帝政ロシアの南下政策と海峡通航権問題(歴史総合)
1734年、ロシアは不凍港を求めて南下政策をとり、英露通商条約を締結し、アゾフ海、クリミア半島を取得した。そして1766年再び英露通商条約を、1787年には仏露通商条約を締結した。以降、南下政策をとるロシア帝国と、地中海に利害をもつイギリス、フランスなどが対立を続けた。ウィーン会議ののち、1815年にアレクサンドル1世の主唱によって、イギリス・トルコ・ローマ教皇以外のヨーロッパ諸君主の間に成立した神聖同盟は、キリスト教の正義と友愛にもとづく平和を唱えたものであった。1829年ロシアはアドリアノープル条約によって、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の自由通航権の確保をトルコ側に認めさせた。そして1833年7月8日、ロシアとトルコ間で相互援助条約であるウンキャル・スケレッシ条約を調印した。しかし、この条約の秘密事項に、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡のロシア軍艦の独占通航権があるとして、イギリスが強く反発した。1840年のロンドン会議で両海峡はあらゆる国の軍艦の通航が禁止されていた。つまりウンキャル・スケレッジ条約はわずか数年で反故になった。イギリスはフランスのエジプト進出とロシアの南下の両方を阻止することができたので、外交的主導権を掌握することになった(パーマストン外交の勝利)。そしてクリミア戦争はロシアの敗北に終り、パリ条約によって黒海沿岸地域が中立地帯とされて、ロシアはいっさいの軍事施設の撤去をよぎなくされ、一隻の軍艦も黒海に浮かべることができなくなり、南下政策は挫折した。1870年からの普仏戦争でナポレオン3世が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけてパリ条約を改定することに成功し、黒海艦隊を再建した。1878年サンステファノ条約でブルガリアとの国境が確定し、バルカンのロシア勢力は拡大した。しかし1878年ベルリン会議でロシアの南下政策は再度の挫折を経験する。その後幾度かの変遷を経て、ようやく1923年のローザンヌ会議で両海峡の国際化および非武装化、ならびに、原則としていかなる国の商船、軍艦にも開放されることを内容とする海峡協定が締結されて一応の決着をみ、1936年の海峡制度に関するモントルー条約によって再確認された。
« 慕情「愛とは素晴らしいもの」 | トップページ | 登呂遺跡と板付遺跡 »
「世界史」カテゴリの記事
- ムハンマドの死後(2024.10.06)
- 世界史探求(2024.05.21)
- ルイ3世(西フランク王)(2024.04.10)
- 唐賽児の乱(2024.02.28)
- ハーグ密使事件(1907年)(2024.02.10)
コメント