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2021年6月 5日 (土)

池田屋襲撃事件

    池田屋襲撃は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の3人を従えて突入したとするのが通説である。なぜ近藤らわずか4人で20人もの勤王の志士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤、新田ら死亡した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。(6月5日)

 

 

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