石川啄木、生活の歌
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
この短歌は明治43年7月26日夜の石川啄木のノートに記されている。初出は8月4日付の東京朝日新聞である。貧しい勤労者の心理、庶民共通の悲哀を表現し、働いても働いても楽にならない現実について深く考えようとしているところに特色があり、21世紀の現在も多くの庶民にとっては痛切な実体感を伴う一首であろう。また手帳の片隅に鉛筆書きで次のような走り書きも見つかっている。
心よきあはれこのつかれ、息をもつかず仕事をしたる後のこのつかれ
明治42年3月、当時の啄木は東京朝日新聞社に勤務して一応の生活が保証され、その年の6月、やっとのことで函館に残していた家族を呼び寄せ、本郷弓町の喜之床という理髪店の二階ニ間を借りて移り住んだ。彼は生活費を少しでも得ようと、夜の勤までして懸命に働いたが、暮らしは依然として苦しく、貧乏は死ぬまで彼の心をおびやかし続けた。
私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何より先にモツと安易にするだけの金をとる為に働いてゐます。その為には、社で出す二葉亭全集の校正もやってゐます。田舎の新聞へ下らぬ通信も書きます。それでも私にはまだ不識不知空想にふけるだけの頭にスキがあります。目がさめて一秒の躊躇もなく床を出て、そして枕についてすぐ眠れるまで一瞬の間断なく働くことが出来たらどんなに愉快でせう。そして、さう全身をもつて働いてゐるときに、願くはコロリと死にたい。かう思うのは、兎角自分の弱い心が昔の空想にかくれたくなる其疲労を憎しみ且つ恐れるからです。(大島経男宛書簡)
啄木の貧乏の原因については、彼が経済観念に弱いところからもきていた。友人に対してたえず金銭上の迷惑をかけていたことはよく知られている。また、少し金が入るとふらふらと女遊びに使ってしまうような弱さもある。またひとつの職場に長続きしないという人間関係のまずさもあった。そうした人生の辛酸をなめ、労苦を経験してきた啄木は上京後、人間的な成長の跡がはっきりその作品に現れてきていることは「時代閉塞の現状」という評論に読み取れる。この評論によって、宿命論に陥ってあがきのとれなくなった自然主義をはっきり否定して、国家、社会に対する関心を深め、社会主義の研究をはじめ、「人民の中へ」を志している。しかし、それを果たす前に啄木はすでに不治の病気にかかっていた。自分だけではなく、母も妻も結核に冒されるという苦境のどん底で若い生命をおわったのである。啄木の貧困の生活の中から生まれた文学は、これからも、いつ、いかなる時代になろうとも多くの人々に親しまれるであろう。(参考:現代文学研究会編 佐々木一夫解説「啄木人生のーと」真昼文庫)
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