お染久松の恋物語の真相
宝永7年(1710年)に大坂板屋橋にあった油問屋で、娘のお染と手代の久松が心中した事件を題材に書かれたのが近松門左衛門の「女殺油地獄」。これに触発され、野崎を舞台に、同じお染久松の悲恋を描いた近松半二の「新版歌祭文」(1780年初演)が大当たりとなった。浄瑠璃、古典落語、流行歌などで今日にいたるまで良く知られる。とくに東海林太郎が歌った「野崎小唄」(作詞・今中楓渓、作曲・大村能章)は往時の野崎参りの風情が蘇る。
野崎まいりは屋形船でまいろ
お染久松せつない恋に
のこる紅梅久作屋敷
今もふらすか春の雨
作詞の今中楓渓は枚方市大字楠葉の人。明治16年生まれで、「あかね」「白月」「青潮」などの歌集をだし、戦時中は国民歌謡や軍歌をつくり、また付近の校歌をたくさん作詞している。
野崎参りは元禄時代より伝わり、正しくは無縁経法要といい、人が生きていく上で、知らず知らずにお世話になった有縁、無縁のすべてのものに感謝のお経をささげる行事。毎年5月1日から10日まで。福聚山慈眼寺(大阪府大東市)には野崎観音があり、慈眼寺から少し離れたところに久作屋敷があった。「浪華人物志」によると、久松は年が13歳、野崎村の者、大坂東堀油屋某に子守として雇われていたが、不注意からおそめという2歳の幼女を川に溺れさせてしまったので、久松は自責の念に堪えず、宝永7年9月27日、主家の土蔵の中で自殺したという。
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