格言「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の嘘
「あなはスポーツをしていますか?」と聞かれる。「何もしていない」と答えると、軽蔑した目つきでメタボの腹をジッとみるや「あそこのジムへ行くといいですよ」と教えてくれる。スポーツブーム、健康ブームだ。しかしケペルは「メメント・モリ(死を想え)」のほうが心の癒しになる。スポーツにより肉体改造をしたり食事を節制することは、一種の脅迫観念に取り憑きかれているように感じる。そんなとき保健体育で覚えた「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」の格言を思いだす。この言葉は世界中の人類みんなが知っている名言なのか、日本だけが有名なのか分からない。ともかく明治日本の富国強兵、運動会、体育の奨励とともに広まったことだけは間違いない。もともとはローマの詩人ユベナーリス(60-130)の「諷刺詩」第10巻に見える。「人間の欲望や祈りは皆ひとしく虚栄の強いものであり、わが子を愛する母親はその子が美しいあることを祈るものである。だが一体、いつ上品さと美しさが一致したであろうか。あなたやあなたの国家にとって何が最善であるかを決定することは神々にまかせるのがよいだろう。ところであなたは何か祈りこどでもあれば食用豚からの内臓やソーセージなど犠牲を捧げて神に祈ることは出来るだろう。だがそうだとしても、もしそうする必要があるならば、あなたは自分自身に与えることが出来ることをこともとるのがよいだろう。だからもし、祈るならば、健康な身体に健康な精神があれかしと祈るべきであろう(Orandum est,ut sit mens in corpore sano)。なぜならば、逞しい心臓は死の恐怖をもたず、長寿を自然の神の最小の賜物と思い、あらゆる種類の苦労に堪えることが出来、憤怒も欲望も知らず、ヘラクレスの悲哀と辛苦がサルダナパルスの愛や饗宴やクッションよりも、一層よいものであると考えられるものだから。(私はあたなにこういう心臓をこそ求めるべきだというのだが、それはあなたが自分に求めることが出来るからだ)そうすれば運命の流れを軽蔑出来るのではあるまいか。
以上の要旨から考えられることは、ユベナーリスは決して「健全なる精神が健全なる身体に存在している(すなわち宿る)」とは言明していない。むしろ不一致が一般的だからこと、その一致を祈るべきだといっている。ユベナーリスの言いたい点はあくまでつまらないことに犠牲をささげて祈る当時の世相を批判し、諷刺することであった。これが今日みられるような「健全な精神は健全なる精神に宿るのであり、不健全な身体には宿らない。だから身体を鍛えることが大事だ」というふうにとらえられるようになったのは何故か。おそらく近世イギリスの代表的哲学者ジョン・ロックがその著書「教育論」(1693)の冒頭に「健全なる精神は健全なる身体に宿る(A sound mind in a sound body)」とユウェナーリスのこの句を引用したからであろう。明治の翻訳家がユベナーリスの考えとはかけはられたロックの引用句を金言名句として紹介したものであろう。藤原紀香のようなナイスバディに必ず健全な精神が宿るとは限らない。それは節制の賜物ではあるが精神とは別ものである。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という現実とかけ離れたことを金言として教育してきたことを問題とした学者を知らない。スポーツ選手を集めて大学の名を有名にする学校があるが、決まって経営本位のみせかけであり、学問とは無縁のところである。スポーツで当選した議員も全般的な政策には無知でありロクな人はいない。つまり古来より身体と精神とが一致することは稀である。
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