大正三美人
明治41年3月、アメリカのヘラルド・トリビューンという新聞社から依頼されて、日本で初めての全国美人写真コンクールがおこなわれた。1位には、九州・小倉市長・末弘直方の令嬢で学習院中等科3年生の末弘ヒロ子(数え年16歳、1892-1942)が選ばれた。日本第1位の彼女は世界では第6位として入選した。しかし、このことが学校で問題となった。当時の学習院長・乃木稀典は粋な計らいをした。末弘ヒロ子を中途退学させて、乃木将軍夫妻の仲人で、野津道貫元帥の長男・野津鎮之助と結婚させ、伯爵夫人となった。
このときの令嬢たちの写真を見ると、細面の愁い顔の美人は少なく、明眸皓歯の明るい感じの美人が多い。大正になると、映画女優が注目されだして、芸者型美人、令嬢型美人と分化される。
明治・大正時代の美人といえば、一中節の名手として有名だった日向きん子がいた。彼女は純粋の日本美人とは違っていたという。因みに日向きん子は藤田まことの伯母にあたるという。
九条武子(1887-1928)、柳原白蓮(1885-1967)、江木欣々(1877-1930)を大正三美人ということがある。九条武子は旧姓・大谷武子。明治20年10月20日、京都西本願寺大谷光尊の二女として生まれる。明治42年、男爵九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られた。柳原白蓮は北小路資武と結婚したがほどなく、離婚。九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との恋愛で話題をふりまく。大正12年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。江木欣々は、新橋の芸者で、法律学者江木衷(1858-1925)と結婚し、社交界で名を知られた。昭和5年2月20日、早川徳次(1893-1980)の家で縊死。
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