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2021年7月10日 (土)

登呂遺跡と板付遺跡

150737582_624_v1352459826   死ぬまでに一度訪れたいところはどこだろうか?ナポリでも吉野ヶ里でも箸墓古墳でもない。それは登呂遺跡だ。戦後の小学生が敗北感で打ちひしがれていたとき勇気を与えてくれたニュースが3つある。「フジヤマのトビウオ」の古橋広之進の水泳での活躍。湯川秀樹の日本人最初のノーベル賞。そして静岡市にある弥生時代後期(1世紀)の村落遺跡、登呂遺跡である。1943年に発見され、戦後1947年の7月10日に本格的な発掘調査が行われた。竪穴式住居、高床式倉庫の遺構が検出された。画像はゆるキャラのトロベー。だが現在では水田跡は板付遺跡(福岡市)や菜畑遺跡(唐津市)のほうが古いとされている。稲作初期の集落は北九州にありそうだ。水田稲作は弥生時代に始まると小学校で教わったが、1978年に板付遺跡の縄文地層から稲作の跡や木製農具、石包丁などが発見され、縄文晩期から水田は始まっていたと考えられるようになっている。その真偽はいまだ論争は続いているが、日本の初期の集落であることに間違いなく、重要な遺跡の1つである。でも今の小学生は可哀そうだ。覚えないといけないことが一つ一つと増えてくるからだ。1980年には、唐津市の菜畑遺跡で板付と同じ年代の水田が見つかり、木製の鍬や鋤が出土した。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は外敵に備えて周囲を囲った環濠集落として重要であろう。そして板付遺跡。縄文時代末期に、大陸から稲作が伝わり、稲などの作物の栽培による安定した定住生活へと変化した。だが弥生時代=水田稲作ではなくなると、縄文時代という日本独自の時代設定も意味があるのだろうか。

 

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