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2022年6月30日 (木)

10人のアルバート(アルベルト)

Einstein  1905年のこの日、アインシュタイン(1899-1955)が相対性理論に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌「アナーレン・デル・フィジーク」に提出した。当時、アインシュタインはスイス連邦特許局の無名の技師だった。ところでアインシュタインの名はAlbert、ドイツ・フランス・イタリア風の読みではアルベルトまたはアルベール、英語ではアルバート。Alspalding
   この名の有名人としては、フランスの医師・神学者のシュヴァイツァー(1875-1965)やイタリア人のサッカー日本代表監督だったザッケローニ、ペルーの日系人政治家フジモリなどがいる。大リーグの野球選手ボストン・レッドストッキングスのスポルディング投手(1850-1915)。彼は2年連続でシーズン50勝以上の勝数を記録している。スイスの彫刻家ジャコメッティ(1901-1966)、イタリアのスキー選手トンバ、オランダの画家カイプ(1620-1691)、イギリスのラファエル前派の画家ムーア(1841-1893)、ベルギーの細胞生物学者クラウデ(1899-1983)、作家カミュ(1913-1960)、イギリスの俳優フィニーなど。(6月30日)

 

 

 

 

2022年6月29日 (水)

パウロ生誕論争

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 マルタ島に難破したパウロは逆境に打ち勝った

  キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かったのはパウロである。皇帝ネロ治下に殉教の死をとげたと伝えられ、紀元64年とも65年ともいわれる。生年は不詳。キリキア州のタルソスで生まれた。フィレモンへの手紙によれば、パウロは自分を「年老いた(ブレスビューテス)」と言っている。古代の数え方によれば「年老いた人」は60歳に達した人をいう。このことから逆算すれば、①紀元8年説②紀元10年説(万有百科大事典4)などが有力である。カトリック教会では2008年6月28日から2009年6月29日までを「パウロ年」と定めパウロの生誕を祝った。もちろん生年が明らかでないが、歴史家はパウロの生誕を紀元7年から10年までの間とみなしている。

2022年6月28日 (火)

猛暑と地球温暖化

 6月26日、東京都心では、6月として最も暑い36.2°Cを観測した。この先1週間は夏の暑さをもたらす太平洋気圧が勢力を強めているので厳しい暑さが続くとみられる。いま世界各地でみられる豪雨、洪水や大水害、猛暑などの異常気象は何が起因しているのであろうか。

 まず近年の異常気象とみられる現象が起こっている背景には、地球温暖化が原因であるとする説が考えられる一方では温暖化懐疑論もあった。猛暑の原因には、複数の要因があり、科学的に立証することはなかなか困難である。地球温暖化とは、産業革命以降の石炭の使用と、1960年代に始まる石炭・石油の大量消費により、大気中の二酸化炭素量は増加してきた。地球温暖化に強く影響する二酸化炭素の排出量削減は国際的な課題になっている。地球温暖化に伴って、熱による海水の膨張などが起こり、海面が上昇している。海面上昇は20世紀の100年間で約170mmと推定され、このまま上昇が続けば、沿岸部や低地に暮らす多くの人々の生活に影響を及ぼす。このほかにも農作物の耕作可能な地域が変わったり、感染症を媒介する動物の分布域が広がったりするなどの影響もみられる。

 今年はロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、ロシアが欧州への天然ガスの供給を停止したため、エネルギー危機が起こっている。そのため欧州では石炭火力発電の利用が拡大している。温暖化の原因は人間活動の活発化が大きい。2007年の国連第4次報告書で「温暖化には疑う余地はない」と結論づけているが、今年の夏は世界的規模の猛暑が来ることは間違いないだろう。(森山厄介)

 

サラエボ事件

P0790  1914年のこの日、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナンド夫妻が、バルカン半島のサラエボで一青年ガヴリロ・プリンツィプにピストルで暗殺された。7人の暗殺犯は、かねてから反オーストリア運動を企てていた「黒手組(「黒い手」とも訳す)」ツルナ・ルカの団員であった。反オーストリア運動に憤激していたオーストリアは、セルビア政府に対し、「犯人の裁判にオーストリア判事の参加」を含む最後通牒を1ヶ月の期限付きでつきっけ、セルビアがこの項目をうけいれないため、戦争は勃発した。短期間のうち、世界的規模で戦争が拡大したので「世界大戦」と呼ばれるようになった。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国側に対し、イギリス・フランス・ロシアの協商側は連合国と称した。この戦争は、予想を裏切って短期決戦では終わらず、長期化するとともに世界化し、国民の総力を動員する総力戦または全体戦争となった。

220pxgavrilloprincip_2     世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の7人の暗殺犯はどうなったのか。大公暗殺犯(サラエボ事件)の一人であるガヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)はその後、セルビアの愛国者として賞揚された。プリンツィプは犯行当時、未成年だっため死刑を免れ、懲役20年の刑を宣告された。しかし劣悪な刑務所環境のため結核により、1918年4月28日、獄死した。7人の暗殺犯のうち、ヴァソ・チュブリロヴィチはベオグラード大学教授、ユーゴスラビア森林相を勤め、1990年に死去した。最初に手榴弾を投げたネデリュコ・チャブリノヴィチは1916年に獄中で死亡。Gavrilo Princip(6月28日)

 

 

2022年6月26日 (日)

ハーメルンの笛吹き男

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  1284年6月26日、まだら模様の服を着た男が笛を吹くと、まちの子供130人が踊りながらその男について行き、遠くに消えてしまった。親たちはわが子を探したが、ついに見つからなかった。あの子供たちはどこに消えてしまったのだろうか。これまで25もの学説が生まれた。舞踏病にかかった子供たちが踊りながら消えてしまったと考える人、子供十字軍に徴兵されて聖地へ出かけていったと考える人、ペストなどの病気による大量死、崖に落ちて死んだという事故説などもある。当時、ドイツ東部、チェコ、ポーランドなどで開発がさかんに進められた。領主である貴族たちが各都市に植民請負人を派遣して移住者を募っていた。この植民請負人こそが笛吹き男であり、消えた130人の子供たちは、ハーメルンを捨てて新天地へ旅立った若者たちだと考える説もある。「ハメルンの笛吹き男」の話はゲーテ、グリム、ロバート・ブラウニングの詩などで知られる。昔話はたいていは「むかしむかし」と、期日が明確でないが、この話ははっきりと日付が記されており、史実として残っている。

   アニメ映画「千と千尋の神隠し」のように日本にも「神隠し」といって、子供などが、にわかにいなくなって、どれだけ探してもついに戻ってこなかったという話が残っている。すなわち、天狗、鬼、隠し神、隠し婆、隠れ座頭など、さまざまな妖怪によって隠されるという。平田篤胤による寅吉少年の神隠しの物語もある。( The Pied Pier of Hamelin )参考文献;阿部謹也「ハメルンの笛吹き男伝説の成立と変貌」 思想581   1972.11

2022年6月25日 (土)

朝鮮戦争72年目の夏

Photo_7   朝鮮戦争は今年で72年目を迎える。韓国ドラマ「愛の不時着」など南北問題を取り上げた作品は多いが、国際法上は現在も戦争状態が続いている。1950年のこの日に朝鮮戦争は勃発した。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米国・ソ連の対立を背景として、国際紛争にまで発展、いわゆる朝鮮戦争と呼ばれ、戦後のわが国には特需が増大する。10月8日、国連軍が38度線を突破。1953年7月休戦。その5年後の1958年に建てられた高さ332.6メートルの東京タワー。この東京タワーは、実は米軍の戦車で出来ている。朝鮮戦争が終わって不要になった米軍の戦車は日本の民間業者に払い下げられていた。当時、日本には、基幹産業である高炉会社はまだ十分に育っておらず、戦車のスクラップは貴重である。そこで質のよい戦車90台の精鉄が3000トン分が使用された。それは東京タワーのおよそ3分の1を占めているといわれる。(6月25日、参考:生方幸夫「解体屋の戦後史」)

2022年6月24日 (金)

ソルフェリーノの戦い

  1859年のこの日、ナポレオン3世率いるフランス帝国とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルディーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルディーニャ連合軍が勝利し、翌年イタリアの統一に向かう。日本史に例えるなら、鳥羽伏見の戦い。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が明治天皇、ガリバルディが西郷隆盛、アンリ・デュナンが松本良順か。

現代戦はプーチンやゼレンスキーは戦場からは離れた大本営に常にいるが、ソルフェリーノの戦いまでは、当事国の君主が親征に出て軍を指揮していたという、世界戦史上、最後の戦争といわれている。(6月24日)

 

2022年6月23日 (木)

中国の地理

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 中国南部、広東省・広西チワン族自治区で記録的な大雨が続き、今後も豪雨が予想されている。広大な中国は南北での自然のちがいがある。まず地理的概観を調べてみよう。

地理的概観(UNIT1)

中国の位置 アジアの東部、太平洋の西岸に位置する。中国には「北に行くほどトランクが軽くなり、南に行くほどトランクが重くなる」という言葉がある。これは旅行者が北に行くにつれて、トランクから1枚ずつ着るものを取り出して重ね着して行くこと、反対に南に行くにつれて、1枚ずつトランクにしまいこんで行かねばならないことをいったものだ。南北は、緯度およそ北緯4度から54度、東西は経度およそ東経78度から東経135度のあいだにある。

中国の境域 陸上では北朝鮮、ベトナム、ラオス、ミャンマ、インド、ブータン、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、モンゴル人民共和国と国境を接している。海上では日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアおよびブルネイと相対している。

面積と人口 中国は面積959万7000k㎡、人口14億1177万8724人(台湾、香港、マカオを除く)。2021年の国勢調査による。面積はアジア大陸の25%をしめ、ロシア、カナダについで世界第3位。人口は世界第1位である。つまり世界の人口約77億のうち約5人に1人が中国人である。

民族 中国は人口の9割(91.5%)占める漢民族と、蒙古・回・チベット・ウイグル・ミャオ・トチャ・イ・チワン・プイ・朝鮮・満・高山族など55の少数民族からなる多民族国家である。そのうち、北方の森林で狩猟をいとなむツングース系諸民族、ステップで遊牧をいとなむモンゴル系諸民族、オアシス世界に生きるテュルク系諸民族、高原で牧畜・農耕をいとなむチベット諸民族、南西山地で農耕をいとなむミャオ・ヤオ系およびモン・クメール系諸民族、南部で水稲耕作をいとなむタイ系諸民族のグループにわかれる。

行政区 全国には、合わせて23の省、5つの自治区(広西チワン族・内モンゴル・新疆ウィグル・寧夏回族・西蔵)、3つの直轄市(中央政府の直轄する市、北京・上海・天津市)があり、首都は北京。

自然環境 中国の地形は西に高く、東に低いが、複雑であり、気候風土も変化に富んでいる。気候は、秦嶺山脈と淮河を結ぶ年間降水量1000mmの線(チンリン=ホワイ線)を境として、北部が寒冷で乾燥、南部は温暖で湿潤であり、「南船北馬」という言葉に表されている。南は船で、北は馬による交通の違いを指した言葉であるが、その背後には自然のちがいがある。

国土総面積に占める各種地形の比率は、山地が約33%、高原が約26%、盆地が約19%、平原が約12%、丘陵が約10%となっている。慣習的に山区といわれるものには山地、丘陵、そして比較的起伏のある高原が含まれ、それらが全国土の3分の2を占めている。

 

中国の地域区分

 

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   広大な中国の地域を、地形・気候その他の自然的条件により、また人文地理的要素を考えて、華北・華中・華南の3地域に区分することができる。華北と華中の境界は、淮河と秦嶺を結ぶ線にある。華北が黄土地帯を中心とする乾燥農耕地帯であるのに対して、華中は水田耕作に適している。「南船北馬」という言葉は、華北では馬が主要な交通機関であったのに対して、江南では交通や灌漑のための水路が縦横に発達していたことを語っている。

 

option  中国文明は世界最古の文明であるとともに、独自の文化を今日まで持続したという点では世界でも類例がない。このことを地理的観点から考えてみよう。

   アジア大陸の東端に位置している中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置に起因する文化的孤立性は中国の民族文化の形成に深い影響をあたえずにおかなかった。中国をふくめた四つの古代文明は、いわゆるアフロ・ユーラジアン複合体をつくっているが、世界の屋根である高峻なヒマラヤ山脈とタクラマカン砂漠などの天然の障壁とにさえぎられた遠東の中国は、他の三文明からもっともかけはなれた存在であって、相互の交渉はわずかに駱駝の背にのって砂漠をわたる隊商によってもたらされた。西アジアやヨーロッパの政治的支配が中国の領土や勢力圏に直接及んできたことは、17世紀にいたるまではなかった。したがって、中国は巨大な領域をしめながら、地理的にも、政治的にも、孤立した地域を形成し、そのなかで独自の文化を発展させてきたのである。すなわち、古い文化を発生させたエジプトのナイル川やチグリス・ユーフラテス河流域、あるいはギリシアやインダスにおいて、その文化が停滞し、衰亡したのに比べ、中国はむしろその孤立性を生かし、インドや西方の文化的な刺激を生かして、独特の文化を形成したのである。(参考:貝塚茂樹「中国の歴史」岩波新書)

中国地理関係文献

清国地理小誌 高田義甫著 島林専二郎刊行 1880
清国道中里程図誌 川端恒太郎 京都・杉本甚助 1885 地図
禹域通纂 楢原陳政 大蔵省 1888
清国本部與地図  中田貞矩編 中村芳松(大阪) 1894
中国彊域沿革図 附説略 重野安易繹 河田黒合 冨山房 1896
朝鮮支那地名辞彙 根来可敏編纂 共同出版社 1910
支那省別全誌 全18巻 東亜同文会 1917-1920
中国地名大辞典 劉鈞仁著 国立北平研究院 1930
中国古今地名大辞典 商務印書館 1931
満州地名辞典 岡野一朗 日本外事教会 1933
満州地名索引 加藤新吉 満州鉄道総局 1936
現勢上海・南京詳図 六芸社 1937
最新支那及極東地図 アトラス社編 アトラス社 1937
最新支那大地図 大林堂 1937
満州国地名大辞典 山崎惣与 満州国地名大辞典刊行会 1937
古地理学 陳兼善 長沙商務印書館 1940
支那地名辞典 星斌夫著 富山房 1941
新中国地理 森下修一訳編 古今書院 1956
中国地方誌連合目録 1964 東洋学文献センター連絡協議会編 東洋文庫 1965
アジアの農業 アジア経済講座3 石川滋編 東洋経済新報社 1971 
中国総覧 中国総覧編集委員会編 アジア調査会(霞山会) 1971-1986
中国大陸省別地図 越村衛一・矢野光二編 外交時報社 1971
中国地図帳 平凡社編 平凡社 1973
中国地名大辞典 旧・国立北平研究所版 東京美術 1974
中国の地理 浅川謙次監修 人民中国編集部編 築地書館 1975
中国地理の散歩 阿部治平 日中出版 1979
中華人民共和国地質図集 付・別冊 中国地質科学研究院主編 佐藤信次訳 築地書館 1980
現代中国地理 その自然と人間 黄就順著 山下龍三訳 帝国書院 1981
中国大陸五万分の一地図集成 8冊 総合索引 科学書院 1986-2002
中国大陸二万五千分の一地図集成 4冊 索引図 科学書院 1989-1993

 

 

ヒトラーとエッフェル塔

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    1940年6月14日、パリはドイツ軍によって無血占領され、フランスは降伏した。6月20日、休戦条約の署名がおこなわれ、3日後の6月23日、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)はフゴー・シュペールとともにお忍びでパリの名所観光をしている。朝6時にレ・ブルージュ空港に着いたヒトラーは、同9時には、その飛行場から発った。わずか3時間のパリ見物だったが、ヒトラーは「パリを見物するのが私の夢だった。今日、その夢がかなって、とてもうれしい」と語っている。

   ヒトラーはパリのどこを見物したのだろうか。ドイツの彫刻家アルノ・ブレッカーによると、廃兵院(アンヴァリッド)、シャイヨー宮を廻って、エッフェル塔に上ったという。(『パリ、ヒトラーと私』)ヒトラーがエッフェル塔に上ろうとすると、突然エレベーターが故障した。やむなくヒトラーは最上階まで歩いて上った。ところが、ヒトラーはエッフェル塔には上らなかったとする説もある。この否定説によると、シャイョー宮に行くのにシャン・ド・マルスを横切りながら、下からエッフェル塔を眺めただけだったという。どちらが本当か不明である。真相はエッフェル塔だけが知っている。

   しかし、何故、ヒトラーはエッフェル塔を見物したのだろうか。ナポレオンの柩が納められた廃兵院(アンヴァリッド)や凱旋門ならば話はわかるが、エッフェル塔が花の都パリのシンボルというだけの理由なのだろうか。一説によると、エッフェル塔が完成したのはフランス革命100周年記念のパリ万博で、ヒトラーと「同じ年」だからという。つまりヒトラーは子供のころからエッフェル塔に憧れを持ち続け、エッフェル塔に行きたがっていたという。もともと画家志望であったヒトラーはキュービズムなど現代美術は頽廃芸術として嫌悪していたが、古典芸術であるルーブル美術館やパリには人並み以上の憧憬を抱いていたと想像するのはケペルだけであろうか。

   エッフェル塔を背景としたヒトラーの記念写真には合成もあるかもしれないが、この記事に載せた写真は、愛人エヴァ・ブラウン(1912-1945)に送った写真で、ジャン・ド・マルス公園あたりで撮影された本物とみられている。

2022年6月22日 (水)

鳴門のうず潮で始まった昭和時代

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   政府は今年の男女共同参画白書で、「もはや昭和ではない」として結婚や家族の在り方が多様化している現状を述べている。メディアの報道でいう「昭和」とはほとんど戦後期の昭和のことで、なにか違和感がある。言うまでもなく、昭和時代は1926年12月25日から1989年1月7日までである。 昭和という時代は「鳴門秘帖」で始まった。吉川英治の新聞小説の映画化は日活、マキノ御室、東亜等持院と三社が競作した。主人公の法月弦之丞には谷崎十郎、市川右太衛門、光岡竜三郎らが虚無僧の姿となって銀幕に登場した。阿波・蜂須賀の十代藩主蜂須賀重喜が倒幕思想家であったかどうかは知らない。吉川英治が「鳴門秘帖」執筆となった切っ掛けは二説ある。①川柳仲間であった伊上凡骨が阿波の出身で、蜂須賀公の話を聞いた②幕末の洋画家・司馬江漢の「春波楼筆記」に記されたわずか120字に満たない文章からヒントを得た。②説は、司馬江漢みずからが危険思想の持ち主として偽死の引札を配布するほどだったが、俗説の蜂須賀小六・野武士の頭というイメージから、その後裔の徳島藩が不穏の兆しありとして隠密が潜入するという設定は、なんとなく首肯できるような気がする。時代は鳴門の渦のように複雑怪奇な激動の昭和が始まろうとしていた。

それでも地球は回っている

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ヴァチカンの宗教裁判に引き出されたガリレオ ジョゼフ・フルーリ 1846年

   1632年2月22日、ガリレオ・ガリレイは地動説の解説書「天文対話」を刊行した。翌年の4月12日には、ガリレオの異端審問が始まった。ローマ法王庁の機密文書館が開設400年を迎えたのを記念し、一般に公開されるようになった。目玉の一つがガリレオが異端審問にかけられた際の裁判記録。ガリレオの署名がはっきりと確認できる。

  ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)がはじめて望遠鏡を空に向けた時、宇宙の法則はコペルニクスが正しく、プトレマイオスはまちがっていることを確信した。しかし、ガリレオの提示した理論は、いずれも当時において反論の余地ある仮説の域を脱していなかった。1600年にはジョルダーノ・ブルーノが異端として火刑に処せられている。ガリレオもまた宗教裁判において終身の自宅軟禁を言い渡され、2度とふたたびこの問題を取り上げることは禁止された。1633年6月22日、ガリレオに異端判決が下され、「それでも地球は動いている」と呟いたと伝えられる。盲目となってからもガリレオの研究は最後まで衰えることはなかった。1642年、ガリレオは熱病にかかってフィレンチェ郊外のアルチェトリで死んだ。(Galileo Galilei、4月12日)

2022年6月21日 (火)

参勤交代と大名行列

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歌麿「駿河路の大名行列」


   徳川家康は関ヶ原の役ののち、外様大名の江戸参勤や妻子の江戸居住を奨励した。1602年に前田利長が母の芳春院をたずねて江戸に参勤したのが、その最も早い例といわれる。家康が征夷大将軍に就任(1603)すると西国大名の江戸参勤が急にふえ、幕府も諸大名に江戸に邸宅を与え、刀剣・書画・鷹・馬などを参勤のときにおくり、大大名に対しては鷹狩に託して秀忠が東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿など迎えて優遇し慶長の末年には参勤が一般の風となった。はじめ幕府は参勤の供連れの人数を規定しただけで、参勤を命令することはなかったが、1634年8月4日、譜代大名の妻子の江戸居住を命じ、翌年6月21日の武家諸法度で毎年4月の外様大名の参勤交代が義務化することとなり、参勤交代は法制として確立した。通則は隔年交代、関東の大名は半年交代、対馬の宗氏は3年1度の参勤、水戸家や役付大名は定府(じょうふ)であった。当初は外様大名にのみ適用されたものであったが、7年後の1642年5月9日には譜代大名へも拡充されて、参勤交代は確立した。

  大名行列は本来、軍事に備える移動形態であったが、太平が続くと大名の権威と格式を誇示するための華美なものに変容した。参勤の道中には武具一式、衣服、雨具、非常食糧、漬物、湯道具、娯楽道具、休憩用具(幕・床几など)、ろうそくなどに至るまで持って歩く。他家の行列とすれちがう場合には、道中では格式にかかわらず、乗り物のとびらあるいは窓をあけ、行列は止まらない。長途の旅行で病気におちいり、一命を失うという場合も少なくなかった。加賀藩では最盛期には4000人の従者がいたといわれる。行列の際、先払いが「下に下に」と触れ声をかけ、庶民は土下座して道を譲る。ただし沿道の人を土下座させることができたのは親藩だけで、譜代と外様は「片よけ片よれ」と命令して通行した。

参勤交代は、大名の財政に大きな負担となり、軍事力が低下し、謀反を起こさせないとする結果となったが、反面、都市や交通が発展する一因となった。(参考文献;平山敏治郎「参勤交代する旗本」 人文研究大阪市立大学大学院文学研究科紀要7-8,1956)

 

 

 

 

 

 

 

 

三四郎とストレイシープ

Photo_2    「ストレイシープ(迷える羊)」という言葉は、聖書のマタイによる福音書18章10~14節に由来する。100匹の羊の中の一匹が迷子になり、羊飼いは99匹の羊を残して迷子の羊1匹をさがしに行かないだろうか、というイエスのたとえ話がある。夏目漱石の小説「三四郎」の中にも里見美禰子という女性の謎めいた言葉として印象的に使われている。一般にこの言葉は聖書の中では「罪人」という意味で使われている。漱石「三四郎」においてどのような意味で使ったのか解釈をめぐってはさまざまな意見がある。漱石も読者がいろいろな受け止めができることを意図したものであろう。

    小説の終わりで、美禰子がかすかな声でいう。「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」美禰子はストレイシープが自分のことであり、三四郎を好きであることを告白している。これに対して三四郎は「ただ口の内でストレイシープ、ストレイシープと繰り返した」で小説は終わる。

    ところが英語の聖書には「ストレイシープ」という語は見られない。漱石が英国留学時代に研究したヘンリー・フィールディング(1707-1754)の「トム・ジョーンズ」(1749年)には「ストレイシープ」がでてくる。三四郎の友人の佐々木与次郎が「ダーター・ファブラ」(他人事ではないの意)という言葉をよく意味を知らずに使っている。岩波文庫の注では「デ・デ・ファブラ」はホラチウス「風刺詩」の言葉とあるが、それは初出であって、おそらく漱石はロバート・ブラウニングの詩集「男と女」を読んで「ストレイシープ」「デ・デ・ファブラ」という語から小説のインスピレーションを受けたものであろう。

あれはナイチンゲール、ヒバリじゃないわ

    ジュリエットはロミオと一夜を過ごす。夜明けが近づいてヒバリが鳴き始めて、やがてロミオとの別れが近づく。ジュリエットは別れがつらくて「あれはヒバリじゃなくて(夜に鳴いている)ナイチンゲールよ」と言う。

It was the nightingale,and not the lark.

 

Sudhakar1431803083   羽は赤ちゃけた色をしており、腹は灰白色で、姿は美しいとはいえないが、声はもっとも美しい鳥としてイギリスでは詩にしばしば登場する。夜明け前によく透る声で鳴く。
    英詩でナイチンゲールがうたわれるようになったのは13世紀の後半からである。この鳥は季節からいえば春と夏とにまたがっている。イギリスの夏は暦の上では夏至(6月21日)から秋分(9月22日あるいは9月23日)までをいうが、実際には5月半ばから8月下旬までをいう。イギリスの夏は涼しく、花も美しい。6月、7月が夏のさかりといってよい。

 

 

2022年6月20日 (月)

映画「カサブランカ」

Casablanca2  パリが舞台の映画はたくさんある。しかしアカデミー作品賞を受賞した恋愛映画となると意外に少ない。「カサブランカ」(1943)と「巴里のアメリカ人」と「恋の手ほどき」。パリでの回想シーンなどはすべてハリウッドのスタジオで撮影されたものである。「カサブランカ」は第二次世界大戦下、政情不安な時代の若い2人の恋を描く。1946年6月20日、日本で封切りされる。

What about us?

We'll always have Paris?

「私たちはどうなるの?」「僕たちにはいつだってパリの思い出がある」

    ヒットラーの野望が全欧州に広がり、パリがすでにナチスに占領されていた1940年、フランス領モロッコの港町カサブランカには政治亡命者、反ナチの闘士、スパイ、犯罪者、利権屋などが渦巻いていた。そうした人たちの出入りする「カフェ・アメリカン」の経営者リックは苦労人で、侠気からいろんな人々に頼られていた。彼らは一様に転出査証を求めているのだ。折りしもドイツからの2人の急使が殺害されて旅券が奪われる。犯人はリックの店に逃げこみ、偶然その1枚がリックの手にはいった。

   反ナチの大立者ヴィクター・ラズロも妻と共にカサブランカにやってきてアメリカへの脱出の機会をうかがっていたが、それを阻止するためこの地に派遣されたゲシュタポ、ストラッサー少佐の監視はきびしかった。ラズロはリックの手にある旅券を譲ってほしいと頼む。

   カフェを訪れたイルサ・ラズロは、店にピアノひきの黒人がいるのを知って驚く。「時の過ぎ行くままに」という曲がかつての恋人イルサとリックを再会させたのだ。パリ陥落の日、愛し合うリックとイルサはともに脱出するはずだった。だがイルサのやむを得ぬ裏切りからふたりは離ればなれになったのだった。

   灼熱の太陽が白壁にまぶしい辺地で、昔日の愛情は再び燃えあがる。イルサははじめてなぜにパリで約束の時間に行かなかったかをリックに語る。それはナチスに捕らえられて死んだと思っていた夫が、重態でかくまわれていることを知ったためだった。

   ラズロは暗黒街の顔役フェラリに頼んで旅券を手に入れようとする。1枚さえあれば妻をアメリカへ逃避させることが出来るのだ。またイルサはリックに1枚を夫に渡してくれと頼む。ラズロが妻を深く愛していることを知ったリックは、夫の解放運動にもどんなに彼女が必要であるかを知って自分の恋をあきらめる決心をする。

   カサブランカの警視総監ルノオ大尉はリックの身辺や「カフェ・アメリカン」に大きな変化があるのを感じていたが、ストラッサー少佐には報告しなかった。彼には自由のために戦う尊さが次第に分かりかけてきたのだった。

   リックの体内にも昔日の闘志がよみがえってきた。ルノオ大尉をあざむいて同志の会合に出かけて捕らえられたラズロを釈放させ、それから脱出の手はずを整える。それはリツクがイルサとリスボンへ駆け落ちするかのようにみせかける大芝居をうつことだった。

   脱出を知ったゲシュタポのストラッサー少佐は、阻止せんものと飛行場にかけつけるが、リックは射殺してしまう。それを見ていてもルノオ大尉は逮捕しようとしなかった。彼もまた自由人なのだ。

   リックはルノオ大尉と共に夜空にリスボンをめざして飛んで行くラズロ夫妻の機をじっと見送るのだった。

主題歌「時の過ぎ行くままに」は自由を求める最高のラブソングである。後年、バーグマンはある番組でスペシャル・ゲストでフランク・シナトラが突然に現れて「時の過ぎ行くままに」を披露し、感激のあまり抱擁する映像がyoutubeでみれる。

カサブランカのピアノ

O0400030010894432535   1930年代、アメリカで強盗や殺人を繰り返したボニーとクライドが使用した拳銃がナッシュビルの競売で2丁3900万円で落札されたという。数年前、マカオでマリリン・モンローのブラジャー、エルビス・プレスリーの髪の毛、ダイアナ妃のドレス、オードリー・ヘプバーンの花嫁衣裳などが競売された。記憶に残るところでは、映画「カサブランカ」のなかでドーリー・ウィルスンが弾いていたピアノをある日本人が落札した。ピアノは小さくて粗末なものだった。ドーリー・ウィルソンは歌手でピアノは弾けず、ほかのピアニストが弾く音を入れたもので、実際はこのピアノは使われなかった。

生老病死

 養老孟司さんは毎年の定期健康診断を受けていないという。ご高齢ながらふだんからはほとんど病院へ行かないという。鎌倉での泰然自若とした生活がうらやましくもある。だが一般人はそうもいかない。腰が痛いだの、便秘気味だ、歩くときふらつく、などさまざまな症状がでてくる。どんな人にもいつかは訪れる死。養老さんは「死については考えない」ことにする、とハッキリ割り切っている。死んだら周囲は葬儀や何やかやで大変だろうけど、死んだ当人はもうわからないので、死についてあれこれ考えるのは無意味だというのである。つまり養老さんは極めて合理的な思考の持ち主なのである。あの孔子も高弟の顔回が死んだとき「ああ天、われをほろぼす」といって慟哭したといわれる。「生老病死」だれもがかならず辿るコースだが、ここでは「病」について考察する。ピアニストのブーニンさんが今年7月に9年ぶりに公演するという。1985年、ショパン国際コンクール優勝で、翌年来日するや「ブーニンブーム」といわれる社会現象をおこした。あれから37年。ここまでの音楽家人生は多くの難局を乗り越えてきた。車いす生活とリハビリとの闘いで、思うようにピアノが弾けなかった時期があった。あの「永遠の若大将」加山雄三もコンサート活動から引退すると発表された。「戦場のメリークリスマス」(1983年)の世界的音楽家、坂本龍一はがんステージⅣで闘病生活を続けている。「病」に向き合うことは、人生そのもの、人間そのものかもしれない。

ヴァレンヌ事件

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  1791年のこの日、フランス国王一家の逃亡が、東部のムーズ県の小村ヴァレンヌで発覚し、阻止された。20日深夜、パリ脱出計画は実行された。従僕に変装したルイ16世は、王妃や2人の子ども(ルイ・シャルル6歳、マリー・テレーズ12歳)らとともに、チュイルリー宮殿を脱出し、馬車でブイエ将軍の軍隊が待つメッスに向かったのである。しかし、計画は失敗する。旅程が大幅に遅れ、護衛のためにブイエ将軍が街道に派遣した騎兵隊が、住民の警戒を招いてしまった。国王は、かつてヴェルサイユに滞在したことのある宿駅長ドルエなよって変装ほ見破られた。そしてとうとうヴァレンヌで、国王一家は、郡総代で薬種商人ソースの家に護送され、そこで逮捕されたのである。国王一家のパリ帰還は、国民の逃亡によって裏切られたと感じたパリの民衆の激しい反応をひきおこす。国王の肖像やシンボルが破壊され、国王廃位を要求する誓願や国王・王妃に対する誹謗文書があふれ返る。22日、東部国境に近いヴァレンヌでルイ16世一家は逮捕され、そして6月23日、国王一家は、重苦しい沈黙のなかをパリに戻った。この事件以降、国王と国民の信頼関係は崩れ、革命はついに王政打倒へと向かっていく。(6月20日)

2022年6月19日 (日)

辛店遺蹟

 中国甘粛省洮沙県にある先史時代の埋蔵遺蹟。紀元前1300年から紀元前1000年頃の彩陶文化。1923年洮河東岸の段丘上でアンダーソン博士が発掘し、土器・石器・骨角器・青銅製小刀などをともなう伸展葬の墓を発見した。土器は一般に粗製で、頸部に1個または1対の把手を備えたものが多く、黒か赤で種々の幾何学文のほか、人物や動物の形を描いている。なお彩文をほどこした鬲が2個発見されたことは、黄河中流域方面からの影響を示すものである。中国西部の新石器文化は、土地の自然的条件により分布範囲も狭く独自の文化が発達した。辛店文化、寺窪文化、卞窑文化、唐汪文化、沙井文化とよばれる。

世紀の誤記

  イチョウは神社や街路樹に植えられ、日本ではよく知られる木である。ところが世界では新生代に絶滅したため、日本のイチョウは唯一現存する種である。学名はGinkgo biloba。あえてカタカナ読みすれば「ギンコー・ビロバ」だがラテン語のわかる人でもわからないらしい。理由は誤記のためだそうだ。イチョウ属の学名Ginkgoは、日本語の「銀杏」に由来している。オランダ商館の医師エンゲルベルト・ケンペル(オランダ人)は著書「廻国奇観」において初めてイチョウを紹介した。ケンペルは日本語が読めないためGinkjoもしくはGinkioと書くべきところを、誤ってGnkgoと表記してしまった。このケンペルの綴りが引き継がれて、リンネはイチョウの属名をGinkoと記載した。種小名のbilobaはラテン語による造語で、「2つの裂片」の意味であり、葉が大きくて2浅裂することによっている。(森山厄介)

 

 

桜桃忌

Img_2308_5289321_0    本日は太宰治の命日。東京都三鷹市の禅林寺で供養が行われる。「桜桃忌」は文学忌のなかでは河童忌と並んで有名である。

   太宰が東京・玉川上水に入水自殺し、遺体が上がったのが誕生日でもあるこの日。桜桃が熟するころで、太宰の晩年の作品で好評だった「桜桃」から桜桃忌と呼ばれる。

   太宰治の叔母の言ふ。「お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行ひだけでもよくなさい」

   芥川賞候補の太宰に対して、選考委員だった川端康成は選評の中で太宰の生活態度を「生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる・・・」と批判した。それに激怒した太宰は「小鳥を飼い、舞踏を観るのがそんなに立派な生活なのか」と反論した。

   志賀直哉はある座談会で太宰を「僕は嫌いだ。あのポーズが好きになれない」と評した。これに対して、太宰も志賀を「薄化粧したスポーツマン」などと罵倒した。この対立の背景には、太宰の志賀に対する畏敬とコンプレックスがあったのかも知れない。2020年、孫の石原燃が「赤い砂を蹴る」で芥川賞の候補作に選ばれる。太宰は天国でどう思っているだろう。(6月19日)

 

 

2022年6月18日 (土)

英語で何て言う?

Onigiri_01  本日は「おにぎりの日」。「おにぎり」は英語で、rice ball。おにぎりと思われる米粒の塊が弥生時代の遺跡から発見されている。おにぎりの直接の起源は平安時代の「頓食」(とんじき)という食べ物だと考えられている。この頃のおにぎりは楕円形のかなり大型で、使われているのは蒸したもち米であった。鎌倉時代の末期頃には、うるち米が使われるようになった。おにぎりに海苔が巻かれ、現在のような形になったのは、そんなに古いことではなく、江戸時代中期と言われている。加工された四角い板海苔が「浅草海苔」などの名称で一般に普及したのは元禄の頃である。海苔は、栄養が豊富でかつ、手にご飯がつかないという便利さも相まってむ、おにぎりに海苔を巻く習慣が定着した。今や国民食となった「おにぎり」だが、もっとも一番好まれる具は何か?ある調査によると、1位が鮭で、以下、ツナマヨ、梅干し、明太子、昆布、たらこ、おかか、と続く。一般的に高菜は人気がないが、新垣結衣、ガッキーの好物は意外にも高菜ということである。(6月18日)

 

 

 

 

 

 

ワーテルローの敗因は情報伝達ミスだった…

  映画「ワーテルロー」は19世紀初頭ヨーロッパの運命を決定したワーテルローの戦いを早朝から夕方までの戦況を克明に描いた作品。フランス皇帝ナポレオンをロッド・スタイガー、イギリス軍司令官ウェリントン提督をクリストファー・プラマーが扮する。1815年、追放先のエルバ島を脱走し、フランス皇帝として復権したナポレオン。ヨーロッパ各国はこれに対して軍備を整え、6月18日ワーテルローの大決戦がはじまる。10万の兵を超えるフランスのナポレオン軍と、知将ウェリントン率いる6万の英軍とブリュッヒャー率いる7万のプロイセンとの連合軍が激突する。結果はナポレオンの大敗に終わる。映画では仏軍エマニュエル・ド・クルーシー(チャールズ・ミロットが演じる)がプロイセン軍を深追いしたためワーテルローの主戦場に到着が遅れたといわれる。また一説によると、ワーテルローの敗因は、ナポレオンの命令書の文字が悪筆のため「援軍よこせ」と書いたつもりが、「うまくいっている」と誤読したため、味方の将軍が援軍に行かなかったからといわれる。

 

 

2022年6月17日 (金)

女性の太眉ブーム

Photo   女性の眉の太さは時代により大きく変化する。江戸時代、引眉(ひきまゆ)といって、眉を剃って長円形の細い眉を墨で描く化粧法が流行した。明治になって廃れたものの、「三日月眉」は美人の形容として残った。戦前の美人女優の写真などをみると眉は自然なものが多いが、戦後、オードリー・ヘップバーンの流行により太眉が大流行する。久我美子や安西郷子などは太い眉で現代性を強くアッピールした。

 

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Photo_5  第二次の太眉ブームは1980年代後半から90年代前半のバブル期にみられる。石原真理子などが代表例である。しかし90年代後半になると安室奈美恵が登場し一変する。彼女のファッションをマネしたアムラーがこぞって眉毛を細くした。だが2010年代に入ると、ナチュラルな清楚感を漂わす太眉が再ブームの兆しがみえる。

 

 

 

 

 

 

世界遺産タージ・マハル

Lrg_10669522  インド北部のアグラにある「世界で最も美しい建築」といわれるタージ・マハルはムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が愛妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の死を悲しんで建てた廟墓である。建築者ウスタッド・アーマド・ラホーリはインド・イスラーム建築に大きな業績を残した。ムムターズがまだ皇太子だったシャー・ジャハーンと結婚したのは1612年、ムムターズ18歳の時だった。彼女はもちろん初婚だったが、シャー・ジャハーンには2年前に結婚した妃がおり彼女とのあいだに娘が1人いた。美貌の皇妃として知られたムムターズは、夫に深く寵愛され、男子8人、女子6人という子沢山であった。そして20年近く、ムガール朝の大奥で権勢をほしいままにした。1631年6月17日、王がデカン遠征中、妃は36歳で産褥死した。王はその死を悲しみ、彼女の廟の建設を翌年から着工し、21年の歳月をかけて1653年タージ・マハルが完成した。タージ・マハル Taj Mahal とは「マハル妃の王冠」の意味。王妃の墓は、このドームの真下の地下にある。(世界史)

「おしどり夫婦」の語源となった鳥も浮気する!?

   夫婦仲がよいことは昔から最も祝福すべきことの一つである。中国には、「琴瑟相和す」「連理の枝」「比翼の鳥」など夫婦仲のよさを褒めたたえた多くの言葉がある。琴と瑟とを弾じてその音がよくあう。つまり音調がよく整って、夫婦の響きが相応じ調和し、楽しい雰囲気をかもしだすように、夫婦仲のよいことをいうのである。日本でも古くから夫婦仲の良いたとえとして「おしどり夫婦」ということばが使われている。しかし、野鳥の60パーセントが、つがいのオスがいない隙を狙って別のオスが巣を訪れて交尾をしているといわれる。オシドリも例外ではなく毎年パートナーを替えて交尾している。不倫や浮気は政界・芸能界だけではない。生物の生殖本能ともいえるものなのである。

 

 

 

 

礼文島、北のお花畑

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  地蔵岩を望む(礼文町)

 

  日本最北端の有人島、礼文島。面積81.33k㎡。人口3856人。島名はアイヌ語の「レブンシリ」(沖の島)に由来するという。5月下旬から8月頃、見事な高山植物や花畑を見ることができる。レブンウスユキソウ、レブンアツモリソウなど貴重な固有種も多い。澄海岬(スカイ岬)から見る海はエメラルドブルーで、沖縄に匹敵する蒼さである。地蔵岩、元地海岸などの景色も美しい。礼文島から利尻島の利尻山が良く見える。

 

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2022年6月16日 (木)

夜来香

 李香蘭の歌唱により知られている「夜来香(イェライシャン」。夜になると濃厚な香りを放つことから中国では「夜来香」と名づけられた。蘿藦(ががいも)科の植物。トンキンジャスミン、またはナイトジャスミンという。学名は Telosma cordata。古い植物図鑑などでは夜来香がチューべローズであると言われたが、実際は別種の植物であることがわかった。(森山厄介)

シレジア織布工の反乱

   1844年6月プロイセン王国のシュレジェンで起こった織布工の反乱。これは単に地方的な暴動ではなく、ドイツでプロレタリア労働運動に最初に火を点じたという意味で歴史的な出来事であった。当時シレジアの織布工は資本主義的搾取と封建的収奪という二重の責苦にあっていた。ここではしばしば封建的領主と資本主義的企業家とが同じ人間だったからである。そのため労働者はアイルランド以下の低い生活水準にあった。反乱にはギータースワルダウとランゲンビーラウらの約3000人の織布工が加わり、機械を破壊し、織元の家を襲った。反乱は約2日で軍隊によって鎮圧されたが、全ドイツの労働者に深刻な影響を与えた。ゲアハルト・ハウプトマンの戯曲「織工」もこの一揆を主題にしている。

 

 

ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)

Soviet_union1963stamp0_10__valentin   女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを乗せたボストーク6号は1963年6月16日、打ち上げられた。「わたしはカモメ」彼女が宇宙から発したこの言葉は、その女性らしい感性と表現で世界中の人々が感動した。ところが、実は「かもめ」というのは、そのミッションで与えられた彼女のコードネームだった。打ち上げ直後、機器の故障で地上との交信が途切れた。テレシコワはパニック状態となり、やたらめたら通信機で「こちらはカモメ、応答願います!」と連呼して叫んだ。この通信を世界中のアマチュア無線家たちが傍受して、「こちらはカモメ(ヤー・チャイカ)」を優雅な通信と取り違えた。ときには勘違いから感動がうまれることがある。( Tereshkova )

2022年6月15日 (水)

精霊流し

 お盆の伝統行事「精霊流し」の詳細な起源についてはあまりわからない。毎年8月15日、または16日の朝に盆の供え物の類を川や海に流して祖先の霊を送る。長崎県の各地や佐賀県・熊本県の一部でみられているが、1974年にフォーク歌手グレープ(さだまさし)歌唱の曲がヒットして全国的に精霊流しが知られるようになった。とくに長崎市の精霊流しは有名で、阿弥陀丸とか浄土丸などの名のついた精霊丸がつくられ、燈籠の火が港湾いっぱいに広がり美しい夜景をみせている。精霊流しの起源は、江戸時代享保年間に蘆草拙(1675-1729)が精霊物を菰(こも)で包み流しているのを見て、「これは霊に対して失礼だ」と考え、藁で小舟を作ったのがはじまりだと言われている。また、別の説では中国の彩舟流しに由来しているというものであり、こちらが有力な説と思われる。(参考:長崎精霊流し 土肥原弘久、入江清佳著 ゆるり書房 2017年)

 

「おしるこ」と「ぜんざい」

Ba87475bbfd60372296eb07a19706c01    本日は「オウムとインコの日」だそうだ。「オウム(06)インコ(15)」の語呂合わせ。世の中、似て非なるものがある。海峡と水道(たとえば紀淡海峡と紀伊水道)。バターとマーガリン。おかきとせんべい。幕の内弁当と折詰弁当。柚子と酢橘。カレイとヒラメ。ハマチとブリ。タラコと明太子。しることぜんざい。 しるこは、古くは、汁の実である。コは実である。「芋の子もくふやしるこのもち月夜」とは満月の夜に芋の子を汁の実(しるこ)として食べたという意で、「寛永発句帳」にある名月(幸和)の句。寛永のころに「しるこ」は「汁の実」のことだった。一条兼良(1402-1481)の「尺素往来」に「新年の善哉は修正の祝着」とあるが、年の初めに餅を祝うことはよろこび(仏語で善哉)であった。善哉餅といって、小豆を煮て餅を入れた食べ方が考えられ、関西で「ぜんざい」という名称で用いられた。関西の「ぜんざい」が、東京で「汁粉」とよばれ、汁を濃く、とろりとさせたものを「ぜんざい」と呼んで区別するようになった。現在、一般的には、小豆を使った汁物に白玉やおかきが入ったものを「しるこ」、つぶあんと餅の入ったものを「ぜんざい」と呼ぶが、地方によっては「ぜんざい」という呼び名のない所もある。フラミンゴはツルに似て、首と脚が長いので「紅鶴(べにづる)」と和名でいうが、指間に水かきがあり、むしろガンやカモの類に近縁の水鳥である。ふ化した直後の体色は白く、色素を摂取することで紅色になる。色素を摂取しない状態が続くと徐々に白色に戻る。(6月15日)

2022年6月14日 (火)

昭和新山の名付け親は誰か?

 昭和新山は北海道南西部の洞爺湖の近く、北海道有珠郡壮瞥町に位置する標高398mの火山である。昭和18年12月末から約2年間で、それまで麦畑だった地に、噴火隆起が繰り返されて生成された。地元の郵便局長だった三松正夫は当時の様子を一部始終を記録している。のちに(昭和23年ころ)三松と田中舘秀三はこの新しい山に名前をつけようと「昭和新山」とした。だが昭和新山の名称はそれ以前からすでに付けられていた。北海道大学の福富孝治は岩波書店の雑誌「科学」昭和21年6月号で「有珠昭和新山の生成に就いて」と題する論文を発表している。

フラッグ・デー

800pxflag_of_the_united_states_svg   連続クイズ・ホールドオン最終回の問題。「アメリカ合衆国の国旗「星条旗」。星の色は?」答えは白。四角に区切った左上部(カントン)には青地に50の白い星が配置されている。

  1777年のこの日、「星条旗」を正式にアメリカ合衆国の国旗と定めた。アメリカが独立宣言を行った頃の旗にはイギリスの国旗が入っていた。しかし、独立戦争で戦った相手の国旗が畑に入っていては国民の士気に影響するということで、ワシントンらがフィラデルフィアの旗作り職人ベッツィ・ロスに依頼し、星条旗を完成させた。他方、アメリカの国歌「星条旗」は、1814年、米英戦争のとき、交渉のためイギリス軍艦を訪問したF・S・キーが、要塞にひるがえる星条旗を見て感激し、詩をつくった。曲はイギリスのJ・S・スミスの乾杯歌「天なるアナクレオン」からの流用。1931年に「星条旗」がアメリカの国歌として正式に採用された。(6月14日)

2022年6月13日 (月)

佳人薄命

   佳人薄命。美しい容姿にめぐまれた女性はとかく短命だという意味で、蘇東坡の詩に「古来より佳人多く命薄し、門を閉じ春尽きて揚花落つ」とある。むかしの女性は軒の深い家に住んでいてめったに外出などせず、色白になりそれで美人といわれたのだが、日光浴をしなかったので早死にした人が多かったのかもしれない。

 756年のこの日、唐の玄宗皇帝は愛妾・楊貴妃を伴って長安から逃げる。翌日、追いつめられて部下に楊貴妃を縊死させる。世界三大美人といわれる、楊貴妃37歳とクレオパトラ39歳で、没年はともに40歳近くの女盛りで亡くなっているが、小野小町については生没年は不詳であり、伝説によるとかなり長命だったようである。古川柳に「薄命でなくて小町は恥をかき」がある。ちなみに20世紀のセクシーシンボルのマリリン・モンローの享年は36歳である。

   現代は、女優や人気アイドルの突然の死が大きくニュースとなり、社会に大きな衝撃となることがある。佳人薄命で思い出すのは、夏目雅子(1957-1985)であろうか。正統派アイドル、岡田有希子(1967-1986)の自殺が社会に与えた衝撃も大きかった。堀江しのぶ(1965-1988)、テレサ・テン(1953-1995)、可愛かずみ(1964-1997)、本田美奈子(1967-2005)、甲斐智枝美(1963-2006)、坂井泉水(1967-2007)、竹内結子(1980-2020)、神田沙也加(1986-2021)など女神たちの昇天に合掌。(6月13日)

シクラメン

 冬の訪れとともに、園芸店の店先はシクラメン一色となる。どこの家庭にもシクラメンの鉢花が飾られる。美しく、優雅な貴婦人のようである。サクラソウ科の多年草。地中海沿岸生まれのシクラメン・ベルシクムをもとに約20種が分布し、1731年にイギリス持ち込まれて広がった。名前はギリシア語の「まるい」「旋回」などの意味をもつcyclosからきたという。1605年にウィリアム・恋図が作った庭の植物一覧表にその名がみえる。その後改良がなされね財津、オランダなどで大輪系品種が確立している。日本へは明治から大正にかけて渡来し、昭和に入ってから本格的生産が始まった。別名「豚のまんじゅう」、牧野富太郎は「篝火花」という名前を考案した。昭和50年に小椋佳の「シクラメンのかほり」がヒットすると、シクラメン・ブームが起こって高級鉢物として日本に定着した。(森山厄介)

 

ジェボンズの太陽黒点説

   イギリスの経済学者ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1835-1882)は、太陽黒点の周期的増減が気象の変化をもたらし、農作物の収穫に影響を与えることから、景気循環が生じるという太陽黒点説を1875年頃、大英学術協会で提起している。

2022年6月12日 (日)

カーネーション

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    カーネーション。ナデシコ科の多年草。別名ジリフラワーともいい、カーネーションの原種クローブ・ピンク(丁字花)の栽培の歴史は古い。プリニウスは、アウグストゥス帝の治世にスペインで見つけられたと紀元後1世紀に書いている。そしてスペインでは、飲み物に香りをつけるために用いるとも書いている。アフリカのイスラム教徒がカーネーションを栽培し、それが13世紀になりチュニスを経てヨーロッパに紹介された。15世紀頃から園芸品種の開発が進み、1538年、イギリスの植物学者ウィリアム・ターナー(1508ー1568)の著書「新本草書」に初めて「カーネーション」が見える。カーネーション(carnation)、別名ジリフラワー(gillyflower)はイギリスの庭園に植えられる最も古い植物であるだけでなく、何世紀にもわたって一番愛された花である。(森山厄介)

 

スイートピー

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  スイートピーはシチリア島だけに自生する野生の花でフランシス・クパーニ司教が、1699年に種子をロンドンのロバート・ユーヴデイル博士に送った。この人物は多くの珍しい種の愛好家で、当時はまだスイートピーは雑草扱いだった。その後イギリス王室で愛され、品種も多彩になった。やがてアメリカへ移り、温室で栽培された。モナコ公国のグレース后妃も「古風なスイートピー」を好んだ。日本では松田聖子の「赤いスイートピー」が結婚式ソングの定番。実はスイートピーの花言葉は「別離」。(森山厄介)

 

 

恋人の日

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    6月12日は「恋人の日」。ブラジルでは夫婦や恋人同士が贈り物をしあってお互いの気持ちを確かめあう。伊豆市土肥温泉に恋人岬には「愛の鐘」と呼ばれる鐘があり、この鐘を3回鳴らすと恋愛が成就すると言われている。年間23万人の観光客が訪れる。

チューリップ

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フランクフルトで出版された商品カタログ「花譜」(1612年)

「17世紀オランダを揺るがした魅惑の花チューリップ」森山厄介

  チューリップの魅力は花姿や花色に富んだ数多くの園芸品種があることで、園芸品種は約5000ある。原種は約150種といわれ、その約4割が天山山脈の西側からパミール高原の山岳地帯を原産地とする。そして北はシベリア、東は中国へ、南はカシミールやインド、西へはコーカサス地方へと伝播した。ここからトルコやバルカン半島へ、さらに16世紀末には人の手によってヨーロッパにもち込まれた。チューリップ伝来にはいろいろな話が伝えられている。1554年に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド1世の大使として、スレイマン大王治世下のトルコに赴任したアウグウス・ド・ブスプッチが、ヨーロッパ人としては初めてチューリップを見た。その頃、トルコではチューリップの栽培は相当進んでいた。彼はウィーンに種子を持ち帰った。おそらく球根も持ち帰ったと思われるが、それらは「贈り物」として貰いうけたものだったにもかかわらず、「少なからず出費があった」と記している。1559年、植物学者コンラート・フォン・ゲスナーはアウグスブルグで数本のチューリップが咲いているのを見て、1561年に出版した絵入りの書物に初めてチューリップの絵を載せた。彼の名前を取ってゲスネリアーナ種と名づけられた。また、こんな話も伝わる。あるイギリスの園芸研究家がトルコに赴いた時、「この花は何か」と聞いたところ、現地のトルコ語ではラーレと言うのだが、形を聞かれたと勘違いした現地人が「この花の形は頭巾の形をしたトルコ帽(チューリパン)に似ている」との意味で、「チューリパン」と紹介した。これがこの花の名前として、世界中に広まったのである。

  チューリップは変種が生まれやすいために、変わった花を咲かせるチューリップの球根に運良く当たれば、大儲けができた。とくにオランダを中心にして多量に栽培され品種改良された。ライデン大学初代植物学教授カロルス・クルシウス(1526-1609)は、大学の植物園での栽培に成功した。チューリップはたちまちヨーロッパ各国に伝わり、貴族や大商人の間で流行した。やがて球根の先物取引が始まり、1633年には投機ブームとなり、1637年2月、ついに恐慌を引き起こし、球根は暴落した。契約の履行は不可能になり、破産者続出は必死となったが、オランダ政府の介入により取引高の5~10%支払いのみですべて清算され、破局は回避された。この恐慌は、生産の拡張に基づかない前資本主義恐慌の代表的な実例といわれている。18世紀初め、西欧的な趣味、贅沢がオスマン帝国で導入され、チューリップが大流行した。アフメト3世の頃をチューリップ時代と呼ぶ。

    このような17世紀のチューリップ狂時代を風刺した小説にデュマの『黒いチューリップ』(1850年)がある。青年コルネリウスは黒いチューリップの栽培に成功するが、彼を妬んだボクステルの陰謀により投獄される。牢屋番の娘との恋がうまれ意外な展開の喜劇小説に仕上がっている。黒いチューリップは実際に存在するのだろうか。19世紀半ば頃まで育種家は、黒、緑、青花のチューリップを作出することが長年の夢だった。しかし1891年に、「ラ・チューリップ・ノアール」という黒色品種がついに登場した。さらに1944年、より黒み帯びた「クインオブナイト」が作出され、架空の物語が現実となった。緑色は、花弁に緑色の筋が入るヴィリディフローラ系があり、「アルバ・コエルレア・オクラータ」と呼ばれる「青いチューリップ」も近年登場している。現在、単色で黒、緑、青のチューリップが育種家により追求されている。(世界史こぼれ話)

2022年6月11日 (土)

傘の日

1372684272195191   きょうは「傘の日」。この日が雑節である入梅にあたることが由来になって、1989年に日本洋傘振興協議会によって制定された。傘がモチーフに扱われる映画といえばフランスの「シェルブールの雨傘」(1964)。結婚を年誓い合った恋人同士。だが、男に送られてきた徴兵令状が、ふたりの人生を大きく変えてしまう。ミッシェル・ルグランの甘美で哀愁漂うメロディが、涙をさそう。もう一本は「雨に唄えば」(1952)ジーン・ケリーがどしゃぶりの雨の中、キャシーへの愛を歌い躍るシーンがミュージカル映画史上の名場面。元歌は古くトーキー初期の名作「ハリウッド・レヴュー」(1929)の中で評判になったナンバーで、クリフ・エドワーズがガラスで張ったフロアでウクレレをひきながらうたい、ブロックス・シスターズの合唱がそのあとを受け、また盛りあげにはレインコートを着たコーラス・ガールのラインダンスとなる。「私は雨の中で歌う。この素敵なフィーリング!私はまた幸せをとりもどし、雲に微笑をなげかける。暗い心の中にだって太陽が輝きはじめる。私は恋をしているのだ・・・・」。

 

   日本には「相合傘」という乙な言葉がある。雨の中を一つの傘をさして男と女が歩く。男は女が濡れないようにと女の方に傘を寄せて歩く。川柳に「相合傘 惚れてる方が 濡れている」とある。(6月11日)

 

2022年6月10日 (金)

なぜ高齢者は帽子をかぶっているのか?

  ドラマ「深夜食堂」。新宿路地裏にある食堂の常連客のひとり忠さんはいつも帽子を被ってカウンターの角に座っている。脇役俳優、不破万作が演じているが何とも言えないイイ味を出している。ところで街中を歩いて見渡すと老人たちの多くは、帽子をかぶっている。私自身、帽子はかぶらない。シニア男性のファッションとして帽子はいつ頃からか定着している。帽子の種類はいろいろあるが、大きく分けると二種類。忠さんが被っている、ツバのあるキャップあるいはハンチング帽。夏の日射・熱中症防止になる台形のクラウンに下向きのツバのついたバケットハットが多い。では帽子はどんな理由でかぶっているのだろうか。理由は聞いていないので分からないが、薄くなった髪を隠すためか。本当の理由は、むかしの知人に出会うことを避けるための顔隠しではないだろうか。映画「あなたへ」(2012年)で高倉健がカッコよくキャップをかぶっていたので、それを真似るシニアが急増したらしい。

 

なぜ日本ではクリスマス・イブは恋人と過ごすものというイメージが根強いのか

Sc02   師走に入ると街中にクリスマス・イルミネーションが点灯され、クリスマス気分を盛り上げてくれる。クリスマスという、現在の日本にとっても馴染みのある習慣は、老いも若きも何となくうきうきする季節だろう。家のリースやツリー、クリスマス・ケーキ、そしてプレゼント。「我が持てる包の中もクリスマス」(山内山彦)だが欧米のクリスマスは家族が集まって過ごすものだが、日本では「クリスマスは恋人と過ごすもの」というイメージが根強い。このの違いはなぜ生まれたのだろうか?

  クリスマスの歴史は長く複雑な意味をもつ。キリスト教とのつながりや、キリスト教以前の、ずっと古代に遡る、ヨーロッパ・地中海に面している諸文化の世界観や信仰の形態の影響が認められる。したがって、今日の世俗化されたサンタクロースの意味を理解するためには、キリスト教またはキリスト教以前の様々な信仰の形態の理解が前提になってくる。とくにサンタクロースは死者の象徴であると、レヴィ・ストロースが主張している。古代からのヨーロッパの民間信仰では、我々一般人にあの世から豊穣をもたらすのは、国家に認定された公式の神々ではなく、むしろ地域の小さな神々であった。これらは、多くの場合、先祖に限りなく近い性質をもっていた。現在、クリスマスが主に家族中心の祝いになっているのも、古代からのこの伝統的思想を継承しているからだと思われる。サンタクロースの根底には、冬に関する古代からのシンボリズムが認められる。キリスト教がこの複雑なシンボリズムを横領し、それをキリストの降誕と習合させた。

   このようなキリストの生誕を祝うクリスマスの風習や行事が世界中に広まったのは19世紀に入ってからのこと。とくに今日のようにみんなでお祝いするのは一冊の本がきっかけとなっている。英国の文豪チャールズ・ディケンズが1843年に書いた「クリスマス。キャロル」である。内容は守銭奴スクルージがクリスマス・イヴに超常的な体験をして改心というスートリー。ちなみにアンデルセンの「マッチ売りの少女」はその5年後の1848年のことである。クリスマスが本格的に日本に入ってきたのは、明治時代以降のことである。キリスト教の信者がそれほど多くないため、文化的な形だけが定着した。ここに日本のクリスマスの特徴がある。戦後、クリスマスは徐々の家族のイベントになっていまーきます。その後、女性の社会進出が進むとね1980年代には「恋人と過ごす日」というイメージが強くなります。1988年のJR東海のクリスマス・エクスプレスのCMが放映(歌・山下達郎)されると「クリスマス・イブは一番大切な人のそばにいたい」というメッセージが拡散されます。同様のイメージはバブル期のトレンディ・ドラマなどで定着されます。

 

(参考:ファビオ・ランべッリ「サンタクロースの文化史のための覚え書き」比較文化論叢 札幌大学文化学院紀要19、2007年)

ポルトガルの日

 本日はポルトガルの日。ポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイスが亡くなった日(1580年)に由来する。ポルトガルのリスボンにあるベレンの塔は、マヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。1515年着工、1521年完成。リスボン最西端のロカ岬にはカモンイスの詩「ここに地終わり海始まる」を刻んだ石碑が建っている。17生気、スペインの支配に対する反発が高まり、1640年ブラガンサ公が蜂起して新王朝を名乗り、オランダ、フランス、イギリスの援助を得て、1668年スペインに再独立を認めさせた。(6月10日)

 

 

 

 

 

日清戦争と日本資本主義の発展

    日本海軍の聯合艦隊が編成されたのは、日清戦争(明治27年7月~明治28年2月)のときのことである。それ以前、海戦遂行を主目的とする「常備艦隊」は、明治22年7月始めて編成された。西日本警備を目的とする「西海艦隊」を併せて、司令長官伊藤祐亨海軍中将指揮下の「聯合艦隊」が組織されたのは、明治27年7月19日である。編成わずか6日後の7月25日、巡洋艦「吉野」(河原要一艦長)・「浪速」(東郷平八郎艦長)・「秋津州」(上村彦之丞艦長心得)は、豊島沖で「済遠」「広乙」を砲撃し、勝利する。9月の黄海海戦では「松島」「厳島」「橋立」の三景艦が参戦する。

   このような海軍の軍備拡張のため、明治26年2月26日、製艦費という税金が議会を可決している。つまり官吏は毎月の給料の十分の一を製艦費として天引きされるようになった。

    明治29年の熊本時代の漱石の収入は月給100円で、その中から製艦費10円、父へ10円、姉へ3円、毎月送金し、奨学金返済が7円50銭、書籍代が約20円、のこりの50円が家計として生活費に充てられる。誠に聯合艦隊を維持していくことは高くついたものだ。しかし、この戦争が軍需工業や重工業において生産の規模を拡大し、わが国、資本主義経済の発展に刺激を与えたことは否定できない。明治34年、日清戦争の賠償金などをもとに官営八幡製鉄所が建設された。

2022年6月 9日 (木)

学名の研究

A46f12a5 「♪この木なんの木、木になる木」というCMで紹介されている大樹はハワイのオアフ島にあるモンキーポッドという木だそうである。「名もない雑草」という言い方はよくない、ということをよく耳にする。一木一草、それぞれれに名があり、名付けた人々の思いがこめられている。生物の場合、一般に使用されている習慣的な名称や国や地方によって異なる名称があったりして、学問的には世界共通の学名が用いられる。例えば「トキ」は「ニッポニア・ニッポン」、「イヌ」は「カニス・ルプス・ファミリアス」、「ネコ」は「フェーリス・シルウェストリス・カトゥス」。1758年にスウェーデンの生物学者リンネが提案したラテン語形で表記される二名法が用いられる。しかしながら学名はラテン文字が日常的に用いられ、ラテン語の語彙になじみがある欧米諸国とは異なり、日本人には学名の使用にはかなりの努力が必要となる。学名をカタカナになおして読み方を書いている本はほとんどない。その理由は決まった発音がないことである。現代語であれば、現代での発音に近い転写という方法が一般にとられるが、ラテン語では不可能である。ラテン語は科学技術のみならず、西欧世界全体の基礎であるが、ラテン語を母語として修得した人はおらず、現地音が存在しない。逆に西欧世界の基礎となったために、それぞれの言語にあわせたラテン語の読み方があり、統一されないからである。何かいい方法はないだろうか。

動物界の学名

 生物はおよそ130万種いるといわれる。種とは動物界を生物分類の階層に「門」「綱」「目」「科」「属」「種」と6段階に分類したことである。われわれ人(ヒト)の学名はホモ・サピエンス・サピエンスという。ニシローランドゴリラの学名は「ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ」という。

さまざまな学名一覧

   例えば、常緑の高木である「スギ」は、日本の造林面積の約4割を占める有用樹木である。私たちは普段和名(わめい)で「スギ」と呼んでいるが、そのスギの学名をどれほどの人が知っているだろうか。「クリプトメリア・ジャポニカ」(Cryptomeria Japonica)という。鯉の学名は「キュプリヌス・カルピオ」(Cyprinus carpio)。

植物の学名は「属名+種小名」で表わされる。植物の学名もラテン語に由来することが多いが、「アカンサス・モリス」のように英語名が同じケースもある。

ウメの学名は「ブラナス・ムメ」(Prunus mume)

 

カサブランカは「リリウム・カサブランカ」(Lilium Casa Blanca)

 

アサガオの学名は「イポメア・ニール」(Ipomoea nil)と呼ばれる。

 

ヒマワリの学名は「ヘリアンサス・アンヌス」(Helianthus annuus)。ギリシャ語のhelios(太陽)+anthos(花)が語源。

 

樹木

 

クスノキの学名は「シナモマム・カンフォーラ」(Cinnamomum camphora)。camporとは「樟脳」の意味。

 

 ソテツの学名は「シカス・レヴォルタ」(Cycas revoluta)。シカスは「ヤシに似た植物」、レヴォルタは「反巻した」という意味で、葉や姿などの見た目に由来する。

 ケヤキの学名は「ゼルコーバ・セルラータ」(Zelkova serrata)。

 

イチョウ 「ギンコー・ゼロバ」(Ginkgo biloba)

勿忘草(わすれなぐさ)の学名は「ミヨソティス・スコルビオディス」(Myosotis Scorpiodes)。

 

ワカメの学名は「アンドリア・ビンナティフィダ」(Undaria Pinnatifida)

 

カバの学名は「ヒポポタマス・アンフィビアス」(Hippopotamus amphibius)。ギリシャ語 hippos「馬」+potamos「川」。amphibiusは「水陸両用の」の意。

ウサギの学名は「オリクトラグス クニクルス」(Oryctolagus cuniculus)。

 

シャチの学名「オルキヌス・オルカ」(Orcinus orca)。ラテン語で「冥界からの魔物」の意味。

 

ミズクラゲの学名は「アウレリア・アウリタ」(オーレリア・オーリタ)Aurelia aurita。

 

植物

 

アカンサス・モリス Acauthus mollis

 

スイートピー 「ラシラス・オドーラートゥス」(Lathyrus odoratus) 

 

ハナミズキ 「コルヌス・フロリダ」(Cornus florida)

 

花タバコ 「ニコチアナ・シルベストリス」(Nicotiana silvestris)

 

ツクバネウツギ 「アベリア・スパスラタ」(Abelia spathuiata)

 

鳥・昆虫類

 

蝶 アカマダラ 「アラクニア・レバナ」(Araschnia levana)

 

蝶 モンシロチョウ 「ピエリス・ラパエ」(Pieris rapae)

鳥類

 

コウノトリ 「キコニア・ボイキアナ」(Ciconia boyciana)

 

アホウドリ 「ディオメディア・アルバトロス」(Diomedea albatus)

 

ニワトリ 「ガッルス・ガッルス・ドメスティクス」(Gallus gallus domesticus)

 

ツバメ 「ヒルンド・ルスティカ」(Hirund rustica) 田舎のツバメ

 

スズメ 「パッセル・モンタヌス」(Passer montanus) 山のスズメ

 

カモメ 「ラルス・カヌス」(Larus canus) 灰白色のカモメ

 

オウギワシ 「ハーピーイーグル」(Harpy eagle)

 

カイツブリ 「タキュパプトゥス ルフィコッリス」(Tachybaputus ruficollis)

 

果実類

メロン 「キューカミス・メロ」(Cucumis melo)

 

恐竜

ティラノサウルスの学名は「ティラノサウルス・レックス」(Tyrannosaurus rex)

 

海洋生物類

モモイロサンゴ 「コラリウム・エラティウス」 Corallium Elatius モモイロサンゴは、ギリシア神話の英雄ペルセウスが斬ったメドゥーサの頭部から流れた血から海に落ちて生まれたという神話に由来する。

 

  辻野匠「学名(ラテン語)のカナ表記についての試論」 地質ニュース675, 2010年11月
     平嶋義宏「学名論 学名の研究とその作り方」 東海大学出版会 2012

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イギリスにおけるエンクロージャー運動

  農村共同体的諸権利なかんずく共同放牧権を排除し、私的・個別的土地利用を実現するために、特定の土地を柵とか生け垣・石垣・土手などをもって囲い込むことをエンクロージャーという。エンクロージャーの歴史は、早期エンクロージャー(16世紀以前)、16世紀の第一次エンクロージャー、産業革命期の第二次エンクロージャーの3つに分けられる。第一次エンクロージャー運動は15世紀末から17世紀中頃にかけて起こった。主として牧羊場にするために、領主が農民の利害を無視して暴力的に耕地や共同地を囲ん込んだ。トマス・モアが「ユートピア」のなかで「羊が人を食う」といったのは、このときのことである。土地を追われた農民は浮浪人となって全国をさまよい歩いた。そこで政府はエンクロージャーによる治安の乱れと人口の減少をおそれて、しばしばエンクロージャー禁止令を出したが、これを抑止できず、そのためにエンクロージャーに反対する農民一揆が頻発した。ついで起こった第二次エンクロージャー運動は17世紀後半から始まり19世紀中頃すぎまで続き、それによってイギリス全土はほぼ完全に囲まれてしまい、中世以来の三圃式開放耕地、共同牧草地、荒蕪地は姿を消して私有化された耕地になった。第二次エンクロージャーは改良農法の必要のために起こったもので、大地主が議会を通じて個別的にエンクロージャー法を獲得し合法的に土地を囲い込んだので、これを「議会エンクロージャー」し呼んでいる。議会エンクロージャーは新農法が普及しはじめた18世紀中頃から急速に増加し、都市における産業革命の進展に大きな役割を果たした。エンクロージャー運動の歴史的役割とは、開放耕地制度を崩壊せしめ、生け垣などで囲まれた大農場をつくりだすことになったが、それは同時に、イギリスに特徴的ないわゆる三分割制、つまり近代的大土地所有者・資本制借地大経営者・農業労働者、という3つの階級関係を成立せしめる過程でもあった。囲い込みによって、ヨーマン(独立自営農民)の没落が促進され、彼らは工業労働者として都市に流出するか、農業労働者として農村にとどまった。

ルーの法則

Photo_8   1850年6月9日ドイツの動物生理学者ウィルヘルム・ルーの誕生日である。イエナ大学でヘッケルに学び、ベルリン大学でフィルヒョーに学ぶ。当時は比較発生学研究が主流だったのに対し、胚に人工的に細工をして、その経過から発生の仕組みを解き明かそうとする、いわゆる実験発生的な手法を用いた。彼はヘッケルらの手法に反発し、「発生学は進化論のしもべではない」と言ったといわれる。

    彼の名前が今日でも広く知られるのは、保健体育科の教科書でよく知られる「ルーの三原則」によってである。実は、当初のルーの説は三つではなかった。内容は、活動性肥大の原則、不活動性萎縮の法則、長期にわたる機能向上制限による器官の特殊な活動能力減退の法則、合目的的構造の機能的自己形成の原理、など多岐にわたる研究である。後世の研究者が、ヒトの器官や機能は適度に使えば発達し、使わなければ退化・萎縮し、過度に使えば障害を起こす、という三法則にまとめたことによって、現代トレーニングの原則として、広く適用されているのである。1924年9月15日、死去。74歳。( 6月9日.Wilhelm Roux )

戦後日本の経済発展

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   日本の国内生産(GDP)は、米国、中国に次ぐ世界第3位である。戦争によって廃墟と化した日本は「戦後76年」の間に、2度も五輪開催国となって平和主義を希求する世界有数の先進国となった。だが現在の繁栄は廃墟と壕舎の窮乏生活の戦後から始まる。戦争のもたらす恐るべき破壊と損耗について改めて知っておく必要がある。戦争でこうむった国民の被害は、310万人をのぼる多数の戦死傷病者を出したことにある。また空襲によって住居や職場を失い、家族が路頭に迷ったこともある。また戦後の食糧不足から栄養不良となり、餓死したものも多数いたであろう。こうした国民生活の窮乏はなかなか数値に表しにくいものである。岩波講座日本歴史 現代4には「戦時戦後の国富統計」が掲載されている(45頁、島恭彦「戦争と国家独占資本主義」)。これをみても1945年の国富総額は1935年の基準から著しく低下している。

 

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   (単位,百万円)

 戦後、昭和24年までは経済混乱によりインフレが進行していた。自動車産業はドッジラインによる不況もあっで低迷が続いていた。しかし、朝鮮戦争の勃発でアメリカから大量の自動車の注文がおこり、日本経済の復興のきざしがみえた。つまり戦後日本の経済成長の過程には3つのターニング・ポイントがある。1つ目は昭和25年の朝鮮戦争勃発による特需景気。2つ目は「もはや戦後ではない」と言い切った昭和31年の経済白書。3つ目は高度成長のひとつのシンボルとなっている国民所得倍増計画がスタートした昭和37年である。池田勇人は安保闘争で左右の対立を緩和させた。日本はGNP大国に上昇し、伝統的な貧困から脱出した。しかし、物価、環境などの面で新しい難問も発生した。昭和39年のオリンピック東京大会、昭和45年の大阪での日本万国博覧会は、世界に開かれた平和な経済国家としてよみがえつた戦後日本を象徴するイベントとなった。

  なぜ日本が世界有数の経済大国にまで発展できたのだろう。戦後の日本経済の発展の原因をめぐっては今日、さまざまな角度からの研究が行われている。たとえば、戦後欧米から積極的に新技術を導入し、それを体現化した民間設備投資が精力的に展開されたこと、さらに欧米経済の長期的繁栄に支えられて輸出が世界貿易の増加テンポをはるかに上回つて伸び続けたこと、などが発展の原動力になったとする説明などはその代表的な例である。また、戦後の西ドイツが住宅重視の経済復興に力を入れたのに対し、日本は民間設備投資主導型の高度成長を可能にした、という研究がある。このほか、「日本株式会社」といった表現にみられるように、政治と民間との協力がうまくいったことを強調する説、さらに経営学的アプローチとして、労使協調路線による「日本的経済」に発展の原因を求めようとする分析も盛んである。最近では日本人の勤勉精神にスポットライトを当てて、日本経済発展の原因を探ろうとする試みも始まっている。このように、戦後の経済発展の原因をめぐっては、経済学的アプローチだけではなく、日本人の精神風土の分析など経済学以外の学問分野からの研究も盛んになっている。

 最新の統計によると、2021年の日本の実質GDP実額は536.8兆円で。内閣府による成長率は前年より2.5%増になる見通しである。しかし国交省のよる統計不正が明らかとなり、その影響はどのくらいなのか「現時点では不明」としている。

 

 

 

 

 

 

 

 

日露戦争後における影響について

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  小村寿太郎(1855-1911)は安政2年、日向国飫肥藩の下級武士・小村寛平、梅子の長男として生まれる。文久元年、安井息軒が教える藩校振徳堂に入学。大学南校に入学し、明治8年にはハーバード大学に留学。帰国後、美人のマチと結婚する。しかし新妻は裁縫、料理など家事は一切しない女性だった。近くに実家があり、その仕送りで女中を雇い、すべて家事をやらせる。浪費家であり、趣味は芝居見物だった。子供ができても妻の生活態度は変わらなかった。小村の家庭は高官にもかかわらず、貧窮にあえいでいた。高級官僚にしてなお貧乏暮らしを余儀なくされたのは、妻の浪費癖のほかに、父から受け継いだ莫大な借金が原因ともいわれる。ともかく、小村は家庭的には恵まれなかったようだ。

   しかし小村は多くの先輩たちに見出されて、明治顕官への道を順調に歩んだ。小倉処平(1846-1877)、陸奥宗光(1844-1897)、桂太郎(1847-1913)たちである。桂内閣のとき、外務大臣を二度務めている。今日の霞ヶ関外交の基礎をつくったのは小村寿太郎といわれている。

  セオドア・ルーズベルト大統領の斡旋を得て、明治38年8月9日、ポーツマスの海軍工廠において非公式に講和談判予備会議が開かれた。(第1回本会議は翌10日から開かれた)

   会議の列席者は日本側が、小村寿太郎(1855-1911)、高平小五郎(1854-1926)両全権と佐藤、安達、落合の三書記官。ロシア側はセルゲイ・ウイッテ(1849-1915)、ローゼン両全権とブランソン、コロストヴェツ、ナボコフの三書記官であった。

    9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印によって、ロシアは樺太全島及び遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。9月5日には「屈辱的講和反対、戦争継続」を叫ぶ群衆が、政府高官邸、交番、国民新聞社などを襲撃したり、放火したりした。いわゆる日比谷焼打ち事件である。桂太郎内閣は戒厳令を発し、新聞を発禁処分にすることで辛うじて事態を収拾した。

   とくに全権委員の小村寿太郎に対しては国民の非難が集中し、「露探」(ロシアのスパイ)と罵られ、小村邸の窓ガラスが割られ、雨戸がたたかれる日々が続いた。小村寿太郎の妻・小村マチ(小村町子)は、精神的に打ちのめされ、ノイローゼ寸前に追い込まれた。帰国した小村はホテル住まいで家族との別居を余儀なくされた。

   小村寿太郎は明治44年8月25日、桂内閣が総辞職にともない政治を引退した。小村は葉山の粗末な貸家に住んだが、わずか3月後には病に倒れた。皇太子(大正天皇)も慰問にこられたという。侯爵を授けられ57歳で没した。しかし臨終の場に小村マチの姿はなかったという。日露戦争によって日本は樺太南半分の割譲、朝鮮を支配、「満州に滲出してアメリカと対立し、ロシアは進路をバルカンに転じてドイツとの対立も激化するに至った。日露戦争の結果として、日本の国際信用は大いに高まり、その後に外貨は滔々として流入し、日本資本主義の急激な発展の要因となっている。(Portsmouth)

2022年6月 8日 (水)

異常気象と世界史

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    ギルバート・ホワイト(1720-1793)の「セルボーンの博物誌」は古典的名著である。セルボーンという場所はイギリスのハンプシャー州の寒村。1789年、フランス革命と同じ年に刊行されている。「1783年の夏は、驚くべき異常な夏で、恐ろしい現象があいついで起こった」とある。この恐ろしい現象は実は日本とも深く関係している。浅間山は1783年5月9日から8月5日にかけて活動が活発化し、6月25日には大噴火が起こった。この時の噴煙は成層圏にまで達し、その後数年にわたって、そこに滞留したため、世界的な気候の寒冷化をもたらした。気温の低下は平均で、セ氏1.5度に達したと推定される。浅間山の噴火によって日本では天明の大飢饉が全国に及ぶ。津軽藩では、1783年9月から翌年6月までの餓死者は、男女合計81702人といわれる。菅江真澄は旅日記「楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)」の天明五年八月の項に、草むらに山と積まれた餓死者の白骨を目にし、飢饉の惨状を記録している。1783年6月8日、アイスランドのラキ火山が噴火した。火山灰などの影響により数年にわたりヨーロッパが異常気象に見舞われる。噴火の直後から小麦の不作がフランスを襲った。小麦価格の高騰がみられるような社会不安がフランス革命の原因となったと考えられる。気候変動が世界史を動かすことがある。近年、4世紀後半から始まった民族大移動によるローマ帝国の滅亡や中国南北朝時代は寒冷化による気候変動が一因と考えられている。

   近い将来、学校の世界史の教科書が大きく書きかえられるかもしれない。これまで歴史と自然科学は別物として区別されてきた。しかし人類誕生から歴史をかんがえるのではなく、宇宙に目を向けてビッグバンから解き明かすべきであろう。デーヴィッド・クリスチャンが提唱するビッグヒストリーがDVDなどで浸透している。歴史は全宇宙の壮大な物語の中から、人類の過去と未来を研究する学問へと変わろうとしている。

数字の7はなぜラッキーナンバーなのか?

Main8g20120408ddd1900552g30  古くから数字には意味のあることが信じられてきた。数字の中に7がある場合は「霊的な成長をしています」というメッセージが込められており、7は幸運の数字であることが英語圏で信じられてきた。とくに「777」は大当たりの数字とされている。野球でラッキーセブンはとくに有名である。巨人や中日ドラゴンズではホームの試合のとき7回裏の攻撃前にビーナスやドアラが宙返りをすることが恒例となっている。とくに9イニング制の野球において7回は先発投手の疲れが出始めるころで、試合が動くイニングと見なされている。俗にラッキーセブンといわれる。1885年9月30日、ホワイトストッキングスの7回の攻撃で、平凡なフライを打ち上げたが、強風に吹かれてホームランになった。これでホワイトストッキングスはリーグ優勝を決めたことから「ラッキーセブン」という言葉が生まれた。大リーグでは7回の少し休憩タイムがあり「わたしを野球に連れてって」を歌うのが恒例となっている。こうした7回の攻撃で試合が動くという通説は本当であろうか、名古屋大学で統計調査をしたところ、7回の攻撃の得点率は、むしろ全イニングの平均を下回るという結果がでた。7回よりも6回のほうが得点が入りやすいという。こうした7が特別な意味をもつ数字であることは、聖書からきている。旧約聖書にある「神は7日間で天地万物を創造した」という記述から、7は「完全」という意味をもつようになり、さらに新約聖書では神聖視され、幸運を招く数字になったといわれる。

7の実例

ノアが神殿を7回回った

生きラム教徒はメッカの巡礼でカーバ神殿を7回回る

ボーイング777

 

 

2022年6月 7日 (火)

神秘の修道院モン・サン・ミッシェル

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   フランスのノルマンディにある世界遺産モン・サン・ミッシェル。天国に向かって舞い上がる尖塔はお伽話の城のような建物で、フランスの観光地としてトップクラスの人気スポットである。しかし50年前までは海外からの観光客はまだ少なかった。モーパッサンは「レースのように繊細にカットされた、みごとなカメオ細工のごとき巨大な宝石」と評した。映画「ラストコンサート」(1976)によって日本でも知られるようになった。フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島モン・サン・ミシェルに築かれた修道院。聖堂の高さは約150m。城郭は満潮時には海に浮かび、干潮時には陸地と繋がっている。この島は、もともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれていたが、先住民ケルト族の間に信じられている海の墓場であったことを示す。708年、アヴランシュ司教オベールが礼拝堂を建てたのが始まりである。966年にはノルマンディー公リシャール1世(在位942-996)がベネディクト会の修道院を建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。1000年近くの間、巡礼地となった。しかしフランス革命で修道院制度が廃止されたため、モン・サンミッシェルは監獄として使用されるようになる。モン・サン・ミシェルはいまだかつて一度も攻略されたことのない城砦といわれている。1254年にルイ9世が島全体を城砦化して、百年戦争、カルヴァン派の攻撃にも耐え守り抜いた堅固な城砦である。( keyword;Mont Saint Michel,Mont Tombe,RichardⅠ,duc de Normandie,Benediccti )

ミッドウェー海戦

   ミッドウェー海戦は1942年6月5日から7日まで続いた。実は日付変更線を越えた海域だったから現地時間では開始日は6月4日である。日本軍はミッドウェイ島を占領して北方の西部アリューシャン攻略の足がかりとする作戦を展開し、反撃のため出現が予想される米空母群を殲滅すべく、ほぼ全力で出撃した。この日本側に対し、暗号を解読していた米側は作戦を看破し、これを迎撃した。結果、日本は赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻と重巡1隻が沈没し、航空機280機以上を失った。これに対し、米軍は空母1隻、航空機150機喪失にとどまり、日本は制空・制海権を失い、8月にはガダルカナル島への上陸をもって米軍の反撃が始まる。

 

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  沈没寸前の空母赤城

 

 

第1回十字軍

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 ドリュラエウムの戦い

    ドリュラエウムはアナトリア半島北西部の第1回十字軍の古戦場(現在のエヌキシュヒル近郊)。セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国の依頼により、1095年11月ローマ教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で聖地回復の聖戦の軍事行動を呼びかけた。1096年第1回十字軍が出発。初戦は1097年5月14日から6月9日にかけてのニカイア(Nicaea)攻囲戦が行われた。そして1097年7月1日、ドリュラエウム(Dorylaeum)の戦いで十字軍が勝利する。1099年6月7日、エルサレム攻囲戦が始まり、7月15日には聖地を奪還した。1099年8月12日、アッコン(Askelon)の戦いでアッコンを陥落し、エルサレム王国(1099-1187)を建てた。

 

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  アッコンの戦い

 

Akon

2022年6月 6日 (月)

「鉄の意志の国」ベトナム

Photo   ベトナムの歴史は外国の侵略に対する抵抗の歴史でもあった。紀元前2世紀、漢の武帝の侵略に始まる。交趾太守が置かれた。紀元40年、メリン県の有力者の娘として生れたチュン・チャク、チュン姉妹(微側、微弐)は反乱を起こした。光武帝は41年、馬援を派遣し、姉妹を捕らえて処刑し、中国支配が復活した。

  ベトナムを安南と呼ぶのは679年に唐が辺境統治のため安南都護府を置いたことに由来する。安南都護府は現在のハノイにあたって、ベトナム北部を治め、南海諸国を管轄していた。その後、ベトナム民族が中国から独立すると、自らを大翟越、大越、越南、大南などの名で呼ぶことがあったが、中国では依然安南の名を使い、他の諸外国もこれらにならった。安南の黎利(1385-1433)が1428年に明から独立し、大越と号す。黎朝は17代、18世紀末まで続く。1802年グエン(阮)王朝が成立し、1884年6月6日第二次フエ条約(パトノートル条約)によりフランスの植民地支配が始まった。その後、日帝植民地時代を経て、1945年の日本の敗戦でハノイでベトナム民主共和国の独立宣言がだされるが、翌年、フランスとのインドシナ戦争が勃発。1954年のジュネーブ協定で北緯17度線を境に南北に分裂する。ベトナム労働党(現共産党)は60年、南ベトナム解放戦線を創設。米軍がその後軍事介入し、長期戦後の1973年1月和平協定が成立。76年に南北統一を果たす。当初、社会主義経済を進めていたが、生産性の低下が問題となった。1986年からドイモイ(刷新)政策が行われる。2009年から韓国のサムスンが電子部品の製造工場を稼働した。現在、ベトナムは韓国サムスン携帯電話の主要生産拠点となっている。

安南通史 岩村成允 冨山房 1941
安南史研究 1  山本達郎 山川出版社 1950

史上はじめて中国を統一した男「始皇帝」

Img_0016  春秋時代、西方の小国だった秦は、戦国時代に勢力を拡大した。始皇帝の曽祖父昭襄王のときに中国の西半分を平定し、始皇帝のとき中国最初の統一を成し遂げた。始皇帝の画像は何種類もあるが、あくまで後代の想像画であって実像を伝えているとは言い難い。鎌田重雄の著書「秦の始皇帝」(1962)の口絵には明の「三才図会」を引用している。最近はもっとリアルな絵柄が好まれるようである。その後の出版物は新中国になってからの彩色の想像画を掲載しているが模倣したものが多数出回っている。現在において有名な始皇帝肖像画は北京・中国歴史博物館のものと秦始皇帝兵馬俑博物館のものであろう。(世界史)

 

 

 

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「三才図会」(明代)

 

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 中国歴史博物館蔵

 

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 秦始皇帝兵馬俑博物館蔵

宿敵

  五島慶太(1882-1952)。東急財閥を築いた電鉄王。多くの私鉄を合併・系列化し、東條内閣では運輸通信大臣にも就任した。戦後の昭和28・29年当時、五島傘下の小田急電鉄は、新宿を起点に箱根湯本まで特別車を乗り入れ、さらに小田原ー湯本ー小涌谷ー強羅を走る箱根登山鉄道を子会社として、一応、東京ー強羅間を支配下に収めた。しかも、強羅から早雲山の間にケーブルカーも開設した。ところが、そこから前面に広がる箱根観光の中心で、箱根火山の火口原湖である芦ノ湖は、宿敵・堤康次郎(1889-1964)傘下の駿豆鉄道の手中になり、その結果、五島勢の西進政策は行き詰っていた。これに対して、堤勢は、熱海を起点に五島勢が喉から手が出るほど欲しい芦ノ湖には、元箱根ー箱根町ー湖尻間に遊覧船を浮かべていた。しかし、東進政策をとる堤勢にとっても、箱根登山鉄道は大きな魅力であると同時に、越えがたい障害であった。そこで、堤康次郎は箱根権現に「我が社が占有する箱根の道路を、東急の五島慶太、小田急の安藤楢六という札付きの大悪党が、自分の会社のバスを乗り入れて勝手気儘に振る舞っている。神様、どうかあなた様のお力で、このような悪党が一刻も早く処罰されますように、伊豆箱根鉄道の従業員1167名ともども、精神をこめ、涙をもって祈願し奉ります」と願をかけた。

    とにかく、天下の難所箱根をめぐって、「ピストルの堤」と「強盗慶太」の宿敵の競争は執拗で、五島慶太は昭和34年に満77歳で生涯を閉じたが、そのとき、堤は、五島の葬儀の日にもかかわらず取材にきた新聞、雑誌記者を前に、「五島が死んで世の中が急に明るくなった。あんな悪党の葬儀なんか行くものか」と、盛大な祝杯を挙げた。一方、病魔に襲われた五島は、常に、枕元に、箱根一帯の地図を置き、深夜、眼をさますと明かりをつけて「堤奴に箱根山をとられてはだめだ」と、地図を食い入るように見つめていた。しかし、病状が悪化したとき、病院の窓からスズメの飛ぶのを指し、「俺も鳥になって箱根山にも飛んで行きたい。」と漏らしていた。

梅の日

 6月6日は「梅の日」です。1545年のこの日、後奈良天皇が京都・賀茂神社で祭神を祀る際に、梅が献上されたことに由来します。「万葉集」に、「むつきたち春の来たらばかくしこそ鳥梅を折りつつ楽ぬしきをへめ」とある。ウメとよんでいる。後にムメと発音するようになるが、ウメが正しい。鳥梅は中国の古名だが、鳥はカラスで黒いことを意味する。薬用として干した梅は黒かった。燻製の梅である。諸々の木の花にさきがけて雪中に花開くというので梅を「花の兄」といい、兄花ともいう。また中国で、哀帝(武帝ともいう)が本を読むと梅の花が開き、読むのをやめると花が閉じたというので「好文木」ともいわれた。また木母ともいう。梅は木扁に毎だが、木母なら栂、トガと読む。トガの木を関東でツガともいう。梅の木は奈良朝以前に朝鮮を経て中国から日本に渡ってきたもので、鳥梅をウメとよんだものである。。もともと、未熟な実を塩漬けにして干し、薬用としていたが、これが江戸時代に梅干しとして広く食用されるようになった。シソの葉で赤く着色する。

西洋音楽史略年表

   冬季五輪のフィギュア競技などクラシックの名曲を聴く機会も多い。バロック以降の西洋音楽史の略年表。

 

1600年 バロック音楽は、17世紀から18世紀中ごろまでのおよそ1世紀半の時期をさす。フィレンツェのジョバンニ・バルディ伯のもとに集まった学者・詩人・音楽家のグループであるカメラータによる新しい理論の提唱とその実践とによって開始された。

1600年カッチーニ「エウリディーチェ」上演、歌劇の確立

1607年 モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」がマントヴァで上演

1627年 「ダフネ」ドイツ最初の歌劇

1637年 ヴェネツィアのサン・カシアノ劇場開設される

1656年 ロンドンのオペラ劇場開設

1661年 カンペ―ル「ポモール」初演。フランス最初の歌劇

1717年 ヘンデル、管弦楽組曲「水上の音楽」

 

1717年 バッハ、「G線上のアリア」(1717年から1723年の間)

 

1725年 ビバルディ、バイオリン協奏曲・四季

 

1727年 バッハ、管弦楽組曲。4曲あるが、作曲年代には異説がある。

 

1786年 モーツァルト、「フィガロの結婚」初演

 

1787年 モーツァルト、「アイネクライネ・ナハトムジーク」

 

1793年 ハイドン「交響曲第100番軍隊」(1793年から1794年)

 

1797年 ハイドン「弦楽四重奏曲第7番第2楽章」(神よ、皇帝フランツを守り給え)

 

1800年 ベートーヴェンの交響曲第1番ハ長調(作品21)。1824年までベートーヴェンの交響曲の作曲時代が続く。各国で教養ある音楽ディレッタントによる家庭音楽がさかえる。

1807年 ベートーヴェン 交響曲第5番

1824年 ベートーヴェン 交響曲第9番

1828年 シューベルト 交響曲第7番

1829年 ロッシーニ「ギヨーム・テル」(ウィリアム・テル序曲)

1833年 ショパン「練習曲集」(別れの曲)

1839年 シューマン「子供の情景」(トロイメライ)

1853年 リスト「ハンガリー狂詩曲」

1855年 ショパン「幻想即興曲」

1867年 ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」

1868年 スメタナ「交響詩(わが祖国)」

1869年 ブラームス「ハンガリー舞曲第5番」

1871年 ヴェルディ「アイーダ」初演

1872年 ビゼー「アルルの女」

1874年 ムソルグスキー「展覧会の絵」

1875年 チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」(ピアノコンチェルト)

1876年 グリーグ組曲「ペール・ギュント」

1877年 チャイコフスキー「白鳥の湖」初演

1880年 ボロディン「中央アジアの草原にて」初演

1883年 ブラームス「交響曲第3番」

1886年 サン・サーンス「動物の謝肉祭」(白鳥)

1887年 ブルックナー「交響曲第8番ハ短調」

1889年 マーラーの交響曲第一番が初演

1894年 ドビュッシー「牧羊神の午後への前奏曲」

1894年 ドヴォルザーク「交響曲第9番(新世界より)」

1899年 シベリウス「交響詩フィンランディア」

1900年 サティ「ジュー・トゥ・ヴー」

1902年 マーラー「交響曲第5番」

1910年 ストラヴィンスキー「火の鳥」初演

1926年 プッチーニ歌劇「トゥーランドット」誰も寝てはならぬ

1935年 ショスタコビッチ「第五交響曲」

1942年 ハチャトリアン「ガイーヌ」剣の舞

1957年 ショスターコヴィッチ「交響曲第11番」

1962年 オールビー「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」

 

 

2022年6月 4日 (土)

大和と武蔵

 NHKのバラエティー番組「チコちゃんに叱られる」でおかきとせんべいの違いは?があった。おかきは糯米(もちごめ)を用い、せんべいは粳米(うるちまい)を使用しているという原料の違いである。世の中、似て非なるものがあるが、案外と知らないものがある。おしることぜんざい、バターとマーガリン、インコとオウム。太平洋戦争時の巨大戦艦大和と武蔵。両艦は同型艦で、ビジュアルでは、ほぼ同じで区別がつかない。館内の内装や調度品は、武蔵の方が良かったといわれている。微妙な違いを挙げれば、昭和19年7月時点で、改造された装備のうち、武蔵は25ミリ機銃が大和より24挺少ない130挺だったことだ。竣工時の25ミリ機銃は大和が24挺、武蔵が36挺でしかなかったが、対空砲火力を強化するために、途中で増設したのである。

2022年6月 1日 (水)

歌謡曲コレクション

Img_01342  思い出の歌、こころに響く歌、いつでも口ずさめる歌・・・人には、それぞれ胸に刻んだうたがある。曲のタイトルを五十音順に並べると、一番最初に来る歌は何だろう。手元の歌本のインデックスを引くと、最初が「ああ青森」(平川幸夫)で、最後は「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」(日野てる子)だった。調べれば他にあるだろう。パティ・ペイジの「The Doggie In The Window」(1952)を桜田淳子がアルバム「淳子と花物語」(1974)の中で「ワンワン・ワルツ」というタイトルで日本語カバーしている。

   最近の石川さゆりの新曲が「あぁ・・・あんた」(吉幾三作曲)。カラオケで曲をさがすとき、いちばん最初に見つけられるようにということらしい。

 先が見づらい世の中だからこそ、多くの人の心に寄り添う歌が聞きたい。新しいJポップではなく、ふつうの流行歌が聞きたい。

 

愛は眠らない 椎名恵

 

春雨  村下孝蔵

 

夜空の笛 守屋浩

 

つまさき坂  永井龍雲

 

風色ロマンス 伊藤敏博

 

春の風が吹いていたら 四角佳子

 

涙をたばねて 小川範子

 

明日も愛して下さいますか 桜田淳子

 

あなたと生きる 石原詢子

 

selfish      前田敦子

 

そよ風の誘惑  石川ひとみ

 

街角セピア色 三東ルシア 1976

 

時計をとめて  草間ルミ

 

私のキライなもの フラワー・メグ

 

いつかある日  中沢厚子

 

春の雨はやさしいはずなのに 朝倉理恵

 

この空が味方なら 裕木奈江

 

7月の雨なら 西脇唯

 

誰よりも好きなのに 古内東子

 

想いで迷子 テレサ・テン

 

明日を忘れて ミッチ・サハラ 1966

 

ドミニク ザ・ピーナッツ 1964

 

ボーイ・ハント 千秋恵子 1961

 

カモン・ダンス 弘田三枝子 1962

 

砂に消えた涙 伊藤アイコ  1965

 

ベラ・ノッテ  本田美奈子

 

霧のカレリア  ザ・スプートニク

 

ハーフムーン・セレナーデ 河合奈保子

 

愛のめざめ 伊東ゆかり

 

私が生まれて育ったところ 野路由紀子

 

Alegria マルシア

 

八月の濡れた砂 門倉有希

 

神戸北クラブ 加門亮

 

さよならの言葉 小野香代子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え」 ファースト・ネームから引く人名一覧

   エイナル・ゲルハルセン(1897-1987)はノルウェーの政治家。オスロ市長となるが、ナチスの侵略後、罷免され、強制収容所で暮らした。戦後、首相となりノルウェーの戦後改革に貢献した。▽「エウジェ―ニオ・モンターレ」1896-1981。イタリアの詩人。代表作「うなぎ」。▽「エドウィン・フォレスト」1806-1872。米舞台俳優。▽「エドワード・ギボン」1737-1794。イギリスの歴史家。「ローマ帝国興亡史」。▽エドワード・G・ロビンソンは戦前のギャング映画スター。ルーマニア出身のユダヤ人で、本名はエマニュエル・ゴールデンベルク。Gとはゴールデンベルクだった。▽エドワード・テラー(1908-2003)Edward Tellerはハンガリー出身の核物理学者で「水爆の父」と呼ばれる。▽エドワード・テイラー(1642-1729)Edward Taylor アメリカの牧師・詩人。▽19世紀の小説家エミール・ガボリオは「ルコック探偵」などフランス第一の大衆的人気作家となり、今日の大衆文学の源流のひとつといえる。▽「エライジャ・クレイグ」1738-1808。アメリカのバブテスト派の牧師。1789年バーボンウイスキーを最初に製造したことで知られる。▽「エリアス・カネッティ」(1905-1994)ブルガリアのユダヤ系小説家。代表作「眩暈」「群衆と権力」。1981年ノーベル文学賞。▽「エル・ファニング」米国女優。ダコタ・ファニングの妹。「メアリーの総て」▽「エルマンノ・ヴォルフ・フェラーリ」はイタリアの作曲家。喜歌劇の多くは今日あまり演奏されないが、「マドンナの宝石」間奏曲はよく知られる。

エアハルト・エッツラウプ
エイヴィンド・ユーンソン
エイダ・ラブレス
エイナル・ヘンリー・ゲルハルセン
エウジェーニオ・モンターレ
エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムス
エヴァ・アウリン
エヴァ・グリーン
エーヴァ・マグダレナ・アンデション
エヴァ・メンデス
エヴァ・ロンゴリア
エヴァリスト・ガロア
エヴァン・レーチェルウッド
エヴァンジェリスタ・トリチェリ
エウゲニウス3世
エウジェーニオ・モンターレ
エヴリヤ・チェレビー
エクトール・アンリ・マロ
エクトール・ギマール
エゴン・シーレ
エスコ・アホ
エスター・ウィリアムズ
エスター・ラルストン
エストラーダ・カブレラ
エズラ・ルーミス・パウンド
エズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル
エディー・アルバート
エディー・タウンゼント
エディー・フィッシャー
エディー・マーフィー
エディー・レッドメーン
エティエンヌ・カルジャ
エティエンヌ・ピヴォール・ド・セナンクール
エティエンヌ・ブーオ
エティエンヌ・ルイ・アルチュール・ファロー
エディット・ピアフ
エド・ウェストウィック
エド・サリバン
エド・シーラン
エド・ハリス
エドヴァルド・ハーゲルッブ・グリーグ
エドゥアルト・トゥルナイゼン
エドゥアルト・ベルンシュタイン
エドヴァルト・ムンク
エドウィージュ・フイエール
エドウィン・アームストロング
エドウィン・ハッブル
エドウィン・フォレスト
エドウィン・ライシャワー
エドゥアルド・ウスベンスキー
エドゥアール・ダラディエ
エドゥアール・ミシュラン
エドゥワール・マネ
エドガー・エイドリアン
エドガー・アラン・ポー
エドガー・ドガ
エドガー・ライス・バローズ
エドガートン・ハーバート・ノーマン
エードリアン・ブロディー
エドアルド・キヨッソーネ
エドアルド・シェワルナゼ
エドアルト・フリードリヒ・メーリケ
エドアルト・メーリケ
エドナ・パーヴァイアンス
エドマンド・カートライト
エドマンド・キーン
エドマンド・スペンサー
エドマンド・バーク
エドムンド・ウィリアム・ロス
エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール
エドモン・ロスタン
エドモント・カートライト
エドモンド・デ・アミーチス
エドモンド・ハレー
エドワード4世
エドワード6世
エドワード・アップルトン
エドワード・アーノルド
エドワード・アレキサンダー・ウェスターマーク
エドワード・R・マロー
エドワード・イシンバエワ
エドワード・ウィッテン
エドワード・ウィンパー
エドワード・エルガー
エドワード・オールビー
エドワード・ギボン
エドワード・クック
エドワード・G・サイデンステッカー
エドワード・G・ロビンソン
エドワード・サイード
エドワード懺悔王
エドワード・ジェームス・オルモス
エドワード・ジェンナー
エドワード・シルベスター・モース
エドワード・ズウィック
エドワード・スタイケン
エドワード・スノーデン
エドワード・ソーンダイク
エドワード・テイラー(詩人)
エドワード・デボノ
エドワード・テラー
エドワード・ドミトリク
エドワード・ノートン
エドワード・バーンズ
エドワード・ヒース
エドワード・ファーロング
エドワード・フォックス
エドワード・フォーブス
エドワード・ホッパー
エドワード・ベレゴー
エドワード・モンタギュ
エドワルド・ハーゲルーブ・グリーグ
エバ・ガードナー
エバ・マリー・セイント
エバリスト・ガロア
エフィミー・ヴァーシリエヴィチ・プチャーチン
エフィム・プチャーチン
エフゲニー・プルシェンコ
エフゲニー・プリマコフ
エフゲニー・ムラヴィンスキー
エフゲニア・メドベージェワ
F・マーレー・エイブラハム
エフモント伯ラモラル
エフレム・ジンバリスト JR
エマ・ストーン
エマ・チャンバース
エマ・トンプスン
エマ・マッキー
エマ・ロバーツ
エマ・ワトソン
エマニュエル・アルサン
エマニュエル・ウンガロ
エマニュエル・ジョゼフ・シエイエス
エマニュエル・セイナー
エマニュエル・ド・クルーシー
エマニュエル・ベアール
エマニュエル・マクロン
エマニュエル・リバ
エマヌエル・デ・ウィッテ
エミ―・ロッサム
エーミー・アーヴィング
エーミー・アダムズ
エーミー・マディガン
エーミー・ロケイン
エミリア・クラーク
エミリア・フォックス
エミリアーノ・サパタ
エミリー・タラコウスキー
エミリー・デュ・シャトレ
エミリー・ドゥケンヌ
エミリー・ブラント
エミリー・ブロンテ
エミリー・ロイド
エミリー・ロッダ
エミリー・ワトソン
エミリオ・アギナルド
エミリオ・エステヴェス
エミール・アドルフ・フォン・ベーリング
エミール・アントワーヌ・ブールデル
エミール・ガボリオ
エミール・ガレ
エミール・クストリッツァ
エミール・ザトペック
エミール・テオドール・コッハー
エミール・デュルケーム
エミール・ハーシュ
エミール・ブルンナー
エミール・ベーリング
エミール・ヤニングス
M・ナイト・シャマラン
エラ・フィッツジェラルド
エライジャ・クレイグ
エラリー・クイーン
エラリー・チャン
エリア・カザン
エリアス・カネッティ
エリアス・ハウ
エリアス・リョンロート
エリウド・キプチョゲ
エリオ・ディルボ
エリオット・グールド
エリサ・ランディ
エリザベス・ヴァイニング
エリザベス・ウォーレン
エリザベス・オルセン
エリザベス・シュー
エリザベス・テーラー
エリザベス・パーキンス
エリザベス・バークレー
エリザベス・ハーリー
エリザベス・バンクス
エリザベス・ブラックウェル
エリザベス・ボウエン
エリザベス・マクガバン
エリザベス・モンゴメリー
エリザベータ・トゥクタミシェワ
エリザベータ・ボヤルスカヤ
エリシャ・オーチス
エリック・クラプトン
エリック・サティ
エリック・ストルツ
エリック・バーナ
エリック・ロメール
エリナー・パーカー
エーリヒ・ケストナー
エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム
エーリヒ・フォン・シュトロハイム
エーリヒ・フロム
エーリヒ・ヘッケル
エーリヒ・ホフマン
エーリヒ・ホーネッカー
エーリヒ・マリア・レマルク
エリファレット・レミントン
エル・グレコ
エル・ファニング
エルヴィス・プレスリー
エルヴィン・シュレディンガー
エルヴィン・フォン・ベルツ
エルヴィン・ロンメル
エルケ・ソマー
エルザ・スキャバレッリ
エルザ・マルティネッリ
エル・シド
エルズワース・ハンティントン
エルダル・シェンゲラーヤ
エルデール・イレネー・デュポン
エルナン・コルテス
エルノー・ルービック
エルバン・ルヴェリエ
エルビス・プレスリー
エルマー・バーンスタイン
エルマンノ・ヴォルフ・フェラーリ
エルマンノ・オルミ
エル・リンツキー
エルンスト・アッベ
エルンスト・ヴェルナー・フォン・ジーメンス
エルンスト・エンゲル
エルンスト・カッシーラー
エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン
エルンスト・クレッチマー
エルンスト・ブロッホ
エルンスト・ベルンハイム
エルンスト・ユンガー
エルンスト・ルスカ
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
エルンスト・ルビッチ
エレイン・ローブル・カニグズバーグ
エレオノーラ・ロッシ・ドラーゴ
エレン・バーキン
エレノア・ルーズベルト
エレン・バーンスティン
エレン・ページ
エロール・フリン
エンヴェル・ホッジャ
エンゲルベルト・ケンペル
エンゲルベルト・フンパーディンク
エンツォ・アンゼルモ・フェラーリ
エンリケ航海王子
エンリケ・ボラニョス
エンリコ・カルーソ
エンリコ・ダルガス
エンリコ・フェルミ

 

 

「す」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Mv5bmji2ntuxotg4m15bml5banbnxkftztc   映画「ある愛の詩」でオリバーとジェニファーが出会う場面。ジェニファーが「オリバーは名、それとも姓?」と訊ねる。Oliverはオリバー・クロムウェル(清教徒革命の軍人)や女優スーザン・オリバー(画像)のように姓と名、両方につかわれる。▽「スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエ―ヴィッチ」ウクライナ生まれのノーベル賞作家。代表作「戦争は女の顔をしていない」。▽「スーリヤヴァルマン2世」アンコール王朝最盛期の王。アンコール・ワットを建設したことで有名。

スー・リヨン
スヴァトスラフ・リヒテル
スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチ
ズオン・バン・ミン
スカーレット・ヨハンソン
スキータ―・デイヴィス
スコット・ウルフ
スコット・グレン
スーザン・サランドン
スーザン・ジョージ
スーザン・ストラスバーグ
スーザン・ヘイワード
スーザン・ブライアリー・アイザックス
スザンナ・ヨーク
スザンヌ・プレシェット
スタニスラフ・ブーニン
スタニスワフ・レム
スタン・ゲッツ
スタン・リー
スタンフォード・ムーア
スタンリー・キューブリック
スタンリー・クラーク
スタンリー・クレイマー
スタンリー・トゥッチ
スタンリー・ドーネン
スタンリー・ブラック
スタンリー・ベーカー
スタンリー・ボールドウィン
スティーヴィー・ワンダー
スティーブ・カレル
スティーブ・グッテンバーグ
スティーブ・ジョブズ
スティーブ・ジョーンズ
スティーブ・ブシェミー
スティーブ・マックィーン
スティーブ・マーティン
スティーブン・カンプマン
スティーブン・キング
スティーヴン・クレイン
スティーブン・スピルバーグ
スティーブン・セガール
スティーブン・ソーダーバーグ
スティーブン・ソマーズ
スティーブン・ソンドハイム
スティーブン・ダルドリー
スティーブン・ドーフ
スティーブン・フォスター
ステイーブン・フリアーズ
スティーブン・ボイド
スティーブン・ホーキング
ステイシー・キーチ
ステパン・ラージン(ステンカ・ラージン)
ステファーヌ・オードラン
ステファヌ・マラルメ
ステファニア・サンドレッリ
ステファノス・チチパス
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
ステファン・ネマニャ
ステラン・スカーシュゴード
スパイク・ジョーンズ
スパイク・リー
スバス・チャンドラ・ボース
スハルト
スベトラーナ・アレクシエービツチ
スペンサー・トレーシー
ズビグニエフ・チブルスキー
スピロ・セオドア・アグニュ―
スーリヤヴァルマン2世
スロボタン・ミロシェヴィッチ

 

 

日本名言集

1 天皇、すでに吾を死ぬとや思はすらむ(古事記)

 

  「日本武尊の研究」池田米寿 住吉書院 昭和12年

 

2 下泣きに我が泣く妻を今夜こそは安く肌触れ(古事記)

 

  「軽太子の悲恋物語考」竹野長次 学術研究 昭和31年

 

3 世間虚仮、唯仏是真(天寿国繍帳)

 

  「聖徳太子」 薗田宗恵 仏教学会 明治28年

 

4 あに天孫をもって鞍作に代へむや(日本書紀)

 

  「天智天皇」 中村直勝 近江神宮奉賛会 昭和13年

 

5 天と赤兄と知らむ。吾、もはら知らず(日本書紀)

 

  「有馬皇子を偲ぶ」 三宅瑞晃編 南部町教育委員会 昭和34年

 

6 この盟のごとくにあらずば、身命亡び子孫絶えむ(日本書紀)

 

  「天武天皇」 川崎庸之 岩波書店 昭和27年

 

7 罪なくしてとらはる。これ決定して死ぬるならむ(日本霊異記)

 

  「長屋王の願経に就いて」 川瀬一馬 奈良叢記 駸々堂 昭和17年

 

8 天下の富を持つ者は朕なり(続日本紀)

 

  「聖武天皇御伝」 東大寺編刊 昭和31年

 

9 我もし亡ぜんときは、願わくは坐して死なん

 

  「鑑真」 安藤更生 美術出版社 昭和33年

 

10  心形久しく労して一生ここに窮まれり(遺誡)

 

  「伝教大師伝」 山方石之助 壬子出版社 大正2年 

 

11 家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり(南方録)

 

  「千利休」 芳賀幸四郎 吉川弘文館 昭和38年

 

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家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である

 

番外

政治家とは歴史という名の法廷で、裁かれる被告 (中曽根康弘)

 

 

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