始皇帝「万里の長城」とその築造
月世界へ旅した宇宙飛行士が、地球上に見える唯一の建造物として、躊躇なく万里の長城を挙げている。中国の北部、ほぼ北緯40度線に沿って、東端の遼寧省(丹東)から西端の甘粛省(嘉峪関)まで、延々6529.6㎞、総延長は東西8851.8㎞を持つ。全長は秦漢時代のものを含めると2万1196.18㎞の長さに及ぶ。北京の北西にある八達嶺付近は代表的な堅固な場所であって、城壁の高さ8.5m、厚さは底部で6,5m、上部で5.7m、さらにその上には長さ1.7mの凸字形の女牆を築き銃眼があけてある。約120mおきに2階建ての望楼が立ち、沿線には10㎞平均に狼煙台が並んでいる。ただし現在残る長城は明代のときに修築されたものである。長城を最初に建設したのは紀元前5世紀、春秋時代の斉または楚とされ、やがてその長城建造は他国にも波及し、紀元前3世紀秦の始皇帝がそれぞれを連結させた。秦漢時代を経て、14世紀の明代に至るまで、長い歳月をかけて建造されたものであるが、秦の始皇帝の暴政の典型としてイメージ化されて語られことが多い。それは始皇帝の万里の長城の工事にからむ悲劇的なヒロインの孟姜女伝説によってもうかがうことができる。
秦の始皇帝の長城建設に徴発された范杞梁のもとへ妻の孟姜女がはるばる冬衣を届けにくる。聞くと杞梁はもう死んだという。彼女がそのまま城のそばに泣きくずれると、見るまに城壁がくずれて杞梁の骸骨が現われたと言う。この伝説は春秋左氏伝の「杞梁が斉侯の莒国征伐に随行戦死した」という記事と、列女伝の「杞梁の妻は夫の死後よるべなく、夫の死体をまくらにして城下に号泣すること10日、城壁がこれがためにくずれた」という伝説に結びつき、秦代に発生した服役者の死が、数千年にわたる築城工事の典型的な話として伝えられた。現在知られるような孟姜女の伝説は唐代になってからであろう。(『琱玉集』にひく「同賢記」)始皇帝の暴君としてのイメージは漢代からあるものの、始皇帝の暴政と万里の長城が結びついて、初唐から盛唐にかけて浸透し、中唐以後は完全に定着したと思われる。
いまBSプレミアムで放送している「中国王朝英雄たちの伝説」が中国史の勉強に役立つ。案内役は戸田恵梨香。この番組によると、秦の始皇帝が築いた万里の長城は匈奴の侵入を防ぐためというよりも、国境線の主張という意味合いが強い。築城工法は版築という土を固めただけの粗末なもので高さは2メートルほどである。外敵防御という目的はほとんど達成されていなかった。近年、秦漢時代の万里の長城の調査を行ったところ、秦の始皇帝が建設したと伝えられる万里の長城は、ほとんどなく、大半が漢の武帝時代にようやく東西につながる万里の長城の防御システムが確立したと判明した。(世界史)
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こんにちは。万里の長城のブログを色々読んでたらコチラのブログに辿り着きました。写真が綺麗でオシャレなブログですね。楽しく読ませてもらいました。
投稿: 萌音 | 2014年3月 1日 (土) 06時15分