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2022年3月 2日 (水)

広辞苑「成経」問題 

Knd_shnkn   倉田百三の戯曲「俊寛」(白樺 大正7年3月)第2幕2場、平清盛の使者、丹左衛門尉基康が鬼界ヶ島の船着場に着く。その左右に数名の家来槍をたてて侍立す。その前に俊寛、康頼、成経跪く。

基康 謹んで聴け。(赦文を読む)重科遠流を免ず。早く帰洛の思ひをなすべし。今度宮中御座の祈祷によって非常の赦行はる。然る間、鬼界ヶ島の流人、丹波成経。平ノ康頼を赦免す。

成経 (康頼と面を見合す)

基康 謹んで御承けなされい。

俊寛(声を慄はす)その赦文をも一度お読み下さい。

基康(も一度読む)命に依って迎へに参った。両人共支度をなされい。

俊寛 あなたは俊寛といふ名を読み落しなされたやうだ。

基康 此の赦文には俊寛といふ名は記していない。

俊寛(青ざめる)そんな筈はありません。

基康 自分で見るがよかろう

俊寛  執筆の誤りだ。

    鹿ケ谷の山荘で、藤原成親・成経父子や平康頼、俊寛僧都らは平氏討伐を謀ったが、発覚し、成経、康頼、俊寛の3人は薩摩国鬼界ヶ島へ流された。1178年、成経と康頼は赦免されて京へ戻るが、俊寛は許されず、鬼界ヶ島に一人残されて、非業の死を遂げる。康頼は帰京後、東山の雙林寺で、「宝物集」を編集執筆した。成経は、京で官に復し、昇進をかさねる。なお父の成親は備前に配流されて1177年に殺されている。

   ところで、広辞苑に採録されているのは、鬼界ヶ島で死んだ俊寛、「宝物集」を書いた平康頼、備前で死んだ藤原成親である。鹿ケ谷のあと平凡で幸せな人生を過ごした藤原成経だけが広辞苑に採録されていない。

  後世の辞書に名を残すことが幸せなのか、不幸なのかは、誰にもわからない。

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