青の洞門
1763年のこの日、耶馬溪の「青の洞門」が禅海(1687-1774)により開通した。禅海は越後国高田藩士の子で俗名を福原市九郎という。市九郎は若い時から放蕩無頼であったが、豊後国由布山興禅院の霊照という和尚の下で髪を下ろし、禅海という名をもらい仏門に入った。その後、諸国行脚の途中、豊前の耶馬溪で、とある桟道にあった。そこは昔から「親知らず」と呼ばれ、しばしば旅人が死傷するほどの険悪な道であった。それを知った禅海は、死傷した旅人を哀れみ、岩石をつらぬいて隧道を開こうと誓願を立てた。享保19年、禅海49歳の時である。
禅海は、近くの安楽院という寺の弟子となって、毎日近村を托鉢して生活をささえながら、毎日ひとりで一挺ののみをもって巨岩大石をうがち始めた。それからというものは、一日とて休むことなくのみをふるい、ついに308間、高さ2丈、幅3丈、馬が2頭ならんで通れ、明り取りに20、30間ごとに窓があいた隧道を完成させたのである。この時、禅海は64歳、竣工より実に20余年の星霜を経ていた。(4月10日)
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