奥州藤原氏三代
1124年のこの日、藤原清衡(1056-1128)が中尊寺金色堂を建立した。
1087年、清衡と源義家の連合軍が、清原家衡、武衡のたてこもる金沢柵(秋田県横手市)を2ヵ月に及ぶ包囲ののち攻略し、ここに後三年の役は終焉した。この戦いは、朝廷からは私闘とみられ、恩賞はなかった。むしろ合戦によって国務をとどこおらせたことは義家の失策とみなされた。この結果、奥州に覇権を確立したのが、清衡に始まる奥州藤原氏である。藤原清衡は平将門の乱で活躍した藤原秀郷の子孫で、陸奥国亘理に勢力を張る藤原経清を父とし、奥六郡を支配する俘囚の長、安倍頼良の娘を母とし、1056年に生まれた。経清は前九年の役で源頼義に離反して安倍軍の軍政を指導したため、頼義にとくに憎まれ、敗戦によって斬首となった人物である。この後、その母は勝者清原武則の嫡子武貞に嫁して家衡を産んだ。このため清衡も清原氏の一員として成長したが、なかには安倍氏の血をひく清衡を蔑視する者もいた。後三年の役では妻子を失った清衡であったが、苦労人の彼は諸勢力の間を巧みに泳ぎ渡った。生き残ったときには、安倍・清原両氏の遺産を一身に継承する奥羽両国の覇となっていた。1091年、清衡は初めて関白藤原師実に陸奥の馬を献じる。京都の朝廷や摂関家、権門・貴族はその後も貢納品や献上品を欠かさない奥州藤原氏を信頼し、それが代々の奥羽支配を彼らに容認させることになる。中尊寺金色堂の須弥壇下には藤原清衡、基衡、秀衡の三代の遺骸がいまも眠る。
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