関ヶ原の合戦
慶長3年(1598)年8月18日、豊臣秀吉は幼少の秀頼の将来を案じつつ苦悩のうちに伏見城で没した。享年62歳。辞世の歌が残されている。
つゆとをちつゆときへにしわがみかな
なにはの事もゆめの又ゆめ
秀吉の死後、遺訓に示された徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、上杉景勝、毛利輝元の五大老の合議によって政治が運営された。また前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家が五奉行として庶政を執行した。五大老と五奉行の間に、中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴の三中老が、大老と奉行の調停役という意味でおかれた。慶長4年正月、秀頼は伏見城を出て大坂城に入った。前田利家がお守役としてこれに従った。そこで家康が伏見の自邸で政務をとることになった。しかも、かつて、ねねと藤吉郎の仲人役をはたした前田利家は翌年3月病没した。利家の死は、家康の独走への道をひらいたものであり、三成の失脚ともなったわけである。三成は政務執行の実力者であったため、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明らの武将に恨まれることが多かったらしい。暗殺を察した三成は、大坂から伏見に逃げた。しかも、三成はもっとも敵対しているはずの家康に保護を求めて、ようやく近江の佐和山城に帰ることができた。こうして家康は伏見の自邸から伏見城にうって政務を見ることになる。
石田三成は佐和山城を修築し、浪人団を雇い、反家康派の大谷吉嗣を呼んで作戦をねり、安国寺恵瓊と吉川広家のもとに使者を走らせ、家康打倒の意思をつたえ協力をもとめる。さらに、毛利輝元を大坂城に迎えて、策を告げる。三成派の長束正家、増田長盛、前田玄以らも、軍備をととのえ、大坂城に参集する。そののち三成は鳥居元忠が守る伏見城を落とし、美濃大垣城にはいり、ここに西軍を集結させた。石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家らのひきいる西軍は関ヶ原に陣をしいた。
慶長5(1600)年9月15日辰の刻の朝(午前8時頃)、天下分け目の戦いが関ヶ原ではじまった。西軍は石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、脇坂安治、小早川秀秋、吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らの軍勢8万、東軍は徳川家康、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、井伊直政、藤堂高虎、福島正則、山内一豊、浅野幸長、池田輝政ら7万といわれる。西軍は伊吹山麓から松尾山の間に陣をとり、南宮山方面から東軍の側面をつく作戦であったが、松尾山の小早川秀秋の隊1万5000が東軍に寝返り、思わぬ展開をみせる。秀秋は布陣していた松尾山から西軍の大谷吉継の陣に攻め寄せる。この裏切りを契機に脇坂安治、朽木元網、赤座直安、小川祐忠の隊が続々と東軍に寝返って西軍は総崩れになっていく。実は、家康は秀秋や吉川広家ら西軍諸将に対して再三再四、味方につけるための根回し工作を行っており、すでに内応していたため、勝敗はおのずと明らかであった。天下を分ける大戦は、たった半日で終わってしまった。この一戦により、家康の覇権は確立した。
三成は伊吹山中に逃げ、家臣とも別れ、単身近江に入り、幼少のころ手習いをした三重院という寺をたずねて、かくまってくれとたのんだがことわられ、ついに山林をさまようこと数日、ようやくのことで、伊香郡古橋村の与次郎という者の家にたどりついた。与次郎の義侠心で山中の岩窟にかくしてもらったが、とても逃げられると悟った三成は、与次郎にすすめて訴人させ、22日、領主の田中吉政(1548-1609)の手に捕らえられた。石田、小西、安国寺の三人は大坂に拘置されていたが、10月朔日首かせをはめられて、大坂・堺・京の市街を引きまわされて、六条河原で斬首された。その首は自殺した長束正家の首とともに、三条の橋ぎわにさらされたという。41歳だった。
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投稿: DumHieli | 2017年9月14日 (木) 22時12分