藩閥政治家・山縣有朋
吉田松陰の蒔いた種は、高杉晋作、そして伊藤博文、山県有朋へと続いた。山県有朋(1838-1922)は勉強が得意ではなかった。しかし、幕末の藩政改革で、武道が奨励され、軽卒にも、棒術以外の武術を学ぶ機会が与えられた。有朋は、槍術で出世を夢みた。明治天皇の御前で試合をした時、「槍の半七」といわれた名人林友幸と対戦し、引き分けるまでになっていた。参議、内相、陸相、首相、枢密院議長。明治42年、伊藤博文が暗殺されて以降は、山県有朋が元老として政界に君臨した。大正11年2月1日、85歳で亡くなったが、葬儀は国葬をもって弔われた。墓所は文京区の護国寺。
最近、岡義武が書いた「山縣有朋」(岩波文庫)が売れているという。先日の安倍晋三氏の国葬で友人代表で、菅義偉さんが弔辞の中で山縣の歌を引用していた。
かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ
危機と変革の時代、「山縣有朋」という明治・大正の元勲を持ち出すのはいかがなものか。近代日本の侵略主義の元凶であり、今次大戦の無謀な玉砕作戦は山縣が促したものである。
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山縣は最近再評価の動きがありますよね。
頭は良くないが正直一番の男だったようです。
投稿: AJAX | 2011年1月31日 (月) 22時47分