院政と平氏の台頭
1156年のこの日、保元の乱おこる。後三条天皇は子の白河天皇に位を譲って院庁をおいたが、病気のため早く亡くなった。その意志を受け継いだのが白河天皇であり、1086年、弟の輔仁親王への皇位継承を嫌ってにわかに幼少の堀河天皇に譲位したのち、上皇として院庁を開き、ついで天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行うようになった。やがて堀河天皇の死後には、白河は孫の鳥羽を天皇に据えて、本格的な院政を開始することになった。このような院政は、もともと自分の系統に皇位を継承させようとするところから始まったもので、白河上皇のあとも、鳥羽・後白河上皇と3上皇の院政が100年余り続き、法や慣習にこだわらずに、上皇が政治の実権を行使した。院政のもとでは院庁から下される文書の院庁下文や、上皇の命令を伝える院宣が権威をもつようになり、朝廷の政治に大きな影響力を与えるようになった。保元・平治の乱を通じて、貴族社会内部争いも武士の力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった。(7月11日)
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