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2022年8月18日 (木)

徳川家治は名君だった!?

240pxtokugawa_ieharu     徳川15人代の中で第10代将軍徳川家治(1735-1786)は将軍在職26年という長期にわたる割に何故かその人物像は知られていない。家斉50年、吉宗30年、家綱29年、綱吉29年、家光28年と第6位である。

    その性質は温和であり、文武両道を嗜み、壮時は快活であり、力持ちでことに記憶がよかった。射礼を復興し、ことさらに絵を描き、書画の鑑定にまさったと伝えられる。将棋も好んだ。しかし、旧慣を重んじ異風・珍味・華美は嫌いであり、妓女などが舞曲を奏するというので山王祭も見物せず、筝三絃も好まなかった。とても時間厳守で几帳面であった。また、知識欲も旺盛で、海外の情勢に留意し、物価の高低も知り、流行病や大名旗本の病気の有無をも尋ねた。ところで、病には下々をおもい、特に関心をもった。それらのために医書の出版も心がけたのである。蘭学を奨励し、解体新書が出版されたのも家治の時代である。

 1769年8月18日、家治は側用人・田沼意次を老中格に抜擢した。これまで家治は田沼意次人に重用したため、暗愚と見なされていたが、田沼の評価が上がった今、家治の再評価もすべきか。問屋・株仲間制度の強化など商業資本との結びつきを企図するなど開明的な政策がとられた。ともかく泰平の将軍としては名君といえるだろう。

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