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2022年12月31日 (土)

たかが紅白、されど紅白

 日本の大晦日は「炬燵みかんで紅白歌合戦」が定番だった。昭和38年、視聴率が81.4%を記録し、8000万人が見たといわれる。第73回NHK紅白歌合戦。今年のテーマは、「LOVE&PEACEみんなでシェア」で、2年ぶりにNHKホールから有観客で生中継される。大泉洋、桜井翔、桑子真帆、それに若者に人気の橋本環奈が司会する。初出場は紅組のive、ウタ、Aimer(エメ)、緑黄色社会、LE SSERAFIM(ル・セラフィム)、白組のSaucy Dog、JO1、なにわ男子、vaundy、BE-FIRSTの10組。でも高齢者になじみのないミュージシャンが多く、シニア世代も「紅白離れ」が加速している。Kポップ重視、演歌切り捨てのNHK改革が形となった年であろう。一方で、ジェンダーフリーの時代に男女対抗というのは時代遅れだという声もある。今年の紅白、注目されるのは何といっても橋本環奈の司会ぶりだろう。2013年に「1000年に1人のアイドル」と評され、明るく飾らないキャラクターで、幅広い世代から人気を集めてきた。今年の独身男性対象に「合コンしたい女性俳優」アンケートで第3位「有村架純」、第2位「永野芽郁」を抑えて1位に輝いている。オープニングはSixTones、大トリは福山雅治。「たかが紅白、されど紅白」贅沢な趣向が凝らしている。

 そんななかこれまでNHK紅白歌合戦に一度も出場していない人気歌手が結構いる。「負けないで」「揺れる想い」などヒット曲をもつ坂井泉水(ZARD)は、2000年の紅白歌合戦の出場に前向きであったが、体調不良のため出場を辞退した。7年後、入院先の病院で転落死により、結局生涯一度も紅白に出場することがなかったが、一度見たかった。それぞれの事情により紅白出場していない歌手・俳優は多い。古くは岡晴夫。井上陽水、山下達郎、佐野元春、浜田省吾、松山千春、桑名正博、円広志、やしきたかじん、小田和正、氷室京介、スピッツ、B'z、CHAGE and ASKA、奥田民生、大黒摩季、辛島美登里、JUJU、増位山太志郎など。ヒット曲がある俳優、勝新太郎、高倉健、石原裕次郎、天知茂、萩原健一、柴咲コウなどが一度も出場していない。

大晦日

    大晦日から元日にかけて日本列島は穏やかな天気となりそうだ。ただし元日の夜から早々に寒波が襲来し、日本海側は大雪になるだろう。家族がそろってお正月を迎える人、ひとり暮らしで年を越す人、病院で年を越す人、住む家なく路上生活を余儀なくされる人、さまざまな大晦日。テレビや炬燵で過ごせる人は幸せだろう。昨夜のレコ大は司会の有村架純のミニスカのファッションに注目が集まった。大晦日の夜は紅白歌合戦を見ているが、J-ポップと歌謡曲・演歌の割合が毎年変化している。演歌勢の縮小が続き。歌謡曲を聴きたい人は「年忘れ!にっぽんの歌」を見るだろう。洋楽ファンなら「年越しクラシック」その他、お笑い、バラエティ、格闘技などある。やはり身体を清めて、お神酒を供えて歳神様がやってくるのを寝ずに待つ。除夜の鐘を聞き、近くの神社に参拝するというのが理想の過ごし方かな。

 

 

ご冥福をお祈りいたします

 2022年も残すところあとわずかとなlりました。今年も新型コロナの猛威が続き多くの命が奪われた。また災害や事故など不慮によって亡くなられた方々も多くいる。謹んでご冥福をお祈りいたします。テレビ朝日の「徹子の部屋」も年末恒例となった追悼特集。今年お亡くなりになった方々をありし日の映像で振り返る。9月27日午後、日本武道館で安倍晋三元首相の国葬が行われた。海外からは218の国と地域・機関の約700人の要人が出席した。国内からは約3600人が参列した。それにしても安倍晋三、エリザベス女王、ゴルバチョフ、三遊亭円楽、アントニオ猪木、仲本工事、村田兆治と・・・2022年は、有名人も多数亡くなられ、ことのほか悲しい年となった。われわれの生まれ方は1つだが、死に方はさまざまである。死はある日、突然にやってくる。予期せぬ死に方で多いのは、転倒や転落、航空機や車などの交通事故死。通り魔に刺殺されることや銃撃されることもある。歩行中に鉄パイプが落下したり、熱中症で死んだり、遊泳中に鮫に襲撃されたり、落雷に遭ったりする。生きているものすべては、常に死の恐怖と隣り合わせである。とにかく何もしないことが一番である。 

 スペインのオペラ歌手テレサ・ベルガンサさんが5月13日に死去した。享年89歳。数多いレパートリーの中でもカルメンが代名詞として名高い。1977年にエディンバラ音楽祭で初めて披露した。訃報記事を書いていると、次々に訃報が飛び込む。▽3月5日、俳優・志垣太郎さんが死去。70歳。▽6月11日に松平直樹さんが肺炎で亡くなった。88歳。1959年和田弘とマヒナスターズは「誰よりも君を愛す」で第二回日本レコード大賞を受賞している。▽フランスの俳優ジャン・ルイ・トランティニャンさんが17日死去した。91歳だった。クロード・ルルーシュ監督の「男と女」(1966年)は代表作である。▽「ボヘミアン」で知られる女性ロックシンガー葛城ユキさんが6月27日病気のため死去した。昔のことだがテレビで芸能人の運動会を見ていたら、葛城ユキさんが走り高跳びで優勝されたことを鮮明に記憶している。番組は石川秀美などのアイドル中心で、若手の歌手が活躍するほうが番組的には視聴率がよかったのだろうが、ロック歌手がガチで勝負したのが気持ちよかった。そのことはネットでは確認できなかった。ただし葛城さんはバレーボール選手で国体に出場経験があるスポーツ少女で芸能人相手の競技で勝つのはたやすい事だろう。▽「水戸黄門」などで知られる俳優の佐野浅夫さんが6月28日、老衰のため京都市内の自宅で死去した。96歳だった。

7月▽人気ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た!」などで知られる名わき役、野村昭子さんが7月1日、自宅で倒れているのを親族が発見した。死因は熱中症と思われる。95歳だった。映画デビューは左幸子主演の「思春の泉」(1953年)。岩崎加根子さんは俳優座養成所第1期生の同期。▽台湾の歌手ミウ・チュウ(朱俐静)さんが3日、病気のため死去した。40歳だった。代表曲には「存在的力量」「一千万次的涙水」「我会在称身辺」などがある。▽4日、シンガーソングライターの山本コータローさんが、脳内出血で死去した。72歳だった。代表作「走れコウタロー」「岬めぐり」。▽6日、「遊戯王」で知られる漫画家、高橋和希さんの損傷した遺体が、沖縄県名護市沖で発見された。シュノーケリング中の事故死と思われる。60歳だった。▽6日、ハリウッドの俳優、ジェームズ・カーンさんが死去した。「ゴッドファーザー」では悲劇的な最期を遂げる長男ソニー役で知られ、ほかに「シンデレラ・リバティー」「ローラー・ボール」「ミザリー」などがある。82歳だった。▽安倍晋三元首相が8日、参院選遊説先の奈良市で演説中に銃撃を受け死去した。その動機であるが、銃撃容疑者の家庭は母親が宗教にのめりこみ破産したという。この団体を国内に広めたのが安倍氏だと思い込み、恨んでいた。安倍氏の戦後レジームや憲法改正などの政治信条に対するテロではないと供述しているが、安倍政権が国民を騙してきた真実が明るみに出る結果となる。(この記事は進行中のため書きかけです)。▽12日、東京都内の病院で石川忠久さんが死去した。NHK漢詩番組で知られた中国文学者。90歳だった。▽16日、元横綱2代目若乃花の下山勝則さんが死去した。69歳だった。幕内優勝4回。▽21日、考古学者の大塚初重さんが、肺炎のため死去した。95歳だった。▽24日、英国の俳優デビッド・ワーナーさんががんで死去した。80歳だった。「オーメン」や「タイタニック」に出演した。▽バイオリニストの佐藤陽子さんが肝臓がんのため死亡した。72歳だった。池田満寿夫さんのパートナーとしても知られた。▽25日、女優の島田陽子さんが、都内の病院で死去した。69歳だった。国際派女優として活躍した。▽26日、元大蔵省事務次官の吉野良彦さんが死去。91歳だった。竹下内閣の下で89年4月に消費税が導入される道筋を付けた。▽31日、フィリピンの元大統領フィデル・バルテス・ラモスさんが死去した。94歳だった。1986年、エドゥサ革命で政権崩壊に貢献した。

8月▽8月1日、早稲田大学教授の川岸令和さんが死去。60歳だった。「知る権利」や「学習の自由」など憲法学を基盤にした論稿が多い。▽1日、市田ひろみさんが死去。90歳だった。大映の専属女優から服飾評論家に転向し、テレビ・著作などで活躍した。▽5日、ファッション・デザイナーの三宅一生さんが肝細胞がんで死去した。84歳だった。▽5日、ブラジルで中林順さんが多臓器がんのため死去した。76歳だった。ブラジル労働党(PT)の創立者の一人。▽7日、米匡の作家、歴史家のデビッド・マカレールさんが死去した。89歳だった。「ジョンズタウン洪水」「ブルックリン橋」「パナマ運河」「セルジア・ルーズベルト」「ライト兄弟」などの伝記などの著作が多数ある。▽7日、米国の俳優ロジャー・E・モズレーさんが死去した。83歳だった。「私立探偵マグナム」「ラブボート」「刑事スタスキーハッチ」「刑事コジャック」などテレビ作品が多数ある。▽6日、作家の青木新門さんが死去。85歳だった。葬儀屋での体験をもとにして書かれた「納棺夫日記」(1993)がベストセラーとなる。▽8日、オーストラリアの歌手・女優のオリビア・ニュートン・ジョンさんが死亡した。73歳だった。代表曲「ジョリーン」「カントリーロード」「そよ風と誘惑」「グリース」「ザナドゥ」など。「知性と美貌の歌姫」といわれたが、イルカ問題で来日を拒否したこともある。▽8日、精神科医の中井久夫さんが死去した。88歳だった。「兵庫県こころのケアセンター」の設立に尽力したり、ギリシアの詩人「カヴァフィス全詩集」などを出版した。▽9日、英国のイラストレーター、レイモンド・ブリッジズさんが死亡した。88歳だった。「さむがりやのサンタ」「スノーマン」「風が吹くとき」。▽9日、英国の作家ニコラス・エヴァンズさんが心臓発作のため死亡した。72歳だった。「モンタナの風に抱かれて」(1995)は映画化もされた。▽11日、ファッションデザイナーの森英恵さんが老衰で死亡した。96歳だった。1996年にはファッション界で初の文化勲章を受章している。▽12日、アメリカ女優のアン・ヘッシュさんがロサンゼルスで交通事故で死去した。53歳だった。「6デイズ/7ナイツ」「フェイク」「ラストサマー」などの映画に出演。▽12日、ウォルフガング・ペーターゼン監督が膵臓がんで死去した。81歳。「U・ボート」「エアフォース・ワン」▽14日、漫画家の牧野圭一さんが胃がんのため死去した。84歳。街の薬屋さんの店頭にある小象「サトコちゃん」のデザインなど漫画文化の普及に広く活躍した。▽15日、報道写真家の笹本恒子さんが老衰のため死去した。107歳だった。▽21日、演歌歌手の新川二郎さんが死去した。82歳だった。東京五輪が開催した64年、「東京の灯よいつまでも」がヒットした。▽劇団四季の久野綾希子さんが乳がんで死去した。71歳だった。「キャッツ」「ウエストサイド物語」舞台だけでなくテレビのサスペンス物のヒロインだった。▽23日、古谷一行さんが死去した。78歳だった。代表作に「探偵・金田一耕助シリーズ」「失楽園」、2時間サスペンスドラマ多数ある。▽24日、京セラの稲森和夫さんが死去した。90歳だった。▽27日、落語家の三遊亭金翁さんが死去した。93歳だった。小金馬、4代目金馬として知られ、テレビ番組「お笑い3人組」や「ミスター・エド」の吹替えで人気者だった。▽28日、芸能レポーターの前田忠明さんが死去した。81歳。梨本勝さんとともにお茶の間にも親しまれた。▽30日、元ソ連の大統領ミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフさんが病気で死去した。91歳だった。▽30日、歌手の三條町子が老衰のため死去した。97歳だった。「かりそめの恋」がヒットした。

9月▽9月5日、歌手おおたか清流さんが病気のため死去した。69歳だった。喜納昌吉さんの曲をカバーした「花」などで知られた。▽8日、英王エリザベス女王が死去した。96歳。在位70年は、神武天皇の76年、フランスのルイ14世の72年に次で、史上3番目の長さであった。▽10日、アメリカの写真家ウィリアム・クラインさんがパリで死去した。96歳。▽11日、スペインの作家ハビエル・マリアスさんが肺炎のため死去した。70歳だった。代表作「すべての魂」「白い心臓」。▽12日、ジャズ・ピアニストのラムゼイ・ルイスさんが死去した。87歳だった。65年のアルバム「ジ・イン・クラウド」が大ヒットし、グラミー賞を獲得する。▽作家の宮沢章夫さんがうっ血性心不全で死去した。65歳だった。著書に「時間のかかる読書」「わからなくなってきました」など。▽13日、映画監督ジャン・リック・ゴダールさんが死去した。91歳だった。1959年に「勝手にしゃがれ」を発表し、ヌーヴェルバーグを牽引する監督して脚光を浴びた。▽13日、東洋フライ級の王者プロボクサー矢尾板貞雄さんが小脳出血のため死去した。86歳だった。▽14日、ギリシャの女優イレーネ・パパスさんが死去した。93歳だった。「ナバロンの要塞」「その男ゾルバ」で国際的名声を得た。▽16日、作曲家の彩木雅夫さんが肺炎のため死去した。89歳だった。「花と蝶」「長崎は今日も雨だった」「なみだの操」「夫婦鏡」など200曲以上を作曲した。▽16日、俳優の梶田冬磨さんが急逝した。22歳だった。「恋する週末ホームステイ」などに出演した。▽17日、韓国の歌手パク・ジョンウンさんが肝硬変のため死去した。57歳だった。「今日みたいな夜は」(1991年)などのヒット曲を残した。▽17日、漫画家の石井いさみさんが急性心不全で死去した。80歳。「750ライダ―」で知られる。▽22日、イギリスの作家ヒラリー・マンテルさんが死去した。70歳だった。「ウルフ・ホール」「罪人を召し出せ」でブッカー賞を受賞した。▽23日、アメリカ女優ルイーズ・フレッチャーさんが死去した。88歳だった。「カッコーの巣の上で」でアカデミー賞主演女優賞を受賞した。▽24日、ジャズ・サックス奏者ファラオ・サンダースさんが死去。81歳。代表作は「ザ・クリエイター・はず・ア・マスター・プラン」(69年)など。▽25日、プロ野球西鉄ライオンズの投手、池永正明さんが癌で死去した。76歳。1970年「黒い霧事件」で永久失格処分を受けたが、2005年に解除されて復権した。▽26日、ノンフィクション作家の佐野真一さんが肺癌のため死去した。76歳だった。「旅する巨人」「東電OL殺人事件」など。▽27日、将棋の有吉道夫さんが誤嚥性肺炎のため死去した。87歳だった。攻めの棋風で「火の玉流」と呼ばれた。▽27日、俳優の江原真二郎さんが死去した。85歳。映画「米」「純愛物語」。▽28日、元新党さきがけ代表、武村正義さんが死去した。88歳だった。1993年の非自民連立による細川護熙政権の誕生に貢献した。▽29日、絵本画家の山脇百合子さんが死去した。80歳。姉の中川李枝子さんとの共作の絵本シリーズ「ぐりとぐら」のイラストで広く知られている。▽30日、落語家の三遊亭円楽さんが死去した。72歳だった。日本テレビの「笑点」の大喜利メンバーとしてお茶の間の人気者だった。▽評論家の渡邊みどりさんが自宅で死去した。88歳だった。皇室報道など60余年にわたり活躍した。

10月1日、「燃える闘魂」のうたい文句で人気があった元プロレスラーのアントニオ猪木さんが心不全で死去した。79歳だった。1976年、ボクシングのモハメド・アリーとの格闘戦は注目を浴びた。▽2日、漫画家のかざま鋭二さんが膵臓がんのため死去した。75歳だった。ゴルフ漫画「風の大地」など。▽4日、カントリー歌手ロレッタ・リンさんが死去した。90歳だった。「コール・マイナーズ・ドーター」などヒット。1980年に「歌え!ロレッタ愛のために」が伝記映画化された。▽4日、1951年のボストンマラソンで日本人初優勝を果たした田中茂樹さんがせ心不全などのため死去した。91歳だった。▽7日、作曲家でピアニストの一柳慧さんが死亡した。89歳だった。代表作は交響曲「ベルリン漣詩」、オペラ「愛の白夜」など。オノ・ヨーコさんは最初の妻だった。▽8日、女優の松原千明さんがハワイで死去した。64歳没。▽8日、プロ野球選手・藤尾茂さんが死去した。巨人の捕手として活躍した。▽11日、女優のアンジェラ・ランズベリーさんがロサンゼルスの自宅で死去した。96歳。初の映画出演作「ガス燈」でアカデミー助演女優賞にノミネートされている。テレビシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」では主役を演じ、人気を博した。▽12日、淡路島のわらび餅の移動販売業、川西俊一さんが老衰で死去した。102歳。タイガースと阿波踊りをこよなく愛した。▽12日、沖縄のラジオパーソナリティー比嘉美由紀さん、急性白血病のため死去した。46歳だった。FMよみたんの情報番組などを担当した。▽14日、俳優ロビー・コルトレーンさんが死去した。72歳。ハリー・ポッターシリーズ8作品全てに出演した。▽15日、ハイチの歌手ミカベン(本名ミカエル・ベンジャミン)がパリで急死した。41歳だった。▽16日、女優の片桐夕子さんが死去した。70歳。「女子高生レポート 夕子の白い胸」などロマンポルノで活躍した。▽17日、ドイツ出身の米ピアニスト、マイケル・ボンティーさんが死去した。84歳だった。▽19日、ザ・ドリフターズのメンバーの仲本工事さんが前日に車にはねられ、病院で死去した。81歳だった。「8時だョ!全員集合」で人気を集めた。▽19日、漫画家の永田竹丸さんが老衰のため死去した。88歳没。「トキワ荘」に住んだ漫画家たちとの交流で知られ、初めてスクリーントーンを使ったとされる。▽21日、講道館柔道十段、大沢慶己(おおさわよしみ)さんが死去した。96歳だった。小柄ながら、体重無差別の大会で活躍し、その軽快な身のこなしから「今牛若丸」と呼ばれた。▽26日、文化人類学者の小山修三さんが肺炎のため死去した。83歳没。国立民族学博物館、吹田市立博物館を務めた。▽27日、撮影監督の金宇満司(かなうみつじ)さんが死去した。89歳。主な作品に「黒部の太陽」「サンダ館八番娼館 望郷」テレビドラマ「大都会」「西部警察」など。▽28日、米国歌手のジェリー・リー・ルイスが死去した。87歳没。「火の玉ロック」など数々のヒット曲を世に送り出した。▽28日、漫才師の酒井くにおさんが死去した。74歳没。▽31日、経済学者の小宮隆太郎さんが老衰で死去された。93歳だった。高度成長の分析で優れた研究業績を残す。著作「戦後日本の経済成長」「現代日本経済研究」。

11月1日。作曲家の普久原克恒勇さんが死去した。89歳没。代表作「芭蕉布」。▽2日、元福音館書店の社長、松居直さんが老衰のため死去した。96歳没。戦後、児童文学の発展に貢献した。▽4日、作詞家の松本一起さんが死去した。73歳没。80年代アイドル全盛期にヒットチャートを席捲した。代表作「急いで!初恋」(早見優)、「ジプシー・クイーン」(中森明菜)など。▽5日、米歌手アーロン・カーターさんが死去した。34歳没。アルバム「アーロンズ・パーティ」は3000万枚を超えるヒットとなった。▽9日、ブラジルの歌手ガル・コスタさんが死去した。77歳没。代表曲「ベイビー」など。▽11日、プロ野球選手、村田兆治さんが自宅火災で死去した。72歳没。オーバースローで、鉞を打ち下ろす豪快なフォームから、「マサカリ投法」の異名をとった。通算215勝。▽12日、写真家の芳賀日出男さんが死去した。101歳。日本各地の祭りを撮影した。著「日本の民俗」など。▽12日、映画監督の大森一樹さんが死去した。70歳没。「ヒポクラテスたち」「風の歌を聴け」「恋する女たち」など80年代森田芳光、相米慎二らと共に若い映画監督の旗手と呼ばれた。▽16日、バレーボール女子のイザベル・ザルガドさんが死去した。62歳没。ブラジル女子バレー界の第一人者で、日本リーグにも在籍した。▽24日、作家の佐川一政さんが死去した。73歳。パリ人肉事件(1981年)の犯人として知られる。▽24日、文芸評論家の樋口覚さんが死去した。74歳。著書「三絃の誘惑 近代日本精神史」など。▽25日、歌手のアイリーン・キャラさんが死去した。63歳没。1983年「フラッシュ・ダンス」の主題曲を歌い大ヒットした。▽27日、映画監督の崔洋一さんが死去した。73歳。「月はどっちに出ている」「血と骨」など在日コリアンの物語をリアルに描いた作品で知られる。▽28日、俳優の渡辺徹さんが死去した。61歳。「太陽にほえろ!」でデビュー。妻は榊原郁恵。▽30日、江沢民・元国家主席が死去した。96歳。共産党では毛沢東、鄧小平に続く世代の最高指導者だった。中国の高速経済成長を成し遂げた。

12月1日。フランスの俳優ミレーヌ・ドモンジョさんがパリの病院で死去した。1950年代から活躍し、「サレムの魔女」「お嬢さんお手やわらかに」「上と下」など。日本でも人気が高く、アニメ「ヤッターマン」のドロンジョ様は彼女がモデルといわれる。▽6日、仏文学者の山田兼士さんが死去した。69歳。著書「ボードレール パリの憂鬱論」など。▽6日、歌手の水木一郎さんが肺がんのため死去した。「マジンガーZ」「バビル2世」などアニメソングの帝王と呼ばれた。▽8日、映画監督の吉田喜重さんが死去した。89歳。代表作「秋津温泉」「戒厳令」「エロス+虐殺」。▽10日、俳優の佐藤蛾次郎さんが死去した。78歳。映画「男はつらいよ」で車寅次の弟分源吉を務めた。▽11日、女優の藤山陽子さんが死去した。80歳。若大将シリーズではスミちゃんのライバル役だった。▽12日、漫画家の桜多吾作さんが肺炎のため死去した。74歳。代表作「釣りバカ大将」。▽14日、漫画家の御厨さと美さんが死去した。74歳だった。代表作「裂けた旅券」「イカロスの娘」。▽14日、バンドCCBのドラマー・笠浩二さんが死去した。60歳。1985年「Romanticが止まらない」が大ヒットした。▽18日、俳優の仲田育史さんが急死した。47歳という若さだった。舞台「親父の記憶」の公演中に倒れ、救急搬送されたが帰らぬ人となった。映画「フラガール」「さくらん」「勝手にふるえてろ」にも出演している。▽19日、イギリスの歌手テリー・ホールが死去した。63歳。英バンド「ザ・スペシャルズ」のメンバーで、「ギャングスターズ」(79年)は伝説の名作とされる。▽19日、漫才師の新山ノリローさんが死去した。86歳。テレビ草創期、新山ノリロー・トリローとして活躍した。▽20日、女優あき竹城さんが死去。75歳。明るいキャラクターと山形弁で知られた。映画「楢山節考」。▽21日、タレントの高見知佳さんが死去した。60歳。▽米国音楽プロデューサーのトム・ペル(トーマス・ランドルフ)さんが死去した。79歳。スタイリスティックスの「愛がすべて」(1975年)などが広く知られる。▽23日、英歌手のマキシ・ジャズさんが死去した。65歳。1995年、電子音楽バンド「フェイスレス」を結成し、ダンス音楽で知られた。▽25日、歴史家の渡辺京二さん死去した。92歳。著書「逝きし世の面影」「黒船前夜」。▽25日、フランス文学者の篠田浩一郎さんが老衰で死去した。94歳。「ロラン・バルト 世界の解読」文芸評論家としても活躍した。「小説はいかに書かれたか」。▽26日、女優の絵沢萌子さんが老衰で死去した。83歳。「濡れた唇」「月はどっちに出ている」。▽28日、建築家の磯崎新さんが死去した。91歳。代表作「北九州市立美術館」「ロサンゼルス現代美術館」▽29日、サッカーの元ブラジル代表ペレさんがサンパウロで死去した。82歳。▽28日、天体写真家の藤井旭さんが死去した。81歳。著書「星になつたチロ」。▽29日、英ファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドさんがロンドンで死去した。81歳。▽30日、ジャーナリストの矢崎泰久さんが死去した。89歳。元「話の特集」編集長。▽31日、民俗芸能研究家の山崎一司さんが死去した。83歳。著書「隠れ里の祭り」「失われた祭り」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大晦日の餃子

   日本では大晦日の夜は年越しそばを食べるという習慣があるが、中国北方の北京では大晦日の晩に家族が集まって餃子をつくる。映画「妻への家路」(2014)にもそのようなシーンがある。ちなみに中国で餃子というば水餃子のこと。焼き餃子は「鍋貼(ゴーティエ)」と言う。年越しに餃子を食べるという習慣は明代のころから始まったといわれる。

2022年12月30日 (金)

酒井忠次の軍配

    酒井左衛門尉忠次(1527-1596)。大永7年の生まれで徳川四天王のなかでは最年長。晩年は眼疾で目が見えなかった。徳川家の家老かつ四天王なのに何故か印象が薄い。だが忠次の軍配がその人間性を物語っている。木製の黒漆塗で、中央には干支暦があり、その上にルーペと方位磁石(コンパス)が付いている。2023年大河ドラマ「どうする家康」では大森南朋が演じる。徳川四天王、榊原康政は杉野遥亮、井伊直政は板垣李光人、本多忠勝は山田裕貴。

 

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 黒塗軍配団扇(致道博物館)

2022年12月29日 (木)

地味にスゴイ、室生犀星

鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな

 室生犀星、大正13年に詠んだ一句。6年ほど前に「蜜のあはれ」が映画化された。二階堂ふみが金魚の役で、老作家が大杉漣、かなりシュールな映画で低評価だったように思うが、晩年の室生犀星の作品であることに驚きを覚えた。犀星は多作の人である。20代後半で詩人として名を成し、俳句でも成功し、当然のことながら出版社から原稿の依頼は殺到し、生涯それに応え続けた。多作・乱作ながら名作も数多く残している。長い文学活動で晩年まで瑞々しく、新鮮であった。「蜜のあはれ」「杏っ子」、「かげろふの日記遺文」など。クリアカラー「国語便覧」(数研出版)を見ると「ふるさとは遠きにありて思うもの」の感情詩派としての犀星の解説しかないが、昭和期の中心的な位置にいた小説家だと思う。でも文化勲章は受賞していない。志賀直哉や太宰治などが高く評価されがちであるが、戦後の志賀直哉は寡作であり、スランプ気味だった。芥川や太宰ははやくに自滅し、文学活動をマラソンに例えるならば、無事ゴールに完走したのは谷崎潤一郎と川端康成、そして室生犀星であった。室生犀星は地味にスゴイ作家である。

 

2022年12月28日 (水)

八百屋お七悲恋物語

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  お七の墓 円乗寺(文京区)

 

    八百屋お七(1668‐1683)。「天和笑委集」によると、江戸本郷追分の森川宿で商いを張る八百屋市左衛門は、もと駿河国富士郡の農民で、その末娘のお七は数え16歳の器量よしだった。天和元年12月28日、駒込大円寺から発した大火で一家は焼け出され、菩提寺の駒込正仙院に難を逃れた。この寺に生田庄之介という小姓がいた。数え17歳の美少年だった。お七と相思相愛の仲となった。そのうちに森川宿の新宅が仕上がり、一家は寺を出ることになったが、お七の恋心はいよいよ燃え上がり、ついには再び焼け出されれば、また寺に戻って庄之介に会えると思い込み、近所の商家に火を放った。しかし、すぐ見つかって放火はボヤで終わり、お七は奉行所に引き出される身となった。

    講釈師の馬場文耕による宝暦7年(1757)の「近世江都著聞集」の説によれば、お七の父親はもと前田家の足場だった山瀬三郎兵衛で、寛文年間に浪人して駒込追分願行寺門前で武家相手の八百屋を開業、八百屋太郎兵衛と名乗る。一家が焼け出されたのは天和元年2月に丸山本妙寺から起きた大火のためで、太郎兵衛の弟が住職をしていた小石川円乗寺に避難、お七はそこで山田左兵衛という修行中の美少年に出会い、恋におちる。お七に放火をそそのかしたのは、近くの吉祥寺の門番の子で、吉三郎という無頼漢。ボヤ騒ぎにまぎれて盗みをはたらこうとした吉三郎が捕らえられ、その自供からお七も縄を打たれた。調べに当たった改役、中山勘解由はお七のあまりの若さに驚き、15歳以下ならば、死罪を免れるという法もあることとて、お七を助けてやろうと考えた。「おまえはまだ十五であろう」「いえ、十六にございます」お七は正直に答えてしまい、死罪が決まった。

 

Ositi_daienji    お七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火刑に処せられた。庄之介は高野山に上り出家したという。庄之介は吉三郎という説もある。吉三郎は大円寺(目黒行人坂)の西運上人だったことが最近判明している。大円寺阿弥陀堂にはお七地蔵尊と西運上人の木像が祀られている。上画像はお地蔵尊。(参考:大島幸夫「伝説の女たち」)

2022年12月25日 (日)

孝明天皇崩御

  幕末激動期のなか孝明天皇は1866年年12月25日(新暦1867年1月30日)崩御した。この日は明治7年から明治45年までは、国の祭日として孝明天皇祭が実施されていた。孝明天皇の急死をめぐって、痘瘡病気説と毒殺説が生まれたが、真相はいまだに不明である。 幕末維新史を専門とする国立大学系の学者の方には、孝明天皇毒殺説はとるにたらぬ俗説であるとされる人が多い。佐々木克は「岩倉具視」(吉川弘文館)において、「古くからの俗説に、孝明天皇の死因は毒殺で、それを計画したのが岩倉だという説がある。岩倉犯人説は、岩倉が王政復古を構想し、その実現のためには幕府との協力体制を維持しようとする孝明天皇が邪魔であったからという、あまりにも単純・短絡的な考えに基づいた理由付けによるものである。岩倉にとって孝明天皇は欠くことのできない存在であったことは、いま述べた通りである。そして死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉の構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である。」(本書99頁)

    そして、佐々木克は原口清の文献をあげている。「孝明天皇は毒殺されたのか」(日本近代史の虚像と実像1巻 大月書店 1990年、「孝明天皇と岩倉具視」(名城商学39巻別冊、名城大学商学会、1990年)

   佐々木克は、大久保利謙の弟子にあたる学者で、岩倉関係の史料を全て渉猟したうえでの見解であり、傾聴すべきであろう。ただ、岩倉が天皇毒殺という謀事を日記や書簡に得意げに書き残すことはしないであろう。孝明天皇の死を知った岩倉は、翌日の坂本静衛に宛てた手紙で「仰天恐愕…千世万代の遺憾」と嘆いていた。これほどまで落胆したのは、この手紙で「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」として、岩倉を弁護しているが、犯人と思われないように知人に証拠として残る手紙を書くという工作は誰しもやるこではないだろうか。

   孝明天皇毒殺説は、俗説として一笑に付す事柄ではなく、かなり真面目な日本史通史にも必ず記述されている歴史的事件である。昭和40年代からのシリーズ物「日本の歴史」において孝明天皇の急死をどのように記述しているか列挙する。

中央公論社「日本の歴史、第19巻、開国と攘夷」(昭和41年)小西四郎(東京大学教授)著

    こうして見ると、毒殺説はどうも風説にすぎないように思われる。東京大学史料編纂所の吉田常吉氏は、この問題について論じている中で、「天皇も疱瘡にかかられる可能性がある」との見解を示し、「当時天皇の御周囲で、疱瘡をわずらっていた者が全然なかったとはいいきれない」と、例えば天皇の側近に奉仕した公卿の子女で疱瘡にかかった者があるとか、あるいは同じころ関白二条斉敬の二人の男の子が痘瘡で死亡したことなどをあげている。さらに孝明天皇毒殺事件については、それが「白か、黒か、読者諸君に正面きって切り込まれると、筆者は困る。推論に推論を重ねたうえでの筆者の論旨なのだから、そこは諸君の良識にまつ以外にない。ただ筆者の見解を述べるならば、毒殺事件そのものは、確乎たる史料がない限り、従来の定説を覆すわけにまいらぬ。云々」と。わたしもこれと同意見である。

文英堂「国民の歴史、第18巻、開国」(昭和45年)高橋磌一著

  慶応2年12月25日に、孝明天皇が36歳で急死したのも、謀略のにおいがする。痘瘡わわずらっていたとはいえ、だいぶ容態もよくなっていたのが急変し、「御九穴から御出血」という異常な死を迎えたのである。徹底した攘夷論者ではあったが、幕府打倒などは毛頭考えていなかった天皇は、討幕派にはやっかいな存在となっていたことはじゅうぶん考えられるのである。

「日本の歴史23 開国」芝原拓自(名古屋市立大学)昭和50年

    天皇のこのふしぎな死が、毒殺説を流布させる一根拠ともなった。その風評や憶測はたちまちひろがり、犯人をさしむけたのは岩倉具視だとさえ、まことしやかにささやかれた。その噂は、死去から一週間後には、長州の一豪商の日記にさえ登場し、通訳官サトウの記録のなからもでてくる。しかし、王政復古から戦前をつうじて不敬の毒殺説はタブーとなり、宮内庁編「孝明天皇紀」などは、もちろん病死として史料を配列している。けれども、かんじんの24日夜のことについては、なぜか典医たちの医学的な記録はなく、真相はいまだに不明である。戦後になってねづまさし(禰津正志)氏などは、この病状急変と死のようすこそ、古くから中国や日本でみられた砒素による毒死に特有であることなどを根拠にして、毒殺説にかたむいている。他方、吉田常吉氏などは毒殺説に確証なしとし、病死であったろうと推定している。ところが、昭和50年4月4日付の「サンケイ新聞」の記事によれば、近江八幡市の開業医伊良子光孝氏宅の蔵から孝明天皇の典医をつとめていた同氏祖先光順の日記形式のカルテ「拝診日記」が発見され、そのカルテの天皇死去当日の描写は暗に薬物中毒症状をにおわせるものである、と紹介されている。

    奈良本辰也(立命館大学教授)著「明治天皇即位の舞台裏、孝明天皇崩御と討幕工作」(歴史読本、昭和52年12月)

   日本医学史学会の佐伯理一郎氏などは、これらの日記を検討した結果、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(日本医事新報)と大胆な断定を下している。

                 * * * * *

 奈良本辰也が引用した京都の佐伯理一郎医学博士の説とは、昭和15年7月に日本医史学学会関西支部大会で発表したものである。当時の侍医の織部正伊良子光順の病床日記を資料とし、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官にでている姪をして天皇に一服毒を盛らしめたものである」としている。

    新人物往来社など一般歴史雑誌の読物などは孝明天皇毒殺説を支持する記事が多い。国立系の学者は、とるにたらぬ俗説として斥けるであろう。しかし孝明天皇毒殺説をとると、聡明な明治天皇は毒殺犯をさがして必ずや復讐すると考えられるので、鹿島昇の明治天皇すりかえ説がセットになって浮上する。ただし、大室近祐の証言、あるいは存在そのものが実在性があるのか一読する限りでは確証できない。いまだ孝明天皇急死には事件性が認められ、幕末・明治の宮中には謎が多い。

シャルルマーニュ(カール大帝)

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  カール大帝は西暦800年12月25日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でローマ皇帝とし教皇レオ3世から戴冠した。カール大帝の逸話を集める。ピピンの子。フランク王(768~814)・西ローマ帝国皇帝(800~814)。仏名はシャルルマーニュ、英名はチャールズ、独名はカール、西名はカルロス。 

    シャルルマーニュは西ヨーロッパの大部分をひとまとめにして、かつての西ローマ帝国が復活したかのような大帝国・フランク王国をつくりあげたので、彼の偉大さはヨーロッパ人の心の中に、いつまでも残った。そして彼の死後、詩人たちは『シャルルマーニュの歌物語』を書いた。その中でも、大帝の第1回スペイン遠征の際に戦士した勇士ローランを歌った「ローランの歌」はとくに有名だ。歌物語では、シャルルマーニュが200歳を超え、髪もひげも雪のように真っ白な姿で登場し、キリスト教徒を守るためにサラセン人と雄々しく戦っている。もちろん、現実のシャルルマーニュは、そんな高齢まで生きたわけではなく、72歳で死んでいる。しかし中世の君主としては、彼はかなり長生きだった。このように長寿を保つために、彼は独特の健康法を実践していたという。そのひとつがスポーツで、乗馬と狩猟も好きだったが、とくに水泳が大好きで、彼のアーヒェンの宮廷には大温泉プールがつくられていた。彼は宮廷の人びとを引き連れて水泳を楽しみ、ときには100人もの人がプールを埋めたと伝えられる。 

    彼は酔っぱらいが嫌いなので大酒はしなかったが、大食いで、「断食は体をこわす」といって、好物の焼肉をむやみに食べた。医者が慎むようにいうと、ひどく立腹した。5回結婚し、そのほかに第2夫人が4人いた。そのため20人ほども子どもがあった。彼は遠征にも旅行にもこの大家族全員を引き連れていた。息子たちは早死にする者が多く、彼の死後まで生き残ったのは、たったひとりだった。娘たちは、たいてい無事に育ったが、彼は娘の結婚をなかなか許さなかった。婿が強大になることを恐れたのである。そこで彼女たちは、親の許しを得ずに勝手に結婚したりして、宮廷のスキャンダルになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月24日 (土)

室蘭カレーラーメン

 カレーラーメンは、ラーメンをカレー仕立てのスープで調理した料理。新潟県三条市にあったラーメン店が、戦前に東京・向島の修業の食堂から持ち帰ったのが始まりとされ、三条市では70年の歴史がある。また北海道においては苫小牧市が発祥地とされる。70年ほど前に、鉄鋼の街、室蘭市では工場員によって、みそラーメンにはない辛さとボリュームで好まれた。1999年頃、モーラング娘の安倍なつみがラジオ番組で紹介したことから、室蘭といえばカレーラーメンというイメージが定着したとされる。

 

「怒る時のコラってなに?」雑学365日

 「コラ」は、元々は「ねぇ、ちょっと」を意味する薩摩の方言である。明治初期、警察官のうち最も階級の低い邏卒(らそつ)に当たる人たちは、薩摩藩出身の下級武士が多く、ことばもわかりにくく、鹿児島弁の「ねえねねえ」と優しく「コラ」と語りかけたつもりでも、強いイントネーションで怒っているように聞こえた。巡査によって「コラ」は怒る時の言葉として全国に広まった。

2022年12月22日 (木)

「胸キュン」雑学365日

   少女漫画や韓国恋愛ドラマなどを見て、「胸がキュンとする」という意味合いで用いられる語。心のときめきやノスタルジーなどにより催される、胸の締め付けられるような切ない感情を指す表現である。「胸キュン」の語源はいつだろうか。1980年の河合奈保子の楽曲「ヤング・ボーイ」(作詞:竜真知子)に「胸がキュンとなるの」という表現が初出である。同年に山下久美子も「胸のここんとこがキュウンとなるような歌が唄いたのよね・・・」とキャッチコピーで使っている。さらに、ファンクラブの名称「胸キュンClub」と用いているなど、「胸キュン」の普及に大きく貢献している。1983年にYMOの楽曲「君に、胸キュン」(作詞:松本隆)に使用され、一般的な言葉として定着した。楽曲タイトルに採用された際には、山下久美子の許可を得たとされている。

 

意外と知られていない有名人が広めた言葉

  「最初はグー」「バツイチ」「ツーショット」「胸キュン」…私たちがいつも使っているこれらの言葉のなかには、実は有名人が広めたものがある。例えば、大宅壮一の「口コミ」。人の口から口へ個人的に伝えられる評判・うわさのことで、マスコミとの対比で造られた言葉であり、「口頭でのコミュニケーション」の略とみられる。大宅が1962年頃から使っていた。「イカす」は俗に魅力的な、かっこいいという意味だが、元は軍隊での隠語らしいが、石原裕次郎が1958年ころ映画で広めた。原義は「行かす」でとても素晴らしい世界へつれて行ってくれる、という意味の感嘆詞で使っていたらしい。豊かな乳房のことを「豊胸」というが、これを「ボイン」という新語で表現するようになったのは1967年のことで(最近はセクハラになるので死語化している)、これは大橋巨泉が「11PM」というテレビ番組で朝丘雪路の胸をみて使ったのが始まりといわれている。

   「ネクラ」はタモリがタレントの九十九一を指して言ったのが最初らしいが、「笑っていいいとも」でミュージシャンの織田哲郎が出演のとき、学生時代に卓球部に所属していたことを明かすと、タモリが「卓球ってネクラだよね!!」とからかった。このことは社会的に大きな影響を与えたらしく、翌年(1990年)から全国の中学生の卓球部入部人員が激減したといわれる。そのほか、有名人が広めた言葉として、女子プロレスラー神取忍の「心が折れる」、ダウンタウン松本人志の「どや顔」や「へこむ」。「どや顔」はさておき、物体に対してのみ使われていた「へこむ」という表現を、精神的に落ち込むという意味で使ったのは松本が最初という説がある。しかし広辞苑の旧版を調べると、松本以前にも精神的に「へこむ」という意味は日本語として存在していたとみられる。「胸キュン」は歌手の山下久美子が最初だといわれる。デビュー曲「バスルームから愛をこめて」(1980年)のキャッチコピーに「胸のここんとこがキュウンとなるような歌が唄いたいよね・・・」と使っている。3年後にYMO「君に、胸キュン」が大ヒットして一般に広まった。

 有名人がつくった言葉で今もなお広く使われている言葉は「団塊の世代」である。堺屋太一が1976年に発表した小説で使われた。

 

 

円覚寺帰源院と漱石

    夏目漱石(1867-1916)は神経衰弱の病状が著しかったので、親友・菅寅雄に相談して、明治27年12月22日あるいは23日に鎌倉円覚寺に参禅している。搭頭、帰源院に釈宗活をたづね、その手引きで管長の釈宗演(1959-1919)のもとで座禅をした。翌年の1月8日には帰京しているので、わずか半月の修業だった。しかしこの体験は小説『門』などいつくかの作品に出てくる。『門』の一窓庵は帰源院のことで、老師は釈宗演、宣道は釈宗活がモデルであろう。後年、漱石は「私は円覚寺で座禅をしたように言うが、私には何も出来ていません。全くの唯の凡夫です」と語った。ところで、釈宗演老師は明治26年9月にシカゴで開かれた世界宗教会議で「仏教の要旨並びに因果法」と題する講演をした。禅が世界の「ZEN」となる海外普及の端緒を開いた人物である。

2022年12月21日 (水)

政治家は年の瀬になると慌てだす

Ph1312303  年の瀬である。百貨店やスーパーでは買物客で混雑している。街ではクリスマスや忘年会で盛り上がっている。映画館や劇場もこの月はいつもより満員。役所では来年度の予算配分が大方この月に決まる。財政課で査定した額が12月28日のギリギリに内示の通知をして、文句をいわれないように年を迎える。仕事に一定のケリをつけたいらしく、「よい正月を迎える」と言って落選した知事がいたが、あれは本音である。年末に政治が動くのも、政治家さんが「よい正月を迎える」ためのものらしい。だが今年は少し様子が変だ。防衛費の増額、物価高騰、相次ぐ閣僚の辞任、旧統一教会問題、新型コロナ対策などに国民の不安が高まって、岸田政権への支持率が毎日新聞の調査によると、25%とみるみる下がり過去最低を更新し続けている。これまでずっと無為無策だったくせに、防衛増税だけは強引に速攻で決定している。保守派と財務省を味方につけ政権維持を図るのがねらいである。だが民意を失った岸田政権は近いうち崩壊すると感じている国民も多いだろう。

さよならエマニエル

600fullsylviakristel   2012年10月シルビア・クリステルが死去した。1974年12月21日フランス映画「エマニエル夫人」が公開されると、シルビアはたちまち世界的スターになった。70年代、シドニー・ロームと共にセックス・シンボルだった。時代は世界がポルノ解禁に向っていた。75年のヒット映画は「タワーリング・インフェルノ」と「エマニエル夫人」。「タワーリング」の製作費が42億円。女性観客が多いことや無名女優のポルノ映画が超大作に匹敵するブームをよんだことが明るい話題だった。「チャタレイ夫人の恋人」(81)もシルビアの代表作。「続エマニエル夫人」のレズのお相手カトリーヌ・リヴェはどうしているだろう。(Sylvia Kristel,Catherine Rivet)

2022年12月20日 (火)

黒田長政と後藤又兵衛

   黒田官兵衛の子長政は父ほどの知略の人物ではなく、武勇に優れた勇将であった。後藤又兵衛は幼少より官兵衛に引き取られ、長政とは兄弟のように育てられた。だが長政が家督を継ぐと、又兵衛は黒田家を出奔する。京都で浪人生活の後、大坂の陣では豊臣秀頼に味方し、長政とは敵味方として対決した。慶長19年大坂冬の陣で又兵衛は討ち死にする。黒田長政は関ヶ原の戦いで大きな戦功をあげ、福岡藩初代藩主となった。しかし黒田藩には呪われた過去がある。長政が城井谷城を攻めるとき、宇都宮鎮房を謀殺したため、亡霊に悩まされた。宇都宮鎮房の墓石には、何度変わっても強い怨念が同じヒビを走らせるといわれる。

 

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2022年12月19日 (月)

ユン・ポンギル処刑される

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File1238   1932年4月29日、上海爆破事件がおこる。上海で行われていた天長節官民合同祝賀会で、突然壇上の後ろから手榴弾が投げられた。そのため壇上に並んでいた上海派遣軍司令官白川義則大将、第三艦隊司令長官野村中将、駐華公使重光葵らが倒れ、白川大将は重傷を負って入院、5月26日に死亡した。重光は片足を失い、野村は負傷した。犯人は朝鮮人・尹奉吉(1908-1932)で、日本帝国主義反対のテロ行為だと胸を張り、現場で取り押さえられた。12月19日、金沢で銃殺刑に処せられた。今年4月29日、金沢市で尹奉吉の記念館が開館する。記念事業会側では「上海にも記念館はあるが、尹義士が立ち向かい殉死した日本に記念館ができることは意味がある」と話している。ユン・ポンギルの名前は韓国で小学校で教わり、だれもが知っている抗日の英雄である。日本では歴史専攻の大学生でさえ、その名前を知る人は少ない。

 

 

 

 

2022年12月18日 (日)

ハリウッドのイタリア女優

Photo  イタリア女優ヴィルナ・リージ2014年12月18日、ローマの自宅で死去した。60年代ハリウッドに進出し国際派女優として活躍。イタリア女優がハリウッド進出の成功例が数少ないのは、ドイツのエルケ・ソマーのように語学が堪能でないと言葉の壁がある。ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレですら成功したとはいえない。

 

   戦後、イタリアからハリウッドに進出した女優を年代順にあげてみる。

 

アリダ・ヴァリ 「パラダイン夫人の恋」  1947

 

ジーナ・ロロブリジーダ 「悪魔をやっつけろ」 1953

 

ピア・アンジェリ「傷だらけの栄光」 1956

 

ソフィア・ローレン「誇りと情熱」 1957

 

クラウディア・カルディナーレ「ピンクの豹」 1963

 

ヴィルナ・リージ「女房の殺し方教えます」 1965

 

シルヴァ・コシナ「キッスは殺しのサイン」 1967

 

モニカ・ベルッチ「ドラキュラ」 1992

2022年12月17日 (土)

岸壁の母

 第二次世界大戦後、ソ連からの引き揚げ船が着くたびにいつでも桟橋の脇に立つ一人の女性が見受けられた。これがいつしか人々の目に止まり、「岸壁の母」として取り上げられるようになった。モデルとなったのは、端野いせ(1899-1981)。息子の新二は軍人として1944年に満州に渡った。息子の生存を信じて37年間帰還を待ち続けた端野せいは病で昭和56年7月1日、享年81歳で死去した。中国残留訪中調査団が前年に結成されたが、成田空港に「岸壁の母」せいの姿はなかった。直前に病気で倒れて、車いす生活だったので「みなさんに迷惑がかります」といって固辞した。2000年に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海で生存していることを確認した。しかしその人物が本当に新二であるのかはいまだ明らかではない。新二が生存していたとすれば何故帰国しなかったのか?これから先は推測になるが、もし新二が中国で立派に生きていて妻子を養っているとすれば、中国から離れることができずにそのまま現地での生活を優先したとも考えられる。

 

2022年12月16日 (金)

気づけば今年もあとわずかとなった

スーパーの 今夜のおかずは てまえどり (厄介)

 円安、コロナ政策、ウクライナ情勢などの影響で日本経済も低迷し、暗い1年だった。流行語年間大賞は「村神様」に決まった。ヤクルトの三冠王村上宗隆選手のことだがつまらない。それ以外の新語・流行語には「キーウ」「てまえどり」「宗教2世」「スマホショルダー」「悪い円安」などのほか「#ちむどんどん反省会」「ブラボー」「三苫の1ミリ」「質問権」「インボイス制度」「鈍感力」などがある。知らない言葉が次々と生まれる。自分が時代についていけず鈍感なのだろう。「知らんけど」は関西人なのでなんとなくわかる。自分の発言したそのことについて確証が持てない会話の結びに用いる。本来は「よう知らんけど」という言い回しだったものが現在では最後に付け加えるという形式で流行したらしい、わてよう知らんけど。昨年は「リアル二刀流、ショータイム」、3密(2020)、ONETEAM(2019)、そだねー(2018)、インスタ映え、忖度(2017)。ここ数年のこともあまり覚えていない。

 安倍晋三銃撃事件、韓国ソウル・雑踏事故、ウクライナ侵攻など映像を繰り返し見ていると「検索うつ」になることがあるそうだ。一年を振り返ることもサブカルチャー中心でブーレバック。1月箱根駅伝、青山学院大学、独走の優勝。2月、北京冬季オリンピック、金銀銅18個のメダルを獲得。3月将棋・藤井聡太、10代初の5冠。4月知床遊覧船沈没事故。佐々木朗希、完全試合達成。5月映画「シン・ウルトラマン」が大ヒット。6月BTS活動休止。7月羽生結弦が競技生活にピリオド。8月17歳の馬場咲希、全米女子アマゴルフで優勝。9月ヤクルト、セ・リーグ優勝。10月「きつねダンス」が流行。11月アニメ「すずめの戸締り」が公開。AKB46の岡田奈々が年内休養。12月氷川きよしが活動休止。サッカーW杯カタール大会はアルゼンチンがフランスを破って優勝を果たした。優勝賞金58憶8000万円。あっという間に1年がすぎていく感じがする。

白木屋ズロース伝説

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 「チコちゃんに叱られる」で広瀬すずは「ズロース」を知らなんだ。若い女性には今や「ズロース」は死語である。和製英語でドローワーズ(drawers)に由来する。一般に日本の女性がパンツ下着をつけるようになったのはある火災事故がきっかけと俗に言われる。いわゆる「白木屋ズロース伝説」である。昭和7年12月16日午前9時半、新装なったばかりの東京・日本橋のデパート白木屋(現・COREDO日本橋)の4階玩具売り場のクリスマス・ツリーの電飾から出火した火災は、死者14人、重軽傷者約130人を出す大惨事となった。わが国初の高層ビル火災(当時、白木屋は8階建て)であった。「当時の女性は和装でズロースをはいていなかったため、裾の乱れを気にして犠牲者を増やした」という噂が巷間まことしやかに伝えられ、日本女性のパンツの着用が普及していったとする「白木屋ズロース伝説」が生まれたが、俗説である。

    この説に対して、高倉テル(1891-1986)は『女はなぜズロースをはくか』という本を書いて反論した。高倉は、大正中期から職場に進出した女性たちが、手縫いのパンツをはきはじめたことをあげ、ズロースは銀座から普及したものではなく、工場や女性の職場から生まれたと主張している。白木屋7の女店員たちは、スカートの下に都腰巻をしていたのではないだろうか。

   当時の新聞には「外出にはズロースを」という女性のズロース着用を促す論調の記事が見られるものの、白木屋火災の後に目だってズロースを着用する女性が増えたという歴史的な事実は見られない。一般に日本女性がパンツをはくようになったのは、太平洋菟戦争中のモンペが用いられるようになって、戦後から一般化したと考えられる。

 

 

2022年12月15日 (木)

似たものはあるものだ

 朝ドラ「舞いあがれ!」54話。舞と柏木が北海道のお花畑で初デート。あさイチの華丸が花畑を「ラベンダー畑」と言っていた。実は「ブルーサルビア」という花だと訂正があった。世の中、似たものはあるものだ。 インドネシアとモナコの国旗はほとんど区別がつかない。オーストラリアとオートリアはよく言い間違える。イタリアは長くつの形、群馬県は鶴が舞う姿に似ている。

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    富士山に似た山は世界にいくつかある。芥川賞候補のピース又吉と筧利夫はよく似ている。ほかにも、二階堂ふみと宮崎あおい。田山涼成と海原はるか、筧利夫とピース又吉、相葉雅紀と城みちる、長澤まさみと鈴木ちなみ。

 

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ニュージーランドのタラナキ山(2518m)は富士山に似ている

 

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映画パンフレット。「早春物語」と「四月の雪」 構図が似ている。

 

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スケートの鈴木明子と漫才師の今くるよ。

 

 

 

 

 

 

蝦夷共和国

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    明治元年12月15日、蝦夷地・箱館五稜郭を本営とする佐幕派の政権が誕生した。一般に蝦夷共和国という。投票によって、総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、陸海裁判官に竹中重固、今井信郎、陸軍奉行並に土方歳三らが選ばれた。蝦夷共和国は明治2年5月18日、箱館戦争終結とともに消滅した。

2022年12月13日 (火)

戦艦シュペー号の最期

   1939年12月13日、ラプラタ沖海戦でドイツの戦艦シュペー号は甚大な被害を受けた。冬季の北太平洋の激浪に耐えて本国に帰還できる状態になく、艦長ハンス・ラングスドルフは、中立国のウルグアイに寄港した。しかしウルグアイは中立国とはいえイギリスの影響力の強い国であり、修理もできないまま帰国が絶望的な最後の航海に出ざるをえなかった。艦長は12月17日、乗組員をドイツ商船に移乗させ、シュペー号に残る40名の乗組員とともに自沈させた。乗組員は全員タグボートで退避、艦長は半ば力づくで艦から引きずり降ろされた。だが艦長は自沈の責任をとり、19日に逗留先であるブエノスアイレスでピストル自殺を遂げた。

 

 

2022年12月12日 (月)

小山田庄左衛門

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   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。ドラマ「大忠臣蔵」(1971年)では中山仁が演じている。鳥居利左衛門の娘に惚れられ、大高源五の頼みを叶えるために、利左衛門の娘と添い遂げている。池田一朗の脚色である。

最初の電話帳

Photo_2    1876年グラハム・ベルが電話を発明したわずか2年後の1878年2月21日、アメリカ・コネチカット州ニューへブンで世界初となる電話帳が発行される。日本で電話営業が開始されたのは、1890年12月12日のことで、東京横浜で市内営業が開始した。初めての電話帳が発行されたのは1890年10月のことで、197件の加入者が1枚の紙に印刷された「電話加入者人名録」だった。電話番号1番は東京府庁、2番が逓信省電務局。個人は69名が掲載されており、渋沢栄一、大隈重信、後藤象二郎、岩崎弥太郎、前島密、大倉喜八郎など著名人が登録されていた。(Connecticut,old telephone book)

 

 

 

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 日本最初の電話帳「電話加入者人名録」 

 

 

 

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 世界最初の電話帳

 

 

 

 

2022年12月11日 (日)

糞ころがし王

Tutan2   世界には可笑しな名前の王様がいる。シャルル2世は禿頭王、シャルル3世は間ぬけ王、エゼルレットは無能王。これらは渾名だが、自らを「糞ころがし王」と名乗った王がいる。古代エジプトのツタンカーメンである。古代エジプト人は、糞をころがすスカラベ(scarab)をみて、日輪の回転を司るケペラ神の化身とみなした。古代エジプト語の「再生」「復活」を意味する「ケペル」と音が近いため、スカラベは再生の象徴として崇拝された。下図はカルトゥシュ(王名枠)に入っているツタンカーメンの即位名「ネブ・ケペル・ラー」の象形文字。(scarab  )

 

 

 

 

 

 

中国文明 その悠久の歴史

35d2b0b0s   広大なユーラシア大陸の中央から東端にまで位置する中国にはいつ頃から人類が住みついたのだろうか? 現在の人類の直接の祖先はおよそ20万年前にアフリカに現れ、10万年前にアフリカを出て、ヨーロッパやアジアに進出し、6万年前に東アジアに到達した、と考えられている。かつて最古の人類の一つといわれた北京原人、藍田原人、元謀原人などもアフリカに起源をもつ原人のひとつであるが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられる。

  アジアの人類の起源に関して、1979年に新しい発見があった。雲南省の赤鹿洞窟から1万1500年から1万4000年前のものとみられる人類化石が発見された。発見場所から鹿を食べていた痕跡があることから赤鹿人(画像)と呼ばれている。約1万年前に氷河期が終わって、気候が温暖となり、動物や植物の分布が変わるなかで、採集・狩猟の生活にも変化があらわれた。人類は東アジア各地に広がって住んでいく。中国では前5000年ころ、新石器文化が生れた。黄河の中・下流域の黄土地帯の住民は、村落生活にはいった。かれらが磨製石斧や彩文土器を用いたことから、この最初の黄河流域の文化を彩陶文化という。黄河と長江の大河流域に芽生えた中国文明において、農業が生まれ、都市が形成され、やがて多大な人口を擁する帝国を形成するようになる。

 

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 赤鹿人
の故地は、ロシア南部アルタイ山脈のデニソワ洞穴で、そこから発見された5万年前から3万年前のデニソワ人が移住したと考えられている。

 

   新石器時代の末期から青銅器時代にかけて、各地に都市国家が生れた。のちに邑国などの名でよばれたこれらの都市国家は、氏族制的遺制の強い国家であった。そのなかでも最も先進的な地位にあったのが殷であり、その文化を示すのが後半期の都のあとの殷墟である。王権はかなり発達して、犠牲と殉葬を伴う巨大な王墓が営まれており、亀甲獣骨を用いて神意を占い、政治を行った。すでに文字が生れて、占いの内容を記録しており、青銅器鋳造の技術は最高の段階に達していた。殷は前11世紀に西方の周に滅ぼされた。周は祖先の宗廟のある鎬京と、中原を統治するうに便利な東の洛邑という2つの都があった。この二都並立時代を西周時代という。武王から数えて12代目の幽王が犬戎に攻め滅ぼされて、その子の平王が都を洛邑に移した。それ以後を東周という。

   周のつくりあげた政治体制は、「封建制度」の名で知られる。西洋中世フェーダリズムとの違いは、周では本家と分家の血縁関係でつながれているが、西洋では君主と家臣とのあいだの個人的契約に基礎をおく主従関係である。前8世紀から、諸国家の上に君臨していた周の権威が失われた。都市国家を構成していた族制的秩序は解体して小家族が独立し、他方諸国家は征服併合をくりかえして中央集権的な領土国家に成長していった。この過渡期が春秋戦国時代であり、このような変動の原動力となったのが、春秋時代の鉄器の発明とこれに伴う農業生産力の発展であったと考えられる。族秩序の解体に伴い、新しい豪族、大商人が抬頭し、有能な個人は学者、官僚として諸君主や実力者の下に集まり、古い君主は実力ある臣下に国を奪われた。強大な君主は他国の領土を併合し、また大規模な灌漑工事によって未墾地を切り拓いた。このようにして広大な領土は、郡、県の行政単位を通して君主の直接支配をうけた。封建制度は郡県制度に変わっていった。この時代には、儒家・墨家・道家・法家をはじめとする諸子百家の思想が開花し、時代の指導理念を争った。ここに、のちの中国諸文化のさまざまな原型がつくられた。

   前3世紀末、中国は秦の始皇帝によって統一された。始皇帝は郡県制度を全国にしいたのをはじめ、あらゆる面で中央集権政治をおしすすめた。それは近代にいたるまで中国を支配した専制政治の確立を意味する。始皇帝の改革は急激にすぎ、旧貴族と農民の反乱を起こした。そのなかから漢が成立したが、漢も基本的には秦の体制をひきついだ。武帝の時期に漢の国力は絶頂に達し、ベトナム、北朝鮮を支配し、匈奴を討って西方との交通路を開いた。この時期に採用された儒教は、以後中国専制国家の指導理念となった。秦漢帝国の体制は、前代の族秩序の崩壊の結果生まれた小農民を、天子が直接支配する体制である。しかし、大土地所有者、商人としての豪族の成長は、このような小農民を没落させ、国家支配の危機を招いた。漢の天下を一時奪った王莽の豪族抑圧策が失敗したのちに、後漢の王室は豪族勢力によって擁立された。豪族勢力の拡大と、その結果としての農民反乱のなかで漢は崩壊する。

1850img_7577   漢の崩壊後、魏晋南北朝と総称される分裂時代にはいり、豪族の全盛時代が到来した。豪族勢力の基礎は、郷里に代々たくわえた資産と名望、同族の結合、奴隷、小作人、私兵などの多数の隷属民にあった。豪族の大土地経営を奴隷制とみるか農奴制とみるか、意見が分かれている。王朝の権威は否定されたわけではなく、この時代「九品中正」とよぶ官吏任用法によって、豪族は上級官僚の地位を独占した。こうして貴族政治が生れたが、貴族政治は江南でとくに盛んであった。しかし北朝では国家権力が強化され、5世紀の北魏で均田法が始まった。これは国家が、一定の土地を農民に与えるもので、これによって秦漢以来の伝統的な小農民支配が再編復活された。貴族の大土地所有も国家支配の下に組み入れられて、合法的に認められた。この時代、老荘思想、道教、仏教などが流行したが、形式化した儒教に代わって、国家宗教としての地位を獲得したのは仏教であった。中国の分裂は外民族の侵入を誘った。4世紀の初め、五胡諸民族は華北に侵入して多くの国を建てた。これよりさき中国文明の影響は周辺諸民族に及んだが、この動乱に際会して、朝鮮、日本などでも国家の形成がうながされた。中国民族の一部は華北を追われて揚子江の南に移住し、この地方の開発を進めて、新たな政治、文化の中心地をつくった。こうして長期にわたる分裂の反面、東アジアの歴史的世界が拡大したのもこの時代の一つの特徴である。つづく隋唐帝国の出現は、この東アジアの世界に統一性をもたらした。

   6世紀末に中国を再統一した隋は、大運河をつくって南北の中国を結び、科挙によって新官僚を登用しようとした。まもなく隋末の広範な農民反乱をへて唐が成立した。隋唐の支配階級は依然として貴族階級であり、均田法による農民の人頭支配をうけついだ。国家機構の運用を限定した律令法典は、この時代に整備された。唐は高句麗を滅ぼし、突厥、ウィグルなど周辺の諸民族を服属させ、ペルシア、アラビアへの道を通じ、東アジアの諸国家からは模範国と仰がれた。日本、新羅、渤海などの国々は、唐の制度、文化にならって国づくりを行なった。唐は中頃の安史の乱から衰亡にむかった。均田法は早くから解体をはじめ、新興地主と科挙官僚の台頭をみた。辺境では府兵に代わる傭兵が現われ、その指揮官として節度使の勢力がました。安史の乱は彼らの反乱から起こったが、乱後、節度使は内地に割拠するようになった。均田法下の定額均等の人頭税(租庸調)に代わって両税法が生まれ、資産に応じて課税されるようになった。土地所有者の拡大と商品流通は活発となり、破産した農民は黄巣の乱を起こして唐を崩壊させた。そして下層の兵士、農民のなかから節度使が出、節度使の天子が出て、五代の王朝が交替したが、この混乱の中で旧来の貴族階級は完全に没落し去った。

   960年に後周にかわり開封を都とした宋の趙匡胤(太祖)は混乱をおさめたが、つぎの太宗になって中国の統一を達成した。宋・遼・金・元・明と王朝は交代した後、1610年ヌルハチが清朝を建てる。清は1840年、アヘン戦争に敗れ、以来列強諸国による植民地化が進められる。1911年に辛亥革命がおこり、翌年に清朝は滅んだ。その結果、秦朝以来2100年あまりつづいてきた中国の専制王朝は終わりを告げた。こののち列強の援助を受ける軍閥が各地で勢力をふるうが、1921年7月1日、中国共産党が誕生する。毛沢東は日中戦争には国共合作して抗日戦を行い、戦後は蒋介石を打倒して国共内戦に勝利した。1949年に中華人民共和国が成立、敗れた国民党政府は台湾に逃れ、中台間の対立は現在もなお続く。毛沢東は文化大革命を推進するが、毛沢東が亡くなってからは、鄧小平が1979年から改革開放政策を推進し、農工業が発展・活性化して、2010年にはGDPで日本を抜いて世界第2位の経済大国の地位を得る。鄧小平の死後、指導者は江沢民、胡錦濤へと引き継がれ、現在は習近平に到っている。習近平fは2013年に巨大物流網である「一帯一路」構想を打ち出した。そして中国が主張している領土面でのおもな核心的利益は、ウイグル、チベット、南西諸島、台湾、尖閣諸島である。 またアフリカの経済支援に熱心である。(堀敏一)

参考:窪田善雄「中国史の概括的な理解のための再考察 斎藤忠和論文の検証を中心に」(世界史の研究244) 歴史と地理686、2015
中国の文明 全8巻 北京大学版 潮出版社 2015年から刊行中

 

 

 

 

2022年12月 9日 (金)

王政復古の大号令

    慶応2年12月25日、孝明天皇(1831-1866)崩御の知らせに京都では毒殺説の噂が流れた。アーネスト・サトウの日記には次のようにある。「風評では崩御の原因は天然痘だといわれたけれど、幾年か後に、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝はたしかに毒殺されたのだと教えられた。」

    そして暗殺の首謀者は岩倉具視ではないかとする説が有力である。崩御の前日、岩倉が天皇に新しい筆を二本献上したが、その筆先に毒がつけられていたのだという。天皇は筆を舐める癖がおありで、その癖を岩倉が利用したという。日本医学史学会の佐伯理一郎は「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(「日本医事新報」)と断定している。また、ウィキペディアには「1975年孝明天皇の典医を努めていた伊良子光順の拝診日記が発見されたが、その内容には毒物による中毒死を推察させるものである」とあり、「コンサイス日本人名辞典」にも「その病状からも(毒殺による)疑いが濃厚といわれる」とある。

 孝明天皇には、6人の子がいるが、うち5人は早死にしている。結局、典侍中山慶子の産んだ皇子祐宮(さちのみや)が天皇に即位する。祐宮もほかの子どもたちと同様にひ弱な少年だったという。なんとか他の皇子皇女のように早死にすることは免れたのである。明治天皇の幼少時の写真は存在していない。横井小楠は「色浅黒く、見るからに聡明な天皇だった」と印象を述べている。おそらく現存する内田九一が撮影した写真の「豪毅英邁」とうたわれた風貌であろう。宮中で育ちでありながら、なぜか相撲と乗馬が得意という。慶応3年、突如、文武両道に長じた青年君主に大変身している。慶応3年12月9日、大政復古の大号令を発する。

 

        *  *  *  *  *  *

 

順子内親王(1850-1852)  3歳

 

第一皇子(1850)   0歳

 

第二皇子(1852-1912) 睦仁親王、明治天皇

 

皇女富貴宮(1858-1859)  2歳

 

皇女寿満宮(1859-1861)  3歳

 

皇女理宮(1861-1862)  2歳

 

  養子文秀女王(円照寺)福喜宮

 

  養子敦宮貞愛親王、妙法院

 

  養子泰宮智成親王(北白川宮)

 

  養子易宮戴仁親王(三宝院)

 

  猶子山階宮晃親王

 

 

 

 

2022年12月 8日 (木)

足利義詮

 延文3年(1358年)4月に尊氏が没し、12月8日に義詮は征夷大将軍に就任した。初代将軍足利尊氏の三男であり、3代将軍義満の父であるが、知名度が低い。はたして義詮は暗愚か、名君か? 尊氏の死後、南北朝動乱を終息させた政治的手腕から、名君だったと思うのだが。

 

2022年12月 7日 (水)

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

 

 

2022年12月 6日 (火)

映画のキス・シーン

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 終戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和20年12月6日、西部劇「ユーコンの叫び」(ビヴァリー・ロバーツ主演,1938年制作)が東京の日劇と日比谷映画で上映された。そして翌年昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン主演)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン主演)も大ヒットした。(ともに1943年制作) 映画館は長蛇の列をなした。

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)、昭和24年「汚名」(1946年製作)、昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)、昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)、昭和27年「凱旋門」(1948年製作)、昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)。

    6年間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。「汚名」の「あらすじ」を紹介する。

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚を受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

2022年12月 5日 (月)

曹操と華佗

688965f754472d45e0b2fffd9d3665d7   「立てば芍薬、座れば牡丹」といわれるが、芍薬は牡丹と並んで美しい花を咲かせる。また「芍薬甘草湯」という漢方薬としても用いられる。この芍薬に薬効があることを発見したのは三国時代の名医、華佗である。

  三国志「魏」の英雄・曹操も60を過ぎると病の床に就くことが多くなった。「乱世の姦雄」も、「猶お人のごとき也」と死期が近づいて来るのを恐れた。そこで呼び寄せられたのが、名医華佗である。曹操は発作の度に華佗の鍼で救われたが、猜疑心が強くて、華佗の治療を謀殺の手段と思い込んで、彼を獄死させてしまう。曹操が死に至るのはそれから間もなくのことであった。2006年に曹操の墓が発見された中から遺骨や愛用の枕が出土した。晩年、歯が悪く、頭痛や歯痛があり、死につながる深刻な病が解明されている。

 

北朝鮮の長距離ミサイル

 北朝鮮がミサイルの発射回数は2022年になって過去最多の39回である。北朝鮮が日本に向けてミサイルを撃ってくるのはなぜでしょうか?北朝鮮は長年に渡ってアメリカと敵対関係にある。そのため、アメリカと仲がいい他の国々とも良好な関係をきずけていません。そこで北朝鮮は、核兵器とそれを運ぶミサイルの開発に乗り出し、軍事的な存在感を高めることにしまし。そうすれば、アメリカと対等な立場で交渉し、自らの要求を飲ませることができるかもしれないと考えたようです。北朝鮮はより遠くまで正確に飛ぶミサイルの開発を今も続けています。日本に向けて撃つのは、日本がアメリカの同盟国であることから、アメリカへのアピールになるという理由もありますが、地理的な理由もあります。北朝鮮の北にはロシア、西から南にかけては中国があります。どちらも北朝鮮と仲のよい国ですからねそちらへ撃つわけにはいきません。残るのが日本のある東側なのです。 

  北朝鮮のICBMはいずれアメリカ全土を射程圏内に入ってしまうミサイルを開発するだろう。日本にはミサイルを撃ち落とすための「ミサイル防衛システム」がある。しかしミサイル攻撃に対して日本の迎撃システムが本当に作動するのか、わからない。朝鮮戦争勃発は時間の問題であり、もう誰にも止められないところまできている。もし朝鮮半島で戦争が起きたら、第一次世界大戦と同じ規模の死傷者が発生すると韓国メディアは伝えている。北朝鮮が核ミサイルや化学兵器など無差別な砲撃で開戦の火ぶたが切られた場合、米軍2万8500人、韓国軍60万人がこれに立ち向かうことになり、戦争シュミレーションでは米韓が勝利するものの、開戦直後の周辺国の被害が想定されるので、ミサイル攻撃に備える必要がある。防衛省は迎撃ミサイルPAC3を配備している。だがこのような緊迫した情勢のなかで小野寺防衛相と林農相はテニスを楽しんでいる。この国は本当に大丈夫だろうか。

 

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2022年12月 4日 (日)

良い人に思われたい心理

   人気ドラマ「silent」では手話がよく登場して、このドラマを観て手話を始めたという若い人が増えた。8話での奈々と春尾の過去のシーン。春夫がボランティアで手話を学ぶ学生たちに奈々を紹介する。だが奈々は怒って帰ってしまう。春尾はわけを糾すと、「遊び道具にされたみたいで不快だわ。あの人たち手話に興味があるわけじゃない。良い人って思われたいだけ。善意は押しつけられたら偽善なの」と怒る。

  世の中、自分が良い人と思われたいのは誰にもあるだろう。好感度を高めるためには、見た目もお洒落にして、弁舌もさわやかに、裾裁きも颯爽とする。とくに政治家というのは投票で選ばれるので、イメージとか印象が大切である。岸田文雄首相は見た目もよく、弁舌さわやかにして「聞く力」もあるが、優柔不断で支持率は減少傾向にある。首相動向のニュースによると、3日午後、東京の日本橋室町の書店を訪れ、20分ほどかけて5冊の書籍を購入したという。読書家でもあり、知性的な人なのだ。本はもちろん写真集やエロ本ではない。村上春樹の「女のいない男たち」という映画「ドライブ・マイ・カー」が収録されている短編集。村上とは同じ早稲田大学出。でも総理にお勧めした本ならもっと他にあると思う人もいるだろう。お洒落でトレンディーなのも結構だが、そこには「良い人に思われたい」という心理が働いているような気がする。総理とはむしろ嫌われてもいいから、信念をもって実行力を示すリーダーの決断が問われる。側近の浅知恵なのかもしれないが、難問山積の時節、軽薄なイメージ戦略は不要である。

2022年12月 3日 (土)

円本ブームと作家たち

   1926年のこの日、改造社が1冊1円の「現代日本文学全集」63巻の刊行を開始した。円本とは、改造社がこの「現代日本文学全集」の予約募集を開始したことによって起こった名称である。菊判で500頁を越える本をわずか1円で出すことは画期的なことで、60万部の予約部数があった。円本ブームは人気作家たちに高額な収入を与えた。作家の印税は現在の価格に直せば数千万円の収入があっただろうか。では作家たちは莫大な金を何に使ったのだろうか。

    正宗白鳥や中村星湖は、欧州旅行に出発した。(正宗は夫人同伴)徳田秋声は自宅の庭の裏庭に接する土地を買ってアパートを建てた。谷崎潤一郎は兵庫県武庫郡岡本梅ヶ谷に豪邸を新築した。永井荷風はカフェーでの放蕩に明け暮れ、女給たちに散財した

2022年12月 2日 (金)

人はなぜ歳を取ると10年、1年が早く感じるのか?

220pxpaul_janet   人が感じる月日の流れや過去を振り返ったときの時の流れの早さに対応する感覚は若い頃は遅く、年をとるにつれて短く早く感じるようになる。このように年齢によって時間の感覚が異なる現象は「ジャネーの法則」といわれ、フランスの哲学者ポール・ジャネー(1823-1899)が提唱した。

   年齢を重ねるごとに時間の流れが速く感じるようになる原因のひとつが、様々な経験の蓄積であるといわれている。まだ経験が少ない子供の頃は、日々新しい情報や刺激が入ってくるため、脳の使用頻度が高く、いわば毎日の実感が濃い状態になる。その分、時間の流れもゆっくりに感じる。それが、年齢を重ねると、そうした情報や刺激が脳に蓄積され、新しい情報に出会う機会が減少してくる。既に知っている情報を開き、すでに経験した事を行い、同じような毎日を繰り返していると、毎日の実感が薄い状態になり、振り返るとあっという間に過ぎ去ったような感覚になるわけである。「チコちゃんに叱られる」ではトキメキ(心の動き、好奇心)が少なくなるからで、だいたい19歳を境に大人になって、時間が早く過ぎると感じるようになると説明している。(Paul Janet)

戦艦長門、出撃す

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    戦艦長門は日本海軍念願の「八八艦隊」計画案によって着工された第1号艦で、主砲に41センチ砲を搭載した世界最初の戦艦として知られる。

    戦艦長門は太平洋戦争開戦時、連合艦隊旗艦を務めた。昭和16年12月2日午後5時30分。「ニイタカヤマノボレ1208」 瀬戸内海柱島停泊していた戦艦長門(矢野英雄艦長)から打電された暗号電文は、依佐美送信所(愛知県刈谷市高須町)を中継して全艦隊に伝達され、日米開戦となった。

   その後、旗艦を大和に譲ったが、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参加し、爆撃により数度被害を受けたが終戦まで生きのびた。ちなみに長門は終戦時帝国海軍において自力航行可能だった唯一の戦艦である。戦後、米軍の原爆実験に供される。

    太平洋戦争時の長門歴代艦長は以下のとおり7名。矢野英雄(1894-1944)、久宗米次郎、早川幹夫(1894-1944)、只部勇次、渋谷清見、大塚幹、杉野修一。

    余談ではあるが、戦艦長門の最後の艦長・杉野修一は杉野孫七(1867-1904)の長男である。杉野孫七は日露戦争旅順閉塞作戦において広瀬武夫艦長の「福井丸」での「杉野はいずこ」のエピソードで「杉野兵曹長」としてその名が全国に知られている。杉野孫七の死体は、発見されなかったため当時から生存説がささやかれていた。林えんせい著「日露戦争秘話 杉野はいずこ?」(1998年)がある。

 

 

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