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2022年4月 3日 (日)

朝貢と冊封関係(歴史総合)

   紀元前後、中国を中心とする東アジア世界は、中国文化が自然にその周辺に伝播することによって出現したものではない。その文化伝播の基礎として、中国とその周辺国家との間に政治的関係が設定されることが条件であると考えられる。中国の皇帝は周辺諸国の支配者に臣下として貢ぎ物を持ってくるように要求し、その返礼を行う形式の貿易を行った(朝貢貿易)。また中国はこの支配者に中国の官位や爵号を与えて皇帝の臣下とする、周辺諸国の君主が中国皇帝の冊封を受けて、中国皇帝と君臣関係を結び、その外藩となることであったと考えられる。日本が中国と直接的な政治関係をもつにいたるのは、後漢の光武帝の時代である。邪馬台国の卑弥呼が親魏倭王に封ぜられると、そのことから君臣関係が生ずることになる。首長の中国皇帝からみれば、倭国は外藩国である。このような外藩国の成立は、皇帝から与えられた冊命(任命権)によって封ぜられることによるものであるから、この任命行為を「冊封」と呼ぶ。卑弥呼は倭王に冊封され、倭は魏王朝の冊封国となったのである。このように中国と倭との関係が冊封という君臣関係の設定によって、東アジア世界の国際関係の中に位置するようになったと、東京大学の西嶋定生は説いている。

    東アジアの冊封体制は隋唐から明清まで続く。1895年の下関条約まで続いた。中国でその朝貢国の国王に封ずる詔勅を持参する使いを後世には「冊封使」と呼んだ。琉球へは応安5(1372)年の察度への詔論以来、最後の王尚秦まで22回行われた。一行は4~500名からなり、滞在は5~9ヵ月に及ぶ。薩摩藩の支配下ではこの間、大和風の年号・言葉・風俗が禁止された。

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