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2021年12月31日 (金)

2021年去った主な著名人たち

 今年去った著名人にはTV全盛期を支えた個性的な俳優たちが多い。「眠狂四郎」「乾いて候」などの時代劇で二枚目俳優の地位を確立した田村正和。「北の国から」で、不器用でまっすぐな父親を演じた田中邦衛。「七色仮面」「アラーの使者」「キーハンター」など初期のTVドラマで人気を博した千葉真一。「鬼平犯科帳」の中村吉右衛門。「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」は21年の長寿シリーズとなった脚本家橋田寿賀子。その他、作曲家小林亜星、すぎやまこういち。漫画家「ゴルゴ13」のさいとうたかお、「カムイ伝」の白土三平。作家では高橋三千綱、瀬戸内寂聴、新井満。核兵器廃絶を一生涯訴え続けた坪井直。ミュージカルの神田沙也加。海外では盧武鉉、全斗煥。英王室のエディバラ公爵フィリップ殿下。通算755本塁打を放ったハンク・アーロン。

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

 

大晦日の祖先祭祀の風習について

 大晦日から元日にかけて、日本海側中心に強風や厳しい寒さとなる。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

2021年12月30日 (木)

愛される女の顔だち

   「立川志らくのシネマ徒然草」248回「ソン・ヘギョ淡いままでいてください」(キネマ旬報1480)で、志らくは女優の顔を「濃い顔」と「淡い顔」に分類している。エリザベス・テーラー、ソフィア・ローレン、オードリー・ヘプバーンは濃い顔である。韓国女優のソン・ヘギョは「淡い顔」(薄い顔)であるという。

Photo_3    立川に限らず最近の日本男性はどうやら「薄い顔」を好むようである。そういえば電車の中吊り広告に見る女性誌の特集記事には「モテ顔」「小顔」「あっさり顔」「癒し系」「童顔」「かわいい」「さわやか」「ナチュラル」「自然美」という語が肯定的に使われていることからも、薄いメイクでキツイ印象を与えない女性が当世風美人とされているようである。インドの女優の写真を見るとスゴイ美人が多いが、日本でスターとなった女優は一人もいない。しかし日本男性は昔から「薄い顔」が好みだったというとそうでもない。日本映画界最大の美人女優といえば原節子である。ところが原の顔立ちは鼻は大きく、あっさり顔というよりは「濃い顔」である。山本富士子も鼻が立派で「濃い顔」である。石原裕次郎の奥さん、北原三枝は「君の名は」で情熱的なアイヌ娘を演じて人気がでた女優である。やはり「濃い眉」が特徴である。当時、ヘプバーン旋風が日本を席巻していたが、サブリナの濃い眉を若い女性はまねをしていた。久我美子、岡田茉莉子、有馬稲子、司葉子、淡路恵子、根岸明美、青山京子、水野久美など皆んな眉は太く長く「濃い顔」をしている。この傾向は基本的には1980年代まで続いている。薬師丸ひろ子が一人勝ちの人気を誇った時代も、「濃い顔」で売れた。「跳んだカップル」の敵役の石原真理子の濃い眉は時代の象徴であった。現在のような「薄い顔」が好まれるようになったのは、何時頃からであるかは明言できない。例えば、飯島直子が濃い眉をしていたが、缶コーヒーのCMでブレイクしたときは、「癒し系」の顔立ちへと変化していた。一時期、韓国で活躍していた藤井美菜は「濃い顔」の美人だが日本ではあまり活躍していない。現在の「薄い顔」の象徴は小西真奈美であろう。長身で小顔。小さい目であっさりした顔立ち。モデルのShihoがさわやか系で人気をえたことも、「薄い顔」の成立に大きく貢献したかもしれない。最近は、「薄い顔」プラス「離れ目」が人気である。小松菜奈や古川琴音のように目と目が離れているのが可愛いといわれている。

    このように「薄い顔」が標準美人としてモテはやされる時代となったが、「爽やかな笑顔と明るいキャラクター」というだけでは女優としては物足らないように感じる。やはりハリウッドでは「濃い顔」「個性的キャラクター」が女優に求められる。美人系のキーラ・ナイトリー(「パイレーツ・オブ・カビリアン」)、アン・ハサウェー、ペネロペ・クルズは「濃い顔」であるし、ミラ・ジョヴォヴィッチ、アンジェリーナ・ジョリー、レネー・ゼルウェガー、ナタリー・ポートマン、二コール・キッドマン、シャリーズ・セロン、ジョデー・フォスターなどトップ女優は個性派(知性派とアクション派に分かれるが)が健在で「薄い顔」の女優は少ない。日本映画界のほうは、上野樹里、沢尻エリカ、長澤まさみ、田中麗奈、石原さとみ、宮崎あおい、綾瀬はるか、榮倉奈々、多部未華子、新垣結衣、堀北真希、井上真央、有村架純と2000年代以降の女優を並べてみたが、往年の映画女優の華やかさに比べると物足らなさを感ずるのはケペルだけだろうか。「薄い顔」でかつ「小顔」がモテる。中条あやみ、広瀬すず、橋本環奈ら「濃い顔」の女優が抬頭してきたし、沖縄や九州出身の「濃い顔」も依然愛される顔立ちである。

 

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勘太郎を殺した板割浅太郎

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   松竹キネマは新国劇「国定忠治」を題材に初のトーキー映画「浅太郎赤城の唄」を昭和9年に公開するや、映画主題歌である東海林太郎の「赤城の子守唄」が、流行歌の時代の到来を告げる大ヒットとなった。ただし新国劇では忠治の子分は定八や巌鉄だったが、脇役の板割浅太郎が、この映画では主役に昇格している。また、浅太郎に殺されたはずの勘太郎も生きて登場するし、浅太郎が勘太郎を背負って「赤城の子守唄」を歌って聞かせる場面がある。当時の人にとっては、かなり斬新な解釈の映画であり流行歌(作詞は佐藤惣之助という新感覚派の詩人)だったにちがいない。

   そもそも勘太郎の父というのは、博徒で目明しを兼ねた二足のわらじの男で中島勘助といい、浅太郎の叔父にあたる。浅太郎は勘助と内通していたと忠治に疑われ、その証のために勘助と勘太郎親子を斬るはめになる。伊勢崎市には勘助・勘太郎の墓がある。

   講釈師がいたいけな子供が犠牲になった事実をまげて語ったところ、大いに聴衆に受けたことが発端となり、その後「赤城の子守唄」の大ヒットで、浅太郎が勘太郎を背負って赤城山に登ることが定着する。東海林太郎の浅太郎、高峰秀子の勘太郎という芝居まで上演され大評判となった。

   浅太郎はその後、『赤城録』に「浅梟首」とあり、捕らえられて晒し首にされたとなっているが、浅太郎は逃亡の後、仏門に入り二人の菩提を弔いながらその生涯を終えたという説も有力である。神奈川県藤沢市の真徳寺に浅太郎の墓がある(画像)。明治26年12月30日没。享年74歳。(参考:川井正「勘太郎の頭蓋骨」歴史読本昭和59年1月号)

 

 

 

 

2021年12月29日 (水)

あと3日、迎春準備をお忘れなく

Photo   年末になると売っているお惣菜が高くなる。じゃがいもやタマネギのバラ売りがなくなる。正月商品は、普段100円だった蒲鉾が正月用の蒲鉾だと800円くらいする。高級品であるのはわかるが、100円商品が棚から消えるのは困る。うどんやお雑煮に入れる蒲鉾なら「寿」の文字や三色のものはいらない。値上がりする前に買っておこう。ソフトブレーン・フィールドが調査したところ、好きな「おでん」の具はダントツで大根が1位だった。以下、たまご、こんにゃく、ちくわ、餅入り巾着、はんぺん、牛すじ串、厚揚げ、じゃがいも、しらたき、がんもどき、さつま揚げ、つみれ、ちくわぶ、ウィンナー、ごぼう巻き、こんぶ、糸こん、ロールキャベツ、お豆腐、さといも、おでん餃子。年末の買い忘れないようにチェックしておこう。

年越しそば、そばつゆ、海老天、にしん、お寿司、ローストビーフ、オードブル、雑煮の具、数の子、ごまめ、栗の甘露煮、ロースハム、さといも、たけのこ、伊達巻き、黒豆、田作り、煮しめ、棒鱈、千枚漬け、海老、カニ、キヌサヤ、たけのこ水煮、金時人参、百合根、ぐわい、銀杏、焼豚、昆布巻き、生珍味、餅、鏡餅、串柿、甘栗、みかん、とり肉、いくら、海老天、チーズ、うに、湯たこ、イクラ、ほうれん草、小松菜、三つ葉、トマト、レタス。ポテトチップス、チョコレート、ジュース、コーラ、牛乳、チーズ、ブロッコリー、サラダ、食パン、玉子、祝箸、しめ飾り、ごみ袋、乾電池。万一、地震発生のための非常時用に水など飲料水を備蓄しておこう!! ああややこし、ややこし。

 

 

 

 

 

 

シャンソンの日

5969788  本日はシャンソンの日。1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

    日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。エディット・ピアフの「愛の讃歌」。およそ愛をテーマにした曲は数々あるが、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。今年の紅白にはシャンソンが一曲も選ばれていないのは残念だ。(12月29日)

 

 

 

 

2021年12月28日 (火)

井の中の蛙

  井の中の蛙大海を知らず。自分の狭い知識や考えにとらわれて、他の広い世界のあることを知らないで得々としているさまをいう。由来は「荘子 秋水篇」にある。井蛙(せいあ)。「北海の海神はいった。井蛙が海を語ることができないのは、自分の住んでいる所にこだわるからだ。夏の虫が、ともに氷のことを語るに足りないのは、夏のことしか考えないからだ。一方のことしか知らない人と、道について語れないのは、自分の教わったことに束縛されるからだ」と。

英語圏にも同類の表現がある。

The frog in the well does not know the ocean.

The  frog in a well is ignorant of the sea.

このような表現もある。

She was a big fish in a small pond.

He that stays in the vally shall never get over the hill.

谷の中にいる者が山を越えて新天地を求めることはできない

They think a calf amuckle beast that never saw a cow.

親牛の大きさを知らない人間は、子牛さえ大きいと思い込む

 

Photo   英語 pondはイギリスではふつう人工池を意味する。アメリカでは lakeより小さな自然の池にも用いる。

池はフランス語でbassinバッサン、イタリア語でstagnoスターニョ。

(参考:「日英故事ことわざ辞典」北星堂書店 1994)

ウェストミンスター大聖堂

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身廊の高さが34mもあり、イギリス国内の聖堂では最も高い

 

  ウェストミンスター・アベィは、アベィ(Abbey)とあるように本来、7世紀にさかのぼる古い教会のあとに建てたベネディクト会の修道院で1065年12月28日竣工した。現在の姿の基礎をおいたのは、ヘンリー3世(1207-1272)の時代で、1245年にゴシック様式の聖堂として改築させた。ヘンリー8世(1491-1547)の宗教改革の際に、イングランド中の修道院が廃止され、この修道院は大聖堂となった。ゆえに現在の正式の名称はアベィではなくて、「ウェストミンスターの聖ペテロ教会」という。中世紀以後歴代の国王や皇后はここに葬られ、征服王ウィリアム以来戴冠式もここで行われるしきたりとなった。代表的なイギリス人もここに葬られることを名誉としてきたが、とくに南の翼廊は「詩人の隅」と呼ばれて文学者の記念にあてられている。次の人たちが葬られている。

 

ジェフリー・チョーサー(1340年ごろ~1400年)中世イギリス最大の詩人で、近代英詩の創始者。

 

エドマンド・スペンサー(1552-1599)イギリス・ルネサンスを代表する偉大な詩人。代表作は「妖精の女王」(1609)

 

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)エリザベス朝のみならず、イギリスを代表する最大の劇作家であることは周知の通りである。彼はまた十四行詩の詩人としてもすぐれ、「ソネット集」(1609)は作者の深い人間理解を示す傑作である。

 

ベン・ジョンソン(1572-1637)シェイクスピアと並ぶエリザベス朝演劇を代表する劇作家であり、とくに喜劇において独自の境地を開く。彼の抒情詩はとくに古典的な典雅さにみちている。

 

ジョン・ミルトン(1608-1674)若い頃から宗教詩人として大成を志したが、清教徒革命に際してはクロムウェルの共和政府の秘書官となり、過労のため失明した。

 

エイブラハム・カウリー(1618-1667)詩人。牧歌劇「恋のなぞ」「保護者」内乱のためケンブリッジを追われ、一時パリへ亡命する。

 

ジョン・ドライデン(1631-1700)詩人。ケンブリッジ大学で学び、最初は清教徒の立場から詩作。その後、王党派に転じ、1668年、桂冠詩人となる。代表作「アブサロムとアキトフェル」

 

サミュエル・ジョンソン(1709-1784)一般にドクター・ジョンソン(ジョンソン博士)と呼ばれる。英語における最初の学問的辞書といわれる英語辞典(A Dictionary  of the English Language 1755年)を刊行した。

 

アルフレッド・テニソン(1809-1892)ヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、その繊細で美しい抒情性は特筆に値する。

 

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)科学者で、進化論を確立した。代表作は「種の起源」(1859)

 

ロバート・ブラウニング(1812-1889)テニソンとともにヴィクトリア朝詩壇を代表する詩人で、劇的独白(dramatic monologue)というテクニクを駆使して人間の魂の微妙な動きを描いた。

 

チャールズ・ディケンズ(1812-1870)サッカレーとともにヴィクトリア朝を代表する作家である。正規な学校教育は受けていない。ある新聞の通信記者となったたことが切っ掛けとなり、独自の才筆が生まれた。

 

トマス・ハーディ(1840-1928)若い頃建築家を志したが、のち詩や小説の創作に専心した。「ダーバヴィル家のテス」等の傑作によって小説家という名声を博したが、むしろ彼の抒情詩のほうに、彼の人間性そのもの、また人生観が鮮明に示されている。

 

ラドヤード・キップリング(1865-1936)兵士や水夫の生活を歌ったキップリングの詩作は、当時きわめて人気があり、「兵営の歌」はバイロンをしのぐといわれた。ノーベル賞受賞。代表作「ジャングル・ブック」

 

ジョン・メイスフィールド(1878-1967)海洋にあこがれ船員となって、アメリカに渡って放浪したのち詩作を始め、「海水のバラード」Salt-Water Balladsなどすぐれた詩を書き桂冠詩人となった。

 

ウェストミンスター宮殿はヘンリ8世がロンドン市内のホワイトホールに王宮を移すまでの国王の主な住居で、1547年の寄進礼拝堂解散法により、国会議事堂として使用されるようになった。1834年の大火で大部分が焼失してしまったものの、1860年にゴシック・リバイバル様式で再建された。宮殿の北側にはロンドンのシンボルともいえる96mの時計台、愛称「ビッグ・ベン」がそびえている。

 

(Westminster Abbey,Big Ben)

八百屋お七悲恋物語

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  お七の墓 円乗寺(文京区)

 

    八百屋お七(1668‐1683)。「天和笑委集」によると、江戸本郷追分の森川宿で商いを張る八百屋市左衛門は、もと駿河国富士郡の農民で、その末娘のお七は数え16歳の器量よしだった。天和元年12月28日、駒込大円寺から発した大火で一家は焼け出され、菩提寺の駒込正仙院に難を逃れた。この寺に生田庄之介という小姓がいた。数え17歳の美少年だった。お七と相思相愛の仲となった。そのうちに森川宿の新宅が仕上がり、一家は寺を出ることになったが、お七の恋心はいよいよ燃え上がり、ついには再び焼け出されれば、また寺に戻って庄之介に会えると思い込み、近所の商家に火を放った。しかし、すぐ見つかって放火はボヤで終わり、お七は奉行所に引き出される身となった。

    講釈師の馬場文耕による宝暦7年(1757)の「近世江都著聞集」の説によれば、お七の父親はもと前田家の足場だった山瀬三郎兵衛で、寛文年間に浪人して駒込追分願行寺門前で武家相手の八百屋を開業、八百屋太郎兵衛と名乗る。一家が焼け出されたのは天和元年2月に丸山本妙寺から起きた大火のためで、太郎兵衛の弟が住職をしていた小石川円乗寺に避難、お七はそこで山田左兵衛という修行中の美少年に出会い、恋におちる。お七に放火をそそのかしたのは、近くの吉祥寺の門番の子で、吉三郎という無頼漢。ボヤ騒ぎにまぎれて盗みをはたらこうとした吉三郎が捕らえられ、その自供からお七も縄を打たれた。調べに当たった改役、中山勘解由はお七のあまりの若さに驚き、15歳以下ならば、死罪を免れるという法もあることとて、お七を助けてやろうと考えた。「おまえはまだ十五であろう」「いえ、十六にございます」お七は正直に答えてしまい、死罪が決まった。

 

Ositi_daienji    お七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火刑に処せられた。庄之介は高野山に上り出家したという。庄之介は吉三郎という説もある。吉三郎は大円寺(目黒行人坂)の西運上人だったことが最近判明している。大円寺阿弥陀堂にはお七地蔵尊と西運上人の木像が祀られている。上画像はお地蔵尊。(参考:大島幸夫「伝説の女たち」)

呉越同舟、臥薪嘗胆

Goujian33518  「呉越同舟」仲の悪い者どうしが同じ場所に居合わせること。また、敵味方が共通の困難や利害に対して協力すること。呉と越とはともに中国春秋時代の国名。春秋時代の末期、呉と越の両国が仇敵視しあい、長年にわたり戦いを繰り返した。

   伍子胥は楚の人で、父の伍奢は楚の平王の太子の守り役をしていた。平王は費無忌を秦へつかわして太子のために妃を迎えさせたところが、秦の女性がたいそう美しかったので、費無忌は王にすすめて王の夫人にしてしまい、はては太子を追い出し、伍奢と伍子胥の兄の伍尚を殺した。伍子胥は太子とともに宋に出奔した。宋へ行く道で伍子胥は親友の申包胥と出会った。伍子胥は「父母の讐はともに天を戴かず、地を履まず、兄弟の讐はともに域を同じくせず、壌を接せずという。自分はきっと楚に報復してやる」と誓った。申包胥は「君のためをはかれば国のためにならず、国のためにすれば親友を捨てねばならぬ。よかろう、君は楚を滅ぼすのに努力しろ、自分は楚を安泰にすることに努力するから」と答えた。その後、彼は各地を渡り歩き、ついに呉王闔廬に仕えた。呉王は、伍子胥・孫武らを率いてしばしば楚に侵攻し、9年が過ぎた。その間、楚では平王が死に、平王の子の昭王が即位した。やがて呉が強大となり、楚を攻めて大いにこれを破り、楚の都郢(えい)に侵入した。伍子胥は積年の大怨を晴らすべく昭王を捕らえようとしたが、すでに逃げ出しており捕らえることができなかった。そこで平王の墓を暴き、平王の屍を引き出して、300回鞭で打ちつけて仇を報いた。

   それから4年後、呉王闔廬は、越王句践と戦って破れ、そのときうけた傷が悪化して死去。その子の夫差が後を継ぐ。伍子胥はひきつづき夫差に仕えて越の動きに備えた。そして2年後、越を撃ち破って句践を降伏せしめた。このとき伍子胥は「句践を殺して禍根を絶て」と進言するが、夫差は耳をかさずに講和する。

    調子に乗った夫差は、しきりに北方の斉・魯に軍を進めて勢力の拡大をはかる。そのたびに伍子胥は、警戒すべきは越王句践の動向であることを力説し、北方への遠征を見合わせるよう進言するが、夫差はいっこうに聞き入れない。こうして、戦略方針のくいちがいをめぐって、夫差と伍子胥の仲は急速に悪化していく。そこへもってきて「伍子胥が二心を抱いている」と、伯嚭が夫差に吹き込んむ。それを真に受けた夫差は、伍子胥に属鏤の剣を与えた。これで死ね、という意味である。伍子胥は天を仰いで嘆息し、「わしの目玉をえぐり出して城門にかけておけ。この目玉で呉の滅びるのを見てやる。そしてわしの墓には檟の木を植えよ。その木が生長して棺材になるころには呉は滅びて暗君夫差の棺になるであろう」と言い残して、みずから首をはねて命を絶った。十数年ののち、夫差は越王句践に敗れて自殺した。句践はさらに軍を北に進めて、斉・晋の諸侯と徐州に会し、呉に代わって天下の覇者となった。「臥薪嘗胆」というのは、この呉王夫差と越王句践との復讐戦にもとづいた故事である。(参考:大庭脩「臥薪嘗胆」世界歴史シリーズ3 世界文化社)

2021年12月27日 (月)

続編に傑作無し

804716_1    「続・ある愛の詩」(1978)を観る。オリバーは大学の図書館でジェニーと出会い、結婚する。貧しいが幸福な日々。しかし、ジェニーは白血病で死ぬ。続編はジェニーの葬儀のシーンから始まる。やがて2年が経ち、オリバーはマーシーという女性と知り合うが、結局はジェニーのことを忘れることができない・・・。前回当たった作品の続編は難しい。アリ・マッグローの新鮮な魅力に対して、今回はキャディス・バーゲンの大人の魅力。ラブストーリーよりも親子愛にスポットをあてて観賞すると好感がもてる作品である。

    一般に「大ヒットした映画の続編に傑作は無い」と言われる。「続・世界残酷物語」「続・荒野の七人」「続・猿の惑星」「続・フレンズ ポールとミッシェル」「続・エマニュエル夫人」「続・青い体験」「続・個人教授」「ポセイドン・アドベンチャー2」「ジョーズ2」「もっと猟奇的な彼女」などいずも2匹目のドジョウを狙ったが前作を越えることはできなかった。だが「ゴッド・ファーザー2」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」など、例外的に面白い続編映画も存在する。「続・愛と誠」(1975)も前作よりも面白い。大番長・高原由紀に多岐川裕美が扮し、太賀誠(南条弘二)をバンドしぶきの拷問シーンが圧巻。原作に忠実なのがよい。

小野道風忌日

Photo_2    漢字の和様化をなしとげた平安時代の能書家小野道風(894-966)は国民にたいへん親しまれた人物である。それは柳の枝に飛びつこうとして幾たびも跳躍を試みる蛙を見て発奮、精進の結果ついに書道の奥義を極めたという逸話によるものであろう。しかしその生涯には謎が多い。道風は小野妹子の子孫で、小野篁の孫、大宰大弐小野葛絃の子である。その生年は「日本紀略」によって寛平6年に生まれ、康保3年、73歳で没したことは定説になっている。名の「道風」は本来、「みちかぜ」と訓読すべきであるが、「とうふう」と音読しているのは、唐風化の影響である。しかしながら、道風の生まれた寛平6年には菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が停止され、道風が生きた時代は国風化が流行したときである。また若いときから書道家として認められたが、生涯官位は低く73歳で没したとき、正四位下内蔵権頭にすぎなかった。小野妹子の末裔にしては不自然であろう。生まれは愛知県の春日井市と伝えられる。小野葛絃(くずお)が任地の時、里人の娘との間に生まれたのが、小野東風だというのである。この説は尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山が「張州府志」で小野道風生誕地と述べ、以後尾張藩諸学者の通説のようになった。現在、春日井市には「道風記念館」があり、ゆるキャラの「道風くん」まで生まれた。だが、本当に道風が春日井市出身が史実であるかは疑わしい。(12月27日)

 

 

2021年12月26日 (日)

ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン

    エコール・ド・パリを代表する画家モーリス・ユトリロ(1883-1955)の母であるシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)は女流画家として知られている。1883年12月26日、パリ、モンマルトルのポトー通りの一角で、男児を生んだ。彼女は18歳、父親はわからない。シュザンヌは1865年、フランスのリムーザンで洗濯女の私生児として生まれた。本名は、マリ・クレマンティーヌ・ヴァラドン。5歳のとき母とパリに出てモンマルトルで暮らした。はじめサーカスのアクロバットの美少女として人気があったが、ブランコから転落して足をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。15歳のとき、画家ビュヴィス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。画家は彼女にモデルになることをすすめた。娘はマリアという名でモンマルトル界隈の画家たちを相手にポーズをとった。ドガ、ロートレック、ルノワールの名があげられる。祖母のマドレーヌと三人でトゥールラック三番街に住んでいた。その隣に住んでいたのがロートレック(1864-1901)である。20歳のシュザンヌは2歳のモーリス・ユトリロを連れて、ロートレック(21歳)の愛人になる。そしてシュザンヌもいつとはなしに絵筆を持つようになっていた。ロートレックは気難し屋で皮肉屋の画家ドガ(1834-1917)に彼女のデッサンを見せた。抜群のデッサン力を持つこの老画家は、彼女のデッサンをしげしげと眺めて「この娘はぼくらの仲間だね」といった。

   シュザンヌは1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚する。その後、離婚し、ユトリロよりも若い凡庸な画家アンドレ・ユテルと再婚し、奇妙な三人暮らしが始まる。1935年、ユトリロは裕福な未亡人リュシー・ポーウェルと結婚し、ユトリロ夫婦と母は幸せな生活を送る。シュザンヌは、1938年、73歳で亡くなっている。

たかが紅白、されど紅白

 大晦日の風物詩、第72回NHK紅白歌合戦。今年は東京国際フォーラムで生中継で送る。初出場は「まふまふ」「布袋寅泰」「上白石萌音」など。司会は大泉洋、川口春奈、和久田麻由子の3人が全アーティストを応援するという形式となる。ジェンダーフリーの時代に男女対抗というのは時代遅れだという声を反映したものだ。松平健の「マツケンサンバⅡ」や三山ひろしのけん玉が目玉というのも寂しい。過去NHK紅白歌合戦に一度も出場していない人気歌手が結構いる。「負けないで」「揺れる想い」などヒット曲をもつ坂井泉水(ZARD)は、2000年の紅白歌合戦の出場に前向きであったが、体調不良のため出場を辞退した。7年後、入院先の病院で転落死により、結局生涯一度も紅白に出場することがなかったが、一度見たかった。それぞれの事情により紅白出場していない歌手・俳優は多い。古くは岡晴夫。井上陽水、山下達郎、佐野元春、浜田省吾、松山千春、桑名正博、円広志、やしきたかじん、小田和正、氷室京介、スピッツ、B'z、CHAGE and ASKA、奥田民生、大黒摩季、辛島美登里、JUJUなど。ヒット曲がある俳優、勝新太郎、高倉健、石原裕次郎、天知茂、萩原健一、柴咲コウなどが一度も出場していない。

トルコ

   米マイクロソフトによると、中国・北朝鮮・イラン・トルコが国家の支援を受けたハッカー集団がJavaのLog4jの脆弱性を狙って悪用を図っていると警告している。三国はわかるとしてもトルコが入っていることに注目したい。トルコは歴史的に微妙な立ち位置にいる。トルコ民族は6世紀中頃、アルタイ山脈を本拠とする突厥という遊牧民族であった。その後、発展し西方に移動し、小アジアでオスマン朝をおこした。やがて1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、オスマン帝国が20世紀初頭まで存続した。第一次世界大戦では同盟国側に属して敗戦国となった。1923年、トルコ共和国の成立が宣言され、ケマル・パシャが大統領となる。1941年、ドイツとの間に友好条約が締結される。第二次世界大戦に際しては、最初は中立政策を採用する。大戦の末期に対日・独宣戦を行う。トルコは大戦中、主戦場となることなく、空爆など大きな被害を回避できた国である。ドイツとロシアとに挟まれた地理的位置であることを考えると、イスメト・イノニュの政治的判断が正しかったといえる。

2021年12月25日 (土)

次位者の嘆き

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 日本一高い山は富士山であることは誰でも知っているけど、標高が第2位の山は?北岳です。では、世界で一番高い山はエベレスト。では2番は?カラコルム山脈にあるK2です。一番は誰でも知っているけど、2番目になると、にわか教養の差がでてきてしまうものです。初代天皇は神武天皇。二代目は?綏靖天皇である。第1回十字軍を呼びかけたローマ教皇ウルバヌス2世は知っているが第2回十字軍を呼びかけたエウゲニウス3世の名前は誰も知らない。

 1912年1月17日、ロバート・スコット(画像)は南極点に到達した。しかし前年12月にアムンゼンが到達し、遅れること35日あとだった。落胆を胸に本船に戻ろうとするが、途中、吹雪に遭って一行4人とも凍死し、ついにそのまま帰還することなく死んだ。

  スコットほど悲劇的な次位者は他にみないが、たいがい次位者は損をしている。札幌農学校クラーク博士の後を継いだ2代目教頭、ウィリアム・ホイラーは現在の札幌の基礎を作ったがクラークのように有名ではない。1095年クレルモンの公会議を開いた第1回十字軍の提唱者ウルバヌス2世は有名だが、1147年の第2回十字軍を計画したエウゲニウス3世の名前は誰も知らない。

Cosa_juan   聖フランシスコ・ザビエルが日本で布教を始めたときに、通訳をした日本人ヤジロウ(アンジロー)の事は余り詳しく分からない。ザビエルの後任として日本に布教にやってきたコスメ・デ・トーレスの名前はあまり知られていない。

クリストファー・コロンブスは1949年から4回にわたり西インド諸島、中米を航海して、彼がアメリカ大陸の「発見」といわれているが、ファン・デ・ラ・コーサ(画像、1460-1510)も1回から3回まで船長として同航している。

 トルコ革命のケマル・アタチュルクは初代大統領として教科書で取り上げられるが、トルコ2代目大統領イスメト・イノニュ(1884-1973)も長期にわたり活躍した政治家である。とくに第二次世界大戦中、トルコは中立を保って戦火に巻き込まれずに乗り切った功績は大きい。

   アイドルの登竜門、ホリプリスカウトキャラバン。第1回は榊原郁恵。では第2回のグランプリ受賞者はだれ。西村まゆ子だった。東京オリンピック男子マラソン。寺沢徹(倉レ)、君原健二(八幡製鉄)、円谷幸吉(自衛隊)。次点は中尾隆行(東急)だった。

   1970年5月11日、植村直己と松浦輝夫、2人の日本人が初めてエベレスト初登頂に成功した。植村直己の名前は誰もが記憶するが、松浦輝夫の名前を記憶する人は少ない。田部井淳子と渡辺百合子も田部井だけが有名人になった。水泳の古橋広之進と橋爪四郎も良きライバルだったが、古橋の名前だけが残っている。

   フランスのルイ・ブレリオはライト兄弟の初飛行に遅れること6年、1909年に英仏海峡38㎞を36分35秒で横断に成功した。

インドの初代首相はジャワハルラール・ネルーだが、2代目はグルザーリーラール・ナンダ―である。

Alan_shepard   人類初の宇宙飛行をしたユーリイ・ガガーリンの名前は誰でも知っている。では2番目に宇宙へ出た人は。アメリカの宇宙飛行士アラン・シェパードである。ガガーリンに遅れることわずかひと月。1961年5月5日、アランはマーキュリー3号で宇宙に向かった。ただし、その飛行は15分28秒の弾道飛行であった(ガガリーンは地球を一周の108分)。その後、彼は1971年にアポロ14号に搭乗し、月面に降り立った5人目となったこの。この際、月面でゴルフをするというパフォーマンスを行った。同じくソ連人の2番目の宇宙飛行士グルマン・チトフもガガーリンほど有名ではない。

 最初の有人月面着陸アポロ11号から遅れること4カ月、アポロ12号が1969年11月24日に成功している(ピート・コンラッド船長)

 

 

シャルルマーニュ(カール大帝)

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  カール大帝は西暦800年12月25日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でローマ皇帝とし教皇レオ3世から戴冠した。カール大帝の逸話を集める。ピピンの子。フランク王(768~814)・西ローマ帝国皇帝(800~814)。仏名はシャルルマーニュ、英名はチャールズ、独名はカール、西名はカルロス。 

    シャルルマーニュは西ヨーロッパの大部分をひとまとめにして、かつての西ローマ帝国が復活したかのような大帝国・フランク王国をつくりあげたので、彼の偉大さはヨーロッパ人の心の中に、いつまでも残った。そして彼の死後、詩人たちは『シャルルマーニュの歌物語』を書いた。その中でも、大帝の第1回スペイン遠征の際に戦士した勇士ローランを歌った「ローランの歌」はとくに有名だ。歌物語では、シャルルマーニュが200歳を超え、髪もひげも雪のように真っ白な姿で登場し、キリスト教徒を守るためにサラセン人と雄々しく戦っている。もちろん、現実のシャルルマーニュは、そんな高齢まで生きたわけではなく、72歳で死んでいる。しかし中世の君主としては、彼はかなり長生きだった。このように長寿を保つために、彼は独特の健康法を実践していたという。そのひとつがスポーツで、乗馬と狩猟も好きだったが、とくに水泳が大好きで、彼のアーヒェンの宮廷には大温泉プールがつくられていた。彼は宮廷の人びとを引き連れて水泳を楽しみ、ときには100人もの人がプールを埋めたと伝えられる。 

    彼は酔っぱらいが嫌いなので大酒はしなかったが、大食いで、「断食は体をこわす」といって、好物の焼肉をむやみに食べた。医者が慎むようにいうと、ひどく立腹した。5回結婚し、そのほかに第2夫人が4人いた。そのため20人ほども子どもがあった。彼は遠征にも旅行にもこの大家族全員を引き連れていた。息子たちは早死にする者が多く、彼の死後まで生き残ったのは、たったひとりだった。娘たちは、たいてい無事に育ったが、彼は娘の結婚をなかなか許さなかった。婿が強大になることを恐れたのである。そこで彼女たちは、親の許しを得ずに勝手に結婚したりして、宮廷のスキャンダルになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年12月24日 (金)

12月25日はキリストの誕生日ではない

Leasu  イエス・キリストは、紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムで生まれた。クリスマスはイエスの生誕を祝って12月に世界中で盛大で厳かな聖夜のミサが行われるが、12月24日とする古記録や資料はない。そして紀元後30年4月7日(ユダヤ暦のニサン14日、複数説あり)、生地からさほど遠くないエルサレムのゴルゴダの丘で磔刑に処せられた。むかしのユダヤ人の暦では、一日のはじまりは日没、つまり晩からであった。そのためイヴとは前夜ではなく、その言葉の通り、クリスマス当日となっている。しかしベツレヘムの12月といえば、雨の多い寒い季節である。この時期に羊飼いがヒツジの群れと共に一晩中野原で過ごすことはない。イエスは秋の初め頃、おそらく9月に生まれたのであろう。では何故、12月25日を誕生日としたのか。当時ローマ帝国で最も広く信奉されていたのはミトラ教である。そしてミトラ教の最大の祭日が12月25日だったので、クリスマスの制定に影響を与えたと考えられる。4世紀前半、教皇ユリウス1世が「イエスの生誕日は12月25日」と定めた。その後、キリスト教の行事のなかで12月1日から25日までは「待降節」といい、12月25日から1月6日までは「降誕節」という。3月5日から4月20日までが「四旬節」、4月20日から6月9日までが「復活節」である。12月25日のクリスマスは日本でもお馴染みとなったが、「エピファニー」はほとんど知られていない。キリスト生誕のとき東方から来た3人の博士の前に初めてキリストが姿を現したことを記念する日であるクリスマスから12日目の1月6日に行われる。(the Epiphany)

 

 

 

 

2021年12月23日 (木)

ゴッホ耳切り事件

168651_1457627699_2_450    フランス西部ブルターニュにあるポン・タヴァンは、人口500人ほどの小さな村だったが、1886年にポール・ゴーギャン(1848-1903)が最初に訪れたころには、すでに画家たちにはよく知られた保養地となっていた。ゴーギャンはこの町で仕事に熱中するとともに、ボヘミアンのような生活を送ったが、ほかの芸術家たちは彼の強い性格を尊敬していた。ゴーギャンの周囲に集まった若い画家たち、エミール・ベルナール(1868-1941)、ポール・セリュジェ(1863-1927)、クーノ・アミエ(1868-1961)、アルマン・セガン(1869-1903)らは後にポン・タヴァン派と呼ばれ、20世紀美術を予告するような様々な絵画制作上の実験を行なった。

   1888年10月、ゴーギャンは2年ばかり前にパリで会ったことのあるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)からの招きで、南フランスのアルルで共同生活をすることになった。ゴーギャン40歳、ゴッホ35歳。最初の数週間の共同生活は順調だった。しかし、共同生活するには、2人の個性はあまりにも違いすぎた。見たものしか描けないゴッホに対して、ゴーギャンは想像力を駆使して表現した。また、画材の使い方や、お金のやりくりなどで、乱雑さが目立つゴッホは、神経質で几帳面なゴーギャンに、何度もその弱点を指摘されている。そして1888年12月23日、クリスマスをひかえた町を歩くゴーギャンを、突然かみそりを持ったゴッホが追いかけてきた。驚いたゴーギャンが、それでも厳しい視線でにらみつけると、ゴッホは何もできず、そのままうなだれて走り去る。翌日になって、ゴーギャンが家に戻ってみると、ゴッホは血まみれになってシーツにくるまっていた。この「耳切り事件」によって、ゴーギャンとゴッホの2ヵ月間の共同生活は終わった。パリに戻ったゴーギャンは、1891年4月1日、マルセイユから船出してタヒチに向かった。(Paul Gauguin,Pont-Aven)

2021年12月22日 (水)

カムカムエヴリパディが楽しみだ

 朝ドラ「カムカムエヴリパディ」の視聴率がじわじわと上がっている。おそらく高齢者にはとても感情移入しやすくて涙なしには見れない展開となってきた。朝ドラのヒロインはこれまで夢を追いかけるさわやかな話が多かったが、今回の安子は戦前・戦後の苦難を生きた庶民の女性の人生で、昔の大映の母もの映画のようである。空襲で祖母や両親、家を失い、応召した夫は還らぬ人となった。幼い子をつけて、大阪で暮らし始める。落ち着いたかと思いきや、交通事故に遭い、再び岡山へ戻る。子供るいと別れてロバートと共に渡米を決心する。時は流れて、成長したるい(深津絵里)が登場した。

安子の人生は不幸の連続で、物語は娘るいの成長につながる。最近の連ドラをみても安子のような不幸のヒロインは少ない。実はあの時代の多くの日本人は同じような辛酸をなめたはずだ。身を滅ぼして乞食になったり、病死したり、餓死した人もいるだろう。それではあまりに悲惨すぎてドラマにはならない。せめても繋ぎ役として子供に希望を託すことになる。3代のファミリーヒストリーという意味がわかってきた。朝見て、昼見て、つい2度見たくなる朝ドラは珍しい。藤本有紀の脚本が秀逸で、主演上白石萌音の安子を応援せずにはいられない。本日の放送で安子はもう見れないかもしれない。

円覚寺帰源院と漱石

    夏目漱石(1867-1916)は神経衰弱の病状が著しかったので、親友・菅寅雄に相談して、明治27年12月22日あるいは23日に鎌倉円覚寺に参禅している。搭頭、帰源院に釈宗活をたづね、その手引きで管長の釈宗演(1959-1919)のもとで座禅をした。翌年の1月8日には帰京しているので、わずか半月の修業だった。しかしこの体験は小説『門』などいつくかの作品に出てくる。『門』の一窓庵は帰源院のことで、老師は釈宗演、宣道は釈宗活がモデルであろう。後年、漱石は「私は円覚寺で座禅をしたように言うが、私には何も出来ていません。全くの唯の凡夫です」と語った。ところで、釈宗演老師は明治26年9月にシカゴで開かれた世界宗教会議で「仏教の要旨並びに因果法」と題する講演をした。禅が世界の「ZEN」となる海外普及の端緒を開いた人物である。

2021年12月21日 (火)

土佐日記の門出

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平4年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。   

 

   紀貫之(868-945)は、4年前(930年)に土佐守となって赴任し、任果ての934年12月21日、帰京日記が有名な「土佐日記」である。国府(高知)→奈半(奈半利)→室津(室津)→泊→土佐の海(鳴門)という海岸線のコース。

 

 

2021年12月20日 (月)

ホワイト・クリスマス

0571527701   アーヴィング・バーリン(1888-1989)が作曲した「ホワイト・クリスマス」は映画「スイング・ホテル」(1942)の挿入歌で、クリスマスソングの代表曲として21世紀に至るまで歌いつがれ、史上もっともヒットした歌曲といわれている。アメリカを代表する作曲家アーヴィング・バーリンは実はロシア人で、誕生時の名前は、イスロエル・イジドル・ベイリン Israel Isidore Balineであった。映画音楽を担当した作曲家には祖国からアメリカに亡命した活躍した人が多い。ビング・クロスビーの歌唱が有名であるが、1964年飛行機事故で亡くなったカントリーのジム・リーブスもよい。(Irving Berlin,White Christmas)

2021年12月19日 (日)

ユン・ポンギル処刑される

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File1238   1932年4月29日、上海爆破事件がおこる。上海で行われていた天長節官民合同祝賀会で、突然壇上の後ろから手榴弾が投げられた。そのため壇上に並んでいた上海派遣軍司令官白川義則大将、第三艦隊司令長官野村中将、駐華公使重光葵らが倒れ、白川大将は重傷を負って入院、5月26日に死亡した。重光は片足を失い、野村は負傷した。犯人は朝鮮人・尹奉吉(1908-1932)で、日本帝国主義反対のテロ行為だと胸を張り、現場で取り押さえられた。12月19日、金沢で銃殺刑に処せられた。今年4月29日、金沢市で尹奉吉の記念館が開館する。記念事業会側では「上海にも記念館はあるが、尹義士が立ち向かい殉死した日本に記念館ができることは意味がある」と話している。ユン・ポンギルの名前は韓国で小学校で教わり、だれもが知っている抗日の英雄である。日本では歴史専攻の大学生でさえ、その名前を知る人は少ない。

 

 

 

 

2021年12月18日 (土)

木漏れ日

 朝ドラ「カムカムエブリバディ」安子とロバートの神社でのシーン。「英語には、木漏れ日を一言で表現する単語がない」と。木立の隙間から日の光がこぼれる様子を「木漏れ日」というが、日本特有の美意識が感じられる。あえて英語で表現すると、sunshine filtering through foliage。

 

西郷隆盛像

   東京上野公園に建っている西郷隆盛の銅像は、高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)。鋳造は岡崎雪聲。1898年12月18日に除幕式が行われた。公開の際に招かれた西郷糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかった」ともらしたといわれる。糸子の発言については、銅像の顔が本人に似ていないと解釈するのが一般的であるが、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく、普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないという意味だったとする解釈もある。ウサギ狩りに行く様子を描いたとされている。西南戦争で朝敵となった西郷を明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったとする考えがある。NHK大河ドラマ「西郷どん」でもこの除幕式のシーンが冒頭にあった。軍楽隊の曲目はヘンデルの「見よ、勇者は帰る」。甲子園での高校野球でお馴染みの曲だが、イギリス人が明治初期から日本に伝え、明治陸海軍ではさかんに演奏されていた。

 

 

2021年12月16日 (木)

コイネー(「コ」 事項索引)

P6155716[  こ  ]

「コイネー」もとはギリシアのアッティカ地方の方言であったが、アレクサンドロス大王の東征に伴って東方に広がり、ヘレニズム世界の共通語になった。新約聖書も最初はコイネーで書かれた。▽「穀雨(こくう)」とは、4月20日頃、春雨が降り多くの穀類が芽をのばし始めるころ。▽「纐纈(こうけち)」とは、絞り染めの古語。インドで発生し、中央アジアを経て中国、日本へと伝播した。▽「高山国(こうざんこく)」安土桃山時代の日本で用いられた台湾の別名。▽「黄長燁」こうちょうよう。発音はファンシャンヨプ。1923-2010。北朝鮮のチュチェ思想の理論家。1997年に韓国に亡命。▽「孔融」三国時代魏の人。詩文に優れ、建安七子のひとり。曹操の逆鱗にふれ処刑される。▽「国際生活機能分類」生活機能を「心身機能・身体機能」「活動」「参加」に分け、生育歴・他人との交流度・公共サービスの有無など心身の健康に影響するさまざまな因子を考慮し、個人の健康状態を総合的に評価分類する。ICF。▽2020年黒人のジョージ・フロイドが白人警察官の暴行を受けて死亡した。この事件に抗議するデモが続き、11月の大統領選に大きな影響を及ぼしそうだ。▽「コシヒカリ」1979年から魚沼産コシヒカリの銘柄米が広く全国に出荷される。▽「瞽女」ごぜ。三味線をひき、歌を歌いながら銭を乞い歩いた盲目の女芸人。▽「コッシン」韓国王朝時代の靴。▽「コト・ディジ」パキスタン南部にある先史遺蹟。▽「コプト美術」は3世紀から6世紀にかけて栄えたエジプトのキリスト教美術。▽「米百俵」明治初期、戊辰戦争で荒廃した長岡藩に支藩・三根山藩から見舞いとして送られた米百俵を、藩の大参事小林虎三郎は、換金して学校建設に費やした。これが近代教育の礎となり、長岡は以後、多くの有為な人材を輩出した。▽「コチニール」は中南米のサボテンに生息する虫が原料の天然着色料。▽「蒟蒻本」とは江戸時代の洒落本。▽「コメニウス」17世紀チェコスロヴァキアの教育者。▽「コリオリの力」回転系において運動する物体に働く見かけの力。▽「コレサン・モネタリア」monetary correctionツウス通貨調整を意味するポルトガル語で、ブラジルのカステロ・ブランコ政権の下で導入された政策をさす。▽「ゴイセン」スペインによる迫害に抗して1566年に結成されたネーデルラントの貴族の同盟。▽「菰樽(こもだる)」菰を巻いた酒樽。祝宴での鏡抜きに使うことが多い。▽「コロニア・アグリッピナ」西暦50年クラウディウス帝が妻のアグリツピナのために植民市コロニア・アグリッピナ(現・ケルン)を建設した。▽「こやらい(児遣らい)」しつけということばと同様、子どもを一人前にまで育てあげる行為全体をあらわすために、わが国の民間社会で古くから使われてきた教育語彙である。▽「混一彊理歴代国都之図」1402年に李氏朝鮮で作られた地図。日本が朝鮮の南に位置し、90度回転している。▽「コンセイユ・デタ」フランスにおける最高位の行政裁判・諮問機関。1799年にナポレオンによって創設された。▽「ゴンブルサ事件」1870年フィリピン・マニラで起きた3人の神父処刑事件。ゴメス、ブルゴス、サモーラの名前の第1音節をとったもの。(ここここ)

 


ゴア(インド)
ゴイセン
五・一五事件
小泉八雲
小出楢重
コイネー
胡惟庸の獄
高圧ガス
広域行政
紅一点
項羽
公営住宅
黄河
公害
航海条例
黄海海戦
航海法
江華島事件
紅河ハニ棚田
康熙帝
後金
黄巾の乱
紅巾の乱
航空不況
高句麗
纐纈
寇謙之
高校
黄公望
甲午年籍
甲骨文字
庚申農民戦争
高山国(こうざんこく)
孔子
孔子鳥(コンフキウソルニス)
甲子園
皇室
洪秀全
考証学
洪積世
興宣大院君
幸田露伴
講壇社会主義
高知
黄長燁(こうちょうよう)
光緒帝
講道館
河野談話
甲府
洪武帝
光武帝
神戸
神戸連続児童殺傷事件(1997年)
香辛料
黄巣の乱
コウノトリ
光明皇后
公民権運動
高野山
孔融
康有為
高麗
功利主義
郡山(福島県)
高齢社会
呉越同舟
顧炎武
顧愷之
五家荘(熊本県)
コーカソイド
後漢書
ゴーギャン
胡弓
胡錦涛
穀雨
国際保護鳥
国際連合
黒人暴行事件(2020年)
黒陶
国富論
穀物法
五胡
護国卿(ロードプロテクト)
小坂銅山(秋田県)
五山文学
古事記
古事記伝
甑列島
五・四運動
腰越状
ゴシック様式
児島湾
コシヒカリ
コシューシコ
コジュケイ
呉承恩
五丈原
御真影
ゴ・ジン・ジェム
コスイギン
コスタリカ
コスタリカ方式
瞽女(ごぜ)
巨勢金岡
五線譜
小袖
コーダ
五大湖
後醍醐天皇
ゴータマ・シッダルタ
コチニール
国歌
黒海
コッカートン裁判
コッシン
骨髄バンク
ゴッホ
ゴ・ディン・ディエム
五島列島
コートジボワール
コト・ディジ
コトパクシ山(エクアドル)
琴平(香川県)
コート―ルド美術館
ゴードン
コナクリ(ギニア)
コネチカット州
コーネル大学
近衛文麿
小林一茶
小早川秀秋
五百人評議会
五風十雨
コプト美術
古墳
コペルニクス
コペンハーゲン(デンマーク)
御坊(和歌山県)
枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)宮本武蔵
コーホート
小堀遠州
後堀河天皇
小牧(愛知県)
小牧・長久手の戦い
ごまめの歯ぎしり
コマンチ族
コミンテルン
コムソモリスク(ロシア)
コムーネ
米騒動
コメット機航空機事故(1954年)
米百俵
コモ,ペリー
菰樽
蒋淵半島
ゴヤ
こやらい
コラーゲン
コラージュ
コ―ラップ国立公園(カメルーン)
コーラン(クルアーン)
ゴラン高原(シリア)
コリオリの力
五稜郭
コリント
ゴルジ体
コルセーロ
コルティーナ・ダンペッテツォ(1956年イタリア冬季五輪)
コルテス,エルナンド
ゴールデン・ゲート・ブリッジ(サンフランシスコ)
ゴールデンルーツ(黄金律)
コルドバ
コルトレイクの戦い(1302年)
コルニーロフの反乱
コルネイユ
ゴルバチョフ
コルベール
ゴルフ
コレオリの力
コレサン・モネタリア
ゴレスターン条約
コレヒドール
コレラ
コロー
コロッセウム
コロナ
コロニア・アグリッピナ
コロヌス
コロラド州
コロンビア
コロンブス,クリストファー
コワレフスカヤ
混一彊理歴代国都之図
コンキスタドーレス(征服者)
コングロマリット(複合企業)
金光教
コンゴ王国
コンゴ民主共和国(旧ザイール)
コンゴ共和国
今昔物語
コンスタンツ公会議
コンスタンティヌス1世(西ローマ皇帝)
コンスタンティノープル
コンセイユ・デタ
根釧台地
健児の制
墾田永年私財法
コント
コンドラチェフの波
コンドラ―ト法
コンドロイチン
ゴンドワナ大陸
ゴンドワナ楯状地
コンバウン王朝
ゴンブルサ事件

ボストン茶会事件

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  1770年3月5日、ボストンで重い税金に反対した市民とイギリス軍が衝突。兵士が群集に向けて発砲し死者5人。3年後の1773年12月16日、インディアンに変装した急進的愛国派50人ほどの住人がボストン港に停泊中のイギリス船に侵入し、積み荷の342箱の茶箱を海に投げ捨てた。組織したのはサミュエル・アダムズ(1722-1803)といわれる。この事件を植民地政策への挑戦と受け取ったイギリス側はアメリカに対する制裁をしたため、1775年4月19日には英軍と米植民地兵との武力衝突が起こり、独立戦争へと発展していく。(Boston Tea Party,Samuel Adamus) 世界史

2021年12月15日 (水)

高齢社会の問題

   2025年問題という言葉がある。いわゆる団塊の世代800万人が後期高齢者になる75歳に達する超高齢社会のことである。医療費や介護費の増大で、若者の負担がさらに増加する。認知症や要介護者数は急増し、老人ホームの部屋が不足し、介護職の確保も難しくなる。このような社会保障制度の課題は2025年にならないでも今現在でもすでに始まっている。核家族の進行によって、一人暮らしのお年寄りが増加している。年金だけで暮らしていけるのか、都会では地域との繋がりも希薄で孤独死もみられる。大地震や感染症よりも、徐々にしのびよる高齢社会の問題のほうが深刻である。

痔と「彼岸過迄」

    明治44年12月15日の夏目漱石の日記。

今日から小説を書こうと思ってまだ書かず。他から見れば怠けるなり。終日何もせざればなり。自分から云へば何もする事が出来ぬ位小説の趣向其他が気にかかる也。

    以上で明治44年の日記は終わっている。おそらくそこまで書いたところで、小説の書き出しの文句が浮かんだから、そのまま小説の方へかかったのだと思う。そのころ漱石は、神田の佐藤病院に通って痔の治療をしていた。

   漱石は「この病気はいつなおるでしょうか」と医師に聞いた。すると佐藤医師は「サア、彼岸過迄かかりましょう」と返事した。漱石は早速それを小説の題にいただいてしまった。

   明治45年1月2日から東京、大阪、両朝日新聞に「彼岸過迄」の掲載が始まった。元日には「彼岸過迄に就いて」を載せる。小説は表題の彼岸過迄より少し後の4月29日まで続いた。

 

 

「今年の漢字」雑感

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   今年一年を表わす漢字が「金」であるという。東京五輪があったし、金メダルという発想からだそうだ。給付金10万円が関心の的であるし、渋沢栄一は新札一万円の肖像になる。しかし私はコロナ大流行の年でやはり「命」という漢字を推したい。どんなに「金」がたくさんあろうとも「命」を失なうとおしまいである。昨年の紅白で竹内まりやが「いのち歌」を歌っていた。教科書に載っていたり、学校の合唱曲としてとても有名な曲だそうだ。たしかに生まれてきたことに感謝する内容でわかりやすく若い人に向いている。だが万人向きではない。老人会で披露すると少し年寄りにはキツイ歌詞がある。「いつかは誰でもこの星にさよならをする時が来るけれど命は継がれていく」。つまりあなたは死ぬが子孫がいるじゃないか、ということ。良い歌とは婉曲的で詩的な余韻があるものだ。人がいつか死ぬのは当たり前のことだが、合唱で大勢の人からいわれたくないものである。ひっそりと静かに死にたい。さしずめ竹内まりやは現代の一休だろう。

   一休和尚は正月早々、竹棒の先にされこうべをさすと、洛中へと歩き出した。町中に入ると、家々の門の口にこの髑髏を差し出して、「御用心、御用心」といいながら、歩きまわる。正月気分で祝っているところへ、髑髏であるからたまったものではない。どの家も門を閉ざしてしまった。

   一休いわく「この髑髏よりめでたいものはない。目が出て、穴ばかりが残ったのを目出たしという。人間、死んでこの髑髏にならねば、めでたいことはひとつもない」一休、歌っていわく。

 門松は 冥途の旅の 一里塚

    めでたくもあり めでたくもなし

 (参考:『禅門逸話選』 禅文化研究所)

2021年12月14日 (火)

奥田孫太夫重盛

    俳句の冬の季語に「義士会」というのがある。12月14日、赤穂浪士義挙追慕の催しが行われる。「広辞苑」には義士の名前が数人は載っているものの全員ではない。赤垣源蔵、寺坂吉右衛門はあるが、不破数右衛門、奥田孫太夫の名はない。なんとなく不公平な気がしている。

    奥田孫太夫ほど不運な人はない。もともと鳥羽3万石内藤忠勝の家臣であった。ところが延宝8年6月将軍家綱の法事が芝増上寺で行われたとき、内藤忠勝は、丹後宮津藩主永井尚長に斬り殺された。いわゆる増上寺刃傷事件である。孫太夫は忠勝の姉が浅野長友(浅野長矩の父)に嫁したとき、その付人となったので、改易後も、そのまま浅野家の家臣になったのである。主家断絶に2度遭ったとは、奥田孫太夫はよくよく不運である。また寺坂吉右衛門のように歌舞伎や映画に取り扱われることもなく、死後も広辞苑にその名が記されず、世にその名が知られないのも不運である。

安康天皇

 安康天皇(401-456)。第20代天皇。453年のこの日、即位する。456年、眉輪王に殺害される。倭の五王の「興」に比定される。(12月14日)

 

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

 

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても日本人は忠臣蔵が大好きである。ところが最近は新作が無くなったのはなぜだろうか?理由は忠臣蔵はオールスター総出演が相場で、ギャラや製作費に膨大なお金がかかり儲からないからであろう。 (12月14日)

 

 

2021年12月13日 (月)

串刺し公ヴラド・ツェベシュ

 吸血鬼ドラキュラのモデルは、15世紀後半のワラキュラ公国(現ルーマニア南部)の君主ヴラド・ツェべシュ・ドゥラクルとされる。 ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュ(1387頃-1456)は、オスマントルコの大軍をベオグラードの戦い(1456)で破り、侵入を阻止したが、疫病で死亡した。そのころワラキアの君主になったヴラド・ツェぺシュは、首都に貴族たちを招集して、自分の父親と兄の暗殺に加担した貴族たちを串刺しの刑に処した。そして、杭に刺されて悶絶する貴族たちの姿を眺めながら祝宴を開いたという。処刑して血を好んだことから、東欧の吸血鬼伝説と結びつけられて、ドラキュラ伝説が生まれた。本当はオスマントルコの侵略からルーマニアを守り、独立のために戦った英雄だった。

 

 

奈良六大寺散策

    法隆寺、薬師寺、興福寺、東大寺、唐招提寺、西大寺を奈良六大寺と称する。これとは別に歴史的にみると、むかし諸国から集った学問僧が仏教の哲理を考究する学問寺を南都七大寺、法隆寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、東大寺、西大寺と称した。

    奈良の寺は、堂の前面を開け放って、堂の屋外正面からこれを礼拝した。人間は堂の内部に立ち入ることはしなかった。奈良の寺が、たとえ堂内に入ることがあっても靴を脱ぐ必要がないのはそのような古い様式を残しているからである。京都に見られる中世以降の寺には、畳敷きの礼拝用の大広間の作られているものがある。以下、奈良六大寺の創建のみ記す。

法隆寺 7世紀はじめに聖徳太子の父用明天皇の勅願で、推古天皇の協力を得て聖徳太子が創建したとされる。日本書紀に天智9年(670)に全焼したとある。昭和14年の発掘調査で、今の若草伽藍が前身とされる。

薬師寺 天武天皇が680年に、皇后の病気平癒を祈って創建した寺を、都が藤原京から平城京へ遷された際に、現在地へ移建したものといわれるが、寺籍と由緒を引き継いだだけという説が有力である。

興福寺 平城京建設とともに藤原不比等はいち早くここに自分たちの寺を移した。多くの荘園を所有して南都七大寺の一つに数えられた。法相宗大本山。

東大寺 聖武天皇の天平13年、諸国に国分寺建立の詔が発せられ、大和の国分寺兼総国分寺として造営された。華厳宗大本山。

唐招提寺 8世紀半ばに来日した中国の僧鑑真が、新田部親王の旧宅の地に建立した。天平宝字3年(759)のことで、当初は唐律招提といった。のちに官位の寺となって唐招提寺となった。律宗総本山である。

西大寺 天平神護元年(765)、称徳天皇の勅願寺として建立された南都七大寺の一つ。その後、戦国時代に焼失したが、宝暦2年(1752)に本堂が再建された。真言律宗総本山である。

 

 

おでんは高齢者には危険である

    寒い日といえば、おでん鍋が食べたくなる。高浜虚子のおでん好きはよく知られる。「志 俳諧にあり おでん食ふ」。2016年「おでん種、大人が好きなランキング」の結果は第1位は「大根」だった。

Photo_4 1位 だいこん
2位 玉子
3位 ちくわ
4位 こんにゃく
5位 餅入り巾着
6位 はんぺん
7位 しらたき
8位 牛すじ串
9位 じゃがいも
10位 さつま揚げ

 おでんのルーツは、室町時代に流行した「豆腐田楽」。田楽に「お」をつけて丁寧にし、楽を省略して「おでん」となった。みそ付き豆腐田楽は、その後、進化を続けた。江戸期には屋台や居酒屋で売られる。田楽の種類も豆腐・ナス・里芋・蒟蒻・魚と増えていく。江戸後期に近郊の銚子や野田で、醤油の醸造が盛んになり、醤油味の煮込みおでんが生まれた。大正期に、関西に伝わり、「関東煮(かんとうだき)」と呼ばれた。関西では、具材を昆布ダシの中で炊いて、甘味噌をつけて食した。関東大震災で関西かに来た人たちが炊き出しを行い、いわゆる関東煮を作ったので、それ以降、関東のおでんが関西風の味付けになったと言われる。煮込みおでんは下味がついているので、みそはつけなくてもよく、代わりにカラシをつけるようになる。だが、おでんの具材には窒息や誤嚥の原因となるものが多い。歯が抜けて数が少なかったり、噛む力が弱まったりする高齢者には非常に危険な食べ物です。こんにゃくやはんぺんを飲み込む際は特に注意しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦艦シュペー号の最期

   1939年12月13日、ラプラタ沖海戦でドイツの戦艦シュペー号は甚大な被害を受けた。冬季の北太平洋の激浪に耐えて本国に帰還できる状態になく、艦長ラングスドルフは、中立国のウルグアイに寄港した。しかしウルグアイは中立国とはいえイギリスの影響力の強い国であり、修理もできないまま帰国が絶望的な最後の航海に出ざるをえなかった。艦長は12月17日、乗組員をドイツ商船に移乗させ、シュペー号に残る40名の乗組員とともに自沈させた。乗組員は全員タグボートで退避、艦長は半ば力づくで艦から引きずり降ろされた。だが艦長は自沈の責任をとり、19日に逗留先であるブエノスアイレスでピストル自殺を遂げた。

 

 

2021年12月12日 (日)

最近英米にフランクという名が減少した理由

  本日は米ジャズ歌手フランク・シナトラの誕生日。「有楽町で逢いましょう」などのヒット曲で知られる低音の魅力「フランク永井」は、きっとシナトラに憧れていたのだろう。ところで「フランク」という英語圏の男性名はかなり一般的だと思われるだろうが、意外と少なく人気は低い。主なところをあげると、世界血友病連盟をせつフランク・シナトラ、フランク・キャプラー(映画監督)、フランク・スタローン(米・歌手)、フランク・ブラナ(西・俳優)、フランク・ロイド・ライト(建築家)、フランク・ケロッグ(政治家)、フランク・ゲーリー(建築家)、フランク・ダラボン(脚本家)、フランク・バンカー・ギルブレイス・シニア(経営技術師)、フランク・ミュラー(時計師)、フランク・マサーク(ソムリエ)、フランク・ウィリアムズ(実業家)、フランク・オドール(野球)、フランク・マンコビッチ(野球)、フランク・ハーマン(野球)、フランク・ショーター(米、マラソン)、フランク・フレデリクス(ナミビア、陸上)、フランク・ルーミス(陸上)、フランク・パーカー(テニス)、フランク・イエリンスキー(独・ドライバー)、フランク・リベリー(仏・サッカー)、フランク・ランパート(英・サッカー)フランク・デ・ブール(蘭・サッカー)、フランク・カミンスキー(米・バスケット)などなど。

 男性名は英語圏ではウィリアム、リチャード、ジョージ、ジョン、チャールズ、エドワードなど国王名は圧倒的に多い。フランクの語源は古代ローマ時代のゲルマン人の部族名でフランキFrankiが英語風にFrankと変化したものである。フランキ族は「率直で気取らない性格」だったことから、「フランク」がそのような意味の言葉になった。フランス人の音楽家フランク・プゥルセルもいるが、レオ・フランク、アンネ・フランク、ロバート・フランク(写真家)のようにフランクは姓のほうが多い。「フランク」名前が少ないのは洗礼名フランシスコが英語風に派生したもので、カトリック教会だから新教国に少ないのだろう。

 

ラディゲとベアトリス

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 ベアトリス・ヘイスティングス

   1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

消えていくリアル書店

   コロナ禍で 消える街角 古本屋(凡児)

Cajw6bff  むかし三笠書房のキャッチフレーズは「週に一度、本屋さんに行く人は必ず何かできる人」だった。  街を歩いていて、なにがしかのオーラを放つ古本屋さんに出会うと、うれしくなる。店内に入ると、大量の紙とインクの匂いがなつかしさを感じる。でも最近街の小さな古本屋や貸本屋をほとんどみかけなくなった。新刊書店も減少している。活字離れなどを背景に、経営不振などによる書店・古本屋の閉店が相次いでいる。リアル本屋は斜陽業界なのだ。1999年には2万2296店だった本屋が、2020年には1万1024店、つまりこの21年間で1万1272店ほど本屋が減少した。原因としては①ネット書店の普及②若者が本を読まなくなった③不景気、ながびくデフレと低所得④図書館を利用するほうが安上がり、などの理由が考えられる。

   地方の書店が減ることは当然、出版業界にも悪影響を及ぼす。優秀な人材は出版界に就職しなくなる。良書を出版していた零細出版社は倒産する。村上春樹の小説がいかに売れようが、新潮社や講談社が肥大になろうが、問題は多様性を失うことで日本の言論は大きく低下し民主主義はさらに失速する、という悪循環がおこる。やはり地方の書店を育てなければならない。かつて公共図書館は地元の図書館から直に本を購入していたが、コンピューター化と装備の委託化で大手の取次ぎから直接購入するようになった。これも地方の書店の経営を悪化させた。寡占化が文化を滅ぼす。

2021年12月11日 (土)

ビージー・アデール

 最近はほとんど毎日のようにユーチューブで音楽を聴いている。ビージー・アデールは女性ジャズ・ピアニストでスタンダードな誰もが知っている名曲を聴かせてくれる。CMにもよく使われるそうだ。「やさしき伴侶を」ガーシュインの作曲で1926年のミュージカル「Oh,Kay!」に使われた一曲。

 

大人のための知的雑学集

Trivia  人間は知りたがる動物である。「地下鉄の電車はどこから入れたの?」だれでも素朴な疑問はふっとわいてくる。雑学ネタは人類の好奇心の数だけ、つまり星の数ほどある。世界中の多くの雑学ネタを集めてみよう。ただし、ほとんど役に立たないものばかりだが。▽「コアラが木に抱きついているのはなぜか?」コアラは汗をかいて体温をさげることができないため、木の幹の冷たさを利用して体温を下げている。つまり暑さ対策である。▽「赤坂サカス」赤坂には坂がたくさんある。「乃木坂」もその1つ。江戸時代、幽霊坂と呼ばれていた。明治時代、軍人の乃木希典が辺りに住んでおり明治天皇の後を慕って殉死したため、大正元年赤坂区議会が地名を乃木坂と改名した。▽カトリック教会の最高司祭であるローマ法王を元首とするバチカン市国。ここを警備する衛兵は、すべてスイス人である。▽「オーヴォ ovo」とはエスぺラント語で卵のこと。▽「学校をさぼる」などの「さぼる」は、もともと外来語で、フランス語の「サボタージュ(怠業)」を略して、語尾に「る」を付けたもの。労働者が木靴(サボ)で機械を破壊したのが語源である。▽キリスト教の祈りの結びに唱えることば「アーメン」は「まことに、たしかに」後に「かくあれ」の意味。▽天草四郎時貞の洗礼名は「ジェロニモ」もしくは「フランシスコ」。▽俳優の筒井道隆はよく小説家の筒井康隆の子と思い違いされる。実際は赤の他人。筒井康隆はエッセイで「道隆は息子にあらず」と書いている。▽ジャッキー・チェンがブルース・リーに勝っている所は?ジャッキーは器用に自転車をこいで逃げるシーンが映画でよくみるが、ブルース・リーは自転車に乗ることができなかった。▽リンカン大統領の妻メアリーは、目前で夫が暗殺されたショックから、死ぬまで精神病院で過ごした。▽イソギンチャクは英語で「海のアネモネ(sea anemone)」という。▽日本人で初めて鉛筆を使ったのは徳川家康。▽日銀短観とは、日本銀行が四半期に一度発表する経済指標で、正式名称は「企業短期経済観測調査」といいます。▽風呂敷はもともとお風呂の着替えを包んだ布のことをそう呼んだのである。▽吉川英治は百科事典を50回読んだという。

Buzn_de_correos__001▽スペインのポストは黄色。世界では赤色より黄色の郵便ポストの国のほうが多い。▽本の最終ページにある「奥付」は大岡越前が本の海賊版を取り締まるために1722年に出版者に義務づけたのが起源である。▽孔子は英語でコンフィーシャスConfuciusという。▽イチロー選手(本名は鈴木一朗)は次男。▽大相撲の行司の掛け声「ハッケヨイ(発気揚々)」は本来、易占いの「八卦良い」である。▽オードリー・ヘップバーンはインドの詩人ラビントラナート・タゴールを尊敬していた。▽夏目漱石24歳のときの身長と体重。158.8cm、53.3㎏。当時としては平均よりやや良好な体格である。▽東京渋谷にある「原宿」は駅名としてはあるが、地名は「神宮前」であり、原宿という町は存在しない。▽村田英雄と言えば「王将」だが、この歌がヒットした頃、彼は将棋の指し方を殆ど知らなかった。▽「さそり座の女」美川憲一。本当の彼は「おうし座の男」である。

 

Miyazakiyosiko▽1886年の夏、東京でコレラが大流行。新聞に「炭酸ガスがコレラの予防になる」という記事が新聞に掲載され、ラムネがコレラ予防になるというデマが広がり爆発的に売れ出した。▽「The かぼちゃワイン」のエルのモデルは宮崎美子である。▽英語でかぼちゃはスクワッシュ(squash)という。パンプキンはオレンジ色の果皮をした、ハロウィンのジャック・オー・ランタンでよく使われるものである。▽北島三郎「風雪ながれ旅」は津軽三味線奏者の高橋竹山をモチーフにした曲である。▽小和田雅子さんの母、優美子さんのいとこが作家の江藤淳。本名は江頭淳夫で、タレントの江頭2:50は親戚。▽1906年チャールズ・スチュアート・ロールズとフレデリック・ヘンリー・ロイスが合同で自動車会社「ロールスロイス社」を設立した。▽公職選挙法では得票同数だった場合、くじ引きをやって決める、と定められている。▽「右」と「左」の書き順。右は「ノ」を書いてから「一」、左は「一」を書いてから「ノ」である。▽フランスのノーベル賞作家アナトール・フランスはパリのセーヌ川ほとりにある古本屋のひとり息子として生れた。▽夏目漱石が住んだ本郷西片町の家に、のち留学中の魯迅ら5人が移り住んだ。▽「なぜお土産屋さんの店先には必ず木刀が売っているのか?」答え「高橋さんが頑張ったから」(チコちゃんに叱られる!)1970年ごろ福島県会津若松市の「タカハシ産業」の高橋信男さんが、お土産品として木刀をつくり始め、全国へと展開させた。▽ロシアのお正月は街中がクリスマス一色である。ユリウス暦を使用しているので1月7日のクリスマスを迎えるためである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読めそうで読めない漢字

 ダイソーの100円ショップ。日常で必要なさまざまなグッズがなんでも揃っており、取り扱い商品はなんと7万点以上もある。たわしもある。漢字で「束子」と書く。日本および中国や台湾での繁体字で表記された雑貨を調べてみよう。

 

漏斗

 

数珠

 

捩子

 

 

湯湯婆

 

暖簾

 

 

団扇

 

洋盃

 

賽子

 

 ↓

 ↓

 ↓

 

 

じょうご じゅず ねじ  やすり ゆたんぽ  のれん むしろ うちわ コップ さいころ

 

年賀状の由来

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 そろそろ年賀状の準備をする頃となった。やはり正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。昭和12年には現在のように12月15日から25日までの間に投函する、元日に届く年賀郵便の特別扱いが開始された。ちなみにお年玉付き年賀状は昭和25年に始まり、京都の林正治(1909-1990)のアイデアである。近年はメールやSNSの普及で、2003年が44億枚をピークで、そこから減少傾向となり、2021年はついに20億枚を下回っている。

2021年12月10日 (金)

ハヤシライス誕生の謎

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 ハヤシライスの生みの親、早矢仕有的

 

   牛肉と野菜をトマト味で煮込み、カレーライスのように飯にかけて食べる料理ハヤシライス。英語では hashed beef with riceという。ハヤシライスは誰がいつ考案したのか謎が多い。ウィキペディアによると諸説ある。

 

①ハッシュ(細かく刻む)の意。ハッシュ・ライスが訛ってハヤシライスとなった

 

②林子平の姉の子孫が考案した

 

③丸善創業者の早矢仕有的が丸善で働く丁稚のために作った夜食ハヤシライス

 

P_02④牛肉を食べると「早死にする」から

 

⑤門司港の食堂で「早いライス」から

 

⑥「天皇の料理番」秋山徳蔵(画像)が考案

 

何れも珍説ばかりだが、とくに注目は、丸善の早矢仕有的(はやしゆうてき)だろう。早矢仕は安政のころ江戸に出て医学を学んだが、福沢諭吉に師事、医業をすてて商業に転身、明治元年に横浜に丸屋商社(現・丸善)を興し、店の主人を丸屋善吉と称して、洋書の輸入業をはじめた。医業に関心があったことから、ハヤシライスを考案したという説も説得力があるように感じる。カレーライスが伝来したのが、明治維新前後、イギリス船によってカレー粉がもたらされた、とあるから日本人はハヤシライスのほうがカレーライスよりも先に食していたかもしれない。

 

 

情報と検索

Img_2605s     1851年のこの日、米図書館学者メルヴィル・ルイス・コシュート・デューイが誕生した。彼の名前は十進分類法の考案者として日本でも広く知られている。キリスト教的価値観に基づく良書主義と作業効率向上の徹底を掲げ、アメリカ図書館の標準化を目指した。また図書の選書は図書館員自ら資料の価値を判断することは避け、他の専門職による良書の選定をデューイは考えた。図書館を「人類の記憶装置」というが、10万冊の本が並んでいれば、たいていの人は目的の本を見つけることは労力を要する。図書館の本の並び方には法則があって、日本なら「日本十進分類法」に従っている図書館がほとんどである。主題によって0から9までの数字に大きく分けられており、さらに細分されている。もちろん自分の探す目的がはっきりしていればいいのだが、「何か面白い本はないか」と気ままに本を探したいときはどうすればよいか?分類「0」は総記といって、この世のすべての事象に関することを扱っている。百科辞典などが多いが、「049」という記号の本は「雑書」である。general miscellanies。特定の主題に分類できない本がここにくる。「雑学百科」という類の本もあるが、どこにも分類できない変な本も多い。「生協の白石さん」や町のヘンなものを集めた「VOW」シリーズや「イグ・ノーベル賞」もここに分類されることが多い。049は駄本も多いが、思いもかけない本が見つかる場合もある。

    私は若い頃、図書館で目録カードを作成していた。分類、書名、著者名、件名などの種類がある。アメリカでは辞書体目録といってこれを統一したような目録があると聞いていたが、ついに日本では実現できなかった。やがてコンピューターの時代となってキーワード(検索語)で検索できるシステムが開発された。カード目録式の索引は旧時代のものであるが、本から直接に書誌を作成できる時代に生きたことを喜びに感じている。「検索」ということばは日常的な言葉ではなかったが、スマホ全盛の現在では当たり前にだれでもが「検索」という言葉を用いているが、当時図書館では「情報の探索」とか「調べもの」と呼んでいた。

ここで一般的な検索までの流れを整理しておこう。

step1 調査目的・内容を明確にする

step2 データーベースを選ぶ

step3 検索語を選ぶ

step4 検索式の作成

検索

step5 検索結果の詳細

検索終了

step6 文献の入手

 

 検索者が思いついた言葉もそのまま検索語として使用できるが、検索漏れを防ぐためにあらかじめ1つの主題に関する検索語を集中化しておく方法(「統制法」)が考えだされました。たとえば、「エアコン」「クーラー」「冷房装置」「暖房装置」は、全て「空気調和装置」という言葉を使いましょうとルールブックのようなもので決めてあります。主な統制語には「シソーラス」と「件名標目」があります。シソーラスという言葉は、ギリシャ語の原意「宝庫」からきており、転じて「辞典、百科辞典その他同類の「知識の宝庫」を意味する用語となった。1852年、イギリスの医師ロジェ(1779-1868)が「英語修辞学辞典」を編集した。本書2部から成り、第1部は著者が着想語とよぶ概念語を体系的に分類排列し、その一つ一つの着想語のもとに、幾通りもの言い回しの言葉や語句を列挙した。この着想語の概念をドキュメンテーションに応用したのが、文献上、ルーン(1896-1964)が最初といわれる。1957年のことである。彼は情報検索用件名標目表をシソーラスとよび、件名標目に当たるキーワードを文献上にあらわれたる用語に結びつけ、キーワードは体系的に分類しておいて、別にキーワードもそうでない用語もすべて一連のアルファベット順に排列した索引と対にした。こうして作られたシソーラスは、上位語と下位語を体系づけて従来の件名標目では果たせなかった検索上の便宜を提供している。(12月10日、雑学ブログ)

 

 

2021年12月 9日 (木)

元禄名槍伝・俵星玄蕃

   戦後はGHQ命令で、復讐をテーマとするものは一切認められず、なかでも「忠臣蔵」は最も禁じられた題材だった。しかし、みすみす作れば儲かる「忠臣蔵」をほっておく手はないと、東映が昭和27年、おっかなびっくり「忠臣蔵」のタイトルをさけて「赤穂城」を作った。昭和30年になれば、そろそろ忠臣蔵映画も宜しかろうに、松竹映画「元禄名槍伝 豪快一代男」(芦原正監督)は忠臣蔵外伝・俵星玄蕃の登場である。近衛十四郎の玄蕃に、諸角啓二郎の杉野十平次。戦前の映画には、俵星玄蕃が主演のものもあるが、この映画のように尾張家の家来の時代から浪人となり、江戸で町道場を開き、酒と博打に暮れるという、玄蕃オンリーの映画は珍しい。そば屋の杉野の出番も少ない。のちの東映「血槍無双」も同様の筋立てながら、杉野十平次(大川橋蔵)が主役となっている。「血槍無双」(昭和34)の片岡千恵蔵、「忠臣蔵」(昭和37)の三船敏郎が演じているが、近衛・俵星には及ばない。

   ところで赤穂義士の討ち入りに協力したといわれる槍の名人、俵星玄蕃は実在の人物か?もちろん架空の人物で、講談や浪曲でお馴染みであるが、文化年間(1804から1817)のころに講釈師の大玄斎番格が創作したとされます。(高札めぐり両国歴史散歩」墨田区観光協会 2009年) すでに江戸の寛文6年の歌舞伎にその名がでてくる。つまり大星由良助の「星」と「俵」を放る妙技から2つをくっつけて「俵星」というネーミングを考案したのであろう。映画「豪快一代男」でも悪党の渡辺篤を俵で懲らしめるシーンがある。それにしても中台登「忠臣蔵映画一覧」にも漏れた作品であるが、今回初めて見たが近衛十四郎の豪快さが俵星玄蕃とマッチして、痛快娯楽作品に仕上がっている。草間百合子、由美あづさ等共演し華をそえている。

大人のための知的雑学

Watteaupierrot  「 サンドイッチ」がイギリスのサンドイッチ伯ジョン・モンタギューに由来しているのは有名な話であるが、既に存在する事物の名に因んで二次的に命名された言葉のことをエポニムという。たとえば、X線を用いて胸部などの透視撮影をするが、これを「レントゲン写真」ともいうのはドイツの物理学者ウィルへルム・レントゲンに因むからである。このような人名エポニムの例は多い。相手に苦痛を与えて満足を得ることをサディズムというが、その語源はマルキ・ド・サド(サド侯爵)の言行に由来するものである。

   1928年11月18日、ニューヨークで熊のぬいぐるみ「テディベア」が発売された。その名前はセオドア・ルーズベルト大統領に由来している。珈琲ブールマウンテンはジャマイカの山の名前。長ズボンを意味するパンタロンは、16世紀中期イタリアの道化師が穿いていたパンタローネ(画像)に由来する。たばこのニコチンはフランスの外交官ジャン・ニコに由来する。

 このほかアトウォーター係数、ギロチン、カーディガン、ピッツァ・マルゲリータ、ブーゲンビリア、コンテ、コルト45、シルエット、ハリー彗星、ハッブル望遠鏡、ツベルクリン反応、バウヒン弁、イナバウアー、ブルマ、エッフェル塔、ゲリマンダー、モールス信号、ロールシャッハ検査、ブラウン管、ドップラー効果、ラマン効果、ランドルト環、ボイコット、ディーゼル機関、ラッダイツ運動、リンチ、フンボルト海流、ナウマン象,ドルビーサラウンド、ラマーズ法、ベクレル、バドミントン、イナ・バウアー、チンダル現象、リーゼガング現象、ラムズデン現象、バセドウ病、スティーブンス・ジョンソン症候群、メニエール病、クロイツフェルト・ヤコブ病、パーキンソン病、ドップラー効果、フレミングの法則、ピタゴラスの定理、モホロヴィチィチ連続面、リケッチア、マゾヒズム、伊達巻(伊達政宗)、金時豆(坂田金時)、隠元豆、市松模様、ハヤシライス(早矢仕有的)など人名に由来する語が多い。古今東西のさまざまな人物が事物にその名を残すにいたったいきさつを調べることは雑学研究の王道である。( 11月18日;pantaloon,pantalon,Jean Nicot(1530-1600),nicotine,Theodore Roosevelt,Edmund Halley,Eiffel,Teddy Bear,Samuel Morse,Amelia Jenks Bloomer,bloomers,Humboldt,Lamaze,eponym )

漱石忌

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

 

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

 

 

2021年12月 8日 (水)

百科事典の終焉

Photo_2   英単語encyclopedia は encyclopaediaともつづる。百科事典の代名詞で、240年余りの歴史を誇る英語の「ブリタニカ百科事典」の出版中止が2012年3月中旬決定した。販売元のエンサイクロぺディア・ブリタニカでは電子版への完全移行に向け、現行の2010年版(全32巻)を在庫限りとして、1395ドル(約11万4000円)で販売している。

    インターネットの普及によって、大部な百科事典は家庭には無用の長物となった。だが研究者や図書館にはやはり必要だろう。インターネットの世界の情報は日々に更新されるが、図書はその時代の考えや思想が反映されるので古くなるほど歴史資料として価値がででくる。古い事典、辞典は貴重である。実際にレファレンスに携わってきた者は誰しも感じることだろうが、refernceは容易な仕事ではない。その容易でないことを痛感するのは、解答を与えるとき、これで正しい解答であったどうかということと、解答が手際よく、正解な解答が迅速になされたかどうか、これが常につきまとう不安である。現代はだれでもがパソコンから検索して必要な情報を得ることができる時代になった。これらのノウハウの多くは図書館情報学の分野で研究されてきた学者と実務家との経験が基礎になっていると感じている。つまり現場を踏まえての実学があるから参考業務が存在価値がある。インターネットの時代であろうと百科事典が消滅しようと、専門的な職員の必要性は永遠に変わらない。

 

 

ハルゼーと山本五十六

Img   日本軍の真珠湾攻撃で口火を切った太平洋戦争。日本の連合艦隊を率いる山本五十六に、執拗に迫るアメリカの空母艦長ウィリアム・ハルゼー(1882-1956)。たぐい稀な戦略家であり冷静な分析家でもあった両者には共通点も多かった。ハルゼーも日本連合艦隊との艦隊決戦を望んでいたという。だがミッドウェー海戦のときハルゼーは皮膚病のためハワイの病院に入院中だった。もしハルゼーが指揮していれば太平洋戦争の局面が大きく変わっていただろう。「キル・ジャップス」(ジャップを殺せ)過激な発言を繰り返したハルゼーだが、日本への原爆投下に対しては批判的で「最初の原子爆弾はいわば不必要な実験であった。これを投下するのは誤りだった。あのような兵器を、必要もないのになぜ世界に明らかにするのであろうか?」と述べている。(William Frederick Halsey)

2021年12月 7日 (火)

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

 

 

2021年12月 6日 (月)

Emi Fujita

   Emi Fujitaといってもピンとこないかもしれない。香港や東南アジア諸国では人気のある日本人女性シンガーだ。1963年生まれで子ども時代からグループで歌い、左卜全の「老人と子供のポルカ」も歌っている。やがて演歌歌手となつたが売れず、ル・クプルという名で「ひだまりの詩」が大ヒットした。2000年代に入ると英語の歌でアジア各地で人気を得るようになった。最近はインターネット配信なので彼女の歌がいつでも聴くことができる。彼女のような謎のユーチューブ歌手は多い。とくに有名なのはヤオ・スーティンである。1983年、中国広州市生まれということしかわからない。ムーンリバーやサウンド・オブ・サイレンスのような誰もが知っている名曲をやさしく歌う。深夜に寝ながら聞くのに向いている。ベトナム人のトゥイ・ティエンは1985年生まれ。アジアの歌姫は群雄割拠の様相を呈している。

登場人物の多い小説

   トルストイの「戦争と平和」は、少ししか登場しない人物まで含めると559人に及ぶ。トルストイはどんな端役も持ち前の描写力で見事に描き分けている。物語の中心であるナターシャ・ロストフ、ピエール・べズーホフ、アンドレイ・ボルコンスキーなど創作であるが、登場人物の大半は実在している。しかし世界一登場人物の多い小説といえば、やはり「三国志演義」である。総計は1192人。こちらもほんどんが実在の人物である。絶世の美女、貂蝉は正史に記録がないので架空の人物といわれている。人名を暗記するには登場順に覚えよう。劉備、張飛、関羽、曹節(十常侍のひとり)、蔡邕、張角、張宝、張梁、盧植、皇甫嵩、朱儁、劉焉、公孫瓚、董卓、何進、李粛、呂布、袁紹、王允などなど。

 

 

1900年去った著名人

8月11日、初代三遊亭円朝(81)落語家。「塩原多助一代記」「真景累ヶ淵」など創作も多く、三遊亭中興の祖。「怪談牡丹燈籠」は、浅井了意の「御伽婢子」、深川の米問屋に伝わる怪談、牛込の旗本屋で聞いた実話などに着想を得て創作された。

8月23日、黒田清隆(59)政治家。北海道開拓に尽力。明治21年首相に就任するが、翌年辞任。

「なまはげ」祭りと歴史

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   秋田県男鹿半島の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。

   この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣ぐ子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。

   以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。

 ナマハゲの同様の習俗はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。(12月31日)

ムーン・リヴァー

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   チャンネル銀河で「アンディ・ウィリアムス・ショー2」を毎週見ている。今週(第9回)のゲストはヘンリー・マンシーニ、エロール・ガーナー、クロディーヌ・ロンジェ。クロディーヌは当時はアンディの妻、1975年に離婚。ガーナーはジャズピアニストで「ミスティー」が有名。この番組を欠かさず見ているが、なぜか「ムーンリバー」のフル演奏が聴けなかった。今回やっとアンディがマンシーニをバックに熱唱していた。保存版ですね。前にナンシー・ウィルソンもゲスト出演していたが、ナンシーも「ムーン・リヴァー」をジャズ・バラードとして歌っている。 ほかにジョニー・マーサーもジャズ風に歌っている。

    作詞はジョニー・マーサー。「ムーン・リバー」はトルーマン・カポーティーの短編小説「ティファニーで朝食を」の映画主題歌。劇中でホリー・ゴライトリー(オードリー・ヘプバーン)がギターを爪弾きながら歌う。歌詞の意味は月夜の川をあなたと渡ってみたいという感じ。「My Hakleberry friend (ハックルベリー・フレンド)」とあり、直訳すると「コケモモの実の友」だが、作詞者の造語らしい。マーク・トウェーンの「ハックルベリーフィンの冒険」をもじっているので、ミシシッピ川がうかんでくるが空想の川なのだろう。訳詩を調べると「幼馴染みの冒険仲間」とある。原作にはもちろん「ムーン・リバー」はない。英詩があって、「空の牧場をさすらってみたい」という意味の一文がみえる。「牧場」が「河」になったのだろうか。

 「ムーン・リバー」をカバーした歌手は世界中に多数いるので正確な数を知ることは不可能である。最近はヤオ・スーティン(中国)、グロリア・イップ(香港)などアジアの女性歌手が歌うことが定番である。では日本で最初に「ムーン・リバー」を歌ったのは誰か?テレビのショー番組でザ・ピーナッツあたりが最初かもしれないが不明である。youtubeで検索すると、ペア・バンビーズと言うデュオが1962年に歌っている。ただし英語であり、ソノシー盤である。当時洋楽ポップスでソノシート盤がよく販売されていた。その翌年1963年には梓みちよが「ムーンリバー」を日本語訳でリリースしている。1967年のザ・ピーナッツの映画音楽を収めたアルバムには「ムーンリバー」がある。意外な人物としては1969年の勝新太郎が歌っている。ペギー葉山もその頃だろうか。80年代になると「ムーンリバー」はアイドルの定番となり、松田聖子や河合奈保子が歌っている。1990年代、大橋純子。20世紀に入り、平井堅(2009)、手嶌葵、薬師丸ひろ子など多数の歌手がカバーしている。

映画のキス・シーン

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 終戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和20年12月6日、西部劇「ユーコンの叫び」(ビヴァリー・ロバーツ主演,1938年制作)が東京の日劇と日比谷映画で上映された。そして翌年昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン主演)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン主演)も大ヒットした。(ともに1943年制作) 映画館は長蛇の列をなした。

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)、昭和24年「汚名」(1946年製作)、昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)、昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)、昭和27年「凱旋門」(1948年製作)、昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)、

    6年間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。「汚名」の「あらすじ」を紹介する。

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚を受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

2021年12月 5日 (日)

陳和卿

 鎌倉時代の日本で活躍した中国・南宋の工人。1180年の東大寺焼失後、重源に従い、焼損した大仏と大仏殿の再興に尽力した。のちに重源と不和となり、1216年鎌倉に下る。実朝に、将軍は育王山長老の生まれかわりであると説いて渡宋をすすめ、大船を建造したが進水できず失敗した。陳和卿のその後の消息は不明である。大河ドラマ「草燃える」では草薙幸二郎が演じた。2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でもおそらくこの話はとりあげられるだろうが、演ずる俳優は誰だろう。参考文献:陳和卿の事績 大森金五郎 国学院雑誌7ー1ー2 明治34年

モーツァルト忌

Mozart   ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ちなみに「ヴ」というカタカナはもともとなかったが、福沢諭吉が外国語を翻訳するので作ったとされる。1756年、オーストリアのザルツブルクで生まれたモーツァルトは25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そして彼は経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フィガロの結婚」「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神が盛り込まれている。モーツァルトには時代を見る目があった。1791年12月5日未明チフスのため死亡。6日の葬儀は数人の弟子が集まっただけで、折からの雷雨のため誰1人付き添わずにウィーンの共同墓地に葬られたため、現在も遺骨の所在は不明である。その急死について、当時から、彼の才能を妬んだイタリア人の宮廷楽士サリエリによる毒殺との噂もでたが、必ずしも信頼できず、やはりチフスが原因であったであろう。

  ところで、「♪眠れよい子よ、庭や牧場に~」で知られるモーツァルトの子守歌。長い間、モーツアルトの作曲といわれていたが、実はベルハルト・フリースの作曲である。作詞はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ゴッター。(Mozart)

2021年12月 4日 (土)

「ほ」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Jose_de_san_martin_por_navez     ホセ・デ・サン・マルティン(1778-1850)はアルゼンチンの軍人。南アメリカ諸国をスペインから独立されるために活躍した。1822年ボリーバルとの会談の結果、すべての地位を辞職し、フランスに亡命、貧窮のうちブーローニュで没した。▽「ポーラ・ラドクリフ」女子マラソン世界記録保持者、2時間15分25秒。▽「ポール・ベルナ」フランスの児童文学者。「首のない馬」1908-1994。Jose de San Martin。▽「ポール・モラン」フランスの作家・外交官。代表作は「夜ひらく」。▽「ホーレス・ケプロン」明治初期、北海道の開拓顧問を務める。▽「ポンセ・デ・リオン」1474-1513。スペインの探検家。1513年フロリダを発見。

ボー・ブリッジス
ホー・シャオシェン
ホー・チ・ミン
ホアキン・フェニックス
ホイットニー・ヒューストン
ホーギー・カーマイケル
ホセ・アルベルト・ムヒカ・ユルダノ
ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ
ホセ・オルテガ・イ・ガセット
ホセ・パディーヤ・サンチェス
ホセ・フェラー
ボニー・ベデリア
ホノリウス
ポッパエア・サビナ
ボニー・ライト
ボビー・ジョーンズ
ボビー・ダーリン
ボブ・ケイン
ボブ・ディラン
ボブ・ホスキンス
ボブ・ホープ
ホープ・ラング
ボボ・ブラジル
ホメイニ師
ボーヤイ・ヤーノシュ
ポーラ・ネグリ
ポーラ・ラドクリフ
ポリー・ウォーカー
ホリー・ハンター
ボリス・ジョンソン
ボリス・チチェーリン
ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン
ポリス・カーロフ
ポリス・パステルナーク
ポーリーヌ・レアージュ
ポール・アレン
ポール・アザール
ポール・アンカ
ポール・ヴァーホーヴェン
ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ
ポール・ウォーカー
ポール・オースター
ポール・ギャリコ
ポール・グリーングラス
ポール・ゴーギャン
ポール・サミュエルソン
ポール・ジアマティー
ポール・シニャック
ポール・ジュリアス・ロイター
ポール・スコフィールド
ポール・ストランド
ポール・セザンヌ
ポール・ティベッツ
ポール・デルヴォー
ポール・トーマス・アンダーソン
ポール・ニザン
ポール・ニューマン
ポール・ハギス
ポール・フレデリク・サイモン
ポール・ベタニー
ポール・ベルナ
ポール・ヘンリード
ポール・モラン
ポール・モーリア
ポール・ラマディエ
ポール・ラングラン
ポール・ロジャー・ローレンス
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
ポル・ポト
ポール・マッカートニー
ポール・ムニ
ホルスト・ケーラー
ホルスト・ブッフホルツ
ホルへ・ルイス・ボルヘス
ホルローギン・チョイバルサン
ホレーショ・アルジャー
ホレーショ・ネルソン
ホレス・ウォルポール
ホーレス・ケプロン
ポレスワフ1世(ポーランド)
ポーレット・ゴダード
ポン・ジュノ
ポンセ・デ・レオン

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   ポール・ヘンリード(写真左)はナチを避け渡米したオーストリア出身のスター。「カサブランカ」では反ナチスの指導者ラズロを演じた。

 

 

定九郎

 BSプレミアムで今夜放送される「忠臣蔵狂詩曲№5」。実話をベースにした話で中村勘九郎が初世中村仲蔵を演じる。斧定九郎とは、  (歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」五段目に登場する人物で、斧九郎兵衛(大野九郎兵衛の捩り)から勘当されて、百姓与市兵衛を殺して金をうばう、放蕩無頼の武士や、泥棒、追いはぎのこと。初世中村仲蔵(1736-1790)が五段目の定九郎に新演出を試み、大入りを呼ぶ人気狂言の一つになった。もともと定九郎の出番は殺人をしたあと、勘平にイノシシと間違われて鉄砲に撃たれて死ぬだけの役であったが、古典落語「斧定九郎」では、つまらない山賊の役をあてがわれた仲蔵が、癪にさわり一念発起、現代のような定九郎像をこしらえる逸話をモチーフとしている。定九郎については、有名な話が残されている。ある日にわか雨に会った仲蔵は本所南割下水のそば屋で雨宿りをしていると、浪人が駆け込んできた。破れた蛇の目をさし、黒羽二重の引解の単物を着て朱鞘の大小という態、五分月代にふくんだ雨をわが手でしぼる様子を見て、これを定九郎の扮装にとりいれた。初演以来の山岡頭巾に夜具縞の広袖という山賊さながらの姿を、浪人風に変えて大成功をおさめたのである。もちろんあくまで話で、この演出の工夫は仲蔵が師と仰いだ四代目団十郎が毎月開いていた修行講の所で示唆されたというのが真相のようだ。

聖バルバラの日

 

 

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 1世紀ごろ、ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。キリスト教への信仰に目覚めた少女バルバラが処刑された。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。(catacombe、12月4日)

2021年12月 3日 (金)

ワン・ツー・スリーの日

T008a  数字1・2・3が並ぶ日は1年に2度しかない。1月23日と12月3日。123という連番で有名なのは1985年の日本航空123便墜落事故と大正天皇が歴代123代であること。映画「ワン、ツー、スリー」(1961年)ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・ギャグニー、パメラ・ティフィン主演だが未見。キャンディーズのヒット曲「アン・ドゥ・トロワ」(1977)。バレエのレッスンで、1、2、3と数えるがフランス語。懐かしの漫画家・山根一二三(ひふみ)。将棋の加藤一二三。国道123号は栃木県宇都宮市と茨城県水戸市を結ぶ幹線道路。東京都足立区の郵便番号は「123」の連番である。ローマ教皇第123代ヨハネス10世(在位914-928)は獄死。

 

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2021年12月 2日 (木)

ふたりのジーン・ミューア

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ジーン・ミューア 女優    デザイナー

 名前は体を表わす。NHKバラエティ番組「日本人のおなまえ、同姓同名さん、いらっしゃい」有名人と同姓同名に生まれた一般人の悲喜こもごも。著名人同士にも同姓同名がいる。

ジョージ・シーガルという名前は俳優とポップ・アートの彫刻家がいる。同姓同名には混同がつきもの。ジョー・コールはサッカー選手と俳優がいる。現在活躍中のフィギュア・スケートのヴィヴェカ・リンドフォース選手(1999年生まれ)。実は往年の美人女優ヴィヴェカ・リンドフォース(1920ー1995)がいる。女優のジーン・ミューア(1911-1996)にもイギリスのデザイナー、ジーン・ミューア(1928-1995)がいる。ほとんど同時期に活躍している。ジーン・ミューアは1930年代から1940年代にかけてワーナー・ブラザーズの人気女優だったので、デザイナーがその名前を利用したのかもしれない。( Jean Muir,Gerge Segal )

ハイドレンジア

   昨夜のFNS歌謡祭を観ていたらSexy Zoneが「夏のハイドレンジア」を歌唱。ハイドレンジアとはどのような花か。セイヨウアジサイのことで、学名hydrangeaは、さく果が水瓶に似ていることから、「水(hydra)+容器(angeion)」に由来する。

みずからの手で戴冠する皇帝ナポレオン

   1804年のこの日、ナポレオン・ボナパルトの戴冠式がローマ教皇ピウス7世臨席下、パリのノートルダム大聖堂で行われフランス皇帝に即位した。慣例では、フランスのランス大司教が王冠をかぶせるところ、ナポレオンはみずから戴冠し、皇后ジョセフィーヌに自分の手で王冠を授け、自己の権力を誇示した。ナポレオンは、みずからを、1000年前にローマ皇帝として戴冠したカール大帝になぞらえていた。皇帝の依頼で大作を制作した画家ダヴィッドは完成に手こずり、実際に出来上がったのは戴冠式から3年の後のことであった。(12月2日)

2021年12月 1日 (水)

歴史とはなにか

    「キリスト教は排他的であるが、仏教はそうではない」とか「天皇家は韓国から来た」とか政治家の発言が話題となっている。ことばの一部分だけを取り出してとやかくいうことはつつしまなければならない。ただ言えるのは、その人の考えというものは、突きつめて行くと、歴史観なのである。イギリスの歴史家E.H.カーは、「歴史とは過去と現在の対話である」といったが、歴史を学ぶということ、歴史的にものごとを考えるということは、過去を現在との関わりにおいて考えることであり、未来を現在の反省の上にたって考えようとすることである。

     このブログはいちおう歴史系ブログである。世間からみると、過ぎ去った古いことを書いて何の役に立つのかと笑うであろう。でも無限の歴史事実を整理して、世間に提供するには、それなりに専門の勉強が必要なわけで、それが歴史学である。ただ、歴史の発展は現代人が期待するように簡単明瞭に進んでいない。紆余曲折のほうが多い。それを一言ですまそうとすると、歴史の歪曲ということになりかねない。歴史は単純明解ではなく複雑怪奇なのだ。さまざまな模索を試みてみる。来年度から高校の科目で日本史Bと世界史Bが統合されて「歴史総合」という新しい科目になる。期待してみたい。

師走諷詠

 本日から師走である。

 去年今年貫く棒の如きもの(虚子)

 年去り年改まることに一喜一憂を託した時代もすでに過ぎている。去年も今年もいまは変わりがないのである。ただ一本の棒が貫くように、そこに変化なく過ぎてゆく歳月の一日一日であるにすぎない、という老いの述懐が感じられる。ただし今年もコロナ禍の師走となり、さらに特別の哀感がただよう。

  12月を師走と当てる。なぜ「師走」というのか古来より諸説ある。12月は1年の終わりで皆忙しく、師匠といえども趨走(すうそう=ちょこちょこ走るの意)するというので「師趨」となり、これが「師走」となったとする。第2の説は、師は法師の意で、師が馳せ走る「師馳月」(しはせづき)であり、これが略されたものとする。第3は、漢語「歳終月」を「としはるつき」と読み、それが略されて「しはつ」となったとする新井白石の説がある。第4は、「し」は年を意味し、「はす」を「果つ」と解する説。

    「十二月」を「しはす」と読むことは、万葉集の時代にあったもので、「師走」を書いたのは平安時代になってからである。「師走の月夜の、曇りをなくさし出でたるぞ」と源氏物語総角に見える。「奥義抄」(平安後期の歌学書)には「十二月、僧をむかえ経を読ませ東西に走る故に師走というを誤れリ」とある。師走とは本来、極限という意味があったようである。(12月1日)

 

 

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