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広く使われ日常語として定着した言葉を集めた国語辞書「広辞苑」は1955年刊行から現在第7版を重ね、わが国の代表的な国語辞典としての地位を確立している。司法の世界では広辞苑が日本での常識レベルという認識がなされているとか。つまり、広辞苑に載っているか、載っていないかは言葉の標準常識の目安となる。だが言葉はつねに使われなくなったり、新しい言葉がつくられる。基本は国語辞典なので難しい漢語はない。「貂璫(ちょうとう)」とは宦官の意味だが収録されていない。不要なモノを捨てる「断捨離(だんしゃり)」は2010年ころの新語であるが、まだ載っていない。「巨乳」など下品な言葉などは載っていない。正しき日本語に基づき、悪しき日本語は載せないというような暗黙の基準があるようだ。しかし「ラブラブ」(男女の仲が非常によいこと)という珍語は載っている。「ほうれい線」とは人の鼻の両脇から唇の両端に伸びる2本の皺(しわ)のこと。美容などで女性の間では一般的に使われているが、なぜか「広辞苑」にはのっていない。漢字の表記には「豊麗線」「豊齢線」「法令線」「頬齢線」とさまざま。語源は中国の面相学における「法令紋」に由来し、すべて当て字。広辞苑編集部で議論の末に見送られたと考えられるが、理由は明らかではない。
「カイロノミー」指揮者が指揮棒を使わずに、手の動きによって指揮すること。「ドン引き」誰かの言動によって場の雰囲気が悪くなったりすること。よく使われるが、広辞苑にはない。「激辛グルメ」など日常よく見かける言葉「激辛(けぎから)」とか、電子レンジで加熱することを「チンする」というが、調査では9割以上の人が使っているにもかかわらず、広辞苑を引いても出ていない。視力検査で片目を覆う際に用いる遮眼子(しゃがんし)もない。遮眼灯(強盗提灯の別称)はのっている。
「劣化」は広辞苑には「品質が低下すること」と説明している。しかし最近では「老けた」という意味で使用されることが多くみうけられる。足の裏、親指の付け根のふくらんだ部分を拇指球という。
「広辞苑」にも収録されない言葉は他にも多数ある。たとえば、「エンガチョ」は不浄のものを防ぐために囃子たてる子供による口遊びのひとつである。地方や時代によってその呼び名は異なり、関東ではエンガチョ、関西ではビビンチョである。なぜか岩波書店の「広辞苑」にはのっていない。「風説留(ふうせつどめ)」幕末維新期、一般民衆が社会の出来事や身辺雑事を書き残した日誌、風聞集。「マタハラ」マタニティー・ハラスメントの略で、働く女性が妊娠・出産をきっかけに職場で嫌がらせや解雇など不当な扱いを受けた李すること。広辞苑にはマタニティー・ブルーはあるが、マタニティー・ハラスメントは掲載なし。「ワンオペ」とは、アルバイトなどシフトに1人で入ること。ワン・オペレーションの略。「納本制度」とは国立国会図書館が国内出版物の収集を図るため、法律により図書館に本を収めることを義務づけたもの。「キャレル(carrel)」は図書館の書庫に設けた個人用閲覧席。「ワラス線」いまではウォーレス線(掲載あり)といわれる。表記の違いで検索できないことがある。
広辞苑にない言葉を集める。
アーバンゴルフ
アエピカメルス
味写
アットゥシ織
アトウォーター
アミタール面接法
アルティメット
安全拾得器
イケテる
イナバウアー
ウェルテル効果
英熟語
エンガチョ
大喜利
岡崎フラグメント
オブローク(仲間意識)
おもてなし
オレオレ詐欺
カイロノミー
家事ハラ
霞的(かすみまと)
ガラケー
カルビナ(登山などで命綱をつなぐ器具)
カローリング
キハーダ(キューバの楽器)
キマロキ編成
きもい
キャノティエ(カンカン帽の別称)
キャバクラ
キャレル(個人用閲覧席)
球電
久恋
逆玉
行徳のまな板
グラウンドホッグ・デー
クールビズ
グレムリン
クロンペン(オランダの木靴)
激辛(げきから)
ゲリラ豪雨
コールマン石
腰パン
コモン・マン
コルセーロ(海賊) Corsaire
細光峰(さいこうほう)
サプライズ
サブリース
サヴァン症候群
ジカ熱
視聴熱
遮眼子(しゃがんし)
捨欠伸(すてあくび)
スンプ法
仙台四郎
送寒衣(そうかんい)
卒婚
タギング(スプレーペンキの落書き)
ダバワラ
断捨離
チャコペン
チンコ坊主
手足口病
ツイッター
ツイート
中二病
通水カップ
ツンデレ
できちゃった婚
デルマーバ半島
統一球
豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ
どっこい屋
飛び出し坊や
どや顔
ドローン
ドン引き
ナスカ地上絵
成田離婚
ネクラ
ねずみ鋳鉄
納本制度
ノーパン喫茶
のっこみ
ノマドワーキング
白丁(ペクチョン)
箱ひげ図
パラノーマル
パラパラ
ハリーポッター
バルシチナ(賦役労働)
ピアディーナ(イタリアの地方料理)
非降水エコー
ビートルズ
氷筍(ひょうじゅん)
フィーエルヤッペン
風説留(ふうせつどめ)
プロジェクション・マッピング
プロブレマティカ(未詳化石)
ヘタウマ
ヘタレ
ぺチュネグ人
ヘルヴェティア
変顔
ポイ(金魚すくいの紙のアミ)
ほうれい線
母指球(ぼしきゅう)
ホーボー
ボラート(係船柱)
マクンバ
マタハラ
マラニック
みたいな
目安針
模合(もあい)
萌え
野猿
ユンノリ
ラムスデン現象
ララヒッパリ
ランバダ
リカステ(植物)
ルリエール(製本)
レジェンド
ワラス線
ワンオペ
ワンコイン
ンナフカ祭り(宮古島の祭り)
ロシア軍のウクライナに侵攻した24日、NHKがBSプレミアムでロシアがナポレオンに侵攻された映画「戦争と平和」を放送していた。ネットでは皮肉にもほどがあると話題になっている。原作はもちろんかの文豪トルストイの長編小説だが、小説の題名は最初、「戦争と平和」ではなく、「戦争と世界」あるいは「戦争と民衆」であったという説がある。ミールというロシア語には「平和」と「世界」という意味がある。「戦争と平和」はいわゆる多響的ロマンなので主人公を特定することはできない。イタリア製作「戦争と平和」(2007)全4話も多数の登場人物を描いている。だが作品の中心となっているのは、ロストフ家の令嬢ナターシャである。フランスの女優クレマンス・ポエジーがナターシャを演じているが、あまり美人ではない。ナターシャはもっとも生き生きした魅力的な女優を期待していた。だが全体としてはセットなど豪華でストーリーの展開は早くて面白い。
山本譲二、角川博、前川清。演歌歌手には高校時代野球経験のある人が多い。▽大江千里の妹の名は万理。ふたりあわせて千里万里。▽70歳を過ぎると献血できない。▽アルベルト・シュヴァイツァーはサルトルの母といとこ同士。▽タラバガニは英語でKing Crab。つまり「カニの王様」。本当はタラバガニ(足が8本)はカニ(足が10本)ではなく、ヤドカリの仲間。▽ハリネズミはネズミと付くが生物学上はモグラに近い。▽赤穂義士の吉良邸討ち入りの日、史実では雪は降っていなかった。歌舞伎の演出によるものである。▽翔んで埼玉。埼玉県は昼夜間人口比率が全国で最も低い。▽ピタゴラスの定理は彼自身の発見かどうかは疑わしい。▽トルコ石は現在ほとんどトルコで産出されない。
▽スイスのモナリザ財団が「若きモナリザ」(アイルワースのモナリザ)はダ・ヴィンチ本人が描いた真筆であると発表した。つまりダ・ヴィンチは2枚のモナリザを描いたことになる。ところでルーブル美術館のモナリザは誰によって日本に紹介されたのかわからない。文献上で夏目漱石の「永日小品」(1909)より以前の記述が見つからない。漱石は薄笑いをした気味の悪い絵と評している。▽晩年のマネはリウマチにより歩行が困難になり、左足を切断している。▽日本プロ野球初の逆転満塁サヨナラホームランを打ったのは巨人の川上哲治である。▽大学の合格通知に電報を使ったのは、1956年、早稲田大学が事の始まり。そのときに「サクラサク」という表現を使い、それが全国へ広がった。(雑学ブログ)
唐辛子を入れた甘酢に大根やカブ、キュウリなどの季節の野菜をつけたもの。「アチャラ」とは、ポルトガル語で野菜の漬け物を意味する「achar(アチャール)」に由来し、近世初頭に南蛮貿易を通じて日本に入ってきたとされる。九州地方に伝わる郷土料理。清水桂一「たべもの語源辞典」ではインドネシア由来とあるが誤りか。
NHKが壷井栄の「二十四の瞳」や川端康成「雪国」を3月、4月に放送する予定である。有名な近代小説をドラマ化することは最近減少傾向にあったが、やはりセットや時代考証には忠実なNHKなので期待度は高い。とくに高橋一生が島村をどう演じるのか興味がある。島崎藤村や徳田秋声などの自然主義の作品なども映像で見てみたい。
今出川豆腐は別名を「宮様豆腐」といい、豆腐を昆布とお醤油で煮たものに、くずあん、胡桃、和からしを合わせていて、京都らしい上品な味を楽しむことができる。天明2年に出版された「豆腐百珍」にも取り上げられている。
伊東祐亨(いとうすけゆき、1843-1914)は天保14年、薩摩藩士伊東祐典、喜多の四男として鹿児島城下上清水馬場に生まれる。長崎海軍伝習所、江川塾で学び、戊辰戦争に従軍。明治海軍の初代連合艦隊司令長官。
伊東は樺山資紀海軍軍令部長より、黄海の制海権維持のため、清国北洋艦隊の撃滅を命ぜられた。連合艦隊は、明治27年9月17日、丁汝昌提督の率いる北洋水師を視認した。当時、まだ望遠鏡すら未発達のため、敵艦発見はもっぱら水平線上の煤煙の視認に頼っていた。「煙も見えず雲もなく、風も起こらず波たたず、鏡のごとき黄海は、曇り初めたり時の間に」と「勇敢なる水兵」で歌っている。
午前10時50分、先頭を進む「吉野」のマストに信号旗が上がった。「敵艦隊東方に見ゆ」。両艦隊が会敵し、黄海海戦の戦闘が開始された。「鎮遠」の主砲弾が、旗艦「松島」を直撃し、90余名の死傷者が出た。水兵・三浦虎二郎は、瀕死の重傷を負いながら、副艦長向山少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と尋ねた。向山少佐は「定遠は戦闘不能になった。これからは鎮遠をやるのだ」と答えた。これを聞いた三浦水兵はほほえんで「どうか仇を討ってください」の一言を最後に絶命した。この話が軍歌「勇敢なる水兵」(作詞・佐々木信綱、作曲・奥好義)の元となった。
しかし、実際は「定遠」も「鎮遠」も沈まなかった。5時間後、北洋艦隊は威海衛めざして退却した。日没とともに伊東司令長官は戦闘中止を下令。黄海海戦は、撃沈数で比較すると、連合艦隊の最初の勝利と言える。しかし、朝鮮半島周辺の制海権を握るという戦略目標からすると、問題が残っていた。北洋艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」のほか、巡洋艦4隻、砲艦1隻などが残存し、根拠地である旅順港か威海衛から出撃してくる可能性があった。明治28年2月4日、5日の威海衛夜襲が行なわれた。2月17日には威海衛が占領され、北洋艦隊の撃滅に成功する。
伊東祐亨は、日清戦争後、海軍軍令部長となり、より近代的な艦隊編成の形成や北清事変への対応など、内外の諸問題に対処した。その後、日露戦争終結後まで軍令部長としてその職にあり、在職期間は明治38年12月に至るまで続いた。これは歴代海軍軍令部長のなかで最長である。
坂口安吾は1955年2月17日、高知に「安吾新日本風土記」の取材に行った直後に自宅の桐生市において脳出血でこの世を去っている。まだ48歳だった。安吾には珍事件がたくさんあるが、静岡県伊東に競輪場ができると安吾は夢中になった。あるとき1着、2着が写真判定となった。だが発表された着順に不服の安吾は判定写真のすり替えによる不正を沼津地裁に訴えたが、結局、判定は覆らなかった。無頼派でも太宰治は今でもよく読まれるが、安吾は忘れされてしまった。だが最近NHKで「明治開化安吾捕物帖」がドラマ化された。結城新十郎という日本版シャーロックホームズといったところ。ドラマのエンドロールで写される小林清親の浮世絵が美しい。とくに「大川岸一之橋遠景」の人力車の風景がお気に入りである。洋風写生による風景版画の最初であろう。
北京冬季五輪が開催されている張家口は北京から約180キロの距離にあるが、高速鉄道が完成し所要時間は1時間くらいである。張家口会場の周辺には選手村、スキージャンプセンター、バイアスロンセンター、クロスカントースキーセンターなどの施設がある。張家口は位置は、北京の北を取り巻く万里の長城の主要な門「大境門」のすぐ外側にあり、「北京の北門」と呼ばれて、ここを制するものは北方から北京を攻める場合にも、北京を守る場合にも有利になり、古来より軍事的な要地である。明清時代を通じて代表的な対蒙古貿易地で、西のフフホトを西口というのに対して東口といわれた。
いくよもち。江戸両国名物のあん餅。元禄17年に、小松屋喜兵衛が吉原の遊女幾世を落籍して妻とし、その名をつけて売り出し、大評判となった。「女房の名をつけて売る幾世餅」の句がある。古典落語や広辞苑や「たべもの語源辞典」にも載る。だが現代人で幾世餅を食べた者はいるのだろうか。
皇帝クラウディウス・ゴチクスの命令で首を刎ねられる聖バレンタイン
2月14日はバレンタインデー。好きな人にチョコレートを贈ったり、自分へのご褒美にしたりする恒例行事だが、起源はキリスト教の宗教儀式であることはあまり知られていない。バレンタインデーの起源は古代ローマ時代にさかのぼる。ローマ帝国では、2月13日から15日まで豊穣と結婚の祭りルペルカリアが盛大に行われ、とくに2月14日はユノ(JUNO)の祭日である。むかしローマ皇帝クラウディウスが帝位についてほどなく、ゴート族を撃退し、「ゴティクス」という添名がついた。皇帝はより軍隊を強くするため、兵士たちが愛する妻がいると勇敢に戦えないとして、結婚を禁じた。ところが、司教のウァレンティヌス(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させたため、捕らえられ処刑された。あえてユナの祭日を処刑の日に選んで2月14日としたという。西暦269年のことである。311年、コンスタンチヌス大帝のキリスト教寛容令が出されてから、殉教者の聖バレンタインの人気がでた。14世紀には聖バレンタインの命日が「恋人の日」といわれるようになり、愛する人に贈物をする風習が始まった。日本では1958年頃より流行し、一般的には女性から男性にチョコレートを贈る習慣になっている。でも海外を見ると事情は少し異なっているようだ。まず欧米では男女関係なく恋人や親しい人にハラ、ケーキ、カードといってものをプレゼントします。ホワイトデーのようなお返しの習慣はありません。ベトナムでは男性から女性へ花束をプレゼントする。インド・サウジアラビアでは宗教上の理由でバレンタインを祝うことは禁止されていますが、一部ではプレゼントのやり取りがあります。韓国ではバレンタインの習慣は日本から入ってきたようで、日本と同じ女性から男性へチョコレートを渡す日となっています。ホワイトデーの習慣もあります。面白いのは4月14日に「ブラックデー」というのがあります。これはバレンタインデー、ホワイトデーともに縁のなかった「ぼっち」が集まって慰め合う日です。黒い服を着て黒いものを飲食するという変わったイベントです。中国ではバレンタインデーは「情人節」と言われて、男性から女性にプレゼントを渡します。贈るのはバラが一般的で、バラの本数で思いをあらわします。
本日は「資本主義の父」渋沢栄一、1840年の誕生日。 ドラマ「天皇の世紀」第7話「黒い風」では若き日の渋沢栄一(栄一郎)が登場する。栄一は尊王攘夷論に共鳴して志士と交わり、高崎城攻撃、横浜居留地の焼き討ちを企てた。その計画を断念するよう栄一を説得したのは尾高長七郎(1838-1868)だった。尾高は、栄一とは年齢も近く竹馬の友として特に親交を重ね、互いに文武を研鑽した仲であったが、尾高はテロリストの限界を感じていた。渋沢はこのときのことを日記に「今から見ると、そのとき長七郎の意見が適当であって、自分などの決心は頗る無謀であった。実に長七郎が自分等大勢の命を救って呉れたといってもよい」(渋沢栄一伝記資料第1巻)と語っている。(2月13日)
中央にホワイト・タワー、時計回りに、ソルト塔、マーティン塔、ビーチャム塔、ベル塔がある
ロンドンという地名の由来は謎である。ロンドンのラテン名であるロンディニウム(Londinium)はケルト語のリィンディン(Lyndyn沼沢地の砦)にその語源があるらしく、ケルト時代のロンドンはテムズの沼沢地に臨んだ原始的な城塞だったらしい。一説によると、ケルト語「ロンディノス」(Londinos)勇士の土地、という意味がローマ化されてロンディニウム、それが転訛してロンドン(Londn)となったともいう。
またロンドンの誕生が、紀元43年にローマ皇帝クラウディウスにより創建されたのか、またそれ以前から存在していたのかも明らかではない。だが1世紀末には早くも商業都市として栄えていたことは事実である。5世紀にローマ人が撤退したあとは、アングロ・サクソン人の侵入となり、やがて1066年にはノルマン人のウィリアム1世によるイングランド制服が行われ、ノルマン朝の成立となる。ウィリアム1世は、1078年に、ロチェスターの司教ガンドルフに命じてホワイト・タワーと呼ばれるキープ(天守)を造らせた。これがロンドン塔の始まりである。息子のウィリアム2世によって完成された。石造4階建ての天守閣の中で、もっとも神聖な場所はセント・ジョーンズ礼拝堂である。その後、リチャード1世、ヘンリ3世、エドワード1世らによってロンドン塔は増築された。ロンドン1000年の歴史を象徴するこの建物には、現世にやり残したことのある王家の人々の霊が数多くさまよっているといわれる。1554年にはジェーン・グレイが斬首された。1536年にはヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンが斬首。魔術の使用と姦通の罪を問われて、斧で首を斬られた。アン女王の魂が、永遠の救いを求めて塔の中をさまよって歩いているという噂話がある。(Tower of London、世界史)
江崎グリコが1966年から発売しているポッキーのCMといえば、山口百恵や松田聖子、岡田有希子というその時代を象徴するトップアイドルが起用されている。なかでも新垣結衣は軽妙なダンスが話題を呼び、現在につながる不動の人気女優となつた。現在はポッキープリンセスとして南沙良が起用されている。では初代は誰か?というと、初代・鎌田由紀子、2代目・渡辺直子、3代目・小林麻美、4代目・森和代、5代目・梅田智子、6代目・島田陽子、7代目・坂口良子、8代目・青柳雅子、9代目・木之内みどり、10代目・岡田奈々、と続くが以下省略する。つまり4から8代目までは、東宝に所属する売り出し中の青春スターだったが、9代目以降アイドル歌手に変更していった感じだ。江崎グリコの宣伝部も初めは芸能業界のことがわからず、適当な女優でCMを任せていたようだ。では、女優・鎌田由紀子とはどんな経歴で、どのような映画、ドラマに出演したことがあるのか?ケペルが調査したが不明だった。ただアサヒ芸能の表紙(昭和42年5月14日号)で顔だけは明らかとなった。当時のアサヒ芸能は女優を表紙にしていることは多いがやはりだいたいセクシー系だと思われる。いつも初代ポッキープリンセスとしてその名を歴史にとどめる鎌田由紀子の実体は謎のベールに包まれている。
映画「ある愛の詩」の出会いのシーン。ジェニファーが「オリバーは名、それとも姓?」とたずねる。オリバー(Oliver)はオリバー・クロムウェル、オリバー・ストーン(監督)やスーザン・オリバー(女優)のように両方につかわれる。ネルソン(Nelson)はホレーショ・ネルソン(イギリスの海軍提督)のように姓が一般的だが、ネルソン・マンデラ(政治家)やネルソン・フレイレ(ピアニスト)のように名にも使われる。
姓と名、両方に使用される名前
アーサー(Arthur) アーサー・ミラー(劇作家)、チェスター・A・アーサー(米大統領)
マーティン(Martin) マーティン・バルサム、ディーン・マーティン
ライアン(Ryan) ライアン・オニール、ロバート・ライアン、メグ・ライアン
ハワード(Howard) ハワード・ヒューズ、ロン・ハワード
フランクリン(Franklin) フランクリン・ルーズベルト、ベンジャミン・フランクリン
大河ドラマ、昨夜の放送は「兄との約束」源頼朝が伊豆で挙兵。石橋山の戦いで大庭景親らの軍勢に敗れる。まだ1180年の話である。
1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。
平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)
イタリア女優のモニカ・ヴィッティが亡くなった。アラン・ドロンの出世作といえば「太陽がいっぱい」(1960)である。ニーノ・ロータの音楽だが、フィルム・シンフォニック・オーケストラという楽団のレコードもよくラジオから流れた。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」(1962)の主題曲もよくヒットした。原題は「レクリプス(L'eclipse)」。映画ではミーナが歌っているが、日本ではコレット・テンピアColletto Tempia 楽団の曲でヒットしている。これも「太陽がいっぱい」と同様そのような楽団は実在しない。日本のレコード会社がツイスト風にアレンジして、すべて日本人のミュージシャン、アレンジャー、指揮者などによってレコーディングされた。いわば和製のサウンドトラックである。園まりが日本語歌詞で歌っている。「太陽はひとりぼっち」は現代人の愛の不毛を描いた作品である。モニカの焦点の定まらぬ茫洋としたムードが映画にぴったりだった。
たそがれのローマ
夏の陽のローマ
トレヴィの泉に 沈む陽よ
明日もあさっても ソレイユ レクリプス
愛の太陽 ただひとつ
ひとりぼっちの ああ太陽
むなしい恋の 涙のエンジェル
尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。
尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。
尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。
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三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。
1970年は春に「よど号ハイジャック」夏に「ぷりんす丸シージャック」、秋に「三島由紀夫の割腹自殺」おさわがせな年でした。
日本にモルモン教が広まったのはいつ頃からであろうか?1970年3月14日から開催された日本万国博覧会(EXPO'70)以降とするのが一般的な見方であろう。しかし文献を漁ると、国立国会図書館の所蔵図書には内田融の「モルモン宗」文明堂、明治35年刊行があり、110年以上の歴史がある。モルモン教がアメリカで設立されたのは1830年4月6日のことである。
鈴木正三は1968年に末日聖徒イエスキリスト教会、日本伝道部の第一顧問となった。折しも日本万国博覧会の会場建設が吹田市の千里丘陵で始まりつつあった。教会はこの万博に出展を決め、モルモン館を建設する。鈴木はその館長に就任し、毎日多くの要人を迎えた。万博開催中のある日、当時の皇太子殿下(今上天皇)がモルモン館を訪ねられた。鈴木が案内する中、皇太子殿下は一つだけ質問をされた。「イエス・キリストとはどなたですか?」鈴木はこう答えたという。「イエス・キリストは神様の独り子で、この世を創造された御方であり、わたしたちはこの地上で生活したことについて、いつかイエス・キリストの前で裁きを受けます。わたしも裁きを受けます」
万国博覧会の来場者数は、6421万8770人であった。わたしもその中の1人である。
モルモン教とともに思い出されるのはタイの像の来日である。夏のイベントに出演するためタイからはるばる大阪に20頭ものゾウがやってきた。神戸港から大阪までゾウの行進があり、みんなで見た想い出のある方も多いだろう。滞在中にオスの赤ちゃんが生まれ、「おまつり広場」にちなんで「ひろば」と名づけられた。あの「ひろば」くんはいまどうしているだろうか?関西大学のあるサークルが2年にわたって調査したところ、ゾウは30年ほど前に亡くなっていたことが判明した。
書棚の奥にしまっていた岩波新書の古い解説目録がやっとでてきた。実は「図書1997」の企画で「私の薦めるこの1冊」という429人の著名人のアンケートをみていて、武谷三男の「原子力発電」「原水爆実験」を挙げる識者が1人もいなかったことが気になっていたからだ。1997年という時代は高度経済成長を経て石油ショック、ロッキード事件、冷戦の終結、バブルとその崩壊、平成不況、阪神大震災という背景にあった。大江健三郎がノーベル賞を受賞直後で「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」「あいまいな日本の私」をあげる識者も多い。しかし核問題、原発、農村などへの識者の関心は低い。岩波新書の古典といわれる「万葉秀歌」(斎藤茂吉)、「新唐詩選」(吉川幸次郎・三好達治)、「日本の思想」(丸山真男)、「知的生産の技術」(梅棹忠夫)など著名な作品が目立つ。岩波新書には地味な問題、日本の階級構成、労働問題、人口集中と過疎、農村と医療などをテーマにしたものが多いのが特色の一つだが、残念ながら選ばれることはなかった。この年は、拓銀、山一破綻。神戸連続児童殺傷事件、ダイアナ元皇太子妃交通事故があった年である。
きっと誰もが1度は、CMを見て「この美女は誰!?」と思ったことがあるはず。いまをときめく橋本環奈もブレイクのきっかけはファンが撮った1枚の写真からである。男はつねに美しい女を捜し求めている。乱歩の「押絵と旅する男」のように。「徹子の部屋」で近藤正臣がテレビCMで偶然に見かけた女優に一目ぼれしたことを正直に告白している。「笑顔が素敵」「やっと名前が分かった」と。長い髪にくったくのないキュートな笑顔、海辺が似合い自由な雰囲気がただよう美女はアグネス・ラムのように近藤好みであろう。近藤が見たCMとは「一平ちゃん」なのか、それとも「ラインモバイル」か?それ以上に名前が「本田翼」と聞いた時に、あまりにも有名モデルで女優なのでむしろ知らないことに周囲は驚きをかくせない。ソフトバンク、アサヒビールなど、CM起用社数21は2021年度のトップだ。「江ノ島プリズム」「アオハロイド」など青春映画が中心なので、世代の相違からか、これまで共演の機会はなかったのだろうか。ベテラン男優に名指しでその美しさを絶賛されたら、事務所も近藤との共演を考えてくれるかもしれない。ジャン・ギャバン「ヘッドライト」のようなドラマなら最高だけれど。
一里塚とは、街道両側に1里ごとに土を盛り、里程の目標とした塚のことである。一般には江戸時代になって1604年2月4日、大久保長安(1545-1613)の指揮のもと各街道に整備されたことが知られているが、実は一里塚はそれ以前から存在していた。織田信長は36町を1里として、5間四方の塚を築いた。榎を塚の上に植えた。エノキは「縁の木」であり、「縁退(の)き」である。すなわち縁結びもあり、縁切りでもある。一里塚を造りはじめたのは信長であり、その後、秀吉、家康が全国に広めた。東海道の宿場は1601年に江戸から京都間に37の宿場が、1624年には江戸・京都間に53の宿場が整備された。万知2年(1659)には道中奉行が設けられ、その後、中山道、奥州街道、水戸街道、日光街道など五街道が整備された。このほか、諸国には脇街道があった。そのおものなものとして、東国では松前路・佐渡路・北国路・羽州街道などがあり、西国では伊勢路・伊賀越道中・山陽道・山陰街道・長崎路・薩摩街道・金毘羅街道・土佐街道などがあった。(2月4日)
朝ドラ「カムカムエヴリバディ」今朝の放送に「およげ!たいやきくん」のブームの話がでてきた。るいの店の回転焼がさっぱり売れなくなった。流行をものがたりに入れる時代が特定できる。昭和50年か51年ごろだろう。同じころハウス食品初の即席めん「シャンメンしょう味」のCMがテレビで放送されたのは昭和50年8月末のことだった。
「今なんどきですか?」
「ハイ、ラーメンどっきっよ!」
そして結城アンナがラーメンをテーブルに座った佐藤祐介に運ぶ。
「わたし作る人」(結城アンナ)、「ぼく食べる人」(佐藤祐介)と言いつつラーメンを食べる。そして町田義人の歌が流れ、「結果!、♪ハウスシャンメン、しょうゆ味!」と終わる。
このCM開始から1ヵ月余り過ぎた9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のメンバー7人は、ハウス食品の本社を訪れ、「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割分担をより固定化するもの」としてCM中止を要請した。ハウス食品では消費者の声を無視できないとして、10月27日CMの放送中止を決定した。新聞や週刊誌はこぞってこの問題を取り上げた。「言葉狩り」「重箱の隅をつつく行動」など、抗議に批判的な論調も少なくなかったが、これが、日本で始めて性差別広告として批判された事例として画期的な意味を持つものとなった。これを契機に性差別広告批判運動は高まりを見せ、「男女の性別役割分業」という言葉を、世に広めた結果となった。「ジェンダー平等」思想のルーツともいえる出来事だった。
1993年10月28日、ドーハのアルアハリ・スタジアムで行われた日本vsイラク戦。日本は初戦サウジアラビアに引き分け、オランダに手痛い1敗を喫して、もう1敗もできない崖っぷちから、北朝鮮、韓国を撃破し、最終戦でイラクに勝てば自力で予選突破ができるところまできた。日本は攻守に気迫あふれるプレーをみせ、前半5分、三浦知良がゴール。後半一度は同点にされるが、25分、中山雅史がゴールを決めて勝ち越した。ところが、あと終了30秒前、勝利を信じたその瞬間、イラクに右サイドのCKから同点ゴールを決められ、韓国との同失点差でw杯出場の夢は絶たれた。後にこの悪夢の一瞬を人々は「ドーハの悲劇」と呼んだ。
交通事故で亡くなった著名人といえば先ず思い出されるのは、ジェーズ・ディーンだろう。カリフォルニア郊外の高速道路を愛車ポルシェで走行中、対向車と激突、24歳の若さで命を絶った。ジミーの死後67年が過ぎたが、今もなお青春の象徴として、語り継がれている。事故死された著名人はその後も、大場政夫、グレース・ケリー、ダイアナ妃、と次々と浮ぶがやはり、病死や自然死以上にニュースの扱いが大きいだけに鮮明な印象である。また人生の盛期の突然の死であるだけに、ファンにとってはショッキングな事件である。
アントニ・ガウディ(建築家)1926年6月10日、73歳。
イタロ・ズヴェーヴォ(作家) 1928年9月13日、66歳
渡辺温(作家) 1930年2月10日、27歳
トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)1935年5月19日、46歳
アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ(作家) 1944年7月31日、44歳
アリスティド・マイヨール(彫刻家)1944年9月27日 83歳
ジェームズ・ディーン(俳優) 1955年9月30日、24歳
ジャクソン・ポロック(画家) 1956年8月11日、44歳
マイケル・ヴェントリス(線文字Bの解読者) 1956年9月6日、34歳
ヴィクトル・スタルヒン(野球選手) 1957年1月12日、40歳
高橋貞二(俳優) 1959年11月3日、33歳
アルベール・カミュ(作家) 1960年1月4日 46歳
スコット・ラファロ(ジャズ) 1961年7月6日、25歳
ダグ・ハマーショルド(国連事務総長) 1961年9月17日 56歳 墜落死
佐田啓二(俳優) 1964年8月17日、37歳
三木露風(詩人) 1964年12月29日、75歳
ジェーン・マンスフィールド(俳優) 1967年6月29日、34歳
小柳徹(俳優、歌手) 1969年3月24日、20歳
大場政夫(ボクシング) 1973年1月25日、23歳
マーク・ボラン 1977年9月16日、29歳
ロラン・バルト 1980年3月25日、64歳
向田邦子 1981年8月22日、51歳、墜落死
グレース・ケリー(俳優) 1982年9月14日、52歳
坂本九(歌手) 1985年8月12日、43歳、墜落死
高橋良明(歌手) 1989年1月23日、16歳
志賀真理子(俳優) 1989年11月23日、19歳
土家歩(俳優) 1990年5月16日、26歳
ダイアナ妃 1997年8月31日、36歳
ジョン・デンバー(歌手) 1997年10月12日、墜落死
アラン・J・パクラ(映画監督) 1998年11月19日、70歳
柳原尋美(歌手) 1999年7月16日、19歳
ポール・ウォーカー(俳優) 2013年11月30日、40歳
貝原俊民(兵庫県知事) 2014年11月13日、81歳
斉柏林(台湾の映画監督) 2017年6月10日、52歳、墜落死
ギャスパー・ウリエル(フランスの俳優) 20022年1月19日、37歳、スキー事故
柳原一成(日本料理研究家) 2022年1月28日、79歳
(Road Traffic Victims)
1958年のこの日、エジプトとシリアが連合協定に調印し、アラブ連合共和国が成立した。 その2年前、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言して、一躍ナセルの名前が世界中に知れ渡った。ナセルのフルネームは、ガマール・アブドゥン・ナーセル。
「成せばなる。ナセルはアラブの大統領」
林家三平のおかげでいまでもエジプトといえばナセル大統領の名前が思いうかぶ。現在の大統領は誰か?アブドルファッターフ・アッ・シーシー。小学校の社会科でマダガスカルの首都はタナナリブと覚えたが、いまではアンタナナリボという。(Nasser,Tananarive,Antananarivo,Madagasikara,Mohammed Mursi,Adly Mansour)2月1日
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