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2022年2月17日 (木)

煙も見えず雲もなく

Photo_7   伊東祐亨(いとうすけゆき、1843-1914)は天保14年、薩摩藩士伊東祐典、喜多の四男として鹿児島城下上清水馬場に生まれる。長崎海軍伝習所、江川塾で学び、戊辰戦争に従軍。明治海軍の初代連合艦隊司令長官。

   伊東は樺山資紀海軍軍令部長より、黄海の制海権維持のため、清国北洋艦隊の撃滅を命ぜられた。連合艦隊は、明治27年9月17日、丁汝昌提督の率いる北洋水師を視認した。当時、まだ望遠鏡すら未発達のため、敵艦発見はもっぱら水平線上の煤煙の視認に頼っていた。「煙も見えず雲もなく、風も起こらず波たたず、鏡のごとき黄海は、曇り初めたり時の間に」と「勇敢なる水兵」で歌っている。

   午前10時50分、先頭を進む「吉野」のマストに信号旗が上がった。「敵艦隊東方に見ゆ」。両艦隊が会敵し、黄海海戦の戦闘が開始された。「鎮遠」の主砲弾が、旗艦「松島」を直撃し、90余名の死傷者が出た。水兵・三浦虎二郎は、瀕死の重傷を負いながら、副艦長向山少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と尋ねた。向山少佐は「定遠は戦闘不能になった。これからは鎮遠をやるのだ」と答えた。これを聞いた三浦水兵はほほえんで「どうか仇を討ってください」の一言を最後に絶命した。この話が軍歌「勇敢なる水兵」(作詞・佐々木信綱、作曲・奥好義)の元となった。

   しかし、実際は「定遠」も「鎮遠」も沈まなかった。5時間後、北洋艦隊は威海衛めざして退却した。日没とともに伊東司令長官は戦闘中止を下令。黄海海戦は、撃沈数で比較すると、連合艦隊の最初の勝利と言える。しかし、朝鮮半島周辺の制海権を握るという戦略目標からすると、問題が残っていた。北洋艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」のほか、巡洋艦4隻、砲艦1隻などが残存し、根拠地である旅順港か威海衛から出撃してくる可能性があった。明治28年2月4日、5日の威海衛夜襲が行なわれた。2月17日には威海衛が占領され、北洋艦隊の撃滅に成功する。

   伊東祐亨は、日清戦争後、海軍軍令部長となり、より近代的な艦隊編成の形成や北清事変への対応など、内外の諸問題に対処した。その後、日露戦争終結後まで軍令部長としてその職にあり、在職期間は明治38年12月に至るまで続いた。これは歴代海軍軍令部長のなかで最長である。

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