清水寺と坂上田村麻呂
798年のこの日、坂上田村麻呂が清水寺を建立した。寺の起源には諸説あるが、奈良時代にこの地を鹿狩りに訪れた坂上田村麻呂が、修行中の僧延鎮に殺生をいさめられ、十一面観音を作り祀ったのが始まりとも伝わる。
坂上田村麻呂は蝦夷征伐で知られる武将であるが、坂上氏は東漢(やまとのあや)という渡来系の氏族の一つで武略に秀でていた。田村麻呂より4代前の老(おゆ)は壬申の乱で活躍しているし、田村麻呂の父の苅田麻呂は770年に陸奥鎮守府将軍になっている。田村麻呂は797年に征夷大将軍となり陸奥に赴いている。そして阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)が802年4月15日に降伏し、胆沢城(岩手県奥州市)を平定した。田村麻呂はその助命を嘆願したが、入れられず阿弖流為は河内国椙山で斬首された。その翌年、田村麻呂は、陸奥経営のため、胆沢城のさらに北に志波城(岩手県紫波郡)を築いた。805年、京都に戻り参議となる。これを最後に蝦夷の地に戻ることはなく、田村麻呂は秋田、青森には赴いていない。嵯峨天皇の作といわれる「田村麻呂伝記」には「身長五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸、眼は鷹のように鋭く、黄金色の髪を豊かに蓄えている。怒って睨めば猛獣もたちまち倒れ、笑って眉をゆるめると幼児もたちまち懐く」とあるが、このころから坂上田村麻呂伝説が生れた。清水寺縁起の絵巻は江戸時代後期の画家、古筆了伴が描いたもの。アテルイに関しては詳しいことは不明だが、史料では大墓公阿弖利為(たものきみあてりい)とある。アテルイは蝦夷(えみし)ではあるが、アイヌなのかどうかは不明。(「田村麻呂と阿弖流為」新野直吉 吉川弘文館、7月2日)
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アテルイは蝦夷ではあったが、アイヌ人であったかどうかは定かではない、ということでしょうか。
アテルイを小説にしたいのですが、資料が少なくて難儀してます。( ̄Д ̄;;
投稿: ,根保孝栄・石塚邦男 | 2014年10月20日 (月) 23時16分