ハミルトン夫人
ロンドンのテートギャラリーにはジョージ・ロムニー(1734-1802)が描く「キルケーに扮したハミルトン夫人」(1782年)という作品が飾られている。ハミルトン夫人とはナポレオンのフランス艦隊を2度も撃破したイギリス海軍の英雄ネルソン提督の愛人としてヨーロッパにその名を知られた世紀の美女である。二人の恋物語はヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエ主演で「美女ありき」(1941年)という映画がつくられている。ハミルトン夫人(1765-1815)は本名はエミリー・リヨンといい、イギリスの貧しい鍛冶屋の娘であった。生後すぐに父は死亡、母と2人で貧しい暮らしをしていた。10代になるとロンドンに出て、子守り女として働くが、その美貌からパトロンがつくようになる。1780年ころエミリー・ハートという名でハリー・フェザストナフ卿の愛人となり、その後チャールズ・グレヴィル(後に夫となるウィリアム・ハミルトンの甥)と付き合う。グレヴィルの友人の画家ロムニーが彼女の美貌に驚嘆し、多くの肖像画を描いたのもこの頃である。ロムニーはエマを神話や歴史的なモチーフを加味してその美貌を賞賛した。
チャールズ・グレヴィルは道楽者であったらしく、その借金の肩代わりをしてくれた叔父のヴィリアム・ダグラス・ハミルトン(1730-1803)にエマを譲り渡した。ハミルトンは火山研究と美術品の収集家でも知られた英国の駐ナポリ大使だった。1791年、60歳のハミルトンは26歳のエマと結婚した。これにより、エマは「レディ」の称号を得て。「レディ・ハミルトン」と呼ばれた。
当時、ナポリ王国の社交界でエマの美貌は知られ、フランス語とイタリア語を流暢に話し、ナポリ王妃マリア・カロリーナとも親しい交流をもつようになった。ナポリ王国には強い軍隊はなく、フランス軍に攻められそうになったとき、イギリス海軍の指揮官ホレイショ・ネルソン(1765-1815)とハミルトン夫人との運命的な出会いが始まる。とくに1799年の大晦日から1800年にまたがる「二世紀にわたるキス」のエピソードは広く知られている。やがてハミルトン夫人とネルソンとの間には子どもまでできた。夫のハミルトンは高齢のためか二人の不倫を半ば公認していたようだ。ハミルトンが死ぬ時も夫人とネルソンが看病していたという。しかし世間の二人に対する風当たりは強かった。イギリス海軍は再びネルソンに出動要請を下す。1805年10月21日、ネルソンは「イギリスは諸君がそれぞれの義務を果たすことを望む」という言を合図に、トラファルガーの海戦に勝利するものの、英雄的な死をとげた。その後のハミルトン夫人の詳しい消息はわからないが、落魄のうちにフランスで死んだという。(Horatio Nelson,Lady Hamilton)
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