内村鑑三の離婚
内村鑑三(1861-1930)はその生涯で三度の結婚をしている。1度目は、明治17年24歳のときに浅田タケと恋愛結婚。そして同年に離婚。2度目は、明治22年29歳のときに横浜加寿子と結婚。3度目は、明治25年32歳のときに岡田シズと結婚している。
浅田タケは1861年3月11日生まれで、内村より12日早い。明治11年、安中教会で洗礼を受け、同志社女学校、横浜の普通学校(共立女学校)で学んだ。内村はタケのことを「おとなしいが、なかなか教養のある頭の切れる女性で、いくつかの困難をなめ、キリストのために働く精神に満ちている。年は21歳。内気で、英語力は劣るが日本語の文は上手である」と手紙に書いている。しかし年齢は実は二歳若く称していて、実際は内村と同年であった。この偽りが破局の一因にもなる。
明治17年3月28日、結婚式を上野池之端長酡亭で挙げた。出席した太田(新渡戸)稲造も札幌の宮部金吾に結婚式の模様を伝えている。
ロンの結婚式も、昨夜無事すみました。彼女について、ぼくからなにもお知らせしなかったので、君は心配のあまり速達便をよこしたが、それには子細があって今は話せない。3年か5年のうちには打ち明けましょう。新婦は聡明な女性です。彼らが幸福に暮らすように祈っています。
「ロン」は長身で脛の長いことからきた内村のニックネームである。とにかく、ある不安材料をかかえながらのスタートだったことがうかがえる。そして、この数日後の宮部金吾あての手紙には「妻の元気がよすぎて、彼女自身性格の情熱を抑えるのに苦労していること」が書かれている。そして、わずか8ヵ月で、二人の生活は崩壊した。破局の理由については、内村は手紙でタケを「悪の張本人」「羊の皮を着た狼」とあり「妻の姦淫」を想像させる内容である。ただし内村のいう「姦淫」は、肉体的なものとはかぎらず、キリスト教での精神的な意味での使用も含まれるであろう。近親者から出ている理由としては、タケの虚言癖、虚栄心である。その第一は、結婚衣装を借りていたにもかかわらず、自分の家のものと言っていたこと、第二は、内村の給料30円の紛失をめぐり疑いをかけられたこと、第三は、年齢が内村と同年であるのに二歳偽っていたこと、などである。そのほか、一説によると高崎教会の星野光多との密会なども挙げられる。ほかにタケの横浜時代からの雨森信成(1856-1906)との男女関係もあげられている。いずれにしても、浅田タケは魅力的な近代女性だったようで、内村の激しい性格とは一致しないことは、周囲の友人たちもわかっていたようであり、太田稲造の手紙の意味もわかるような気がする。浅田タケの離婚後の人生については、何も知らない。(参考:『内村鑑三日録 1 青年の旅』鈴木範久)
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