竹柏園歌人、竹屋雅子
声あげてなくよりも げに悲しきは
涙かくして 笑ふなりけり
今日、竹屋雅子(1866-1917)といっても、誰一人として知る人もないであろうが、明治30年前後には、佐佐木弘綱門下に、その人ありと知られた才媛であった。因みに、明治29年4月京都岸本亀次郎発行の「大日本歌人見立鑑」によれば、税所敦子、鶴久子、中島歌子、下田歌子、松廼門三艸子を上位におき、次位に水原未瑳子、小池道子、竹屋雅子の名が見える。
慶応2年(1866年)5月13日、伊勢亀山に生まれる。家は浄土真宗の寺院で、父は渥美契縁(あつみかいえん、1841-1906)、母は幸子(さちこ)の長女。閑雅(みやび)と名づけられた。筆名雅子、万さ子。渥美契縁は東本願寺火災後の再建に功があり、東本願寺の今日の基を築いたといわれる傑僧で、多く京都に住み、晩年は石川県小松の本覚寺の住職となった。雅子の幼時は京都で過ごしたので、雅子の歌には京都近辺の歌枕をよみこんだものが多い。妹二人弟一人の三人の弟妹があったが、妹の一人は夭折し、一人は、後に東本願寺事務総長・阿部恵水に嫁して、名を亮子(さやこ)といった。弟の渥美契芳(あつみかいほう)は長じて、本覚寺の住職をついだ。
明治14年、16歳の渥美雅子は女紅場(京都府立第一高女)を卒業し、学習院女子部(華族女学校の前身)に入学。和歌及び古典を竹柏園・佐佐木弘綱に学ぶ。明治19年、子爵竹屋光昭の嗣子、竹屋光富(たけやみつたか)に嫁し、五人の子女を得ている。夫は世間知らずの若様で、人にだまされて手を出した事業に連座して、刑事問題にふれる事件が起こり、嗣子を廃された。税所敦子、小池道子、大塚楠緒子などと交友し、竹柏園の機関誌「心の花」にも関係していた。明治36年頃、光富と離婚し、塩谷吟策(しおのやぎんさく)と再婚した。吟策は、森有礼と共に、明治義会中学校の創始者であった。大正6年11月21日、現在の千代田区富士見町(法政大学の敷地内)において胃癌で死去。享年52歳。
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祖母世良旧姓白川ふじと同じ白川伯王家血統者を探していますが、竹屋氏子孫はどうされていますか?
氏名 世良 康雄
住所 神戸市中央区古湊通り2-2-10GSハイム
誕生 1970/12/28
学歴 関学商学部1994年3月卒業
資格 1996年宅建
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〔世良親王墓臨川寺領地〕
http://d.hatena.ne.jp/naozari/mobile?date=20110210
〔真日本建国 伯家神道の予言 2012年のシンクロ〕
http://jinga123.blog118.fc2.com/blog-entry-34.html
投稿: 世良 康雄 | 2012年7月16日 (月) 14時19分
竹屋家 光富ー威光ー春光ー康光ー忠光。竹屋忠光は華道美生流を再興し、2009年逝去、享年89歳。
投稿: ケペル | 2012年7月16日 (月) 14時57分