良好な関係をきずけていません。そこで北朝鮮は、核兵器とそれを運ぶミサイルの開発に乗り出し、軍事的な存在感を高めることにしまし。そうすれば、アメリカと対等な立場で交渉し、自らの要求を飲ませることができるかもしれないと考えたようです。北朝鮮はより遠くまで正確に飛ぶミサイルの開発を今も続けています。日本に向けて撃つのは、日本がアメリカの同盟国であることから、アメリカへのアピールになるという理由もありますが、地理的な理由もあります。北朝鮮の北にはロシア、西から南にかけては中国があります。どちらも北朝鮮と仲のよい国ですからねそちらへ撃つわけにはいきません。残るのが日本のある東側なのです。 

  北朝鮮のICBMはいずれアメリカ全土を射程圏内に入ってしまうミサイルを開発するだろう。日本にはミサイルを撃ち落とすための「ミサイル防衛システム」がある。しかしミサイル攻撃に対して日本の迎撃システムが本当に作動するのか、わからない。朝鮮戦争勃発は時間の問題であり、もう誰にも止められないところまできている。もし朝鮮半島で戦争が起きたら、第一次世界大戦と同じ規模の死傷者が発生すると韓国メディアは伝えている。北朝鮮が核ミサイルや化学兵器など無差別な砲撃で開戦の火ぶたが切られた場合、米軍2万8500人、韓国軍60万人がこれに立ち向かうことになり、戦争シュミレーションでは米韓が勝利するものの、開戦直後の周辺国の被害が想定されるので、ミサイル攻撃に備える必要がある。防衛省は迎撃ミサイルPAC3を配備している。だがこのような緊迫した情勢のなかで小野寺防衛相と林農相はテニスを楽しんでいる。この国は本当に大丈夫だろうか。

 

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年賀状じまい

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 そろそろ年賀状の準備をする頃となった。やはり正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。昭和12年には現在のように12月15日から25日までの間に投函する、元日に届く年賀郵便の特別扱いが開始された。ちなみにお年玉付き年賀状は昭和25年に始まり、京都の林正治(1909-1990)のアイデアである。近年は高齢化やメール、SNSの普及で、2003年が44億枚をピークで、そこから減少傾向となり、2021年はついに20億枚を下回っている。わが家でも「年賀状じまい」を考えている。

2022年12月 4日 (日)

良い人に思われたい心理

   人気ドラマ「silent」では手話がよく登場して、このドラマを観て手話を始めたという若い人が増えた。8話での奈々と春尾の過去のシーン。春夫がボランティアで手話を学ぶ学生たちに奈々を紹介する。だが奈々は怒って帰ってしまう。春尾はわけを糾すと、「遊び道具にされたみたいで不快だわ。あの人たち手話に興味があるわけじゃない。良い人って思われたいだけ。善意は押しつけられたら偽善なの」と怒る。

  世の中、自分が良い人と思われたいのは誰にもあるだろう。好感度を高めるためには、見た目もお洒落にして、弁舌もさわやかに、裾裁きも颯爽とする。とくに政治家というのは投票で選ばれるので、イメージとか印象が大切である。岸田文雄首相は見た目もよく、弁舌さわやかにして「聞く力」もあるが、優柔不断で支持率は減少傾向にある。首相動向のニュースによると、3日午後、東京の日本橋室町の書店を訪れ、20分ほどかけて5冊の書籍を購入したという。読書家でもあり、知性的な人なのだ。本はもちろん写真集やエロ本ではない。村上春樹の「女のいない男たち」という映画「ドライブ・マイ・カー」が収録されている短編集。村上とは同じ早稲田大学出。でも総理にお勧めした本ならもっと他にあると思う人もいるだろう。お洒落でトレンディーなのも結構だが、そこには「良い人に思われたい」という心理が働いているような気がする。総理とはむしろ嫌われてもいいから、信念をもって実行力を示すリーダーの決断が問われる。側近の浅知恵なのかもしれないが、難問山積の時節、軽薄なイメージ戦略は不要である。

聖バルバラの日

 

 

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 1世紀ごろ、ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。キリスト教への信仰に目覚めた少女バルバラが処刑された。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。(catacombe、12月4日)

2022年12月 3日 (土)

円本ブームと作家たち

   1926年のこの日、改造社が1冊1円の「現代日本文学全集」63巻の刊行を開始した。円本とは、改造社がこの「現代日本文学全集」の予約募集を開始したことによって起こった名称である。菊判で500頁を越える本をわずか1円で出すことは画期的なことで、60万部の予約部数があった。円本ブームは人気作家たちに高額な収入を与えた。作家の印税は現在の価格に直せば数千万円の収入があっただろうか。では作家たちは莫大な金を何に使ったのだろうか。

    正宗白鳥や中村星湖は、欧州旅行に出発した。(正宗は夫人同伴)徳田秋声は自宅の庭の裏庭に接する土地を買ってアパートを建てた。谷崎潤一郎は兵庫県武庫郡岡本梅ヶ谷に豪邸を新築した。永井荷風はカフェーでの放蕩に明け暮れ、女給たちに散財した

2022年12月 2日 (金)

人はなぜ歳を取ると10年、1年が早く感じるのか?

220pxpaul_janet   人が感じる月日の流れや過去を振り返ったときの時の流れの早さに対応する感覚は若い頃は遅く、年をとるにつれて短く早く感じるようになる。このように年齢によって時間の感覚が異なる現象は「ジャネーの法則」といわれ、フランスの哲学者ポール・ジャネー(1823-1899)が提唱した。

   年齢を重ねるごとに時間の流れが速く感じるようになる原因のひとつが、様々な経験の蓄積であるといわれている。まだ経験が少ない子供の頃は、日々新しい情報や刺激が入ってくるため、脳の使用頻度が高く、いわば毎日の実感が濃い状態になる。その分、時間の流れもゆっくりに感じる。それが、年齢を重ねると、そうした情報や刺激が脳に蓄積され、新しい情報に出会う機会が減少してくる。既に知っている情報を開き、すでに経験した事を行い、同じような毎日を繰り返していると、毎日の実感が薄い状態になり、振り返るとあっという間に過ぎ去ったような感覚になるわけである。「チコちゃんに叱られる」ではトキメキ(心の動き、好奇心)が少なくなるからで、だいたい19歳を境に大人になって、時間が早く過ぎると感じるようになると説明している。(Paul Janet)

戦艦長門、出撃す

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    戦艦長門は日本海軍念願の「八八艦隊」計画案によって着工された第1号艦で、主砲に41センチ砲を搭載した世界最初の戦艦として知られる。

    戦艦長門は太平洋戦争開戦時、連合艦隊旗艦を務めた。昭和16年12月2日午後5時30分。「ニイタカヤマノボレ1208」 瀬戸内海柱島停泊していた戦艦長門(矢野英雄艦長)から打電された暗号電文は、依佐美送信所(愛知県刈谷市高須町)を中継して全艦隊に伝達され、日米開戦となった。

   その後、旗艦を大和に譲ったが、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参加し、爆撃により数度被害を受けたが終戦まで生きのびた。ちなみに長門は終戦時帝国海軍において自力航行可能だった唯一の戦艦である。戦後、米軍の原爆実験に供される。

    太平洋戦争時の長門歴代艦長は以下のとおり7名。矢野英雄(1894-1944)、久宗米次郎、早川幹夫(1894-1944)、只部勇次、渋谷清見、大塚幹、杉野修一。

    余談ではあるが、戦艦長門の最後の艦長・杉野修一は杉野孫七(1867-1904)の長男である。杉野孫七は日露戦争旅順閉塞作戦において広瀬武夫艦長の「福井丸」での「杉野はいずこ」のエピソードで「杉野兵曹長」としてその名が全国に知られている。杉野孫七の死体は、発見されなかったため当時から生存説がささやかれていた。林えんせい著「日露戦争秘話 杉野はいずこ?」(1998年)がある。

 

 

2022年12月 1日 (木)

師走諷詠

 本日から師走である。

 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)

 年去り年改まることに一喜一憂を託した時代もすでに過ぎている。去年も今年もいまは変わりがないのである。ただ一本の棒が貫くように、そこに変化なく過ぎてゆく歳月の一日一日であるにすぎない、という老いの述懐が感じられる。ただし今年もコロナ禍の師走となり、さらに特別の哀感がただよう。

  12月を師走と当てる。なぜ「師走」というのか古来より諸説ある。12月は1年の終わりで皆忙しく、師匠といえども趨走(すうそう=ちょこちょこ走るの意)するというので「師趨」となり、これが「師走」となったとする。第2の説は、師は法師の意で、師が馳せ走る「師馳月」(しはせづき)であり、これが略されたものとする。第3は、漢語「歳終月」を「としはるつき」と読み、それが略されて「しはつ」となったとする新井白石の説がある。第4は、「し」は年を意味し、「はす」を「果つ」と解する説。

    「十二月」を「しはす」と読むことは、万葉集の時代にあったもので、「師走」を書いたのは平安時代になってからである。「師走の月夜の、曇りをなくさし出でたるぞ」と源氏物語総角に見える。「奥義抄」(平安後期の歌学書)には「十二月、僧をむかえ経を読ませ東西に走る故に師走というを誤れリ」とある。師走とは本来、極限という意味があったようである。(12月1日)

 

 

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