ペリー浦賀来航
嘉永6年6月3日、江戸とつい目と鼻の先の浦賀沖に、4隻の黒船が姿を現した。江戸の町は大騒ぎとなった。「太平のねむりをさます上喜撰 たった四杯で夜もねむれず」気のはやい町民のなかには、家族や荷物の疎開を始める者もいた。江戸の町は大パニック。これから時代は幕末に向かう。日本の国論は開国の是非をめぐって開国論と鎖国・攘夷論とに二分し、やがてそのなかから尊王討幕論が台頭し、複雑な様相となる。ペリーが開国を要求した理由は、太平洋航路の需要が高まっていたからである。航路の安全保障のためには、日本や琉球王国の開国が不可欠だった。また、当時のアメリカは工場の照明に用いる鯨油を求めて、北太平洋でのマッコウクジラの捕鯨を活発に行っていた。その燃料や食料、水の確保のための中継港としても、アメリカは日本の開国を強く望んでいた。
マシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858)はロードアイランド州サウス・キングストンで、クリストファー・レイモンド・ペリー大佐の三男として生まれた。母はアイルランド出身のセーラ・ウォーレス。兄のオリヴァー・ハザード・ペリー(1785-1819)も海軍軍人。日本ではマシュー・ペリーを知らぬ方はいないが、本国アメリカで「ペリー提督」といえば一般に兄のほうを指す。1809年士官候補生として海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなどに勤務し、ブルックリン海軍工廠司令官時代には蒸気軍艦フルトン号を建造し、「蒸気海軍の父」と称賛された。
アメリカは嘉永4年にアメリカ東インド艦隊司令長官オーリックを訪日使節に任命したが、オーリックは旗艦サスケハナ艦長との不和其他の問題を起こして解任された。代わって選ばれたペリーは、オーリックの先輩であったが、日本の開国が重要性を理解しており、甘んじて承諾した。ペリーは非常に慎重で且つ勇断の武将であった。彼は出発前、詳細な日本研究に没頭し、日本人の国民性に考慮して、無理な強制は避けなければならないが、十分な威圧を加え、忍耐強く交渉する決意を抱いた。彼に与えられた使命は、漂流民の保護、薪水食糧及び石炭の供給、通商の開始、の三つであった。嘉永5年10月、ペリーはアメリカ東海岸ノーフォークを出発し、大西洋まわりで4月香港投錨。そして6月、サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガの4隻を率いて日本、浦賀に入港した。久里浜で幕府の戸田氏栄、井戸弘道にフィルモア大統領の親書を手渡し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められ退却した。
一旦中国に帰ったペリーは、ロシア、イギリス、フランス等が、日本に向かう気配のあるを察し、予定を早めて、嘉永7年1月(1854年2月)、艦隊を7隻に増加して、日本に来航し、談判中は更に2隻を加えて、9隻を以て威圧しつつ、神奈川において、3月3日(3月11日)、日米和親条約締結に成功した。同条約では、幕府に下田、箱館の開港、生活必需品の供給、領事駐在権、片務的最恵国待遇を認めさせた。さらに6月下田で、通商の足がかりとなる追加条約を締結した。これをもってペリーは、日本を開国・通商に導き、西洋資本主義社会に日本を包摂したと評された。
ペリーは帰途、那覇にも寄港し、琉球王国とも修好条約を締結、帰国後、「日本遠征記」(1857)を監修した。翌年、ニューヨークにて死去。享年63歳。浦賀来航からわずか5年後のことである。
(Matthew C. Perry,Susquehanna,Mississippi,Plymunth,Saratoga)参考文献:小島敦夫「ペリー提督 海洋人の肖像」講談社現代新書)
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