リーフデ号、豊後に漂着
1600年4月19日、オランダの貿易船リーフデ号が難破して豊後臼杵の黒島の海岸に漂着した。日本暦で3月16日。この知らせをうけた徳川家康はリーフデ号を堺に回航させて乗組員たちと会い、さらに江戸へ回航させた。ここで乗組員たちはそれぞれ自由に帰国させたが、あとに残ったウイリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステンは家康のブレーンとして使え、江戸日本橋に屋敷を与えられて、日本人女性と結婚した。貿易商人ヤンヨーステンの居住地は八代洲(やよす)と呼ばれた。それが八重洲となり、現在の東京にその地名を残していることは広く知られている。しかし1616年に家康が死去すると事情は一変した。秀忠はキリシタン禁制のほうを重視し、異国船の出入りを平戸に限定してしまった。三浦按針は失意のうちに1620年、平戸で病没している。ヤン・ヨーステンは朱印船貿易のため1622年6月バタビアに渡ったが、翌年、再び日本に帰航の途中インドシナ沖で難破して水死した。1623年10月前後のこと。世界大百科事典によるとプラセル(Prasel)で遭難したとある。近年の表記は「パラセル」。
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