オストラキスモス
アテネでは、ペイシストラトス家の僭主政治が倒れたのち、平民の指導者クレイステネスは貴族をおさえ、オストラキスモス(陶片追放制度)により、僭主(チュランノス)の再出をもおさえて民主政の基礎を確立した。前510年クレイステネスの創設といわれるが、前487年になって初めて用いられた。
毎年、春の民会で、この制度を適用するかどうかが決定され、必要となると一定の日にアゴラで投票が行われた。投票には、オストラコン、すなわち陶片が使われた。陶片に追放者の名前を刻んで投票し、一定数に達すると(一説では6000枚)追放された。
発見された陶片に書かれた名前を見ると、当時のアテネ市民から、僭主の地位をうかがう者として、疑惑の目を向けられていたことがはっきりわかる。ヒッパルコス、アリスティデス、テミストクレス、キモン、カリクセノス、そしてペリクレスの名前もある。もっともペリクレスは追放の憂き目には遭わなかったという。陶片追放は刑罰ではないので、これにあった者は10年間アテネから一定の距離をはなれたところに住み、解除後は市民となって帰国できることになっていた。また財産権など私法上の市民資格を失うことはなかった。アテネは、この制度でデモクラシーを確立したといわれている。
前5世紀以降、アテネでは民主政治が発展した。18歳以上のアテネ全市民(男子のみ)の総会である民会が、最高の決議機関として立法・行政・司法・軍事の最高権を行使し、出席者の多数決による民会の決定は絶対であった。この直接的民主政治の形は、近代国家における代議制といちじるしい違いを示す。役人は選挙で選ばれるストラテゴスを除き、すべて市民の中から抽選で選ばれ、任期1年で再選を許さず、治める者と治められる者との区別をたてなかった。アルコンと呼ばれた民会の決定を実行する。五百人評議会は議案の予備審議、執政官の監察を行った。裁判も抽選で選ばれた民衆裁判官によって交互に執行され、多数決で判決された。公務に従事する者には一定の日当が支給され、これまで富裕な者だけにその地位が占有された弊害が除かれた。(世界史、tyrannos)
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