三顧之礼
日本のことわざに「三度目の正直」があるが、イギリスの諺にも「Third time lucky.」(三度目はうまくゆく)がある。これに関する西洋の故事は知らないが、中国では「三顧の礼」の故事がよく知られている。三顧之礼は人材を厚く迎えるために礼を目上の人が何度も足を運び礼を尽くすことであるが、3度も繰り返すというところは「三度目の正直」の発想と通じるところがある。 孔明の「出師表」の中で「臣を草廬に三顧し」と記されており、ここから、手厚く礼をつくすことを「三顧の礼」というようになったのであるが、戦前の国語の教科書でも取り上げられた故事である。
諸葛孔明は、戦乱の世を避けて、襄陽の西、隆中山の臥龍岡という丘に草廬を結んで静かに暮らしていた。村人たちは臥龍先生といって尊敬していた。
白雲いういう去りまた来る
西窓一片、残月あはし
浮世をよそなる 静けき住居
出でては 日ごと 畑を打ち
入りては 机に 書をひもとく
劉備玄徳は、新野の県城に駐屯していたが、ある日、学者の徐庶は隆中に住む諸葛孔明という人物こそ「臥龍」(眠れる龍)であるとして劉備に強く推挙した。そこで劉備は礼をあつくし辞をひくくして訪ねていったが、孔明は不在で、その友人の崔州平と言葉を交わして立ち去る。
建安12年12月、劉備は再び関羽、張飛を連れて会いに行く。朔風凛々として雪が降る。張飛は不平をいいだす。「いかなれば軍をせずして、無益の人を遠く訪ねたまふ。まず新野へ立ち返りて、この大雪をさけたまえ」劉備の曰く「吾かくするは孔明に慇懃の意を知らしめんためなり。汝寒気をいとわば、ここより帰れ」張飛が曰く「吾は死することをも恐れず。なんで寒気をいとうことあらん。ただ益も無きことに心を苦しめたもうを思うやゆえなり」劉備の曰く「汝かならず多言することなかれ」
だが、この時も会えず、空しく新野に帰る。
年が改まって、三度孔明を訪ねようやくにしてその目的を果たした。時に孔明27歳、劉備47歳であった。いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したのである。
雪降り乱れる 冬のあした
風なほ冷たき 春のゆうべに
劉備が三顧の こよなき知遇
我が身を捨てて 報いんと
起ちてぞ出でぬる、草のいほり
(引用の詩は尋常高等小学校国語 6年「孔明」より)
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