日中すれば昃き月盈つれば食く
「ひちゅうすればかたむき 月みつればかく」(「易経」豊卦易伝による。)意味は「繁栄をきわほめては衰退するのが習いであり、栄枯盛衰こそ世の常であることをいう。
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「ひちゅうすればかたむき 月みつればかく」(「易経」豊卦易伝による。)意味は「繁栄をきわほめては衰退するのが習いであり、栄枯盛衰こそ世の常であることをいう。
文政5年(1822年)のこの日、下斗米秀之進が千住小塚原で刑に処せられる。南部藩士・下斗米秀之進を首謀者とする数人が、1821年5月、矢立峠の近くで、津軽藩主・津軽寧親が江戸から帰国するのを待ち受け、襲撃する計画を立てた。しかし、その謀がもれて失敗。逃れて江戸に潜伏したが、幕吏に捕らえられ、刑死した。秀之進の用いた別名からこの事件を相馬大作事件という。藤田東湖、山鹿素水、吉田松陰らに強い影響を与えた。(8月29日)
令和3年11月、瀬戸内寂聴は心不全のため僊化。99歳だった。本名、三谷晴美は大正11年5月15日、徳島市塀裏町字巽浜14に、父三谷豊吉、母コハルの次女として生れる。瀬戸内の姓は、後年養子縁組をしたため。昭和18年、見合い結婚。昭和22年、4歳年下の夫の教え子Oと出奔。昭和26年、妻子ある前衛作家・小田仁二郎(1910-1979)と8年余りの半同棲生活をしたのち、また年下の男子との生活を復活させる。この間の事情を私小説として「夏の終り」を書く。昭和37年「新潮」に発表し、女流文学賞を受賞し、作家的地位を築く。昭和48年に中尊寺で得度し、寂聴となる。今東光は、「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする」「断ちます」と二言三言を質問した。その後、昭和61年に円地文子が亡くなると、瀬戸内は「源氏物語」の執筆にとりかかった。
今年になって足もとがふらつくなど心身の状況が悪化したので、介護保険のサービスを利用するため、要介護認定を申請しました。要支援1と判定されました。きちんと介護サービスを使って日常生活の向上を図ります。誰もが辿る老いの道。
月世界へ旅した宇宙飛行士が、地球上に見える唯一の建造物として、躊躇なく万里の長城を挙げている。中国の北部、ほぼ北緯40度線に沿って、東端の遼寧省(丹東)から西端の甘粛省(嘉峪関)まで、延々6529.6㎞、総延長は東西8851.8㎞を持つ。全長は秦漢時代のものを含めると2万1196.18㎞の長さに及ぶ。北京の北西にある八達嶺付近は代表的な堅固な場所であって、城壁の高さ8.5m、厚さは底部で6,5m、上部で5.7m、さらにその上には長さ1.7mの凸字形の女牆を築き銃眼があけてある。約120mおきに2階建ての望楼が立ち、沿線には10㎞平均に狼煙台が並んでいる。ただし現在残る長城は明代のときに修築されたものである。長城を最初に建設したのは紀元前5世紀、春秋時代の斉または楚とされ、やがてその長城建造は他国にも波及し、紀元前3世紀秦の始皇帝がそれぞれを連結させた。秦漢時代を経て、14世紀の明代に至るまで、長い歳月をかけて建造されたものであるが、秦の始皇帝の暴政の典型としてイメージ化されて語られことが多い。それは始皇帝の万里の長城の工事にからむ悲劇的なヒロインの孟姜女伝説によってもうかがうことができる。
秦の始皇帝の長城建設に徴発された范杞梁のもとへ妻の孟姜女がはるばる冬衣を届けにくる。聞くと杞梁はもう死んだという。彼女がそのまま城のそばに泣きくずれると、見るまに城壁がくずれて杞梁の骸骨が現われたと言う。この伝説は春秋左氏伝の「杞梁が斉侯の莒国征伐に随行戦死した」という記事と、列女伝の「杞梁の妻は夫の死後よるべなく、夫の死体をまくらにして城下に号泣すること10日、城壁がこれがためにくずれた」という伝説に結びつき、秦代に発生した服役者の死が、数千年にわたる築城工事の典型的な話として伝えられた。現在知られるような孟姜女の伝説は唐代になってからであろう。(『琱玉集』にひく「同賢記」)始皇帝の暴君としてのイメージは漢代からあるものの、始皇帝の暴政と万里の長城が結びついて、初唐から盛唐にかけて浸透し、中唐以後は完全に定着したと思われる。
いまBSプレミアムで放送している「中国王朝英雄たちの伝説」が中国史の勉強に役立つ。案内役は戸田恵梨香。この番組によると、秦の始皇帝が築いた万里の長城は匈奴の侵入を防ぐためというよりも、国境線の主張という意味合いが強い。築城工法は版築という土を固めただけの粗末なもので高さは2メートルほどである。外敵防御という目的はほとんど達成されていなかった。近年、秦漢時代の万里の長城の調査を行ったところ、秦の始皇帝が建設したと伝えられる万里の長城は、ほとんどなく、大半が漢の武帝時代にようやく東西につながる万里の長城の防御システムが確立したと判明した。(世界史)
Unit2.旧石器時代
広大なアジアの東方を流れる黄河や長江などの大河流域に芽生えた中国文明は5000年の歴史遺産がある。
北京原人 スウェーデンの地質学者ヨハン・ギュンナー・アンダーソン(1874-1960)は1921年ごろから中国古生代の地層に着目し、オットー・ツダンスキーは周口店で北京原人の歯を発見した。その後、1923年、裴文中により周口店猿人洞で完全な頭蓋骨を発見。1929年には完全な頭蓋骨が発見された(オリジナルな頭骨は1941年紛失により現存せず)調査の結果、約60年前の直立人であることがわかり、原人に属するホモ・エレクトス・ペキネンシス(旧学名シナントロプス・ペキネンシス)と命名された。北京原人は更新世のころ狩猟生活をしながら洞窟で暮らし、道具や火を使っていたと考えられる。洪積世中期には絶滅したと考えられ、中国民族の直接の祖先ではないが、モンゴロイドと共通する特徴がみられ、アジア人の祖先であると考えられる。打製石器。狩猟・採集。火の使用を確認。言語の発達。食人の風習。洞穴生活。その後、北京原人よりも古いとみられる元謀原人(約170万年前)、藍田原人(約70万年前)など化石人類が確認されている。
山頂洞人 およそ10万年前、後期旧石器のホモ・サピエンス。埋葬の習慣。その後、現在の中国人と関係の深い原中国人と呼ぶべき人類が現われ、その子孫たちがやがて河南・山西・陝西の黄土地帯で村落生活を営むようになり中国民族を形成していく。
option 北京原人はおよそ何年くらい前に中国に生息していたのか?
これまでの研究によると、第四紀洪積世前期、約50万年から60万年前とされているが、近年の研究によればこれより20万年以上前である可能性があると考えられ、およそ78万年前という説もある。ちなみに元謀原人は170年前、藍田原人は70万年前くらいと推定されている。これら原人はいずれも現生人類の祖先ではなく、絶滅したらしい。
文房具のことは stationery。消しゴムは「イレーザー(eraser)」。付箋は「 sticky label」、あるいは「label pads」。コンパス(compass)は円を描く用具。幾何の授業で必要だがとくに中学生がよく使う。デバイダー(divider)は製図用具で、両方が針先のもの。 消しゴムのかすは、bits of eraser grit。
pencil 鉛筆
pencil sharp 鉛筆けずり
colored pencil 色鉛筆
flashlight 懐中電灯
retractable knife カッター
highlighter 蛍光ペン
compasses コンパス
triangle 三角定規
mechanical pencil シャープペンシル
ruler 定規
abacus そろばん
packing tape ガムテープ
notebook ノート
letter paper 便箋
scissors はさみ
paintbrush 絵筆
pencil case 筆箱
protractor 分度器
ball-point pen ボールペン
stapler ホッチキス
thumbtack 画鋲
paper clip ゼムクリップ
box cutter カッターナイフ
mechnical pencil シャープペンシル
lead シャープペンシルの芯
post-it 付箋
rubber band 輪ゴム
glue 糊
fountain pen 万年筆
crank 鉛筆削り器(L字形のハンドルのあるもの)
「犬と水差しを持つ田舎娘」(部分)1785年 サー・アルフレッド・バイト准男爵蔵
トマス・ゲインズバラ(1727-1788)は、フランスのロココ美術と17世紀オランダの風景画の双方の影響を受けつつ、イギリス人やイギリスの田園風景を独自の感覚で描いた。晩年における「ファンシー・ピクチャー」といわれる人物画は風景がロマンティックな世界をつくり上げて、19世紀風景画の先駆的役割を果たした。「犬と水差しを持つ田舎娘」はゲインズボロの「ファンシー・ピクチャー」の代表的作品である。物思いに沈む子供の表情は魅力的で、最高の出来ばえをみせている。
トマス・ゲインズバラ(ゲーンズボロ)は南サフォーク地方の市場町として繁栄するサドバリーに生まれた。父親は羊毛業者だったが、後年には事業に失敗し、職を変えて郵便局長となっている。トマスは創造性にあふれた一家の9人兄弟の末っ子として育った。彼はロンドンで絵の修業をしたのち、故郷に帰って肖像画家となり、やがてファッショナブルな町バースに移り住むと、ヴァン・ダイクの後継者にふさわしい肖像画家としての評判を築きあげた。
夏の空に浮かぶ大きな雲「入道雲」は英語で何て言う? ニューアンカー英作文辞典には「a thunderhead」とある。「thunderstorm」は「雷雨」。
I see thundstorm clouds in the distance. 遠くに入道雲が見えます。
おでんの具の「はんぺん」英語で何て言う?
square fishcake
canned mackerel 鯖の缶詰
canned tuna ツナ缶
韓国ドラマ「冬のソナタ」のオープニングや各編に登場するヒノキ科(またはスギ科)の落葉針葉樹メタセコイア。第三紀に繁栄したが、地球上からほとんど姿を消した樹木である。セコイアに類する落葉高木だが、葉が枝に対生する点、球果の鱗片が対生する点で、現存のセコイアと区別される。1941年、物学者の三木茂が岐阜県土岐市の瀬戸層群中から発見された化石をもとに「メタセコイア」という別属を設けて、これに入れた。学名は、Meyasequoia glyptosboides(メタセコイア・グリプトストロボイデス)。その後、1945年に中国四川省で現生種が発見されたので、世界各地で植えられるようになり、地球上にふたたびよみがえった。「生きている植物化石」と呼ばれる。(森山厄介)
各地に危険な暑さが続く。ゲリラ豪雨、雷雨にも注意。異常気象が起こる現代、最新の気象情報が不可欠である。
1929年のこの日、国民新聞が日本で初めて天気図を新聞に掲載した。気象予報の必要性を提唱したのはフランスのユルバン・ルペリエ(1811-1877)である。彼はヨーロッパ中の気象情報を収集して1858年に世界で初めて天気図を作成した。日本初の天気図は、ドイツの気象学者エリヴィン・クニッピングの指導のもとに1883年に作成された。
大雨による被害が全国各地で発生している。気象情報、災害情報に注意して、慌てず落ち着いて身を守る行動をとることだ。またGISを活用して災害リスクを分析することも大切である。(8月21日)
武田鉄矢が演じる中学教師が生徒たちに向かって、「彼も人なり、我も人なり。難かしい問題は誰にとっても大変なんだ。だからなにも恐れることはありません」(三年B組金八先生、1996年2月8日放送)という場面があった。この名言の出典は唐の詩人、韓愈の「原毀」という文章の一節。「昔の人は、舜という聖人の話を聞くと、「彼も人なり、予(われ)も人なり」と考え、自分も舜のようになろうと朝晩、努力したものだ」と述べている。
1124年のこの日、藤原清衡(1056-1128)が中尊寺金色堂を建立した。
1087年、清衡と源義家の連合軍が、清原家衡、武衡のたてこもる金沢柵(秋田県横手市)を2ヵ月に及ぶ包囲ののち攻略し、ここに後三年の役は終焉した。この戦いは、朝廷からは私闘とみられ、恩賞はなかった。むしろ合戦によって国務をとどこおらせたことは義家の失策とみなされた。この結果、奥州に覇権を確立したのが、清衡に始まる奥州藤原氏である。藤原清衡は平将門の乱で活躍した藤原秀郷の子孫で、陸奥国亘理に勢力を張る藤原経清を父とし、奥六郡を支配する俘囚の長、安倍頼良の娘を母とし、1056年に生まれた。経清は前九年の役で源頼義に離反して安倍軍の軍政を指導したため、頼義にとくに憎まれ、敗戦によって斬首となった人物である。この後、その母は勝者清原武則の嫡子武貞に嫁して家衡を産んだ。このため清衡も清原氏の一員として成長したが、なかには安倍氏の血をひく清衡を蔑視する者もいた。後三年の役では妻子を失った清衡であったが、苦労人の彼は諸勢力の間を巧みに泳ぎ渡った。生き残ったときには、安倍・清原両氏の遺産を一身に継承する奥羽両国の覇となっていた。1091年、清衡は初めて関白藤原師実に陸奥の馬を献じる。京都の朝廷や摂関家、権門・貴族はその後も貢納品や献上品を欠かさない奥州藤原氏を信頼し、それが代々の奥羽支配を彼らに容認させることになる。中尊寺金色堂の須弥壇下には藤原清衡、基衡、秀衡の三代の遺骸がいまも眠る。
近頃のアウトドア・ブームで、人里離れた秘境でもキャンプ客で騒々しく「桃源郷」などは存在しないかもしれない。 「桃源郷」とは苦しみやわずらわしいことの多い世間を遠くはなれた、理想の別世界のこと。桃源境とも。人々があこがれるユートピア観念は理想郷訪問譚を発展させた。理想郷訪問譚は幸運な者が訪ねてそこで歓待され、宝物を与えられて戻ってくるというテーマの物語である。そこは時間までがこの世と異質で、そこでの瞬時は人間世界の数年にも数十年にも相当する。したがって不死不老の国、常世の国ともされるが、冥界同様に訪問者は往々にしてタブーを課せられ、それを破って現実世界に引き戻されるという運命を辿る悲劇の物語ともなる。浦島太郎の常世の国訪問や陶潜の「桃花源の記」などがある。「捜神後記」によれば、晋の太元年間、武陵に住む男が魚を獲りながら谷川を舟でさかのぼると、谷川は桃の花の咲く山で終わりとなった。山には小さな穴があり狭い穴のなかをしばらく進むと、突然視界が開け、広い田畑があり立派な家々が建ち並び、犬や鶏の鳴き声がのどかに聞こえた。往来する男女の服装も武陵の人びととはまつたく違い、みな満ち足り、楽しげな様子であった。人びとは漁夫を見て驚き、家に招いて酒宴をもてなした。彼らの祖先は秦の乱世を避けてこの地にやって来て隠れ住んだと語り、彼らは漢の時代も魏や晋の世のこともまつたく知らなかった。数日の滞在後、漁夫は村の人びとに別れを告げて舟で川を下り、郡役所に出頭して太守に隠れ里のことを報告した。その後、漁夫は太守の命令を受けて再び谷川を上ったが、二度と桃源郷に行き着くことができなかった。
平凡な日々がある目玉焼き
朝6時起床。顔を洗って、歯を磨き、トイレをすます。朝食は、トーストとベーコン。コーヒーに目玉焼き。快晴なので布団を干す。資源ごみの日なので、瀬戸物の小鉢を捨てる。11時から病院へ行く。帰りに本屋に立ち寄る。
天保3年のこの日、義賊として伝説化された鼠小僧次郎吉が鈴ヶ森刑場で処刑された。慶安4年(1651)、高輪如来寺前にあった処刑場を品川鈴ヶ森(品川区南大井2丁目)に移した。最初の処刑者丸橋忠也をはじめ、平井権八、八百屋お七、天一坊、山県大弐、白木屋お駒たちがここで処刑された。丸橋忠也(慶安4年処刑)は由井正雪の陰謀に連座して磔刑、平井権八(延宝9年処刑、歌舞伎では白井権八)は追いはぎなどの罪で磔刑。恋仲の小紫は権八の墓前で自害。比翼塚が目黒不動尊前の虚無僧寺東昌寺跡にある。八百屋お七(天和3年)は生田庄之介と再会したいため放火を企てた。天一坊(享保14年処刑)は吉宗の落胤と称したが詐欺が発覚。山県大弐(明和4年処刑)は尊王思想のため。白木屋お駒(歌舞伎では城木屋お熊)は髪結才三と共謀し喜茂を殺害したため。(8月19日)
体重、体温、血圧、うんちの記録、それぞれ人は毎日の記録をメモして健康を維持する。また日記のように日々目にした身辺雑事を文章化するのもよいだろう。江戸時代中期の学者、勝田祐義は「毎日一つでも気がついたことを書いておけば、あとで自分の方針がわかってくるものである。(今日一事を記し明日一事を記す)」といっている。
前漢の成帝の宮女班捷妤が、君寵の衰えたわが身を「秋の扇」にたとえて詩を作った「文選ー怨歌行」の故事による。季節はもう秋。まるで使われなくなった扇がひっそりとしまわれるような寂しさである。「NHKの美人解説員、最近テレビで見かけないね」「元総理に寵愛されてた彼女も、局としては使い道がもうなくなったので秋の扇かねぇ」
東京京五輪組織委員の高橋元理事とAOKI前会長ら4人が逮捕された。「天網恢々疏にして漏らさず」。「老子」73章にある。天の張る網は、広くて一見目が粗いようで、当然、天罰を受けていいはずの悪人がのさばっているようにみえる。ところが、天の意思にそむいた悪人は網の目から漏らすことはなく、必ず捕らえられ、天の罰を受けるという意味。ふつうは「漏らさず」というが原典は「疏にして失わず」である。
四字熟語の定義はかならずしも統一されていない。広義の解釈では四文字で構成された熟語を四字熟語とする意見もある。広辞苑には「漢字4字で構成される成句や熟語」とある。成句を厳密に適用するならば、「百発百中」「百戦百勝」「無芸大食」は四字熟語であるが、「三球三振」「百人一首」は四字熟語ではない。「一球入魂」は、古人の作った詩文の句ではないし、飛田穂洲の造語であるが、広辞苑には「野球で投手が一球に全身全霊を込めること」と熟語として採録されている。このように厳密に四字熟語を判別することはむずかしい。
「成田離婚」という新語がある。広辞苑では採録されていないが、熟語ではなく、流行語と判断したのであろうか。結婚したての男女が新婚旅行を機に離婚してしまうことを指して使われた、1991年頃の新語。「スピード離婚」と言い換えることができる。広辞苑の基準としては、「成田離婚」は四字熟語としては認めていないようだ。
狭義で四字熟語として認められない漢語を調べてみよう。
民主主義 資本主義 偶像崇拝 決戦投票 戸別訪問 殺人予告 推定無罪 死亡遊戯 近代科学 地方自治 保守政治 複合汚染 人間蒸発 家族会議 地域開発 定年退職 人身事故 読書案内 映画芸術 一般常識 捨身飼虎 老人介護
戦後の社会的混乱の中で、貴重な文書類が散逸の危機にあったが、1947年、国立国会図書館内に憲政資料室が開設された。幕末期から現在にいたるまでの政治家、軍人、官僚などが所蔵していた文書類を中心とする。開設にあたっては大久保利通の孫である歴史家・大久保利謙(1900-1995)の尽力があったことも特筆される。
どのような資料が所蔵されているかは国立国会図書館のホームページでわかる。「高木惣吉関係文書」によると昭和19年8月末、海軍少将・高木惣吉(1893-1979)は井上成美海軍次官より終戦工作の密命を受け、重臣・軍人・皇族等の間を往復しながら奔走した。日記には昭和20年5月5日から8月17日までの行動が記されている。また鹿児島県人吉市の桃李温泉には高木惣吉記念館がある。(参考:「高木惣吉 日記と情報」伊藤隆編 みすず書房 2000年7月)
本を読まなくなるとか、テレビを見てもスポーツならわかるけど、ドラマの筋が追えず内容が理解できないというのは、認知症の予備軍に当たる軽度認知障害(MCI)であるといわれる。でも2022年の夏ドラマは全体的にパッとしなかった印象がある。高視聴率とか話題作、大ヒット作がなかった。NHKの「プリズム」杉咲花、「あなたのブツが、ここに」仁村紗和、毎田暖乃、TBS系の「石子と羽男」有村架純・中村倫也、「ユニコーンに乗って」永野芽郁。テレビ朝日系の「六本木クラス」竹内涼真・新木優子・平手友梨奈。韓国ドラマ「梨泰院クラス」のリメイク。「遺留捜査」上川隆也。フジテレビ系の「競争の番人」坂口健太郎・杏、「純愛ディソナンス」中島裕翔・吉川愛。テレビ東京「量産型リコ」与田祐希。「イケメン共よ メシを喰え」筧美和子。日本テレビ系の「家庭教師のトラコ」橋本愛・中村蒼、「オクトー感情捜査官心野朱梨」飯豊まりえ、など。テレビ東京が英国SFドラマ「宇宙戦争」(全4回、2019年)を再放送、日本語吹き替え。20世紀初頭のイギリスが舞台で、火星人が地球を攻撃するさまを描く。特集ドラマ「二十四の瞳」土村芳。7月25日「定年オヤジ改造計画」郷ひろみ。「事件は、その周りで起きている」小芝風花。「生き残った6人によると」桜田ひより。
石子と羽男 第7話」石子が司法試験に落ち続けた理由が明らかになる。交通事故目撃のトラウマだった。「石子」有村と「羽男」中村の共演相性がピッタリかな。
夏ドラマの連鎖的な不振は、NHKの朝ドラが影響しているという人がいる。「ちむどんどん」があまりにつまらないので、夜ドラマも悪循環しているらしい。
我が家にテレビが来てから65年が経つが、いまは放送業界は危機的な状況にある。系列というのがややこしい。関東では4=日本テレビ、5=テレビ朝日、6=TBS、8=フジテレビ。関西では4=MBS(TBS系)、6=ABS(テレビ朝日系)、8=関西テレビ、10=読売テレビ。MBSとTBSがとくにややこしい。在阪のわたしはMBS毎日放送が馴染みがあって、大阪のお笑い番組をよく見ていた。「番頭はんと丁稚どん」、「ヤングおーおー」。テレビ朝日は、かつてNETで1975年のいわゆる「腸捻転」でややこしくなった。TBS系列は石井ふく子プロデューサーのドラマ番組が人気だった。「ザ・ドリフターズ全員集合」、夏の高校野球が看板。フジテレビ系は「東京ラブストリー」などの月9といわれるトレンディードラマ、「サザエさん」などのアニメ、夕やけニャンニャンなどのバラエティ、夜のヒットスタジオ、FNS歌謡祭などの歌番組。日本テレビ系は民放の雄といわれ経営的に安定している。「シャボン玉ホリデー」、「巨泉前武ゲバゲバ90分」、「スター誕生」、「愛は地球を救う」などが看板番組である。
西武の内海哲也が今季限りで引退することを発表した。2010年前後、巨人のエースだった。常にポジティブで明るく、ガッツがあり、チームメイトからも人望が厚かった。長い野球人生お疲れ様でした。
ニコライ・フレデリック・セヴェリン・グルントヴィ(1783-1872)はデンマークの牧師・教育家。グルントヴィはフォルケホイスコーレ(国民高等学校)の創始者として有名である。彼は既成の学校が無意味な暗記、試験、理念のない実学教育、立身出世をめざす競争を施しているとして、それらを「死の学校」と呼んだ。また彼は「教育(教え導く)」という言葉を嫌い、教育とは本来「生の自覚」を促すものだと考えたのである。そのような教育を行うためにもフォルケホイスクーレの創設を提唱した。そして試験も資格も問わず、学びたい者が自由に学ぶことが可能であるフォルケホイスコーレは、当時の農民解放運動に支援されて、デンマーク中に広がっていったのである。のまた彼の教育思想はデンマークのみならず諸外国にも大きな影響を与えた。内村鑑三は「デンマルク国の話」において彼の思想を述べている。またデンマークが小国でありながら、国家再建のため酪農国家の建設を企てたことなど、敗戦国の日本に大きな影響を与えた。
よくジンクスをかつぐ芸能界では、生まれ年の同じスターが同時期にブレイクすることを「花の〇〇組」などということがある。広瀬すずは1998年6月9日生まれの24歳。そのほか今、「鎌倉殿の13人」で泰時の妻比奈を演じている堀田真由を筆頭に、飯豊まりえ、平祐奈、上白石萌音、福原遥、葵わかな、佐藤栞、今泉佑唯、白石聖、横田真悠、齋藤飛鳥、長濱ねる、宮脇咲良、朝花美穂などなど有名どころで10人はくだらない。それから1999年生まれだが橋本環奈は遅生まれの学年が同じで、花の98組に入れてもらっているとある番組で本人が言っていた。ハリウッドでは1997年生まれだが、クロエ・グレース・モレッツがいる。1998年生まれはエル・ファニングである。
(左上から)アインシュタイン(岡本一平)、チャップリン(トポスキー)、ゴーリキー(ホフマイスター)、ルナール(ルベール)、小村寿太郎(鹿子木孟郎)、菊池寛(岡本一平)、永井荷風(清水崑)、夏目漱石(下川凹夫)、吉田茂(清水崑)、太田薫(那須良輔)、河上丈太郎(中村伊助)、池田勇人(中村伊助)
図書館では蔵書の新鮮さを保つことは大切であるが、一方、「図書館とは記憶の社会的装置」といわれるように、過去の知的文化財を後世に伝えていく役割も大切である。例えば、百科事典である。戦前の冨山房や三省堂にも、現在の百科事典では得られない重要な情報が凝縮されている。過去の国民生活を知るうえでの同時代性をもつ一等資料となる。戦後でいえば、昭和37年に平凡社から刊行された「国民百科事典 全7巻」である。図書館員からみると巻数が少ない百科事典なので、ややもすれば軽視しがちであるが、これは家庭への販売を企画したもので、応接間の書棚に置くにはお手ごろである。事実の国民百科事典は数十万セットという大ヒットを記録した。そして内容がよい。たとえば、漫画を調べると、1ページにわたる解説とともに6ページにのぼる図版がある。そこにはダ・ヴィンチ「人間戯画」、ブリューゲル「謝肉祭と四旬節のけんか」、ホガース「説教」、ゴヤ「雀百まで」、ドーミエ「新火器発明者の幻想」、ピカソ「フランコの嘘」、「鳥獣戯画」、葛飾北斎「盲人の川越」、河鍋暁斎「カエルの曲芸」、岡本一平「有島武郎心中」、ペイネ「恋人たちの手紙」、田河水泡「のらくろ」、麻生豊「のんきなトウサン」、プローエン「親父とむすこ」など日本から世界中の漫画が紹介されている。「世界各国の似顔絵」はなんと24人の著名人の似顔絵が掲載されている。これは通り一編の無味簡素な紹介ではなくて、読んで楽しむための百科事典という編集が豊富に盛り込まれている。ただ年数が経過したからといって、図書館では廃棄するのではなく、よく資料的価値をみきわめることが大切である。
世の中、すべてのものに真ん中がある。1年の暦の真ん中は「7月2日」になる。では分厚い本の代表格である「広辞苑」の真ん中の言葉は何か?という質問に、局のスタッフが調査したところ「セイコウ」という熟語であった。国語学者の金田一秀穂さんは、たいがいの辞典は「せ」が真ん中にくるよ、といっている。平凡社の「国民百科事典」を調べると、篠崎信男が執筆した「性教育」という項目であった。「性教育の方法はを考える場合にたいせつなことは、性教育はかくあるべし、かくあらねばならないという考えという考え方で方法を編み出すことは誤りであって、問題発生ごとの処理法がたいせつだということである。したがって、この意味での性教育は答える教育でなく答えさせていく教育ということになる。「子どもはどこから生まれるの?」と問われて「どこから生まれてくると思う?」という教育という導き方、そしてその答えが間違っていなければそれでよく、相手の年齢、性の関心度に応じて問答式に自覚させていくことがたいせつであり、決して親の考えだけでいいすぎないように心がけなければなせない。そして、絶えず最後には長い人間の歴史のなかでに作りあげられてきた性というものの重大性と深遠性とを認識させることが肝要であろう。」篠崎信男。
参考文献;西岡笑子「わが国の性教育の歴史的変遷とリプロタクティブヘルス/ライツ」日本衛生学雑誌73 2018年
「100円でカルビーのポテトチップスは買えますが、カルビーのポテトチップスで100円は買えません」
40年以上も前のCMながら今でも100円で買える。ポテトチップスは庶民の味方だ。当時12歳だった藤谷美和子も今では59歳。病気らしく、徘徊癖があり野良猫にエサをやる姿が週刊誌に載っていた。そこにはかってのアイドル女優の面影はなく哀れさをさそう。わが国にカウチポテト族を普及させた功労者の1人といって過言ではないのだが。
近所のスーパーではポテトチップスが無くなっている。昨年の生産地の台風の被害の影響がでてきた。種類がとても多いのも困る。カルビーの商品だけで20種類以上並んでいる。通年商品の「うすしお味」「コンソメパンチ」「のりしお」「しあわせバター」「しょうゆマヨ」など11種。最近は地域の味として「北海道バターしょうゆ味」「関東だししょうゆ味」など18種。ほかにも新製品が続々開発されている。カルビーは1949年、広島市で松尾糧食工業株式会社として設立、1964年「かっぱえびせん」がヒット商品となった。現在は丸の内に本社を持つ東証一部上場のスナック菓子の大手企業として成長した。1975年にカルビーポテトチップスが発売されてから47年になるが、ポテトチップスが消えたことはなかった。
ポテトチップスの発明者は諸説あるが、アメリカのサラトガ・スプリングスのレストラン・シェフ、ジョージ・クラムというコックさんというのが有力である。この料理はすぐにサラトガ・チップスとして広まった。1900年代に入ると食料品店で量り売りされるようになった。1950年代には今日のような大量生産されたポテトチップスが販売されるようになった。日本では戦後ハワイから帰国した濱田音四郎が最初に製造した。1960年代なると湖池屋、ヤマザキ、ハウス食品、エスビー食品などが生産するようになった。
英語単語のなかで、一番長い言葉は?それは、smiles(数メートル) sとsとの間が1マイルあるから、というちょっと古いクイズがありますが、実際にいちばん長い英語は、化学物質名メチオニルスレオニル(中略)イソロイシンという英単語は18万9818文字ある。
英語辞書(ただし、大きい辞典でなければ見つかりませんが)に載っている長い単語は、
Floccinaucinihilipilification 法律的に無価値とみなすこと、蔑視、軽視癖。フロクシノーンナイヒリピリフィケイション
ドイツ語辞書には長い単語が多く見られる。
Sturuzkampfflugzeug シュトゥルツ・カムブル・フルークツォイク 急降下爆撃機。略してStuka(シュトゥーカ)
ドラマ「夏目家の食卓」(2005年)で、arkhaiomelisi donophunikheratos が紹介されている。意味はギリシャ語で「古いお気に入りの蜜のように甘い」。
熱戦が続く甲子園球場。内野席と外野席の間にあるそそそり立つような大観客席を「アルプススタンド」という。名称の由来は2つある。漫画家の岡本一平が甲子園に高校野球を観戦に行った。スタンドに白いシャツを着た人がズラリと並んでいるのを見て、息子の太郎が「アルプス見たい」といった。「アルプス山脈」の万年雪のように見えたのであろう。岡本一平は「アルプススタンド」と名付けて漫画を描いた。もう一つの説は登山家の藤木九三が昭和4年に完成した甲子園のアルプススタンドをみて名付けたというものである。どちらの説が正しいのか、真相はいまだ分かっていない。
文明開化の明治になって西洋の文物が一気に渡来した。牛肉、パン、ビール、ワイン。カレーライスもその1つである。 カレーライスの「カリー」は、元来タミル語でスパイスのソースを意味する「カリ」(kari)に由来する。そのカリーがインド料理の代名詞のようになって世界に広まるのは、1772年にカリー&ライスの形でイギリスに入り、英王室のレセプションで好評を博したからである。やがて英国のクロス&ブラックウェル社がカリー粉を商品化し、文明開化の日本にも上陸した。福澤諭吉は「Curryは加兀(コルリ)」とカレーを簡単に紹介している(「増訂華英通信」1860年)。初めて「ライスカレー」という言葉が使われたのは、札幌農学校の食堂で、1881年のことであった。「ライスカレー」はクラーク博士が命名したのだという説がある。その後、大正時代に海軍の常食となり、家庭料理にも定着していった。織田作之助の「夫婦善哉」で有名な難波新地の専門店「自由軒」は名物はライスカレーだった。
国産カレー粉の発売は1903年、カレールーの発売は1950年、インスタン食品の発売は1968年のことである。インド人が来日して土産にボンカレーを買って帰ったら、あまりの旨さに「インド人もびっくり」したそうである。ライスカレーがカレーライスと呼ばれるようになったのは、1960年代に入ってからのようである。今まで庶民的なイメージが強かったライスカレーを、カレールーとライスを別々の容器に盛り、高級なイメージで売り出したものをカレーライスと呼んだのが最初といわれている。しかし、ライスカレーかカレーライスか、もはやどっちだっていいような話である。
膨大な世界各国の歴史上の人名をおよそ何人くらい知っていればいいのだろうか?1000人以上知っていれば一般常識人であろうか。山川出版社の「世界史人名辞典」は1,914名が収録されている。プーチンは載っているが、ウクライナの大統領ゼレンスキーがない。改訂の際には追加してほしい。中国史でいえば、酈道元、魏忠賢、黎元洪など難しい名前も含まれている。では人名事典として2,000人あれば十分かというと、実際に使ってみると、いささか少なくて頼りない。たとえば漢の財務家、桑弘羊が採録されていない。塩鉄の専売について、存廃論議を集めた「塩鉄論」で有名である。数研出版の「世界史辞典」や創元社の「東洋史辞典」には採録されているだけに検討してもらいたい。
龔自珍(1792-1841)も収録されていない。号を定庵という。「清末末の変革的思想は定庵より筆を起こす」といわれるほどである。ちなみに「コンサイス日本人名事典」は約14,000名が収録されているので、世界史においてもそれくらいの規模が望まれる。
たとえばナポレオン・ボナパルトの母レティツィアは13人の子を産んでいる。男5人女3人が成人した。長男はジョゼフ、次男がナポレオン、三男がリュシアン、四男がルイ、五男がジェロームといった面々である。彼らが収録された事典はみかけたことがない。
ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルト(1768-1844)は76歳まで生きている。
山川出版社の「一問一答 地理用語問題集」の地球に関する基本的事項の問題。「地球を半球に分けた場合、海洋面積が最大になるように区分をした場合、その半球の中心はどのあたりか」 答えはアンティポディーズ諸島。ニュージーランドに属するスチュアート島、バウンティ諸島の南にある無人島で、水半球の中心付近に位置する。名称は、この諸島が長らく英国ロンドンの対蹠地(Antipode)であると誤解されたことに由来する。とはいえ、同諸島がロンドンの対蹠地から最も近い陸地=ロンドンから最も遠い陸地であることに変わりはない。
ケペルの蔵書で小説のなかにはまだ読んでいないものが多くある。読むのが遅いいし、分厚いものは敬遠しがちである。ショーロホフの「静かなるドン」も未読である。今日はイギリスの推理作家アガサ・クリスティ(1850-1976)の命日。1920年のデビューから亡くなるまで、長編小説66作、中短編156作、ほとんどが殺人事件を扱っているが、聖書とシェイクスピアの次によく読まれているという。ケペルは歴史家なのでミステリー類は読んだことがない。クリスティーの作品も一冊もない。ただし映画は見るので、ストーリーは凡そ知っている。東野圭吾も読んだことはないが、ドラマ化されたら見る。先日の映画「白夜行」「容疑者Xの献身」も感心させられた。現実に毎日のように殺人事件が起こる時代であるが、人が殺意、憎悪などを抱く情況を追体験することが多くの人々のカタルシスになるという時代が到来したことは、少し恐ろしい気がする。小説や映画が犯罪の遠因となることはしばしばある。「三億円強盗事件」は大藪春彦の小説が話題となったし、テレンス・スタンプの「コレクター」を見て誘拐犯となったり、「十代の性典」に刺激されて高知オルゴール殺人は起った。山上徹也は「ジョーカー」を見て何を感じたのだろうか。現代は殺人狂時代かもしれない。
朝ドラ「ちむどんどん」は結婚ドタバタ喜劇なのだろうか。ヒロイン暢子や母親の再婚。そして兄のニーニーは養豚場の娘・清恵と結ばれるような予感がする。清恵はいつもきれいな格好をせずに一生懸命に父の養豚場を手伝っている健気な娘である。昨夜放送されていたTBSドラマ「「遺留捜査」でも中原丈雄と佐津川愛美が父娘だったので可笑しかった。ヒロイン暢子の結婚式もほのぼのとした話だった。「結婚 いかなる羅針盤もかつて航路を発見したことのない荒海」とドイツの詩人ハイネのことばがある。
前漢の司馬遷が著した『史記』。伝説時代の黄帝から前漢の武帝までの歴史を本紀・表・書・世家・列伝に区別して記述する列伝体がとられている。「四面楚歌」「臥薪嘗胆」「完璧」や「雌雄を決す」「先んずれば人を制す」「智者も千慮に必ず一失有り」など、今日の我々が普段使っている言葉も史記がその由来である。史記130巻には伯夷・叔斉・管仲・伍子胥・蘇秦・張儀・荊軻・商鞅・呂不韋・項羽・韓信などさまざな人物が登場するが、人間こそ歴史をつくる主体という確信にたっていたことがうかがわれる。しかし司馬遷は英雄・豪傑・ヒーローだけが歴史をつくるという一面的な見方をしていたわけではない。むしろ、本来能力を問題するにかぎり、どのような能力も、人間は本質的には同じという考えを持っていた。列伝の中にこのような面白い話しがある。斉の孟嘗君が秦に幽閉されたとき、食客のこそどろや、にわとりの物まねのうまい者に助けられて脱出したという「鶏鳴狗盗」の出典となる件がある。司馬遷は物まねが得意の小技をする人もくだらない技能を持つ人も、遊侠も、おべっかも、あくどい金儲けも、一種の能力であるとして、遊侠列伝や貨殖列伝などをつくっている。『史記』は単なる英雄たちの物語ではなく、郭解・淳于髠・郭舎人など複雑な社会を構成するいろいろなタイプの人間を観察していたのである。
最近の女優さんやミュージシャンは個性が第一で、正統派美人よりも、一度見たら忘れられないような顔のほうが人気がでやすい。昨晩見た「アイドル」の古川琴音も可愛かった。目と目が離れているが、あいみょんとか、小松奈菜、岸井ゆきのと同じ「離れ目」が今は流行の顔なのだろう。江戸時代の言葉に「一に瓜実、二に丸顔、三に角顔、四に長面、五に盤台、六に目かんち、七みっちゃ、八でほちん、九頣なし、十しかみ」とある。差別用語も含まれるが御寛容くださいますように。つまるところ、好きな女の欠点でさえも惚れたら良いものとして見えてしまうのだろう。「惚れた欲目には痘痕も靨(えくぼ)」。えくぼが一番魅力的なアイドルは、ももいろクローバーZの百田夏菜子。古い所では田代みどり。
「地理上の発見」といわれる15世紀末から16世紀にかけて、発見された新大陸や島には発見者の名か、スポンサーの名に由来した命名がされるのがふつうだ。1492年にアメリカを発見したコロンブスは、インドと感ちがいして、1500年まで3回の航海をしてキューバ、ハイチをはじめトリニダード島などを発見するが、あと一歩で大陸というところまでいった。しかし新大陸の名称はコロンビア大陸とはならず、航海者アメリゴ・ベスプッチにその名誉をかっさらわれてしまった。日本では、ふつう「アメリカ」いえばアメリカ合衆国の略称として用いられることが多い。だが北米、中米、南米および西インド諸島を含むいわゆる新大陸の総称として、「アメリカ」(州)として用いられることもある。それは1507年にドイツの製図師マルティン・ヴァルトゼーミュラー(マーチン・ワルトゼーミュラー、マルティ・バルドゼーミュラーなど)が、「世界地誌」のなかで「世界の第四の地方」として、新大陸、とくに南アメリカを「アメリカ」と呼ぶことを提案したのが起源である。それはアメリゴ・ベスプッチ(1454-1512)の1502年の南米探検(パタゴニア地方)によって、アメリカ州が東インドではなくヨーロッパ人にとっての南アメリカは新大陸と指摘したので、「アメリゴ・ベスプッチ」の名前から「アメリカ」と名付けられたと普通いわれている。しかし近年の研究によると、イギリスではすでに15世紀末には北米を「アメリカ」と称していたと研究者は言っている。それはジョン・カボット(1450-1498)がカナダ東南岸のケープ・ブレトン島からニューファンドランド島などの探検により、探検出資者リチャード・アメリク(Richard Amerik)の名前を取って「Amerik's land」として知られていた。ヴァルトゼーミュラーは「新大陸」を「アメリカ」と呼んだのは、北米・中米・南米を総称するにふさわしい名称として提案したのではないだろか。
つまりアメリゴ・ベスプッチ「アメリカ起源説」には疑問があるわけである。イタリア人アメリゴ・ベスプッチがその名をヨーロッパで知られたのは1503年にパンフレット「新世界」(Mundus Novus)を出版したからである。アメリゴのラテン名アメリクス・ベスプッチの語尾を地名接尾辞ア(a)と置き換えて、アメリカ(America)「アメリゴの(土地)」を意味すると説明づけられてきた。しかし、通常、地名に発見者が因む場合、ファースト・ネームを使う場合はほとんどない。たとえばタスマニア島の発見者アベル・タスマンAbel Tasmanはタスマンに地名接尾辞iaをつけて「タスマン氏の島」と命名している。通常、ベスプッチに敬意をはらうのであれば「ブスプニア」など氏に因むのが通例であろう。またベスプッチが南米の探検が中心で、北米への探検がないのにアメリカの総称というのも不思議な話である。第三にベスプッチは商人であり、その報告書は不正確で航海知識もなく、人物像に疑問がある。以上の疑問から、アメリカ地名の起源の人物はイギリス人のリチャード・アメリクに由来するという説のほうが妥当性が高いと考えている。
新大陸の真の発見者はコロンブスか、アメリゴ・ベスプッチか、アメリクか。スペイン南部の都市セビリアのロドリゴ通りにロドリゴ・デ・トリアーナという船乗りの銅像が建っている。町の人々はコロンブスではなく彼こそが新大陸アメリカの真の発見者だという。ロドリゴはビンタ号のマストに昇っていて、真っ先に陸地を発見したらというのだ。(Amerigo Vespcci)
「呉越同舟」仲の悪い者どうしが同じ場所に居合わせること。また、敵味方が共通の困難や利害に対して協力すること。呉と越とはともに中国春秋時代の国名。春秋時代の末期、呉と越の両国が仇敵視しあい、長年にわたり戦いを繰り返した。
伍子胥は楚の人で、父の伍奢は楚の平王の太子の守り役をしていた。平王は費無忌を秦へつかわして太子のために妃を迎えさせたところが、秦の女性がたいそう美しかったので、費無忌は王にすすめて王の夫人にしてしまい、はては太子を追い出し、伍奢と伍子胥の兄の伍尚を殺した。伍子胥は太子とともに宋に出奔した。宋へ行く道で伍子胥は親友の申包胥と出会った。伍子胥は「父母の讐はともに天を戴かず、地を履まず、兄弟の讐はともに域を同じくせず、壌を接せずという。自分はきっと楚に報復してやる」と誓った。申包胥は「君のためをはかれば国のためにならず、国のためにすれば親友を捨てねばならぬ。よかろう、君は楚を滅ぼすのに努力しろ、自分は楚を安泰にすることに努力するから」と答えた。その後、彼は各地を渡り歩き、ついに呉王闔廬に仕えた。呉王は、伍子胥・孫武らを率いてしばしば楚に侵攻し、9年が過ぎた。その間、楚では平王が死に、平王の子の昭王が即位した。やがて呉が強大となり、楚を攻めて大いにこれを破り、楚の都郢(えい)に侵入した。伍子胥は積年の大怨を晴らすべく昭王を捕らえようとしたが、すでに逃げ出しており捕らえることができなかった。そこで平王の墓を暴き、平王の屍を引き出して、300回鞭で打ちつけて仇を報いた。
それから4年後、呉王闔廬は、越王句践と戦って破れ、そのときうけた傷が悪化して死去。その子の夫差が後を継ぐ。伍子胥はひきつづき夫差に仕えて越の動きに備えた。そして2年後、越を撃ち破って句践を降伏せしめた。このとき伍子胥は「句践を殺して禍根を絶て」と進言するが、夫差は耳をかさずに講和する。
調子に乗った夫差は、しきりに北方の斉・魯に軍を進めて勢力の拡大をはかる。そのたびに伍子胥は、警戒すべきは越王句践の動向であることを力説し、北方への遠征を見合わせるよう進言するが、夫差はいっこうに聞き入れない。こうして、戦略方針のくいちがいをめぐって、夫差と伍子胥の仲は急速に悪化していく。そこへもってきて「伍子胥が二心を抱いている」と、伯嚭が夫差に吹き込んむ。それを真に受けた夫差は、伍子胥に属鏤の剣を与えた。これで死ね、という意味である。伍子胥は天を仰いで嘆息し、「わしの目玉をえぐり出して城門にかけておけ。この目玉で呉の滅びるのを見てやる。そしてわしの墓には檟の木を植えよ。その木が生長して棺材になるころには呉は滅びて暗君夫差の棺になるであろう」と言い残して、みずから首をはねて命を絶った。十数年ののち、夫差は越王句践に敗れて自殺した。句践はさらに軍を北に進めて、斉・晋の諸侯と徐州に会し、呉に代わって天下の覇者となった。「臥薪嘗胆」というのは、この呉王夫差と越王句践との復讐戦にもとづいた故事である。(参考:大庭脩「臥薪嘗胆」世界歴史シリーズ3 世界文化社)
ジグザグ(zigzag)とは、さまざまに屈曲した線、稲妻形、電光形、Z字形。日本では労働運動の示威行動として、労働者などのデモンストレーションとしてジグザグ行進がつかわれた。また「ジグザグな人生行路」といえば、これはすこぶる波瀾にとんだ数奇をきわめた一生のことである。語源はフランス語で「歯」を意味するzagを重複させた「鋸の歯」が由来とする説が有力で、1600年代から用例がある。日本では明治末ごろ、外来語として使用されている。
聖子・明菜の80年代アイドルブームやおニャン子、AKB48・乃木坂46などグループアイドル人気は続いているがそもそもアイドルって何か? 英語「idol 偶像」聖書出エジプト記にアイドルという言葉がある。人間とは不完全なものである。貪欲、奢侈、快楽、現代社会にはさまざまな負の遺産が多くある。聖書には「義人は、一人もいない。すべての人は罪人であり、神の栄光は受けられなくなった」とある。金の牡牛や様々な崇拝物を求めて人々は礼拝している。うち続く大惨事は終わりの時を告げる警鐘であろうか。キリスト教では偶像の崇拝は禁止しており、アイドルとは偽りの神をあがめるという意味が含まれている。モーゼがシナイ山で神の声を聞いている間に、麓では民がアイドルを崇拝し「あらゆる悪しきこと」を行っていた。そして神は、大罪を犯したヘブライ人を、その後40年間も、荒野にさまよわせた。大人からみて、若者たちが熱狂する歌手はスターは一時的に活躍するまがいものの意味であった。アイドルといえば日本では「可愛い女の子」を思い浮かべるが、元祖アイドルとでもいうべき人物は欧米ではアメリカのフランク・シナトラである。1939年にハリー・ジェイムズ楽団の専属歌手となり、翌年トミー・ドーシー楽団の歌手して人気が高まった。1941年12月に太平洋戦争が開戦すると、多くの若者が兵士として招集され、シナトラは若い女性たちの代替的恋人とも言うべき存在として、ボビーソクサー(女学生のはく白いソックス)のアイドルとしてその人気は凄まじいものであった。劇場での公演では、観客の女性は興奮のあまり気絶や失神する者が出たりする。大人たちは、シナトラ人気は一時的なものとして皮肉を込めて「アイドル」といったのである。一説によれば、ジュディ・ガーランドが1939年「オズの魔法使い」で一躍アイドルスターになのシナトラよりも早かったともいわれる。日本においては当初「アイドル」という言葉は、外国の芸能人を対象にした呼称として用いられた。昭和10年代のムーランルージュ新宿座の看板スター明日待子は「日本で最初のアイドル」(の一人)として挙げられる。
お盆の帰省ラッシュがピークを向かえるが、きょうも広い範囲でうだるような暑さが続き、気象庁では熱中症警戒アラートを発表している。「八月のいら蒸し」という言葉はネットで検索しても、辞書にも全然見つからない。俗語であろうが、安藤隆夫『ことばの民俗学1 季節』(創拓社 1988年)に見える(26頁)。江戸時代の書物「類聚世話百川合海」みえる。「いらいらするほど蒸し暑い」の意味であろうが、日本の夏のひどい蒸し暑さをよくあらわした面白い言葉である。盛夏の蒸し暑さをいうことわざには、ほかに「空梅雨土用蒸し(からつゆどようむし)」というのがある。
今年も8月に入って全国各地で記録的な大雨によって河川が氾濫したり、土砂災害により甚大な被害がもたらされた。とくに3日から5日にかけて山形県や新潟県、福井県を中心とした大雨による被災地ではようやく本格的な復旧作業が行われている。お盆には台風8号「メアリー」が関東を直撃するらしい。ここ10年で最大の人的被害が多かったのは、平成30年7月7日から8日にかけての西日本一帯を襲った豪雨で、広島県・岡山県などで合計224名の死者と8名の行方不明の犠牲者をだしている。土砂災害、河川の増水に注意・警戒し、高波に警戒してください。
本の真ん中の頁(ページ)を開けてみる。例えば、帝国書院の「図説地理資料 世界の諸地域NOW2022」全体は263ページ+巻末2ページで合計265p。133pが「ロシアNOW」と134p「アングロアメリカ」という記事である。現代地理の中心地という感じがする。日本の関東地方の記事は198pでやや後半に登場する。アメリカ合衆国は、西経100度付近を境に、東側の湿潤地域と西側の乾燥地域に分けられる。
ノースカロライナ州とは「北のチャールズ王」の意。1629年、ロバート・ヒースなる男が、英国王チャールズ1世に、この地方一帯の土地認可書を申請した。その申請書に記すーされたこの地方の地名が、チャールズ王の名をラテン語化したカロラナCarolanaであった。1663年、チャールズ2世がこの土地を再認可し、9人の地主に分け与えたとき、この地名を再び用いたが、勅許状の中では、カロリーナCa-rolinaと綴りを変えていた。そのためカロリナが正式地名となり、英語読みされて、カロライナと発音され一般化した。1710年、カロライナ植民地は南北に二分され、ノースカロライナ、サウスカロライナとなり、後にアメリカ独立13州の1つとなった。
テキサス州は1541年、スペイン人が、この地方にはインディアンのテヤス族が住むと記録を残している。テヤスは、インディアン語で「友達」を意味する語にすぎなかったが、種族名と誤解され、スペイン人の間に広まった。一方、17世紀末に、他のインディアンがスペイン人に、ニューメキシコ地方には、テキサスという架空の帝国があると話した。
テキサスはテヤス族とテキサス帝国の二つの誤解から生まれた地名だった。
アメリカの地名は、人名に由来するものとインディアン語に由来するものがあるという特徴を持っている。例えば、50州ある州名のうち、人名に由来する州名は11、インディアン語に由来する州名は27ある。
アラバマはアリバム族と称するインディアンに由来
アラスカはアリュート語の「アラスカ(大きな土地)
アリゾナはインディアン語「アリ・ショナク(小さな泉のある所)」が語源で、「アリソナ」とスペイン語化した
アーカンソーは「アーカンソー」というインディアン部族の名前
カリフォルニアはスペインの詩人オルドニスの詩に「美女と黄金が満ちあふれた島」を描いているが、カリフォルニアという語は創作された語で、特別な意味はない。
コロラドはスペイン語「コロラド(色のついた、赤い)」が語源
コネチカットはインディアン語で「長い川」の意味。
デラウエアはバージニア植民地の初代総督デラウエア卿トーマス・ウエストの称号に由来する。
オハイオは、最初、現在のオハイオ川につけられたインディアンのイロコイ語地名で、「美しい川」の意味であった。やがて、その流域地方の地名となった。
フロリダは、スペイン語で「花のような、花咲く」の意味。1513年、スペイン人のレオンPoncede Leonがこの地方の地名に用いたのが起源。彼がここへ上陸したのが4月はじめで、花が咲きはじめており、また復活祭の季節であったので、フロリダと名付けられたとされる。
ジョージアは、1732年、イギリスのジョージ2世がこの地方を植民地として開拓させたので、王の名と、地名接尾辞イア-iaを合成して、「ジョージ2世の土地」と名付けられた。
ハワイとは、ポリネシア語で「神の居る所」を意味する。
アイダホは、インディアンのイダヒ族Idahiが英語に入って転化、アイダホIdahoと発音されるようになった。
アイオワはここに居住したインディアンの種族名が語源。
イリノイはこの地方にイリノイ族が居住していた。
インジアナはスペイン語で「インディアンの」を意味する。
カンサスはスペイン人が「カンサ族の土地」と命名したのが由来。
ケンタッキーはインディアン語のケンタケ「牧草地」が語源。
ルイジアナは1681年ルイジャン「ルイ14世の土地」が語源。
メーンは英語で「本土、大陸」の意味。
メリーランドはチャールズ1世の王妃マリアHenriette Mariaにちなみ、マリアが英語化したメリアと、ランド(土地)を合成した。
マサチューセッツはインディアン語で「大きな丘の麓」を意味する。
ミシガンはインディアン語で「大きな湖」を意味する。
ミネソタはインディアンのシアウン語で「水煙をあげている」を意味する。
ミシシッピはインディアンがこの地をメスシピMessipi「大河」と呼んでいた。その後、英語化の過程で、ミシシッピに転訛、現名を生じた。
ミズーリはインディアンのミズーリ族が由来。ミズーリの原義は不明。
モンタナはスペイン語で「山の多い」を意味する形容詞。
ネブラスカはインディアン語のニni「水」とブトハスカbthaska「平らな」が合成されたニブトハスカが英語化された地名である。
ネバダはスペイン語の形容詞で「雪を戴く、雪のように白い」の意味。
ニューハンプシャーはイギリスのハンプシャー県。
ニューメキシコはスペインの探検家フランシス・ド・イバラがグランデ川の奥地を探検し「ヌエボメヒコ」と名付けたのが起源。
ニューヨークはオランダ人ピータ・ミニュットがニュー・アムステルダムとし、のちイギリス人がアムステルダムをヨーク公の称号に因んでニューヨークとした。
ノースダコタは、この地方にひろく住んでいたインディアンの部族名。
オクラホマは、インディアンのチョクート語で「赤胴色の人」の意味。
オレゴンは、この地方を流れるウアリコンOuariconが修正されて、地名になったらしい。
ペンシルべニアは、「ペンの森の土地」の意。イギリス人のウィリアム・ペンとラテン語の「シルバ」(森)から。
ロードアイランドはエーゲ海のロードス島にちなんだ地名。
テネシーはインディアンのチェロキー族の住んでいた都市の名。タナスキ、テナスがテネシーに変化した。
ユタは、この地方に住んでいたインディアンの部族名。
バーモントは、フランス語のモン・ベル le mont vert 「緑の山」の語順をかえ、英語式に合成したもの。 ver(t)+mont。
バージニアは、新大陸開拓時代のイギリス女王エリザベス1世の雅号「バージニア」(処女の)にちなんだもの。
ワシントン州は、1853年、この地方を州に昇格させるとき、初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんだ州名にすることが議会で決定された。ワシントンなる地名は、すでに数多くの地方で用いられているので、混乱のおそれありと反対論もあった。
ウィスコンシンは、川の名から生じた。インディアン地名で、メスコンシング川とかウィスコンシング川と呼ばれた。
ワイオミングは、インディアンのアルゴンキン語で、メシエ・ウエア・イング(大きく平らな土地)と呼ばれたものが、後半だけ残り、ワイオミングになった。
ちなみに合衆国、USAの起源は、1777年11月15日、大陸会議において13植民地の相互友好同盟と定めた規約「連合および永遠の連合規約」が定められたことにある。
ゴルフ人口は一時よりは減ったと言われていますが、いまでもゴルフの関する話題は尽きない。女性の正会員を認めない五輪会場のゴルフ場が問題となっている。
ゴルフの起源については、様々な説があってはっきりしないが主に3つの説がある。第1は、紀元80年、ローマ帝国のユリウス・アグリコラ将軍がスコットランドを征服していたとき、羽毛をつめた革製のボールを木杖で打つパガニカという球戯を行い、3世紀にわたるローマ軍の長期占領中に土着してゴルフになったという説。第2のオランダを起源とするものは、オランダの球戯、ヘットコルフェンというホッケーに似たゲームが変化してスコットランドにわたったという説。第3はスコットランドの羊飼いの牧童たちが羊を追いながら石を転がして遊んだという説。いずれにしても14世紀中ころから、現在の方法に近いゴルフが行われた。1457年のスコットランド。国王ジェームス2世は、ゴルフは武技・弓術の妨げになるという理由で議会に命じ、12歳から50歳の国民にゴルフ禁止令を布告させた公文書が残っている。
ゴルフの起源には諸説あるものの、およそ500年以上も昔からスコットランド地方ではゴルフが始められていたことは間違いない。ところで何故ゴルフの1ラウンドは18ホールなのか?1858年にセントアンドリュースクラブの委員たちが集まって相談したところ、スコッチが飲み干して無くなるのが、ちょうど18ホールでプレーしたとろでした空になる。そこで「18ホールでやめようじゃないか」と、ある委員が提案したのが起源だといわれている。
1406年紀伊国名草郡田井荘に生まれる。3歳で比叡山に入ったらしい。20歳なか頃から清厳正徹に師事して和歌古典を学んだ。応仁の頃、東国へ下り、1471年頃浄業寺に寓居したといわれる。太田道灌や父・道真の歌会に判者として出席している。幽玄に心をとめようとする、深い境地を得て、宗祇、さらに後世の芭蕉まで影響を与えた。著書に「老いのくりごと」「ささめごと」「心玉集」などがある。「雲はなほさだめある世のしくれかな」
「広辞苑」で一番最初に出てくる人名は「アーヴィング」である。ワシントン・アーヴィングはアメリカの小説家。小さな事典では、古代ギリシアの悲劇詩人アイスキュロスであることが多い。広辞苑では長音符は、すぐ上の片仮名の母音を繰り返すものとみなして、その位置に排列する。つまり「アアヴィング」とするので、先頭にくる。ふつうは長音符は無視するので、ここでも一般の事典の排列にならうこととする。創元社「西洋史辞典」では17世紀イギリス清教徒革命期の軍人ヘンリー・アイアトンが最初に掲載されている。
いろいと調べると、世界人名では、古代エジプトの王アアウセルラー・アペピが世界人名を五十音順(アイウエオ順)で排列すると、一番最初に出てくる。
ほかにアアヤバータ(5世紀インドの数学者)、アイアンソン(19世紀イギリスの建築家、エドワード・アイアンソン)、アイヴス(20世紀アメリカの作曲家、チャールズ・エドワード・アイヴス)、アイケ・フォン・レープゴー(13世紀ドイツの法学者)などがいる。
タモリのミュージックステーションで夏の企画として「アニメ主題歌20世紀vs21世紀」を放送していた。ランキング形式で20世紀の1位は「タッチ」(1985年)岩崎良美、21世紀は「前前前世」(2016年)映画「君の名は。」の主題歌でRADWIMPS。自分が好きなのは、飯島真理「愛、おぼえていますか」(1984年)映画「超時空要塞マクロス」の主題歌です。
本日は「山の日」。山の恩恵に感謝し、自然に親しむ祝日として、2016年から施行された。もともとは、なぜ8月11日だった。東京五輪閉会式が10日なので1日ずらした。11日の理由は政府や団体は明確に述べていないので不明であるが、通説では「八」の字が山の形にみえるため「8」、木が立ち並ぶイメージから「11」とある。西欧諸国では、アイガー初登頂の記念日として知られているもよう。
スイスのアイガーは19世紀初頭、登頂不可能な山と考えられていた。しかし1858年8月11日、アイルランド人のチャールズ・バーリントン(1834-1901)は2人の山岳ガイド、クリスチャン・アルマー(1826-1898)、ペーター・ボーレンと一緒にアイガー初登頂に成功した。
1921年に槇有恒(1894-1989)は、それまで数回試みられて成功をみなかったグリンデルヴァルトから北東稜を経ての登攀に成功した。(Eiger,Charles Barrington,Christian Almer,Peter Bohren)
本日は「山の日」。ドイツの詩人カール・ブッセの作。
山のあなたの空遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいう。
ああ、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かえりきぬ。
山のあなたになお遠く、
「幸」住むと人のいう。
むかし図書館のレファレンスで、「山のあなた」以外のカール・ブッセ(1872-1918)の詩が読みたい、という依頼があった。わたしは書庫にもぐって、詩集を片っぱしから探した。「山のアナ、アナ・・・」と。しかし、「山のあなた」はなお遠く、ついに見つからなかった。「三人兄弟」(ドイツ詩評釈1、1960年)があるだけだった。だれかドイツ語のできるかた、翻訳してくれないものだろうか。
Over the mountains,
far to travel, people say,
Happiness dwells.
Alas, and I went,
in the crowd of the others,
and retuned with a tear‐stained face.
Over the moutains,
far to fravel,people say,
Happiness dwells.
「ココ・シャネル」フランスのファッション・デザイナー。本名はガブリエル・ボヌール・シャネル。▽「ゴッドホルト・エフライム・レッシング」1729-1781。戯曲「賢者ナータン」(1779)。▽「ゴンサロ・デ・シントラ」15世紀エンリケ航海王子の時代の探検家。▽「コンスタンティン・スコロプイシュヌイ」1990年ロシア・サハリン州在住のコンスタンティンくん(当時3歳)大やけどを負い、日本で手術・治療を受け一命を取り留めた。▽「コンラッド・エイキン」1889-1973。米国の詩人・小説家。代表作「憂鬱な船旅」。
ゴ・ディン・ジエム
コア・ヴァービンスキー
ココ・シャネル
コジモ・デ・メディチ
コシュート・ラヨシュ
コスメ・デ・トーレス
コチェリル・ラーマン・ナラヤナン
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ
ゴットフリード・ワグネル
ゴッドホルト・エフライム・レッシング
ゴットリープ・ダイムラー
ゴットロープ・フレーゲ
コーデル・ハル
コデルロス・ド・ラクロ
コートニー・コックス
ゴドフロワ・ド・ブイヨン
コナン・ドイル
コニー・フランシス
コーネリアス・ヴァンダービルト
コフィー・アナン
コーマック・マッカーシー
ゴメス・デ・ラ・セルナ
コラソン・アキノ
コリン・ウィルソン
コリン・パウエル
コリン・ファース
コリン・ファレル
コリンヌ・クレリー
コリンヌ・マルシャン
コール・ポーター
コルダ・メイア
ゴールディー・ホーン
コルネリウス・ケテル
コルネーリス・ビスホップ
コン・リー
ゴンサロ・デ・シントラ
コンスタン・ギース
コンスタンス1世
コンスタンス・カミングス
コンスタンス・ベネット
コンスタンタン・ムニエ
コンスタンツェ・モーツァルト
コンスタンティヌス1世
コンスタンティノス11世
コンスタンディノス・ペトルゥ・カヴァフィス
コンスタンティノス・ロゴセトプロス
コンスタンティン・シーモノフ
コンスタンティン・スコロプイシュヌイ
コンスタンティン・チェルネンコ
コンスタンティン・ブランクーシ
コンスタンティン・メーリニコフ
コンスタンツェ・モーツァルト
コンラッド・アデナウアー
コンラッド・アレンスバーグ
コンラッド・エイキン
コンラッド・ニコルソン・ヒルトン
コンラート・ゲスナー
コンラート・ファイト
コンラート・ローレンツ
1945年8月9日、午前11時02分、長崎に原爆投下。田中キヲ(1915-2006)は、長崎市内の爆心地から2キロほど離れた水田で被爆した。翌日、長崎市内の臨時救護所で、放心した表情で生後4か月の次男に授乳しながら、治療の順番を待っている姿が撮影された。写真は旧日本陸軍の報道部員、山端康介が8月10日、長崎市で撮影し、「苦痛にたえながら治療の順番を待つ母子」として長崎原爆資料館に展示されている。
8月は戦争や平和について考える機会が多くある。私は戦後生まれで、戦争体験はないが、日本がアジア諸国に対しての軍事行動や、また唯一の原爆の被爆国であることを、世代の違いに関わらず、記憶していかなけれならないと考える。8月はドキュメンタリーも数多く放送される。「我が闘争」(1960年スウェーデン)は第一次世界大戦の混乱からナチスの台頭、ナチスの政権奪取から敗戦、ヒトラーの死までを、描いている。「夜と霧」(1955年)はアウシュビッツの大量虐殺の悲劇をミシェル・ブーケの静かな語り口の中で映像化している。NHKドキュメンタリー「幻の原爆ドームナガサキ戦後13年目の選択」12日放送。かつて長崎にも原爆ドームがあった。爆心地近くにあった教会・浦上天主堂だ。戦後、原爆の悲惨さを語る遺構として、保存する方針だったが、突如、田川務長崎市長と教会のトップの山口司教が取り壊しを主張、市民の反対運動もむなしく、姿を消すことになった。1959年には再建された。決断の背景としては、米国側から教会再建の資金援助の条件として教会遺構の撤去が求められたからといわれる。また被爆国である日本が国連で採択された核兵器禁止条約に署名・批准しないのは、日本が日米安全保障の「核の傘」に依存しているからである。犠牲者に祈りをささげて、「核なき世界」への誓いを新たにする。
ブリューゲルの版画(16世紀)
クリッパー
船は世界を大きく変えた。大洋をせばめ、国と国、人と人とを密接に結びあわせた。太古より、人類は流木をまとめただけの原始的な船を移動手段としてきたが、イカダや丸木舟から改良を重ね、より遠くへ安全に航海できるように作れたのが組立船です。組立船は今から5,6千年前には作られていた痕跡が確認されています。各地に起こった造船技術はしだいに融合して、いろいろな船舶が生まれたが、帆がふつうに使われるようになって大洋を航海することが盛んになった。現在の水準からすると、コロンブスの旗船サンタ・マリア号も、インド洋に達したヴァスコ・ダ・ガマの旗船サン・ガブリエル号も同じようにおそろしく小さかった。帆船はその後ますます進歩し、1850年ころからイギリスから中国、オーストラリアへ航海した帆船は大型で速力が速く、クリッパーの名がそのころから起こった。当時すでに汽船が発明されていたが、帆船の時代が長く続いた。
蒸気で船を走らせるという着想は、18世紀の終わりころから現実味をおびてきた。フランスのクロード・ジュフロイは、1783年に、長さ45mのバイロスカーフ号を造り、フランスのリヨンに近いソーヌ川を遡ることに成功した。しかしフランス革命直前で財政的に余裕のない政府の補助が得られず実用化にはおよばなかった。その後、アメリカのロバート・フルトン(1765-1815)が1803年8月9日パリ・セーヌ川で蒸気船の試走に成功した。その後、外輪式蒸気船のクラーモント号を造り、1807年8月17日、時速8kmの速度で、ハドソン川のニューヨークからオルバニーまでの240kmを32時間で遡行するのに成功した。ペンシルヴァニアの農家に生まれたフルトンは、はじめ画家をめざしたが、潜水艇、水雷、蒸気船に関心を持つようになり、駐仏大使リヴィングストン(1746-1813)の支援を受けて蒸気船を完成させた。彼は起業家としても成功し、蒸気船を定期就航させることで財をなした。19世紀後半になると今まで活躍していた帆船にかわって汽船の時代へ移行した。
盈進
連日熱戦が続く夏の甲子園甲子園ですが、いま広島の盈進高校の漢字が難しいとネットで話題になっている。「えいしん」と読みます。出典は「源泉混々として昼夜をおかず科に盈ちて 後に進み四海にいたる」(孟子)とある。つまり、水の流れが穴にいっぱいになってから先に進むように、学問も一足とびに高い所に至ろうとはせず、順を追って進めるべきであることのたとえである。「盈」という漢字は、「みちる」「いっぱいになる」という字義で、角盈男や梵盈進のように人名にしばしば使われる。前漢の第2代皇帝の恵帝の諱は劉盈(りゅうえい)である。(難読漢字)
ロシア極東のサハリン州で日本兵4人の遺骨が発見された。20歳前後の若者の骨だそうだ。1945年8月9日のソ連による対日参戦でサハリンは戦場となり、双方に2500人あまりの犠牲者を出した。8月はやはり戦争を考える月であり、戦後はいまだ終わっていない。2006年頃、安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を唱えた。日本が敗戦の結果、連合国から押し付けられた制度や価値観を改め、憲法改正をはじめとした改革を行おうということである。最近、麻生副総理が講演で「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていった。あの手口、学んだらどうかね」と発言し、国際社会から非難を浴びている。このような発言の背景は日本の保守政治家の本心のように思える。2000年に森喜朗は「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国である」と発言した。マスコミからは国民主権や政教分離に反するものと非難されたものの発言を撤回することはなかった。つまり保守政治家の理想とするところは立憲君主制による戦前回帰につきる。過去の歴史認識が問われているが、戦争への反省は忘れ去り、愛国主義的な風潮が若者の支持を得ている。震災後、経済不況を乗り切りため、独占資本家と政治家が全体主義を目指すというコースは戦前とよく似ている。日本人は戦前から少しも成長していない。
「ライブ・エール」を見ていると、MISIA&加藤登紀子の歌のときに画面がフリーズ。NHKの機器の故障と司会が謝罪していた。ライブではなく事前収録のものとで編集していたのだ。アントニオ猪木さんの出演は自分も体調が悪いので元気をもらった。「炎のファイター INOKI BONーBAーYE」。
能年玲奈が「のん」、清水富美加が「千眼美子(せんげんよしこ)」、けやき坂46が「日向坂46」に改名して芸能活動を再開している。諸般の事情があるのだろう。最近では、水雲のAKANEが「山西アカリ」でソロデビュー。ミムラが「美村里江」、森カンナが「森矢カンナ」に変更している。芸能人はとくに芸名が命。五木ひろしは成功するまでに、「松山まさる」「一条英一」「三谷謙」「中川淳」「五木ひろし」と5回も改名している。林長二郎は長谷川一夫、城健三郎は若山富三郎、中村錦之助は萬屋錦之助、柴田吾郎は田宮二郎、峰岸龍之介は峰岸徹と改名し、いずれも俳優として成功している。
おもな芸能人の改名を調べる。三根耕一(ディック・ミネ)、李香蘭(山口淑子)、目方誠(美樹克彦)、藤純子(富司純子)、安田道代(大楠道代)、丸山明宏(美輪明宏)、悠木千帆(樹木希林)、春日はるみ(川中美幸)、野口ヒデト(真木ひでと)、海原千里(上沼恵美子)、大形久仁子(内田あかり、内田明里)、津坂まさあき(秋野太作)、山岡英二(吉幾三)、カールスモーキー石井(石井竜也)、渡辺えり子(渡辺えり)、星美里(夏川りみ)、真中瞳(東風万智子)、高樹沙耶(益戸育江)、花田虎上(若乃花)。小達雅子(夏目雅子)、水原里絵、高原里絵(深津絵里)、近藤久美子(相本久美子)、塚本璃子(成海璃子)のようにティーンでデビューした場合の旧芸名もある。政治家も改名することがある。鳩山由紀夫が友紀夫に改名。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
この短歌は明治43年7月26日夜の石川啄木のノートに記されている。初出は8月4日付の東京朝日新聞である。貧しい勤労者の心理、庶民共通の悲哀を表現し、働いても働いても楽にならない現実について深く考えようとしているところに特色があり、21世紀の現在も多くの庶民にとっては痛切な実体感を伴う一首であろう。また手帳の片隅に鉛筆書きで次のような走り書きも見つかっている。
心よきあはれこのつかれ、息をもつかず仕事をしたる後のこのつかれ
明治42年3月、当時の啄木は東京朝日新聞社に勤務して一応の生活が保証され、その年の6月、やっとのことで函館に残していた家族を呼び寄せ、本郷弓町の喜之床という理髪店の二階ニ間を借りて移り住んだ。彼は生活費を少しでも得ようと、夜の勤までして懸命に働いたが、暮らしは依然として苦しく、貧乏は死ぬまで彼の心をおびやかし続けた。
私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何より先にモツと安易にするだけの金をとる為に働いてゐます。その為には、社で出す二葉亭全集の校正もやってゐます。田舎の新聞へ下らぬ通信も書きます。それでも私にはまだ不識不知空想にふけるだけの頭にスキがあります。目がさめて一秒の躊躇もなく床を出て、そして枕についてすぐ眠れるまで一瞬の間断なく働くことが出来たらどんなに愉快でせう。そして、さう全身をもつて働いてゐるときに、願くはコロリと死にたい。かう思うのは、兎角自分の弱い心が昔の空想にかくれたくなる其疲労を憎しみ且つ恐れるからです。(大島経男宛書簡)
啄木の貧乏の原因については、彼が経済観念に弱いところからもきていた。友人に対してたえず金銭上の迷惑をかけていたことはよく知られている。また、少し金が入るとふらふらと女遊びに使ってしまうような弱さもある。またひとつの職場に長続きしないという人間関係のまずさもあった。そうした人生の辛酸をなめ、労苦を経験してきた啄木は上京後、人間的な成長の跡がはっきりその作品に現れてきていることは「時代閉塞の現状」という評論に読み取れる。この評論によって、宿命論に陥ってあがきのとれなくなった自然主義をはっきり否定して、国家、社会に対する関心を深め、社会主義の研究をはじめ、「人民の中へ」を志している。しかし、それを果たす前に啄木はすでに不治の病気にかかっていた。自分だけではなく、母も妻も結核に冒されるという苦境のどん底で若い生命をおわったのである。啄木の貧困の生活の中から生まれた文学は、これからも、いつ、いかなる時代になろうとも多くの人々に親しまれるであろう。(参考:現代文学研究会編 佐々木一夫解説「啄木人生のーと」真昼文庫)
759年のこの日、鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立する。唐の第6代皇帝玄宗(685-762、在位712-756)は武韋の禍を治め、父の睿宗を復位させ、のち28歳で即位した。年号を開元と改め、賢臣を起用し、政治に精励したので、「開元の治」とよばれる中唐一大盛時を現出させることになった。この、玄宗という皇帝は、なかなか日本との縁が深い。当時の日本は、東大寺大仏の鋳造などにみられるように仏教文化の花盛りで、8世紀だけでも5回の遣唐使が海を渡っている。中国の土を踏んだ日本人は数千人に及んでいる。正倉院にはそのころ渡来した品々が多く秘蔵されており、また正月に屠蘇をのみ、端午の節句に菖蒲の葉を軒端にさすなどの習慣はそのころの唐から入ったのだという。玄宗は皇太子時代に日本の留学僧弁正とよく碁を打ったらしい。阿倍仲麻呂が唐の都長安を訪れたのは、玄宗が即位して6年目である。鑑真が5回も失敗したあげく、ようやく日本に着いたのは、玄宗の治世がおわる3年前、753年12月20日であった。楊貴妃のうわさも、その在世中に日本に伝えられていたであろう。(参考:村山孚「人物中国志5美女猛女の系譜」、8月3日)
日本にはいくつ大学があるだろうか。統計によると788校あるが、うち4分の3は私立大学が占めている。わたしの夢も私立の三流大学へ行って、映画同好会などに入って恋愛を楽しみたかったが、現実はそのようにはならなかった。青春小説といえば宮本輝の「青が散る」(1982年)である。お話は、新設大学に第1期生として入学した椎名燎平が主人公。燎平は入学手続きのため事務局の入口にいた。そのとき、真っ赤なエナメルのレインコートを着た娘が立っていた。「うーん、どうしょうかなァ。…迷うなァ」と言った。「俺も、どないしょうか、ずっと迷てるんやけど…」建物の白い壁に凭れかかると、娘はじっと燎平を見ていた。「まあ、…上級生が一人もおれへんという点は、気楽でええよなァ」その言い方がおかしかったのか、娘はくすっと笑うと、無言のまま笑顔を燎平に注いできた。娘はふいに事務局に入って行き、受付のガラス窓をあけて。「お願いします」と叫んだ。燎平はぼんやりとあとを追った。さっさと入学手続きを済ますと、娘は髪についた水滴をぬぐいながら、「お先に」と言い、それから軽く胸のところで手を振った。燎平も急いで入学手続きを済まし、彼はキャンパスを出た。それが佐野夏子と出合った初めての日であった。
宮本輝の『青が散る』はテニスというスポーツを初めて文学作品にした青春文学である。翌年にはドラマ化されたが、原作は茨木市にある追手門学院で関西の地名も多く出てくるが、ドラマでは東京が舞台となり、原作とは異なるトレンディードラマになっていた。二世タレントがデビューして、「青散る族」という流行語も生れた。
夕方、また買出し。宮本輝「青が散る」「錦繍」、小川洋子「ホテル・アイリス」「薬指の標本」、矢沢あい「エスケープ」、美内すずえ「ガラスの仮面2、3」、牧村久美「天使の歌 全5巻」。
今朝放送されたNHK「あさイチ」で国立西洋美術館に所蔵されているシニャックの絵画「サン・トロぺの港」(1902年)が紹介されていた。 ポール・シニャック(1863-1935)という新印象主義の画家は一生、海を愛し、ヨットを愛した。1884年、第1回アンデパンダン展でジョルジュ・ピエール・スーラ(1859-1891)と知り合う。4歳年長のスーラとの出会いはシニャックの芸術に決定的な影響を与えた。しかし、1891年3月29日、スーラの突然の死に深い打撃を受ける。何ヶ月間もまったく意気消沈した日々を過ごした。そこから彼を救ったのは地中海とその光であった。地中海に面したル・ラヴァンドゥの近くに住み始めたアンリ・クロスから「陽の光と豊かな線を愛するあなたはきっとここが気に入るだろう」という手紙をもらい、シニャックは、1892年4月、ヨットで大西洋からミディ運河を抜けて地中海に出、当時海からしか容易に近づけなかった、サン・トロペを発見する。当時はまだ鄙びた漁村であったサン・トロペに住み、以後20年にわたってここを基地としてマルセイユ、ヴェニス、コンスタンチノープルなどヨットで出かけて、地中海の港町を多数描いた。
シニャックの偉大さは、スーラの科学的絵画理論を広めただけではない。スーラの死後、新印象主義の後継者となり、アンデパンダン協会の中心的存在として活躍する。20世紀初頭に現れたマテイス、マルケ、ピュイ、マンギャン、オトン・フリエス、ラウル・デュフィ、カモワン、ケース・ヴァン・ドンゲン、ルイ・ヴァルタ、ドラン、ヴラマンク、ジョルジュ・ブラックらの作品がほとんどこのサロンに出品された。フォーブ(野獣)の画家たちのほとんどは、シニャックを通じて新印象主義の影響を程度の差こそあれ受けているのである。
英単語encyclopedia は encyclopaediaともつづる。百科事典の代名詞で、240年余りの歴史を誇る英語の「ブリタニカ百科事典」の出版中止が2012年3月中旬決定した。販売元のエンサイクロぺディア・ブリタニカでは電子版への完全移行に向け、現行の2010年版(全32巻)を在庫限りとして、1395ドル(約11万4000円)で販売している。
インターネットの普及によって、大部な百科事典は家庭には無用の長物となった。だが研究者や図書館にはやはり必要なるものである。インターネットの世界の情報は日々に更新されるが、図書はその時代の考えや思想が反映されるので古くなるほど歴史資料として価値がででくる。古い事典、辞典は貴重である。実際にレファレンスに携わってきた者は誰しも感じることだろうが、refernceは容易な仕事ではない。その容易でないことを痛感するのは、解答を与えるとき、これで正しい解答であったどうかということと、解答が手際よく、正解な解答が迅速になされたかどうか、これが常につきまとう不安である。現代はだれでもがパソコンから検索して必要な情報を得ることができる時代になった。これらのノウハウの多くは図書館情報学の分野で研究されてきた学者と実務家との経験が基礎になっていると感じている。つまり現場を踏まえての実学があるから参考業務が存在価値がある。インターネットの時代であろうと百科事典が消滅しようと、専門的な職員の必要性は永遠に変わらない。
前141年、16歳で即位した武帝は、54年にわたって漢帝国の頂点に君臨した。そしてこの時代こそ、西漢王朝の全盛期であり、中央集権的な支配体制が確立したといえる。国内に大きな争いはなく、国力は充実し、首都長安には莫大な銭や穀物が備蓄されていた。国庫に納められた穀物のなかには、あふれて腐るものも少なくなかった。
武帝は自制心に欠け、激高しやすい性格ではあったが、政権運営の面においては有能さを発揮し、積極的な対外政策にも打って出る。前127年には衛青がオルドス地方(現・内モンゴル自治区の西部)を奪回し、前121年には霍去病が祁連山に進出し、匈奴に大勝利を収めた。これにより漢王朝は中央アジアへ勢力を拡大し、同地方への漢人の入植が促進されるのである。また、武帝は同時期に外交政策として前139年に張騫を西域へ派遣。張騫が西域に送られた目的は、西のイリ地方に建っていた大月氏と結ぶことで匈奴を挟み撃ちにするということがあったが、大月氏の拒否に遭い、目的は果たせなかった。だが、その代わり、張騫がバクトリアやフェルガナに辿り着いたことで現地の事情を深く知るとともに、遠くローマ帝国の情報を知り得ることができ、漢王朝に多大な貢献をもたらすことになる。事実、漢王朝はその後の前104年、前102年、前42年に西域へと進軍することでいわゆる交易路の「シルクロード」を開いた。
武帝時代 年号の創始・建元、皇帝の権威誇示
中央集権体制の完成
儒教の官学化 董仲舒の献策 五経博士の設置(参考:小倉芳彦「孔子から董仲舒へ」古代史講座12)
官吏任用法として 郷挙里選を制定
塩・鉄・酒の専売
経済政策 均輸・平準法 五銖銭の流通
対外政策 匈奴討伐 将軍衛青・霍去病派遣
西域経営の拠点として武威・酒泉・張掖・敦煌の4郡設置
李広利は軍馬を求め、フェルガナ(大宛)に遠征
衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡以下4郡を設置
巫蠱の乱 宮廷内での権力争い。巫蠱(ふこ)とは、木の人形を土中に埋め、これを呪詛する邪信仰。(世界史)
漢武帝関係文献目録
漢・武氏祠画像題字 書跡名品叢刊 田中有解説 二玄社 1979
漢武帝 尹湘豪編著 南昌・江西人民出版社 1981
雄才大略的漢武帝(祖国双書) 劉修明 上海人民出版社 1984
漢の武帝 中国の英傑3 福島吉彦 集英社 1987
楚漢春秋 漢武故事 漢武事略 叢書集成初編 中華書房 1991
文章の字句をいろいろと練ることを「推敲」という。有名な故事に基づく。唐の詩人、賈島は、科挙の試験を受けに都に行ったとき、ろばに乗って詩を作り、「僧は押す月下の門」という句を思い浮かべた。しかし彼は、「推」の字を改めて「敲(たたく)」としようと思った。どちらにしたらよいか迷って、手を動かして「推す」しぐさと「敲く」しぐさをやってみたが、それでもまだどちらがよいか決まらなかった。思わず夢中になってしまい、都の長官の韓愈の行列に突き当たってしまった。そこで賈島は行列に突き当たってしまった理由をくわしく話した。それを聞いた韓愈が言ったことには「敲の字にしたほうがよいね」と。そして同じ詩人として気の合った2人は、仲良く馬を並べて詩を論じ合いながら行った。この故事の出典は「唐詩紀事」巻40(一説には宋時代の「苕渓漁隠叢話」)「推す」より「敲く」がなぜよいのか。月の下で音が響くから、音響的な広がりに風情が感じられるとしたのであろう。「推敲」は数ある中国故事の中でも最も有名なものの一つである。文章家には推敲はつきものである。とくに有名な作家はバルザック。コーヒーを何杯も飲みながら何度も推敲を重ねた。司馬遼太郎はカラーサインペンで推敲を重ねている。(Balzac)
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