笹売り源五
大高源五は風流を解する武士で、俳人としても知られ子葉と号し、宝井其角と交流があった。当時、江戸に四方庵という著名な茶人がいて吉良邸に出入りしていた。源五は町人になりすまして四方庵の門を叩き、内弟子となった。13日、こうして四方庵から上野介の動静をさぐるうちに12月14日吉良邸で茶会の催しがあることをつきとめた。源五はその日の暮れ、両国橋にさしかかったところで偶然に其角と出会った。だが煤払いの笹売りに変装していた源五は其角に気づかれぬようそのまま通り過ぎようとした。しかし其角は「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源五も思わず、「あしたまたるる その宝船」と返歌した。源五からその報告を受けた内蔵助は、討ち入りを14日夜と決めた。
源五の辞世の句がある。
梅でのむ 茶屋もあるべし死出の山
だがこの名高い逸話も事実ではなく、大高源五と其角とは面識はなかった。為永春水の「伊呂波文士」による虚構あたりが、出典とされる。史実は大高源五は水間沾徳の門弟である。沾徳は其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。代表句をあげる。
帯ほどに川も流れて汐干かな
汐が遠く引いたので、海へ流れ込んでいる川が゛、干潟の中に細く帯のようにみられるという大意。
(参考:祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」)
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