日本茶の日
1192年のこの日、栄西が宋から帰国し、茶の種子と製法を持ち帰ったことにちなむ。
飲茶の風習は三国時代に始まり、南北朝時代にようやく盛んになり、唐代に至って普及した。ことに、開元天宝の盛世で有名な玄宗皇帝の頃まで時代が下ってくると、茶はもはや中国人にとって必需品化し、黄河以南の中国全土で栽培されたばかりでなく、この頃突厥に代ってモンゴリアで活動していたトルコ族、ウイグル族なども飲茶の風に馴染み、宋代には、北方の契丹・女真・党項(タングート)などの諸民族が盛んに中国の茶を買い入れた。日本への伝来は、宋代に中国にいった栄西が1192年10月31日茶の種をもって製法を持ち帰ったのがはじめだといわれる。
こうして飲茶の風習は時の経過とともに中国周辺の諸民族の間に広まり、宋代以後茶は絹や陶磁器とならんで中国の重要な輸出品となったが、この風習をはじめてヨーロッパに伝えたのは、ポルトガルについで東洋に進出してきたオランダ人であった。やがてかれらに代わって東洋貿易の覇権をにぎったイギリス人は、最も盛んに中国の茶を買入れ、これをヨーロッパ諸国や新大陸の植民地に売りさばいて巨利をえた。七年戦争ののち、本国の財政をたて直す一手段として、植民地向けの茶に重税をかけたことは、アメリカ独立戦争のきっかけとなった。また茶貿易の発展につれて増大する中国への銀の支払をおさえるために、インドのアヘンを中国にもちこんだことは、清朝を自衛のための対外戦争に追いこんだ。いわゆるアヘン戦争がこれである。一方モンゴル人から飲茶の風習を学んだロシアは、中国とヨーロッパ諸国の最初の条約として知られるネルチンスク条約以後、陸路によって盛んに中国の茶を輸入した。シベリアとモンゴリアの国境に開かれたキャフタがその中心となった。イギリス人は、そののち、セイロンで大規模に茶を栽培してその輸入をおさえるようになったが、アメリカ人はいまでも主に中国の茶を輸入している。(参考:「世界史問題集」山川出版社 1976)
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