一茶忌
文化・文政(1804-1829)の江戸俳諧は、「通」を基調とする都会的で洒落た雰囲気が漂っていた。井上士朗(1742-1812)、鈴木道彦(1757-1819)、建部巣兆(1761-1814)、夏目成美(1749-1816)、岩間乙二(1753-1823)らがいた。一茶の師にあたる夏目成美も、平穏かつ都会的な表現を旨としていた。
一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)、信濃国上水内郡柏原の貧農の長男として生まれた。本名は弥太郎。父・弥五兵衛、母・くに。3歳の時、母を失い、8歳の時、父がはつと再婚する。継母とは馴染めず、15歳の時に江戸へ奉公に出る。25歳の時、葛飾派の二六庵小林竹阿(生年不詳ー1790)に師事して俳諧を学ぶ。葛飾派とは山口素堂(「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で知られる)をその祖とする。当時の江戸俳諧の主流であった洒落風に対して、田舎臭く詠むのが特徴であった。気取らず、大衆的で、日常的な題材をとりあげ俗語も使う。一茶も自らを「夷(ひなぶり)俳諧」と言っている。
俳人一茶は竹阿の跡を辿って西国行脚のち江戸暮らしを10年したが、「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」の一句を残して、帰郷する。信濃で、52歳の一茶は28歳の若妻きくを迎えた。三男一女をもうけたが、不幸にして次々に夭死した。10年連れ添った妻にも先立たれた。そのうえ宿場の火災で類焼し、残った土蔵で65歳の生涯を閉じた。
1827年の小林一茶忌日。一茶といえば、「我と来て 遊べや 親のない雀」が知られている。母親のないおれは、遊び友達もなくて淋しい。親のない雀よ、お前も淋しいだろう。こっちへ来ておれと一緒に遊ばないか、の意。この句は6歳の年の作とする六歳説や八歳説があるが、いずれも怪しい。やはり「おらが春」(文政2年)の57歳に頃に、幼児の頃を思って作ったのであろう。一茶は3歳の時に継母を迎えている。
句文集「おらが春」には、娘さとのことが出ている。「去年の夏、竹を植える日のころ(つらい節の多い)このつらい世に生まれた娘に「さと」と名付けた。今年、誕生日を祝うころから、ちょうちちょうち、あわわ、あたまてんてん、かぶりかぶり振りながら、同じ子供が風車というものを持っているのを、しきりにほしがってきげんが悪くて泣くので、すぐに与えたのを、そのままむしゃむしゃしやぶって捨て、ほんの少しばかりの風車に執着する気持ちもなく、すぐにまたほかの物に心が移って、そのあたりにある茶わんをうちこわして、今度は障子の薄い紙をめりめりむしるので「よくやった、よくやった」とほめると、きゃらきゃらと笑って、やたらにひどくむしり散らす。心の中に一つのちりもなく、名月のように明るく輝いて澄んで見えるので、無邪気な俳優を見るように、かえって心のしわを伸ばしたはればれした気持ちになった」とある。しかし、長女さとは間もなく痘瘡で死んだ。一茶の悲しみはいかばかりであっただろうか。
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