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2022年6月30日 (木)

10人のアルバート(アルベルト)

Einstein  1905年のこの日、アインシュタイン(1899-1955)が相対性理論に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌「アナーレン・デル・フィジーク」に提出した。当時、アインシュタインはスイス連邦特許局の無名の技師だった。ところでアインシュタインの名はAlbert、ドイツ・フランス・イタリア風の読みではアルベルトまたはアルベール、英語ではアルバート。Alspalding
   この名の有名人としては、フランスの医師・神学者のシュヴァイツァー(1875-1965)やイタリア人のサッカー日本代表監督だったザッケローニ、ペルーの日系人政治家フジモリなどがいる。大リーグの野球選手ボストン・レッドストッキングスのスポルディング投手(1850-1915)。彼は2年連続でシーズン50勝以上の勝数を記録している。スイスの彫刻家ジャコメッティ(1901-1966)、イタリアのスキー選手トンバ、オランダの画家カイプ(1620-1691)、イギリスのラファエル前派の画家ムーア(1841-1893)、ベルギーの細胞生物学者クラウデ(1899-1983)、作家カミュ(1913-1960)、イギリスの俳優フィニーなど。(6月30日)

 

 

 

 

2022年6月29日 (水)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2022年6月28日 (火)

猛暑と地球温暖化

 6月26日、東京都心では、6月として最も暑い36.2°Cを観測した。この先1週間は夏の暑さをもたらす太平洋気圧が勢力を強めているので厳しい暑さが続くとみられる。いま世界各地でみられる豪雨、洪水や大水害、猛暑などの異常気象は何が起因しているのであろうか。

 まず近年の異常気象とみられる現象が起こっている背景には、地球温暖化が原因であるとする説が考えられる一方では温暖化懐疑論もあった。猛暑の原因には、複数の要因があり、科学的に立証することはなかなか困難である。地球温暖化とは、産業革命以降の石炭の使用と、1960年代に始まる石炭・石油の大量消費により、大気中の二酸化炭素量は増加してきた。地球温暖化に強く影響する二酸化炭素の排出量削減は国際的な課題になっている。地球温暖化に伴って、熱による海水の膨張などが起こり、海面が上昇している。海面上昇は20世紀の100年間で約170mmと推定され、このまま上昇が続けば、沿岸部や低地に暮らす多くの人々の生活に影響を及ぼす。このほかにも農作物の耕作可能な地域が変わったり、感染症を媒介する動物の分布域が広がったりするなどの影響もみられる。

 今年はロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、ロシアが欧州への天然ガスの供給を停止したため、エネルギー危機が起こっている。そのため欧州では石炭火力発電の利用が拡大している。温暖化の原因は人間活動の活発化が大きい。2007年の国連第4次報告書で「温暖化には疑う余地はない」と結論づけているが、今年の夏は世界的規模の猛暑が来ることは間違いないだろう。(森山厄介)

 

サラエボ事件(1914年)

P0790   バルカン半島は小さな国々で構成され、あるものは独立国、あるものは600年もトルコ宗主の支配下にある国々であった。それらの諸国は、経済的に立ち遅れ、政治的にも不安定で、ヨーロッパの工業化の主流からはずれていた。バルカン問題を巡っての最初の国際的な事件は、1908年にオーストリアがボスニア・へルツェゴヴィナを略奪したことである。ヨーロッパの平和に危機が迫りつつあることは、いまや明白であった。 1914年のこの日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、バルカン半島のサラエボで一青年ガヴリロ・プリンツィプにピストルで暗殺された。7人の暗殺犯は、かねてから反オーストリア運動を企てていた「黒手組(「黒い手」とも訳す)」ツルナ・ルカの団員であった。反オーストリア運動に憤激していたオーストリアは、セルビア政府に対し、「犯人の裁判にオーストリア判事の参加」を含む最後通牒を1ヶ月の期限付きでつきっけ、セルビアがこの項目をうけいれないため、戦争は勃発した。短期間のうち、世界的規模で戦争が拡大したので「世界大戦」と呼ばれるようになった。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国側に対し、イギリス・フランス・ロシアの協商側は連合国と称した。この戦争は、予想を裏切って短期決戦では終わらず、長期化するとともに世界化し、国民の総力を動員する総力戦または全体戦争となった。

220pxgavrilloprincip_2     世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の7人の暗殺犯はどうなったのか。大公暗殺犯(サラエボ事件)の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)はその後、セルビアの愛国者として賞揚された。プリンツィプは犯行当時、未成年だっため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし劣悪な刑務所環境のため結核により、1918年4月28日、獄死した。7人の暗殺犯のうち、ヴァソ・チュブリロヴィチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。最初に手榴弾を投げたネデリュコ・チャブリノヴィチは1916年に獄中で死亡。Gavrilo Princip(6月28日)

 

 

2022年6月23日 (木)

ヒトラーとエッフェル塔

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    1940年6月14日、パリはドイツ軍によって無血占領され、フランスは降伏した。6月20日、休戦条約の署名がおこなわれ、3日後の6月23日、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)はフゴー・シュペールとともにお忍びでパリの名所観光をしている。朝6時にレ・ブルージュ空港に着いたヒトラーは、同9時には、その飛行場から発った。わずか3時間のパリ見物だったが、ヒトラーは「パリを見物するのが私の夢だった。今日、その夢がかなって、とてもうれしい」と語っている。

   ヒトラーはパリのどこを見物したのだろうか。ドイツの彫刻家アルノ・ブレッカーによると、廃兵院(アンヴァリッド)、シャイヨー宮を廻って、エッフェル塔に上ったという。(『パリ、ヒトラーと私』)ヒトラーがエッフェル塔に上ろうとすると、突然エレベーターが故障した。やむなくヒトラーは最上階まで歩いて上った。ところが、ヒトラーはエッフェル塔には上らなかったとする説もある。この否定説によると、シャイョー宮に行くのにシャン・ド・マルスを横切りながら、下からエッフェル塔を眺めただけだったという。どちらが本当か不明である。真相はエッフェル塔だけが知っている。

   しかし、何故、ヒトラーはエッフェル塔を見物したのだろうか。ナポレオンの柩が納められた廃兵院(アンヴァリッド)や凱旋門ならば話はわかるが、エッフェル塔が花の都パリのシンボルというだけの理由なのだろうか。一説によると、エッフェル塔が完成したのはフランス革命100周年記念のパリ万博で、ヒトラーと「同じ年」だからという。つまりヒトラーは子供のころからエッフェル塔に憧れを持ち続け、エッフェル塔に行きたがっていたという。もともと画家志望であったヒトラーはキュービズムなど現代美術は頽廃芸術として嫌悪していたが、古典芸術であるルーブル美術館やパリには人並み以上の憧憬を抱いていたと想像するのはケペルだけであろうか。

   エッフェル塔を背景としたヒトラーの記念写真には合成もあるかもしれないが、この記事に載せた写真は、愛人エヴァ・ブラウン(1912-1945)に送った写真で、ジャン・ド・マルス公園あたりで撮影された本物とみられている。

2022年6月22日 (水)

鳴門のうず潮で始まった昭和時代

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   政府は今年の男女共同参画白書で、「もはや昭和ではない」として結婚や家族の在り方が多様化している現状を述べている。メディアの報道でいう「昭和」とはほとんど戦後期の昭和のことで、なにか違和感がある。言うまでもなく、昭和時代は1926年12月25日から1989年1月7日までである。 昭和という時代は「鳴門秘帖」で始まった。吉川英治の新聞小説の映画化は日活、マキノ御室、東亜等持院と三社が競作した。主人公の法月弦之丞には谷崎十郎、市川右太衛門、光岡竜三郎らが虚無僧の姿となって銀幕に登場した。阿波・蜂須賀の十代藩主蜂須賀重喜が倒幕思想家であったかどうかは知らない。吉川英治が「鳴門秘帖」執筆となった切っ掛けは二説ある。①川柳仲間であった伊上凡骨が阿波の出身で、蜂須賀公の話を聞いた②幕末の洋画家・司馬江漢の「春波楼筆記」に記されたわずか120字に満たない文章からヒントを得た。②説は、司馬江漢みずからが危険思想の持ち主として偽死の引札を配布するほどだったが、俗説の蜂須賀小六・野武士の頭というイメージから、その後裔の徳島藩が不穏の兆しありとして隠密が潜入するという設定は、なんとなく首肯できるような気がする。時代は鳴門の渦のように複雑怪奇な激動の昭和が始まろうとしていた。

2022年6月21日 (火)

三四郎とストレイシープ

Photo_2    「ストレイシープ(迷える羊)」という言葉は、聖書のマタイによる福音書18章10~14節に由来する。100匹の羊の中の一匹が迷子になり、羊飼いは99匹の羊を残して迷子の羊1匹をさがしに行かないだろうか、というイエスのたとえ話がある。夏目漱石の小説「三四郎」の中にも里見美禰子という女性の謎めいた言葉として印象的に使われている。一般にこの言葉は聖書の中では「罪人」という意味で使われている。漱石「三四郎」においてどのような意味で使ったのか解釈をめぐってはさまざまな意見がある。漱石も読者がいろいろな受け止めができることを意図したものであろう。

    小説の終わりで、美禰子がかすかな声でいう。「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」美禰子はストレイシープが自分のことであり、三四郎を好きであることを告白している。これに対して三四郎は「ただ口の内でストレイシープ、ストレイシープと繰り返した」で小説は終わる。

    ところが英語の聖書には「ストレイシープ」という語は見られない。漱石が英国留学時代に研究したヘンリー・フィールディング(1707-1754)の「トム・ジョーンズ」(1749年)には「ストレイシープ」がでてくる。三四郎の友人の佐々木与次郎が「ダーター・ファブラ」(他人事ではないの意)という言葉をよく意味を知らずに使っている。岩波文庫の注では「デ・デ・ファブラ」はホラチウス「風刺詩」の言葉とあるが、それは初出であって、おそらく漱石はロバート・ブラウニングの詩集「男と女」を読んで「ストレイシープ」「デ・デ・ファブラ」という語から小説のインスピレーションを受けたものであろう。

あれはナイチンゲール、ヒバリじゃないわ

    ジュリエットはロミオと一夜を過ごす。夜明けが近づいてヒバリが鳴き始めて、やがてロミオとの別れが近づく。ジュリエットは別れがつらくて「あれはヒバリじゃなくて(夜に鳴いている)ナイチンゲールよ」と言う。

It was the nightingale,and not the lark.

 

Sudhakar1431803083   羽は赤ちゃけた色をしており、腹は灰白色で、姿は美しいとはいえないが、声はもっとも美しい鳥としてイギリスでは詩にしばしば登場する。夜明け前によく透る声で鳴く。
    英詩でナイチンゲールがうたわれるようになったのは13世紀の後半からである。この鳥は季節からいえば春と夏とにまたがっている。イギリスの夏は暦の上では夏至(6月21日)から秋分(9月22日あるいは9月23日)までをいうが、実際には5月半ばから8月下旬までをいう。イギリスの夏は涼しく、花も美しい。6月、7月が夏のさかりといってよい。

 

 

2022年6月20日 (月)

カサブランカのピアノ

O0400030010894432535   1930年代、アメリカで強盗や殺人を繰り返したボニーとクライドが使用した拳銃がナッシュビルの競売で2丁3900万円で落札されたという。数年前、マカオでマリリン・モンローのブラジャー、エルビス・プレスリーの髪の毛、ダイアナ妃のドレス、オードリー・ヘプバーンの花嫁衣裳などが競売された。記憶に残るところでは、映画「カサブランカ」のなかでドーリー・ウィルスンが弾いていたピアノをある日本人が落札した。ピアノは小さくて粗末なものだった。ドーリー・ウィルソンは歌手でピアノは弾けず、ほかのピアニストが弾く音を入れたもので、実際はこのピアノは使われなかった。

生老病死

 養老孟司さんは毎年の定期健康診断を受けていないという。ご高齢ながらふだんからはほとんど病院へ行かないという。鎌倉での泰然自若とした生活がうらやましくもある。だが一般人はそうもいかない。腰が痛いだの、便秘気味だ、歩くときふらつく、などさまざまな症状がでてくる。どんな人にもいつかは訪れる死。養老さんは「死については考えない」ことにする、とハッキリ割り切っている。死んだら周囲は葬儀や何やかやで大変だろうけど、死んだ当人はもうわからないので、死についてあれこれ考えるのは無意味だというのである。つまり養老さんは極めて合理的な思考の持ち主なのである。あの孔子も高弟の顔回が死んだとき「ああ天、われをほろぼす」といって慟哭したといわれる。「生老病死」だれもがかならず辿るコースだが、ここでは「病」について考察する。ピアニストのブーニンさんが今年7月に9年ぶりに公演するという。1985年、ショパン国際コンクール優勝で、翌年来日するや「ブーニンブーム」といわれる社会現象をおこした。あれから37年。ここまでの音楽家人生は多くの難局を乗り越えてきた。車いす生活とリハビリとの闘いで、思うようにピアノが弾けなかった時期があった。あの「永遠の若大将」加山雄三もコンサート活動から引退すると発表された。「戦場のメリークリスマス」(1983年)の世界的音楽家、坂本龍一はがんステージⅣで闘病生活を続けている。「病」に向き合うことは、人生そのもの、人間そのものかもしれない。

ヴァレンヌ事件

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  1791年のこの日、フランス国王一家の逃亡が、東部のムーズ県の小村ヴァレンヌで発覚し、阻止された。20日深夜、パリ脱出計画は実行された。従僕に変装したルイ16世は、王妃や2人の子ども(ルイ・シャルル6歳、マリー・テレーズ12歳)らとともに、チュイルリー宮殿を脱出し、馬車でブイエ将軍の軍隊が待つメッスに向かったのである。しかし、計画は失敗する。旅程が大幅に遅れ、護衛のためにブイエ将軍が街道に派遣した騎兵隊が、住民の警戒を招いてしまった。国王は、かつてヴェルサイユに滞在したことのある宿駅長ドルエなよって変装ほ見破られた。そしてとうとうヴァレンヌで、国王一家は、郡総代で薬種商人ソースの家に護送され、そこで逮捕されたのである。国王一家のパリ帰還は、国民の逃亡によって裏切られたと感じたパリの民衆の激しい反応をひきおこす。国王の肖像やシンボルが破壊され、国王廃位を要求する誓願や国王・王妃に対する誹謗文書があふれ返る。22日、東部国境に近いヴァレンヌでルイ16世一家は逮捕され、そして6月23日、国王一家は、重苦しい沈黙のなかをパリに戻った。この事件以降、国王と国民の信頼関係は崩れ、革命はついに王政打倒へと向かっていく。(6月20日)

2022年6月19日 (日)

辛店遺蹟

 中国甘粛省洮沙県にある先史時代の埋蔵遺蹟。紀元前1300年から紀元前1000年頃の彩陶文化。1923年洮河東岸の段丘上でアンダーソン博士が発掘し、土器・石器・骨角器・青銅製小刀などをともなう伸展葬の墓を発見した。土器は一般に粗製で、頸部に1個または1対の把手を備えたものが多く、黒か赤で種々の幾何学文のほか、人物や動物の形を描いている。なお彩文をほどこした鬲が2個発見されたことは、黄河中流域方面からの影響を示すものである。中国西部の新石器文化は、土地の自然的条件により分布範囲も狭く独自の文化が発達した。辛店文化、寺窪文化、卞窑文化、唐汪文化、沙井文化とよばれる。

世紀の誤記

  イチョウは神社や街路樹に植えられ、日本ではよく知られる木である。ところが世界では新生代に絶滅したため、日本のイチョウは唯一現存する種である。学名はGinkgo biloba。あえてカタカナ読みすれば「ギンコー・ビロバ」だがラテン語のわかる人でもわからないらしい。理由は誤記のためだそうだ。イチョウ属の学名Ginkgoは、日本語の「銀杏」に由来している。オランダ商館の医師エンゲルベルト・ケンペル(オランダ人)は著書「廻国奇観」において初めてイチョウを紹介した。ケンペルは日本語が読めないためGinkjoもしくはGinkioと書くべきところを、誤ってGnkgoと表記してしまった。このケンペルの綴りが引き継がれて、リンネはイチョウの属名をGinkoと記載した。種小名のbilobaはラテン語による造語で、「2つの裂片」の意味であり、葉が大きくて2浅裂することによっている。(森山厄介)

 

 

桜桃忌

Img_2308_5289321_0    本日は太宰治の命日。東京都三鷹市の禅林寺で供養が行われる。「桜桃忌」は文学忌のなかでは河童忌と並んで有名である。

   太宰が東京・玉川上水に入水自殺し、遺体が上がったのが誕生日でもあるこの日。桜桃が熟するころで、太宰の晩年の作品で好評だった「桜桃」から桜桃忌と呼ばれる。

   太宰治の叔母の言ふ。「お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行ひだけでもよくなさい」

   芥川賞候補の太宰に対して、選考委員だった川端康成は選評の中で太宰の生活態度を「生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる・・・」と批判した。それに激怒した太宰は「小鳥を飼い、舞踏を観るのがそんなに立派な生活なのか」と反論した。

   志賀直哉はある座談会で太宰を「僕は嫌いだ。あのポーズが好きになれない」と評した。これに対して、太宰も志賀を「薄化粧したスポーツマン」などと罵倒した。この対立の背景には、太宰の志賀に対する畏敬とコンプレックスがあったのかも知れない。2020年、孫の石原燃が「赤い砂を蹴る」で芥川賞の候補作に選ばれる。太宰は天国でどう思っているだろう。(6月19日)

 

 

2022年6月17日 (金)

女性の太眉ブーム

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Photo_5  第二次の太眉ブームは1980年代後半から90年代前半のバブル期にみられる。石原真理子などが代表例である。しかし90年代後半になると安室奈美恵が登場し一変する。彼女のファッションをマネしたアムラーがこぞって眉毛を細くした。だが2010年代に入ると、ナチュラルな清楚感を漂わす太眉が再ブームの兆しがみえる。

 

 

 

 

 

 

「おしどり夫婦」の語源となった鳥も浮気する!?

   夫婦仲がよいことは昔から最も祝福すべきことの一つである。中国には、「琴瑟相和す」「連理の枝」「比翼の鳥」など夫婦仲のよさを褒めたたえた多くの言葉がある。琴と瑟とを弾じてその音がよくあう。つまり音調がよく整って、夫婦の響きが相応じ調和し、楽しい雰囲気をかもしだすように、夫婦仲のよいことをいうのである。日本でも古くから夫婦仲の良いたとえとして「おしどり夫婦」ということばが使われている。しかし、野鳥の60パーセントが、つがいのオスがいない隙を狙って別のオスが巣を訪れて交尾をしているといわれる。オシドリも例外ではなく毎年パートナーを替えて交尾している。不倫や浮気は政界・芸能界だけではない。生物の生殖本能ともいえるものなのである。

 

 

 

 

礼文島、北のお花畑

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  地蔵岩を望む(礼文町)

 

  日本最北端の有人島、礼文島。面積81.33k㎡。人口3856人。島名はアイヌ語の「レブンシリ」(沖の島)に由来するという。5月下旬から8月頃、見事な高山植物や花畑を見ることができる。レブンウスユキソウ、レブンアツモリソウなど貴重な固有種も多い。澄海岬(スカイ岬)から見る海はエメラルドブルーで、沖縄に匹敵する蒼さである。地蔵岩、元地海岸などの景色も美しい。礼文島から利尻島の利尻山が良く見える。

 

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2022年6月16日 (木)

夜来香

 李香蘭の歌唱により知られている「夜来香(イェライシャン」。夜になると濃厚な香りを放つことから中国では「夜来香」と名づけられた。蘿藦(ががいも)科の植物。トンキンジャスミン、またはナイトジャスミンという。学名は Telosma cordata。古い植物図鑑などでは夜来香がチューべローズであると言われたが、実際は別種の植物であることがわかった。(森山厄介)

シレジア織布工の反乱

   1844年6月プロイセン王国のシュレジェンで起こった織布工の反乱。これは単に地方的な暴動ではなく、ドイツでプロレタリア労働運動に最初に火を点じたという意味で歴史的な出来事であった。当時シレジアの織布工は資本主義的搾取と封建的収奪という二重の責苦にあっていた。ここではしばしば封建的領主と資本主義的企業家とが同じ人間だったからである。そのため労働者はアイルランド以下の低い生活水準にあった。反乱にはギータースワルダウとランゲンビーラウらの約3000人の織布工が加わり、機械を破壊し、織元の家を襲った。反乱は約2日で軍隊によって鎮圧されたが、全ドイツの労働者に深刻な影響を与えた。ゲアハルト・ハウプトマンの戯曲「織工」もこの一揆を主題にしている。

 

 

ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)

Soviet_union1963stamp0_10__valentin   女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを乗せたボストーク6号は1963年6月16日、打ち上げられた。「わたしはカモメ」彼女が宇宙から発したこの言葉は、その女性らしい感性と表現で世界中の人々が感動した。ところが、実は「かもめ」というのは、そのミッションで与えられた彼女のコードネームだった。打ち上げ直後、機器の故障で地上との交信が途切れた。テレシコワはパニック状態となり、やたらめたら通信機で「こちらはカモメ、応答願います!」と連呼して叫んだ。この通信を世界中のアマチュア無線家たちが傍受して、「こちらはカモメ(ヤー・チャイカ)」を優雅な通信と取り違えた。ときには勘違いから感動がうまれることがある。( Tereshkova )

2022年6月15日 (水)

精霊流し

 お盆の伝統行事「精霊流し」の詳細な起源についてはあまりわからない。毎年8月15日、または16日の朝に盆の供え物の類を川や海に流して祖先の霊を送る。長崎県の各地や佐賀県・熊本県の一部でみられているが、1974年にフォーク歌手グレープ(さだまさし)歌唱の曲がヒットして全国的に精霊流しが知られるようになった。とくに長崎市の精霊流しは有名で、阿弥陀丸とか浄土丸などの名のついた精霊丸がつくられ、燈籠の火が港湾いっぱいに広がり美しい夜景をみせている。精霊流しの起源は、江戸時代享保年間に蘆草拙(1675-1729)が精霊物を菰(こも)で包み流しているのを見て、「これは霊に対して失礼だ」と考え、藁で小舟を作ったのがはじまりだと言われている。また、別の説では中国の彩舟流しに由来しているというものであり、こちらが有力な説と思われる。(参考:長崎精霊流し 土肥原弘久、入江清佳著 ゆるり書房 2017年)

 

2022年6月13日 (月)

佳人薄命

   佳人薄命。美しい容姿にめぐまれた女性はとかく短命だという意味で、蘇東坡の詩に「古来より佳人多く命薄し、門を閉じ春尽きて揚花落つ」とある。むかしの女性は軒の深い家に住んでいてめったに外出などせず、色白になりそれで美人といわれたのだが、日光浴をしなかったので早死にした人が多かったのかもしれない。

 756年のこの日、唐の玄宗皇帝は愛妾・楊貴妃を伴って長安から逃げる。翌日、追いつめられて部下に楊貴妃を縊死させる。世界三大美人といわれる、楊貴妃37歳とクレオパトラ39歳で、没年はともに40歳近くの女盛りで亡くなっているが、小野小町については生没年は不詳であり、伝説によるとかなり長命だったようである。古川柳に「薄命でなくて小町は恥をかき」がある。ちなみに20世紀のセクシーシンボルのマリリン・モンローの享年は36歳である。

   現代は、女優や人気アイドルの突然の死が大きくニュースとなり、社会に大きな衝撃となることがある。佳人薄命で思い出すのは、夏目雅子(1957-1985)であろうか。正統派アイドル、岡田有希子(1967-1986)の自殺が社会に与えた衝撃も大きかった。堀江しのぶ(1965-1988)、テレサ・テン(1953-1995)、可愛かずみ(1964-1997)、本田美奈子(1967-2005)、甲斐智枝美(1963-2006)、坂井泉水(1967-2007)、竹内結子(1980-2020)、神田沙也加(1986-2021)など女神たちの昇天に合掌。(6月13日)

シクラメン

 冬の訪れとともに、園芸店の店先はシクラメン一色となる。どこの家庭にもシクラメンの鉢花が飾られる。美しく、優雅な貴婦人のようである。サクラソウ科の多年草。地中海沿岸生まれのシクラメン・ベルシクムをもとに約20種が分布し、1731年にイギリス持ち込まれて広がった。名前はギリシア語の「まるい」「旋回」などの意味をもつcyclosからきたという。1605年にウィリアム・恋図が作った庭の植物一覧表にその名がみえる。その後改良がなされね財津、オランダなどで大輪系品種が確立している。日本へは明治から大正にかけて渡来し、昭和に入ってから本格的生産が始まった。別名「豚のまんじゅう」、牧野富太郎は「篝火花」という名前を考案した。昭和50年に小椋佳の「シクラメンのかほり」がヒットすると、シクラメン・ブームが起こって高級鉢物として日本に定着した。(森山厄介)

 

ジェボンズの太陽黒点説

   イギリスの経済学者ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1835-1882)は、太陽黒点の周期的増減が気象の変化をもたらし、農作物の収穫に影響を与えることから、景気循環が生じるという太陽黒点説を1875年頃、大英学術協会で提起している。

2022年6月12日 (日)

カーネーション

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    カーネーション。ナデシコ科の多年草。別名ジリフラワーともいい、カーネーションの原種クローブ・ピンク(丁字花)の栽培の歴史は古い。プリニウスは、アウグストゥス帝の治世にスペインで見つけられたと紀元後1世紀に書いている。そしてスペインでは、飲み物に香りをつけるために用いるとも書いている。アフリカのイスラム教徒がカーネーションを栽培し、それが13世紀になりチュニスを経てヨーロッパに紹介された。15世紀頃から園芸品種の開発が進み、1538年、イギリスの植物学者ウィリアム・ターナー(1508ー1568)の著書「新本草書」に初めて「カーネーション」が見える。カーネーション(carnation)、別名ジリフラワー(gillyflower)はイギリスの庭園に植えられる最も古い植物であるだけでなく、何世紀にもわたって一番愛された花である。(森山厄介)

 

スイートピー

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  スイートピーはシチリア島だけに自生する野生の花でフランシス・クパーニ司教が、1699年に種子をロンドンのロバート・ユーヴデイル博士に送った。この人物は多くの珍しい種の愛好家で、当時はまだスイートピーは雑草扱いだった。その後イギリス王室で愛され、品種も多彩になった。やがてアメリカへ移り、温室で栽培された。モナコ公国のグレース后妃も「古風なスイートピー」を好んだ。日本では松田聖子の「赤いスイートピー」が結婚式ソングの定番。実はスイートピーの花言葉は「別離」。(森山厄介)

 

 

フィリピン独立記念日

Aguinaldo01    1898年6月12日、フィリピンのアギナルド(1869-1964)がスペインからの独立を宣言した。しかしアメリカはスペインと戦い、キューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアム島を獲得し、また同年ハワイを併合した。

   エミリオ・アギナルドはルソン島カビテの中産地主の家に生まれ、スペインに対する独立運動カティプナンに参加。1897年に独立運動最高指導者となったが、同年末、スペインとの間で妥協的な和解案ビアックナバトー協約を成立させて多額の援助金と引き換えに戦闘を中止し、彼自身はシンガポール・香港に亡命した。アメリカ・スペイン戦争がおこるとアメリカの援助で帰国し、独立宣言を発して、マロロスに革命議会を開き大統領となったが、アメリカの背信的攻撃を受けたことを契機にアメリカによるフィリピン領有に反対する反米武力闘争を展開した。1901年アメリカ軍に破れパラナンに捕えられ、国民に対してアメリカのフィリピンにおける主権を認める宣言を出すことで釈放された。1935年のコモンウェルス大統領選挙に推されて立候補したが落選し、太平洋戦争には一時日本と結んで独立を図ったこともあるが失敗。独立運動指導者としての評価は今なお定まっていない。山田美妙は「あぎなるど伝」を書き、押川春浪は「東洋武侠教団」を書いている。( Emilio Aguinaldo,ビアクナバト,,Biak.na.Bato,総司令部が置かれていた地名,Palanan,Malolos,Cavite、6月12日)

参考文献:「あぎなるど 比律賓独立戦話」山田美妙 内外出版協会 1902,「フィリピン独立の祖アギナルド将軍の苦闘」 渡辺孝夫 2009

チューリップ

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フランクフルトで出版された商品カタログ「花譜」(1612年)

「17世紀オランダを揺るがした魅惑の花チューリップ」森山厄介

  チューリップの魅力は花姿や花色に富んだ数多くの園芸品種があることで、園芸品種は約5000ある。原種は約150種といわれ、その約4割が天山山脈の西側からパミール高原の山岳地帯を原産地とする。そして北はシベリア、東は中国へ、南はカシミールやインド、西へはコーカサス地方へと伝播した。ここからトルコやバルカン半島へ、さらに16世紀末には人の手によってヨーロッパにもち込まれた。チューリップ伝来にはいろいろな話が伝えられている。1554年に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド1世の大使として、スレイマン大王治世下のトルコに赴任したアウグウス・ド・ブスプッチが、ヨーロッパ人としては初めてチューリップを見た。その頃、トルコではチューリップの栽培は相当進んでいた。彼はウィーンに種子を持ち帰った。おそらく球根も持ち帰ったと思われるが、それらは「贈り物」として貰いうけたものだったにもかかわらず、「少なからず出費があった」と記している。1559年、植物学者コンラート・フォン・ゲスナーはアウグスブルグで数本のチューリップが咲いているのを見て、1561年に出版した絵入りの書物に初めてチューリップの絵を載せた。彼の名前を取ってゲスネリアーナ種と名づけられた。また、こんな話も伝わる。あるイギリスの園芸研究家がトルコに赴いた時、「この花は何か」と聞いたところ、現地のトルコ語ではラーレと言うのだが、形を聞かれたと勘違いした現地人が「この花の形は頭巾の形をしたトルコ帽(チューリパン)に似ている」との意味で、「チューリパン」と紹介した。これがこの花の名前として、世界中に広まったのである。

  チューリップは変種が生まれやすいために、変わった花を咲かせるチューリップの球根に運良く当たれば、大儲けができた。とくにオランダを中心にして多量に栽培され品種改良された。ライデン大学初代植物学教授カロルス・クルシウス(1526-1609)は、大学の植物園での栽培に成功した。チューリップはたちまちヨーロッパ各国に伝わり、貴族や大商人の間で流行した。やがて球根の先物取引が始まり、1633年には投機ブームとなり、1637年2月、ついに恐慌を引き起こし、球根は暴落した。契約の履行は不可能になり、破産者続出は必死となったが、オランダ政府の介入により取引高の5~10%支払いのみですべて清算され、破局は回避された。この恐慌は、生産の拡張に基づかない前資本主義恐慌の代表的な実例といわれている。18世紀初め、西欧的な趣味、贅沢がオスマン帝国で導入され、チューリップが大流行した。アフメト3世の頃をチューリップ時代と呼ぶ。

    このような17世紀のチューリップ狂時代を風刺した小説にデュマの『黒いチューリップ』(1850年)がある。青年コルネリウスは黒いチューリップの栽培に成功するが、彼を妬んだボクステルの陰謀により投獄される。牢屋番の娘との恋がうまれ意外な展開の喜劇小説に仕上がっている。黒いチューリップは実際に存在するのだろうか。19世紀半ば頃まで育種家は、黒、緑、青花のチューリップを作出することが長年の夢だった。しかし1891年に、「ラ・チューリップ・ノアール」という黒色品種がついに登場した。さらに1944年、より黒み帯びた「クインオブナイト」が作出され、架空の物語が現実となった。緑色は、花弁に緑色の筋が入るヴィリディフローラ系があり、「アルバ・コエルレア・オクラータ」と呼ばれる「青いチューリップ」も近年登場している。現在、単色で黒、緑、青のチューリップが育種家により追求されている。(世界史こぼれ話)

2022年6月10日 (金)

なぜ高齢者は帽子をかぶっているのか?

  ドラマ「深夜食堂」。新宿路地裏にある食堂の常連客のひとり忠さんはいつも帽子を被ってカウンターの角に座っている。脇役俳優、不破万作が演じているが何とも言えないイイ味を出している。ところで街中を歩いて見渡すと老人たちの多くは、帽子をかぶっている。私自身、帽子はかぶらない。シニア男性のファッションとして帽子はいつ頃からか定着している。帽子の種類はいろいろあるが、大きく分けると二種類。忠さんが被っている、ツバのあるキャップあるいはハンチング帽。夏の日射・熱中症防止になる台形のクラウンに下向きのツバのついたバケットハットが多い。では帽子はどんな理由でかぶっているのだろうか。理由は聞いていないので分からないが、薄くなった髪を隠すためか。本当の理由は、むかしの知り合いに出会うことを避けるための顔隠しではないだろうか。映画「あなたへ」(2012年)で高倉健がカッコよくキャップをかぶっていたので、それを真似るシニアが急増したらしい。

 

日清戦争と日本資本主義の発展

    日本海軍の聯合艦隊が編成されたのは、日清戦争(明治27年7月~明治28年2月)のときのことである。それ以前、海戦遂行を主目的とする「常備艦隊」は、明治22年7月始めて編成された。西日本警備を目的とする「西海艦隊」を併せて、司令長官伊藤祐亨海軍中将指揮下の「聯合艦隊」が組織されたのは、明治27年7月19日である。編成わずか6日後の7月25日、巡洋艦「吉野」(河原要一艦長)・「浪速」(東郷平八郎艦長)・「秋津州」(上村彦之丞艦長心得)は、豊島沖で「済遠」「広乙」を砲撃し、勝利する。9月の黄海海戦では「松島」「厳島」「橋立」の三景艦が参戦する。

   このような海軍の軍備拡張のため、明治26年2月26日、製艦費という税金が議会を可決している。つまり官吏は毎月の給料の十分の一を製艦費として天引きされるようになった。

    明治29年の熊本時代の漱石の収入は月給100円で、その中から製艦費10円、父へ10円、姉へ3円、毎月送金し、奨学金返済が7円50銭、書籍代が約20円、のこりの50円が家計として生活費に充てられる。誠に聯合艦隊を維持していくことは高くついたものだ。しかし、この戦争が軍需工業や重工業において生産の規模を拡大し、わが国、資本主義経済の発展に刺激を与えたことは否定できない。明治34年、日清戦争の賠償金などをもとに官営八幡製鉄所が建設された。

2022年6月 9日 (木)

学名の研究

A46f12a5 「♪この木なんの木、木になる木」というCMで紹介されている大樹はハワイのオアフ島にあるモンキーポッドという木だそうである。「名もない雑草」という言い方はよくない、ということをよく耳にする。一木一草、それぞれれに名があり、名付けた人々の思いがこめられている。生物の場合、一般に使用されている習慣的な名称や国や地方によって異なる名称があったりして、学問的には世界共通の学名が用いられる。例えば「トキ」は「ニッポニア・ニッポン」、「イヌ」は「カニス・ルプス・ファミリアス」、「ネコ」は「フェーリス・シルウェストリス・カトゥス」。1758年にスウェーデンの生物学者リンネが提案したラテン語形で表記される二名法が用いられる。しかしながら学名はラテン文字が日常的に用いられ、ラテン語の語彙になじみがある欧米諸国とは異なり、日本人には学名の使用にはかなりの努力が必要となる。学名をカタカナになおして読み方を書いている本はほとんどない。その理由は決まった発音がないことである。現代語であれば、現代での発音に近い転写という方法が一般にとられるが、ラテン語では不可能である。ラテン語は科学技術のみならず、西欧世界全体の基礎であるが、ラテン語を母語として修得した人はおらず、現地音が存在しない。逆に西欧世界の基礎となったために、それぞれの言語にあわせたラテン語の読み方があり、統一されないからである。何かいい方法はないだろうか。

動物界の学名

 生物はおよそ130万種いるといわれる。種とは動物界を生物分類の階層に「門」「綱」「目」「科」「属」「種」と6段階に分類したことである。われわれ人(ヒト)の学名はホモ・サピエンス・サピエンスという。ニシローランドゴリラの学名は「ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ」という。

さまざまな学名一覧

   例えば、常緑の高木である「スギ」は、日本の造林面積の約4割を占める有用樹木である。私たちは普段和名(わめい)で「スギ」と呼んでいるが、そのスギの学名をどれほどの人が知っているだろうか。「クリプトメリア・ジャポニカ」(Cryptomeria Japonica)という。鯉の学名は「キュプリヌス・カルピオ」(Cyprinus carpio)。

植物の学名は「属名+種小名」で表わされる。植物の学名もラテン語に由来することが多いが、「アカンサス・モリス」のように英語名が同じケースもある。

ウメの学名は「ブラナス・ムメ」(Prunus mume)

 

カサブランカは「リリウム・カサブランカ」(Lilium Casa Blanca)

 

アサガオの学名は「イポメア・ニール」(Ipomoea nil)と呼ばれる。

 

ヒマワリの学名は「ヘリアンサス・アンヌス」(Helianthus annuus)。ギリシャ語のhelios(太陽)+anthos(花)が語源。

 

樹木

 

クスノキの学名は「シナモマム・カンフォーラ」(Cinnamomum camphora)。camporとは「樟脳」の意味。

 

 ソテツの学名は「シカス・レヴォルタ」(Cycas revoluta)。シカスは「ヤシに似た植物」、レヴォルタは「反巻した」という意味で、葉や姿などの見た目に由来する。

 ケヤキの学名は「ゼルコーバ・セルラータ」(Zelkova serrata)。

 

イチョウ 「ギンコー・ゼロバ」(Ginkgo biloba)

勿忘草(わすれなぐさ)の学名は「ミヨソティス・スコルビオディス」(Myosotis Scorpiodes)。

 

ワカメの学名は「アンドリア・ビンナティフィダ」(Undaria Pinnatifida)

 

カバの学名は「ヒポポタマス・アンフィビアス」(Hippopotamus amphibius)。ギリシャ語 hippos「馬」+potamos「川」。amphibiusは「水陸両用の」の意。

ウサギの学名は「オリクトラグス クニクルス」(Oryctolagus cuniculus)。

 

シャチの学名「オルキヌス・オルカ」(Orcinus orca)。ラテン語で「冥界からの魔物」の意味。

 

ミズクラゲの学名は「アウレリア・アウリタ」(オーレリア・オーリタ)Aurelia aurita。

 

植物

 

アカンサス・モリス Acauthus mollis

 

スイートピー 「ラシラス・オドーラートゥス」(Lathyrus odoratus) 

 

ハナミズキ 「コルヌス・フロリダ」(Cornus florida)

 

花タバコ 「ニコチアナ・シルベストリス」(Nicotiana silvestris)

 

ツクバネウツギ 「アベリア・スパスラタ」(Abelia spathuiata)

 

鳥・昆虫類

 

蝶 アカマダラ 「アラクニア・レバナ」(Araschnia levana)

 

蝶 モンシロチョウ 「ピエリス・ラパエ」(Pieris rapae)

鳥類

 

コウノトリ 「キコニア・ボイキアナ」(Ciconia boyciana)

 

アホウドリ 「ディオメディア・アルバトロス」(Diomedea albatus)

 

ニワトリ 「ガッルス・ガッルス・ドメスティクス」(Gallus gallus domesticus)

 

ツバメ 「ヒルンド・ルスティカ」(Hirund rustica) 田舎のツバメ

 

スズメ 「パッセル・モンタヌス」(Passer montanus) 山のスズメ

 

カモメ 「ラルス・カヌス」(Larus canus) 灰白色のカモメ

 

オウギワシ 「ハーピーイーグル」(Harpy eagle)

 

カイツブリ 「タキュパプトゥス ルフィコッリス」(Tachybaputus ruficollis)

 

果実類

メロン 「キューカミス・メロ」(Cucumis melo)

 

恐竜

ティラノサウルスの学名は「ティラノサウルス・レックス」(Tyrannosaurus rex)

 

海洋生物類

モモイロサンゴ 「コラリウム・エラティウス」 Corallium Elatius モモイロサンゴは、ギリシア神話の英雄ペルセウスが斬ったメドゥーサの頭部から流れた血から海に落ちて生まれたという神話に由来する。

 

  辻野匠「学名(ラテン語)のカナ表記についての試論」 地質ニュース675, 2010年11月
     平嶋義宏「学名論 学名の研究とその作り方」 東海大学出版会 2012

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イギリスにおけるエンクロージャー運動

  農村共同体的諸権利なかんずく共同放牧権を排除し、私的・個別的土地利用を実現するために、特定の土地を柵とか生け垣・石垣・土手などをもって囲い込むことをエンクロージャーという。エンクロージャーの歴史は、早期エンクロージャー(16世紀以前)、16世紀の第一次エンクロージャー、産業革命期の第二次エンクロージャーの3つに分けられる。第一次エンクロージャー運動は15世紀末から17世紀中頃にかけて起こった。主として牧羊場にするために、領主が農民の利害を無視して暴力的に耕地や共同地を囲ん込んだ。トマス・モアが「ユートピア」のなかで「羊が人を食う」といったのは、このときのことである。土地を追われた農民は浮浪人となって全国をさまよい歩いた。そこで政府はエンクロージャーによる治安の乱れと人口の減少をおそれて、しばしばエンクロージャー禁止令を出したが、これを抑止できず、そのためにエンクロージャーに反対する農民一揆が頻発した。ついで起こった第二次エンクロージャー運動は17世紀後半から始まり19世紀中頃すぎまで続き、それによってイギリス全土はほぼ完全に囲まれてしまい、中世以来の三圃式開放耕地、共同牧草地、荒蕪地は姿を消して私有化された耕地になった。第二次エンクロージャーは改良農法の必要のために起こったもので、大地主が議会を通じて個別的にエンクロージャー法を獲得し合法的に土地を囲い込んだので、これを「議会エンクロージャー」し呼んでいる。議会エンクロージャーは新農法が普及しはじめた18世紀中頃から急速に増加し、都市における産業革命の進展に大きな役割を果たした。エンクロージャー運動の歴史的役割とは、開放耕地制度を崩壊せしめ、生け垣などで囲まれた大農場をつくりだすことになったが、それは同時に、イギリスに特徴的ないわゆる三分割制、つまり近代的大土地所有者・資本制借地大経営者・農業労働者、という3つの階級関係を成立せしめる過程でもあった。囲い込みによって、ヨーマン(独立自営農民)の没落が促進され、彼らは工業労働者として都市に流出するか、農業労働者として農村にとどまった。

ルーの法則

Photo_8   1850年6月9日ドイツの動物生理学者ウィルヘルム・ルーの誕生日である。イエナ大学でヘッケルに学び、ベルリン大学でフィルヒョーに学ぶ。当時は比較発生学研究が主流だったのに対し、胚に人工的に細工をして、その経過から発生の仕組みを解き明かそうとする、いわゆる実験発生的な手法を用いた。彼はヘッケルらの手法に反発し、「発生学は進化論のしもべではない」と言ったといわれる。

    彼の名前が今日でも広く知られるのは、保健体育科の教科書でよく知られる「ルーの三原則」によってである。実は、当初のルーの説は三つではなかった。内容は、活動性肥大の原則、不活動性萎縮の法則、長期にわたる機能向上制限による器官の特殊な活動能力減退の法則、合目的的構造の機能的自己形成の原理、など多岐にわたる研究である。後世の研究者が、ヒトの器官や機能は適度に使えば発達し、使わなければ退化・萎縮し、過度に使えば障害を起こす、という三法則にまとめたことによって、現代トレーニングの原則として、広く適用されているのである。1924年9月15日、死去。74歳。( 6月9日.Wilhelm Roux )

日露戦争後における影響について

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  小村寿太郎(1855-1911)は安政2年、日向国飫肥藩の下級武士・小村寛平、梅子の長男として生まれる。文久元年、安井息軒が教える藩校振徳堂に入学。大学南校に入学し、明治8年にはハーバード大学に留学。帰国後、美人のマチと結婚する。しかし新妻は裁縫、料理など家事は一切しない女性だった。近くに実家があり、その仕送りで女中を雇い、すべて家事をやらせる。浪費家であり、趣味は芝居見物だった。子供ができても妻の生活態度は変わらなかった。小村の家庭は高官にもかかわらず、貧窮にあえいでいた。高級官僚にしてなお貧乏暮らしを余儀なくされたのは、妻の浪費癖のほかに、父から受け継いだ莫大な借金が原因ともいわれる。ともかく、小村は家庭的には恵まれなかったようだ。

   しかし小村は多くの先輩たちに見出されて、明治顕官への道を順調に歩んだ。小倉処平(1846-1877)、陸奥宗光(1844-1897)、桂太郎(1847-1913)たちである。桂内閣のとき、外務大臣を二度務めている。今日の霞ヶ関外交の基礎をつくったのは小村寿太郎といわれている。

  セオドア・ルーズベルト大統領の斡旋を得て、明治38年8月9日、ポーツマスの海軍工廠において非公式に講和談判予備会議が開かれた。(第1回本会議は翌10日から開かれた)

   会議の列席者は日本側が、小村寿太郎(1855-1911)、高平小五郎(1854-1926)両全権と佐藤、安達、落合の三書記官。ロシア側はセルゲイ・ウイッテ(1849-1915)、ローゼン両全権とブランソン、コロストヴェツ、ナボコフの三書記官であった。

    9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印によって、ロシアは樺太全島及び遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。9月5日には「屈辱的講和反対、戦争継続」を叫ぶ群衆が、政府高官邸、交番、国民新聞社などを襲撃したり、放火したりした。いわゆる日比谷焼打ち事件である。桂太郎内閣は戒厳令を発し、新聞を発禁処分にすることで辛うじて事態を収拾した。

   とくに全権委員の小村寿太郎に対しては国民の非難が集中し、「露探」(ロシアのスパイ)と罵られ、小村邸の窓ガラスが割られ、雨戸がたたかれる日々が続いた。小村寿太郎の妻・小村マチ(小村町子)は、精神的に打ちのめされ、ノイローゼ寸前に追い込まれた。帰国した小村はホテル住まいで家族との別居を余儀なくされた。

   小村寿太郎は明治44年8月25日、桂内閣が総辞職にともない政治を引退した。小村は葉山の粗末な貸家に住んだが、わずか3月後には病に倒れた。皇太子(大正天皇)も慰問にこられたという。侯爵を授けられ57歳で没した。しかし臨終の場に小村マチの姿はなかったという。日露戦争によって日本は樺太南半分の割譲、朝鮮を支配、「満州に滲出してアメリカと対立し、ロシアは進路をバルカンに転じてドイツとの対立も激化するに至った。日露戦争の結果として、日本の国際信用は大いに高まり、その後に外貨は滔々として流入し、日本資本主義の急激な発展の要因となっている。(Portsmouth)

2022年6月 8日 (水)

異常気象と世界史

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    ギルバート・ホワイト(1720-1793)の「セルボーンの博物誌」は古典的名著である。セルボーンという場所はイギリスのハンプシャー州の寒村。1789年、フランス革命と同じ年に刊行されている。「1783年の夏は、驚くべき異常な夏で、恐ろしい現象があいついで起こった」とある。この恐ろしい現象は実は日本とも深く関係している。浅間山は天明3年(1783年)5月9日から8月5日にかけて活動が活発化し、6月25日には大噴火が起こった。この時の噴煙は成層圏にまで達し、その後数年にわたって、そこに滞留したため、世界的な気候の寒冷化をもたらした。気温の低下は平均で、セ氏1.5度に達したと推定される。浅間山の噴火によって日本では天明の大飢饉が全国に及ぶ。津軽藩では、天明3年9月から翌年6月までの餓死者は、男女合計81702人といわれる。菅江真澄は旅日記「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」の天明5年8月の項に、草むらに山と積まれた餓死者の白骨を目にし、飢饉の惨状を記録している。1783年6月8日、アイスランドのラキ火山が噴火した。火山灰などの影響により数年にわたりヨーロッパが異常気象に見舞われる。噴火の直後から小麦の不作がフランスを襲った。小麦価格の高騰がみられるような社会不安がフランス革命の原因となったと考えられる。気候変動が世界史を動かすことがある。近年、4世紀後半から始まった民族大移動によるローマ帝国の滅亡や中国南北朝時代は寒冷化による気候変動が一因と考えられている。

   近い将来、学校の世界史の教科書が大きく書きかえられるかもしれない。これまで歴史と自然科学は別物として区別されてきた。しかし人類誕生から歴史をかんがえるのではなく、宇宙に目を向けてビッグバンから解き明かすべきであろう。デーヴィッド・クリスチャンが提唱するビッグヒストリーがDVDなどで浸透している。歴史は全宇宙の壮大な物語の中から、人類の過去と未来を研究する学問へと変わろうとしている。

2022年6月 7日 (火)

第1回十字軍

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 ドリュラエウムの戦い

    ドリュラエウムはアナトリア半島北西部の第1回十字軍の古戦場(現在のエヌキシュヒル近郊)。セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国の依頼により、1095年11月ローマ教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で聖地回復の聖戦の軍事行動を呼びかけた。1096年第1回十字軍が出発。初戦は1097年5月14日から6月9日にかけてのニカイア(Nicaea)攻囲戦が行われた。そして1097年7月1日、ドリュラエウム(Dorylaeum)の戦いで十字軍が勝利する。1099年6月7日、エルサレム攻囲戦が始まり、7月15日には聖地を奪還した。1099年8月12日、アッコン(Askelon)の戦いでアッコンを陥落し、エルサレム王国(1099-1187)を建てた。

 

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  アッコンの戦い

 

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2022年6月 6日 (月)

史上はじめて中国を統一した男「始皇帝」

Img_0016  春秋時代、西方の小国だった秦は、戦国時代に勢力を拡大した。始皇帝の曽祖父昭襄王のときに中国の西半分を平定し、始皇帝のとき中国最初の統一を成し遂げた。始皇帝の画像は何種類もあるが、あくまで後代の想像画であって実像を伝えているとは言い難い。鎌田重雄の著書「秦の始皇帝」(1962)の口絵には明の「三才図会」を引用している。最近はもっとリアルな絵柄が好まれるようである。その後の出版物は新中国になってからの彩色の想像画を掲載しているが模倣したものが多数出回っている。現在において有名な始皇帝肖像画は北京・中国歴史博物館のものと秦始皇帝兵馬俑博物館のものであろう。(世界史)

 

 

 

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「三才図会」(明代)

 

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 中国歴史博物館蔵

 

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 秦始皇帝兵馬俑博物館蔵

宿敵

  五島慶太(1882-1952)。東急財閥を築いた電鉄王。多くの私鉄を合併・系列化し、東條内閣では運輸通信大臣にも就任した。戦後の昭和28・29年当時、五島傘下の小田急電鉄は、新宿を起点に箱根湯本まで特別車を乗り入れ、さらに小田原ー湯本ー小涌谷ー強羅を走る箱根登山鉄道を子会社として、一応、東京ー強羅間を支配下に収めた。しかも、強羅から早雲山の間にケーブルカーも開設した。ところが、そこから前面に広がる箱根観光の中心で、箱根火山の火口原湖である芦ノ湖は、宿敵・堤康次郎(1889-1964)傘下の駿豆鉄道の手中になり、その結果、五島勢の西進政策は行き詰っていた。これに対して、堤勢は、熱海を起点に五島勢が喉から手が出るほど欲しい芦ノ湖には、元箱根ー箱根町ー湖尻間に遊覧船を浮かべていた。しかし、東進政策をとる堤勢にとっても、箱根登山鉄道は大きな魅力であると同時に、越えがたい障害であった。そこで、堤康次郎は箱根権現に「我が社が占有する箱根の道路を、東急の五島慶太、小田急の安藤楢六という札付きの大悪党が、自分の会社のバスを乗り入れて勝手気儘に振る舞っている。神様、どうかあなた様のお力で、このような悪党が一刻も早く処罰されますように、伊豆箱根鉄道の従業員1167名ともども、精神をこめ、涙をもって祈願し奉ります」と願をかけた。

    とにかく、天下の難所箱根をめぐって、「ピストルの堤」と「強盗慶太」の宿敵の競争は執拗で、五島慶太は昭和34年に満77歳で生涯を閉じたが、そのとき、堤は、五島の葬儀の日にもかかわらず取材にきた新聞、雑誌記者を前に、「五島が死んで世の中が急に明るくなった。あんな悪党の葬儀なんか行くものか」と、盛大な祝杯を挙げた。一方、病魔に襲われた五島は、常に、枕元に、箱根一帯の地図を置き、深夜、眼をさますと明かりをつけて「堤奴に箱根山をとられてはだめだ」と、地図を食い入るように見つめていた。しかし、病状が悪化したとき、病院の窓からスズメの飛ぶのを指し、「俺も鳥になって箱根山にも飛んで行きたい。」と漏らしていた。

西洋音楽史略年表

   冬季五輪のフィギュア競技などクラシックの名曲を聴く機会も多い。バロック以降の西洋音楽史の略年表。

 

1600年 バロック音楽は、17世紀から18世紀中ごろまでのおよそ1世紀半の時期をさす。フィレンツェのジョバンニ・バルディ伯のもとに集まった学者・詩人・音楽家のグループであるカメラータによる新しい理論の提唱とその実践とによって開始された。

1600年カッチーニ「エウリディーチェ」上演、歌劇の確立

1607年 モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」がマントヴァで上演

1627年 「ダフネ」ドイツ最初の歌劇

1637年 ヴェネツィアのサン・カシアノ劇場開設される

1656年 ロンドンのオペラ劇場開設

1661年 カンペ―ル「ポモール」初演。フランス最初の歌劇

1717年 ヘンデル、管弦楽組曲「水上の音楽」

 

1717年 バッハ、「G線上のアリア」(1717年から1723年の間)

 

1725年 ビバルディ、バイオリン協奏曲・四季

 

1727年 バッハ、管弦楽組曲。4曲あるが、作曲年代には異説がある。

 

1786年 モーツァルト、「フィガロの結婚」初演

 

1787年 モーツァルト、「アイネクライネ・ナハトムジーク」

 

1793年 ハイドン「交響曲第100番軍隊」(1793年から1794年)

 

1797年 ハイドン「弦楽四重奏曲第7番第2楽章」(神よ、皇帝フランツを守り給え)

 

1800年 ベートーヴェンの交響曲第1番ハ長調(作品21)。1824年までベートーヴェンの交響曲の作曲時代が続く。各国で教養ある音楽ディレッタントによる家庭音楽がさかえる。

1807年 ベートーヴェン 交響曲第5番

1824年 ベートーヴェン 交響曲第9番

1828年 シューベルト 交響曲第7番

1829年 ロッシーニ「ギヨーム・テル」(ウィリアム・テル序曲)

1833年 ショパン「練習曲集」(別れの曲)

1839年 シューマン「子供の情景」(トロイメライ)

1853年 リスト「ハンガリー狂詩曲」

1855年 ショパン「幻想即興曲」

1867年 ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」

1868年 スメタナ「交響詩(わが祖国)」

1869年 ブラームス「ハンガリー舞曲第5番」

1871年 ヴェルディ「アイーダ」初演

1872年 ビゼー「アルルの女」

1874年 ムソルグスキー「展覧会の絵」

1875年 チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」(ピアノコンチェルト)

1876年 グリーグ組曲「ペール・ギュント」

1877年 チャイコフスキー「白鳥の湖」初演

1880年 ボロディン「中央アジアの草原にて」初演

1883年 ブラームス「交響曲第3番」

1886年 サン・サーンス「動物の謝肉祭」(白鳥)

1887年 ブルックナー「交響曲第8番ハ短調」

1889年 マーラーの交響曲第一番が初演

1894年 ドビュッシー「牧羊神の午後への前奏曲」

1894年 ドヴォルザーク「交響曲第9番(新世界より)」

1899年 シベリウス「交響詩フィンランディア」

1900年 サティ「ジュー・トゥ・ヴー」

1902年 マーラー「交響曲第5番」

1910年 ストラヴィンスキー「火の鳥」初演

1926年 プッチーニ歌劇「トゥーランドット」誰も寝てはならぬ

1935年 ショスタコビッチ「第五交響曲」

1942年 ハチャトリアン「ガイーヌ」剣の舞

1957年 ショスターコヴィッチ「交響曲第11番」

1962年 オールビー「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」

 

 

2022年6月 4日 (土)

大和と武蔵

 NHKのバラエティー番組「チコちゃんに叱られる」でおかきとせんべいの違いは?があった。おかきは糯米(もちごめ)を用い、せんべいは粳米(うるちまい)を使用しているという原料の違いである。世の中、似て非なるものがあるが、案外と知らないものがある。おしることぜんざい、バターとマーガリン、インコとオウム。太平洋戦争時の巨大戦艦大和と武蔵。両艦は同型艦で、ビジュアルでは、ほぼ同じで区別がつかない。館内の内装や調度品は、武蔵の方が良かったといわれている。微妙な違いを挙げれば、昭和19年7月時点で、改造された装備のうち、武蔵は25ミリ機銃が大和より24挺少ない130挺だったことだ。竣工時の25ミリ機銃は大和が24挺、武蔵が36挺でしかなかったが、対空砲火力を強化するために、途中で増設したのである。

2022年6月 1日 (水)

日本名言集

1 天皇、すでに吾を死ぬとや思はすらむ(古事記)

 

  「日本武尊の研究」池田米寿 住吉書院 昭和12年

 

2 下泣きに我が泣く妻を今夜こそは安く肌触れ(古事記)

 

  「軽太子の悲恋物語考」竹野長次 学術研究 昭和31年

 

3 世間虚仮、唯仏是真(天寿国繍帳)

 

  「聖徳太子」 薗田宗恵 仏教学会 明治28年

 

4 あに天孫をもって鞍作に代へむや(日本書紀)

 

  「天智天皇」 中村直勝 近江神宮奉賛会 昭和13年

 

5 天と赤兄と知らむ。吾、もはら知らず(日本書紀)

 

  「有馬皇子を偲ぶ」 三宅瑞晃編 南部町教育委員会 昭和34年

 

6 この盟のごとくにあらずば、身命亡び子孫絶えむ(日本書紀)

 

  「天武天皇」 川崎庸之 岩波書店 昭和27年

 

7 罪なくしてとらはる。これ決定して死ぬるならむ(日本霊異記)

 

  「長屋王の願経に就いて」 川瀬一馬 奈良叢記 駸々堂 昭和17年

 

8 天下の富を持つ者は朕なり(続日本紀)

 

  「聖武天皇御伝」 東大寺編刊 昭和31年

 

9 我もし亡ぜんときは、願わくは坐して死なん

 

  「鑑真」 安藤更生 美術出版社 昭和33年

 

10  心形久しく労して一生ここに窮まれり(遺誡)

 

  「伝教大師伝」 山方石之助 壬子出版社 大正2年 

 

11 家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり(南方録)

 

  「千利休」 芳賀幸四郎 吉川弘文館 昭和38年

 

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家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である

 

番外

政治家とは歴史という名の法廷で、裁かれる被告 (中曽根康弘)

 

 

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