八月の雨
創作ショートショート。紘子は大手ハウスメーカーのリフォーム掛をしている。私は病弱の妻と二人暮らし。紘子が私の家の担当になったのは15年も前のことで、これまでに浴室やトイレ、照明、エアコンなどリフォームしてもらったことがある。私の家は鉄骨三階建てで一階は蔵書一万冊ほどの私設図書館として地域に開放していた。周囲は蔦がはって瀟洒な森に建つ洋館のような風情がある。だが昨年からの新型コロナウイルスの大流行でいまは閉館している。紘子はある日、来館して言った。「おうちの周囲をはっている蔦が水を含んでいるので壁面を劣化させます。家は大事に使えは100年は持ちますので、外壁の工事をお願いします」と。ベテランになっているので営業トークも上達している。「人生100年時代か。俳優のカーク・ダグラスのようなタフガイじゃないから、俺の命はあと二三年で尽きるから工事の必要はないね」と素気無く断った。ところが数日してからエアコンから水が漏れだす事件が起きた。私はあわてて紘子に電話して修理を依頼した。すぐに作業員がやってきて直してくれた。工事費は無料だった。紘子にお礼の電話をして、蔦の伐採工事も依頼するにした。秋になると落ち葉が近所に散らばって迷惑をかけることや裏庭が雑木林の状態なので夏の間に片付けてしまおうと考えた。すぐに工事に入るのかと思ったが、紘子の返事はこうだった。「お盆の間は業者も休みなので、工事は八月下旬になります」という。7月23日から東京オリンピックが始まり、続いて高校野球と世間は騒がしかった。
その年の夏は、何もかも変だった。8月に入ると連日雨の日が続いた。見積や工程表ができて、支払いは前払い制である。銀行口座のATMが苦手な私は紘子に付き添ってくれと甘えた。「いいですよ」と紘子は言った。8月の上旬のある日、2人は銀行へ行った。「いま振り込め詐欺が横行しているので身分確認が慎重なんですよ」とハンドルさばきも軽く紘子が言う。私は他人が見たらパパ活に見えてかえって怪しまれるのではないかと内心思った。振り込みは意外と簡単に終わった。あとは工事の日を待つのみ。だがこの年の夏は地球温暖化の異常気象のせいか長雨が続き、世界各地で河川の氾濫などの水害が起きた。台風も一つ二つと日本に襲来した。雨よ止んでくれ、と願った。ところが工事の頃になると奇跡のように晴天が続いた。一週間の工事は順調に進み、すべては何事もないかのように終わった。庭は一木一草なく禅寺の枯山水のようになった。死期が近づいている私にはふさわしいと感じた。工事の完了を見届けにきた紘子も何か寂しそうであった。二人はたわいもないオリンピックの話をした。私は五輪の記念写真集が1000円で安いと言って紘子にも薦めた。別れ際に「私の担当区域が変わり、これが最後になります」と言われた。新しい区域は猪名川という山林部である。紘子の顔をみると運動部の女子高生のように真っ黒に日焼けしている。夏の間、新区域のあいさつ回りに行っていたのだろう。言葉を無くして何も言えなかった。玄関口で見送ることも「さよなら」も云わなかった。私は薄暗い一室で泣いた。戸外には再び雨が降り続いていた。
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