有島武郎の家系
有島武郎は、明治11年3月4日、東京の小石川水道町52番地に生まれた。父有島武は当時大蔵省の権少書記官をしていた。武は晩婚で、37歳で、母幸子(ゆきこ)25歳との間に初めてできた長男であったから、ひとしお喜んだ。だが、やがてこの夫婦の間には、武郎を頭に、五男二女が生まれ、七人の子持ちとなる。七人のうち、武郎とともに、次男壬生馬(みぶま、明治15年生まれ)、四男英夫(明治21年生まれ)、の三人までが芸術家となった。壬生馬は小説家で洋画家の有島生馬、英夫は小説家の里見弴である。一家から三人も芸術家を出した父母の血は何かとさぐってみても、満足な答は、なかなかでてこない。むしろ薩摩藩の一支族北郷氏の平佐郷の下級武士で、薩摩藩の陪臣である父や、南部藩の江戸表留守居役を父にもった母に、有島兄弟からみて、逆に芸術家的素質がひそんでいて、たまたま兄弟の出生によって立証されたとみるべきだろう。
武郎兄弟の両親は、いずれも時代の嵐に貧困と苦渋とをなめて、苦労して育った。父方の祖父は、平佐藩のお家騒動にまきこまれて流罪に処せられていたから、父が貧困から身をおこさねばならなかったことは、たやすく察せられよう。維新後薩長政府といわれる明治政府に仕官して、時流にのって出世街道をたどり、実業界に身を投じ、やがて麹町の下六番町に広大な旗本屋敷をかまえて、成功者となった。早くから洋学を学んだ才覚にもよるのであろうが、また閥族の引きたてによるものであることは否めない。母はまた幼くして祖父を失い、維新の変動に一度は朝敵とされて、苦難を味わい、貧困のうちに、一家の再建をはかる祖母を助けて、苦労をした。やがて母は武と結婚して、初めて安堵の胸をなでおろしたことであろう。両親ともに過去の結婚に二度までも失敗を重ねているのだから、世間的にいって、この結婚によって初めて幸福をつかんだことになる。
有島武郎は父武についての回想のなかで、次のように述べている。
「私の眼から見ると、父の性格は非常に真正直な、又細心な或る意味の執拗な性格を有つい居た。そして外面的には随分冷淡に見える場合が無いではなかったが、内部には恐ろしい熱情を有つた男であった。此の点は純粋の九州人に独特な所である。一時に或る事に自分の仕事にでも、熱中すると、人と話をしてゐながら相手の言ふ事が聞き取れない程他を顧みないので、狂人のやうな状態に陥つた事は、私の知つて居るだけでも、少なくとも三度あった。」
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