チューリップ
フランクフルトで出版された商品カタログ「花譜」(1612年)
「17世紀オランダを揺るがした魅惑の花チューリップ」森山厄介
チューリップの魅力は花姿や花色に富んだ数多くの園芸品種があることで、園芸品種は約5000ある。原種は約150種といわれ、その約4割が天山山脈の西側からパミール高原の山岳地帯を原産地とする。そして北はシベリア、東は中国へ、南はカシミールやインド、西へはコーカサス地方へと伝播した。ここからトルコやバルカン半島へ、さらに16世紀末には人の手によってヨーロッパにもち込まれた。チューリップ伝来にはいろいろな話が伝えられている。1554年に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド1世の大使として、スレイマン大王治世下のトルコに赴任したアウグウス・ド・ブスプッチが、ヨーロッパ人としては初めてチューリップを見た。その頃、トルコではチューリップの栽培は相当進んでいた。彼はウィーンに種子を持ち帰った。おそらく球根も持ち帰ったと思われるが、それらは「贈り物」として貰いうけたものだったにもかかわらず、「少なからず出費があった」と記している。1559年、植物学者コンラート・フォン・ゲスナーはアウグスブルグで数本のチューリップが咲いているのを見て、1561年に出版した絵入りの書物に初めてチューリップの絵を載せた。彼の名前を取ってゲスネリアーナ種と名づけられた。また、こんな話も伝わる。あるイギリスの園芸研究家がトルコに赴いた時、「この花は何か」と聞いたところ、現地のトルコ語ではラーレと言うのだが、形を聞かれたと勘違いした現地人が「この花の形は頭巾の形をしたトルコ帽(チューリパン)に似ている」との意味で、「チューリパン」と紹介した。これがこの花の名前として、世界中に広まったのである。
チューリップは変種が生まれやすいために、変わった花を咲かせるチューリップの球根に運良く当たれば、大儲けができた。とくにオランダを中心にして多量に栽培され品種改良された。ライデン大学初代植物学教授カロルス・クルシウス(1526-1609)は、大学の植物園での栽培に成功した。チューリップはたちまちヨーロッパ各国に伝わり、貴族や大商人の間で流行した。やがて球根の先物取引が始まり、1633年には投機ブームとなり、1637年2月、ついに恐慌を引き起こし、球根は暴落した。契約の履行は不可能になり、破産者続出は必死となったが、オランダ政府の介入により取引高の5~10%支払いのみですべて清算され、破局は回避された。この恐慌は、生産の拡張に基づかない前資本主義恐慌の代表的な実例といわれている。18世紀初め、西欧的な趣味、贅沢がオスマン帝国で導入され、チューリップが大流行した。アフメト3世の頃をチューリップ時代と呼ぶ。
このような17世紀のチューリップ狂時代を風刺した小説にデュマの『黒いチューリップ』(1850年)がある。青年コルネリウスは黒いチューリップの栽培に成功するが、彼を妬んだボクステルの陰謀により投獄される。牢屋番の娘との恋がうまれ意外な展開の喜劇小説に仕上がっている。黒いチューリップは実際に存在するのだろうか。19世紀半ば頃まで育種家は、黒、緑、青花のチューリップを作出することが長年の夢だった。しかし1891年に、「ラ・チューリップ・ノアール」という黒色品種がついに登場した。さらに1944年、より黒み帯びた「クインオブナイト」が作出され、架空の物語が現実となった。緑色は、花弁に緑色の筋が入るヴィリディフローラ系があり、「アルバ・コエルレア・オクラータ」と呼ばれる「青いチューリップ」も近年登場している。現在、単色で黒、緑、青のチューリップが育種家により追求されている。(世界史こぼれ話)
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黒いチューリップとは…見た事無いですね。
投稿: | 2014年3月20日 (木) 22時05分