日本暗殺史 蘇我入鹿
歴史を動かす原動力は何か。支配するものと、支配されるものの対立こそが、歴史そのものである。日本の歴史の転換期には、必ずといっていいほど凶暴な暗殺事件が、起こっている。古くは645年に蘇我入鹿が暗殺されたことで起きた大化の改新。鎌倉時代や戦国時代、幕末など、その後も日本ではテロリズムによって政治体制を大きく変えた。1936年に起こったニ・ニ六事件が日本を戦争への道を進むきっかけとなった。そこで日本における暗殺事件をとりあげてみよう。 中大兄皇子が中臣鎌足らと謀り、蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺して、権力を奪った政変を「大化の改新」と覚えたが、今の歴史教育では入鹿暗殺事件は「乙巳の変(いつしのへん)」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的である。
皇極4年6月12日、飛鳥板蓋宮の大極殿。蘇我入鹿は儀式に参加するため入朝した。蘇我石川麻呂が上表文を読み上げるが、その声が震えている。不審に思った入鹿がその理由を問うた時、長槍を持った中大兄皇子が殿側から躍り出てきた。さらに佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田が出てきて刀を振り下ろし、入鹿の頭と肩、片脚を斬って殺害した。大雨が降って水が溢れた庭に、入鹿の死体は投げ捨てられ、障子で覆いをかけられた。入鹿暗殺を知った漢直の一族は、蘇我氏の館に参集したが、中大兄皇子が巨勢徳陀古を派遣して説得すると、退散してしまった。味方を失つた蝦夷は、翌13日、館に火を放ち、「天皇記録」「国記」などの珍宝もろとも、炎の中に消えていった。こうして朝廷で長年の権勢を誇った蘇我本宗家は滅びたのであった。
ともかく645年という年号は、わが国で初めて年号をたてて大化元年とした、記念すべき年であり、記憶されるべき出来事であることには間違いない。大化改新によって律令による政治が確立されたとされる。
無事故(645)で終わった大化の改新
変事、中大兄皇子は葛城皇子と名乗っていた。
6月12日、葛城皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す
6月13日、蘇我蝦夷が自害
6月14日、皇極天皇、軽皇子に譲位(孝徳天皇)
軽皇子が乙巳の変の黒幕ではないかという説や「646年」説もある。また近年、「大化の改新」そのものがなかったという説もある。日本書記の詔には、漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれている。しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことで事実としておかしいというのが理由とされる。
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始めうっかり「乙女の恋と大化の改新」と読んでしまった。
投稿: 通りすがり | 2011年6月12日 (日) 09時05分
大倭国造の、蔓木 毛人(蘇我 入鹿)の大人(大臣)が、甘樫丘から法興寺に、倭 建の大君即位式に向かう途上、道端から飛び出して来た餘 翹岐(藤原 鎌足)に暗殺されました。倭 友(中大兄)の方も軍兵を率いて、建(大海人)の館を包囲します。妻の1人道子(額田王)を建の命と、引き換えに渡す様に要求され建は引き渡します。毛人の娘庄子が、君(妻)として残ります。彼女は稚建(高市皇子)の母に為ります。
倭 友の母、佐富(鏡女王)が、645年、兄弟の豊原 有秋(鏡王)に譲位します。蔓木 雄物大人(蘇我倉萬呂)が擁立しました。餐 内萬呂大人は、倭 友を太子とします。
投稿: 邇波 某 | 2021年9月14日 (火) 22時35分
倭 友は、百済情勢が緊迫の度を増している為、老年の有秋大君から譲位を蔓木 雄物大人に願いますが、拒否されます。
有秋大君は、譲る構えで居ました。遂に友は、軍兵を率いて雄物と雄当父子を急襲して、暗殺に成功しますが、即位出来る状況では無く、有秋は、659年自分の娘、友の妻となっている道子(額田女王)に譲位します。聖大君と戦った蔓木 小祚大人の息子、萬呂(巨勢 徳太•多 品治)が大人として、政権を運営します。
倭 道子大君は、友称制の政策を実施して行きます。餘 翹岐は、妻の佐富を通して。大人に圧力を掛けれました。660年百済が滅亡して仕舞うと、餘 翹岐は百済に帰国し、再興する為、百済王に為ります。友称制は、661年に敵対視する豪族を中心に、百済救援の大規模救援の軍隊を送る為に、最前線に向かいます。
投稿: 邇波 某 | 2021年9月14日 (火) 22時37分