アヴォガドロ忌日
アメディオ・アヴォガドロは1816年のこの日、イタリアのトリノで死んだ。同地で生涯の大半を送った。はじめ大学で哲学と法学を修め、教会に関する論文で学位をとり、法学博士となり数年間、弁護士を職業とした。1800年ごろから、物理・数学の研究を始め、1811年、フランスの学術雑誌「コント・ランデュ」に有名な「アボガドロの仮説」を発表した。1820年にビットリオ・エマヌエレ1世によってイタリア最初の数理学物理学講座がトリノ大学に設立され、その初代教授となった。この講座は1822年末、政治的理由によって閉鎖された。政治的事件に何らの関係もなく、おだやかで敬虔な人柄であったアボガドロは、わずかの年金で引退させられた。彼は弁護士の仕事にもどり、ひきつづき科学の研究をすすめた。10年後、王政復古がおこなわれて大学は再開され、再びその教授となり、1850年に退職するまで研究と教育に専念した。アボガドロの説は約50年間無視され1858年カ二ッツァーロ(1826-1910)によって認められ、1860年カールスルーエの国際原子量会議に紹介され、広く認知されるにいたった。
ドルトンの原子論(1808年)は、質量保存の法則、定比例の法則、倍数比例の法則を説明することができたが、ゲー・リュサックの気体反応の法則(1808年)を説明できなかった。そこでアボガドロはこの矛盾を解決するため、分子の概念を導入し、次の仮説を立てた。
(1)気体物質はその種類がどのようなものでも、同湿、同圧の同体積中には同数の分子を含む(図1)
(2)分子はいくつかの原子からなるもので、単体の気体では2個の原子よりなる(図2)
(3)気体の体積は、一定の圧力、一定の温度で測定すれば、系の中の分子のモデル数に比例する
(Amedeo Avogadro,7月9日 )
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