菅原道真の怨霊伝説
菅原道真は845年に生まれ、文学博士となり宇多天皇に重用された。894年、遣唐使に任ぜられるが、すでに唐は凋落し、渡航に世する財務負担も大きかったことから、同年9月に遣唐使の廃止が決定される。ライバルだった藤原時平の讒言によって、道真は901年太宰府に左遷され、2年後、2月25日、59歳で薨死した。道真の死後、天変地異が多発したことから、無念の死をとげた道真の崇りだと人々が考えた。時平が909年に早世し、923年には醍醐天皇の皇太子が夭折し、930年に醍醐天皇が46歳で崩御した。 事態を重く見た朝廷は、道真の霊を鎮めるため、子孫を京都に呼び戻し、官位を追贈したほか、京都に北野天満宮を創建し、王城鎮護の神として祀るなど、道真への敬意を表わした。この名誉回復の結果、道真一族は、五男淳茂、長男高視の息・文時が文学博士となった。中世となると、菅原氏は紀伝道を家業とし、明治になると子爵を授けられ、一族は繁栄した。配流の地で悲運の死を迎えた道真が、毎日恩賜の御衣を捧持して君恩を忘れなかったという話は、学校教育の場で忠臣の姿として称賛され、広く知られる。(9月30日)
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菅原道真の怨霊伝説は有名ですが、日本最大の怨霊と言えば仲哀天皇の憤死による怨霊伝説。
でも、日本の怨霊は丁寧に祀ってあげると退散するという怨霊ですからいいですね。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年12月 6日 (日) 03時55分