ロバート・バンクス・ジェンキンソン
イギリスのボリス・ジョンソン首相が結婚式を挙げたことが明らかになった。首相在任中の結婚は200年ぶりというニュース。1822年当時のイギリス首相は第22代のロバート・バンクス・ジェンキンソン(1777-1828)でメアリー・チェスターと再婚している。リヴァプール卿。トーリー党。当時はナポレオン戦争が終結し、ウィーン体制が構築された。Robert Jenkinson
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イギリスのボリス・ジョンソン首相が結婚式を挙げたことが明らかになった。首相在任中の結婚は200年ぶりというニュース。1822年当時のイギリス首相は第22代のロバート・バンクス・ジェンキンソン(1777-1828)でメアリー・チェスターと再婚している。リヴァプール卿。トーリー党。当時はナポレオン戦争が終結し、ウィーン体制が構築された。Robert Jenkinson
ロンドン大学東洋アフリカ研究室のニッコール教授は、秦始皇帝は古代ギリシア彫刻の巨像を観て衝撃を受け、それと同じものを青銅で造らせたといっている。始皇帝以前の中国には等身大の彫像は存在しなかった。つまり古代ギリシア文明との接触により、あの兵馬俑にある8000体もの像が造られたと説いている。前4世紀アレクサンドロスの遠征によって、大勢のギリシア人が移住し、西北インドのガンダーラ地方ではヘレニズム風の仏像が作られた。
様式とは何か。民族や時代がさまざまな様式を生み出すが、そのスタイルは模倣され伝播する。ギリシア様式、ヘレニズム様式、ローマ様式、これらの様式には明白な移り変わりが確認できる。ヴァチカン博物館にあるラオコーン像。この像の制作の年代については、紀元前160年から紀元後20年までと考えられている。この作品はオリジナルな彫像なのか、他の彫像の模倣なのかも不明である。紀元前200年にペルガモン王国で制作された銅像がオリジナルであるとする意見もある。秦始皇兵馬俑の制作時期は紀元前221年から206年の間と推測されるので同時代の作品とみなすことも可能である。人類の造形への様式や美意識は、地域を超えても影響するものなのかもしれない。等身大の像もさることながら、表現の写実性など共通点がうかがえる。
1453年、若きスルタン、メフメト2世(1430-1481)に率いられたオスマン軍は、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを包囲した。東ローマ皇帝コンスタンティノス11世バラオロゴス・ドラガセス(コンスタンティン・パレオロガス)はジェノヴァやヴェネツィアに援軍を求め、徹底抗戦の構えを見せる。そして5月29日、オスマン軍による総攻撃が開始され、コンスタンティノープルの西側の城壁を破って、市内に突入した。圧倒的な戦力差の前に皇帝は討死し、ついに東ローマ帝国は西暦330年以来、1123年間続いた歴史に幕が下ろされた。塩野七生は「一都市の陥落が一国の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与えつづけてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか」(「コンスタンティノープルの陥落」新潮社)と記している。
メフメト2世は19歳で父ムラートのあとを継いで、このとき23歳である。アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルのような野望を抱いていた。16万のオスマン軍は海と陸からコンスタンティノープルを包囲していた。東ローマ帝国は西欧に向けて、援軍を要請していたが、ギリシア正教会とカトリック教会との問題があって、援軍はヴェネツィア艦隊のみであった。だがコンスタンティノープルは三重の城壁(メソティキオン城壁)で囲まれ、ボスポラス海峡と金角湾とは鉄鎖によって封鎖されていてオスマンの艦隊は侵入できなかった。
メフメト2世は陸上に軌道を敷設して、ボスポラス海峡から船を運び入れ、船を車輪つきの荷台にのせて、海抜60mほどのガラタの丘を越えて、金角湾側のガラタ地区に移動させた。それを一夜のうちに移動させ、封鎖された金角湾内に船を送り込むという奇策であった。さすがの難攻不落を誇ったコンスタンティノープルも陸上と海上からの砲撃のために忽ちのうちに陥落した。血刀さげたトルコ兵の虐殺ぶりはまるで地獄絵をみるようだった。オスマン・トルコ帝国はキリスト教には寛大であった。しかしキリスト教徒に重い人頭税を課した(Konstantinos Palaiologos Dragases) 参考:地図で訪ねる歴史の舞台 世界 帝国書院25p
ロシア皇帝ニコライ1世は、アヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激され、1847年、ムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方進出政策をおこなわせた。ムラヴィヨフは極東への植民を推進し、清が太平天国やアロー戦争に苦しんでいるのに乗じて、1858年5月28日(露暦5月16日)アイグン条約を結び、アムール川をロシアと清との国境に決めた。アムール合意で使われたペンと筆と硯が残されている。調印者はロシア側がムラヴィヨフとロベロフスキー、清国側が奕山とジラミンガ。
交渉にあたりロシア側は武力示威による威嚇を行った。北京の清国政府はアイグン条約を1度は認めたが、しだいにこれを否認するにいたり、本条約の有効性は両国間で激しく争われた。1860年11月14日に両国の間に結ばれた北京条約は、アイグン条約を確認して黒竜江左岸をロシア領としただけでなく、共同管理の地とされたウスリー江右岸については、黒竜江との合意点からウスリ江をさかのぼりハンカ湖を越え、いったん西方に迂回してから豆満江にいたる線より東の地域をロシア領とした。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
1689年、松尾芭蕉は出羽の立石寺を訪れたときの句である。ひっそりとして、閑かな山寺。一山の岩にしみ入るように、蝉の声が澄み透ってきこえる。1926年、この蝉の種類をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆が論争している。アブラゼミと主張した斎藤に対して、小宮は威勢のよいアブラゼミよりも、声が細く澄み切っているニイニイゼミの方がふさわしいとした。元禄2年5月末は太陽暦では7月13日である。この時期、アブラゼミは少なく、ほとんどがニイニイゼミである。結局、茂吉のアブラゼミ説は敗れた。のちに荻原井泉水は「涼しげに鳴くヒグラシではないかと思う」と著書に書いている。芭蕉が聞いた蝉の種類が何であったかは、決定的な証拠はなく、永遠の謎といえるが、この時期と場所から推定すると、ニイニイゼミと考えてほぼ間違いないということである。(5月27日)
チェ・ジニ
トロットとは韓国歌謡における演歌である。「愛の迷路」や「離別」など韓国歌謡の多くはキム・ヨンジャや桂銀淑などで日本語訳詞でカバーされているが、原曲は60年代から80年代のヒット曲。「愛の迷路」はチェ・ジニ(崔辰熙)が1983年に歌った。「離別(イビョル)」は日本語歌詞でもお馴染み。「♫時には思い出すでしょう 冷たい人だけど あんなに愛した思い出を忘れはしないでしょう」ブォン・ソンケイ(潘秀瓊)はマカオ生まれで現在も元気でシンガホールに在住しているらしい。
韓国歌謡で有名な歌は「木浦の涙」(1935)イ・ナンヨン(李蘭影、1916-1965)は戦後渡米しラスベガスで活躍したが晩年は不遇でアル中で49歳で亡くなった。韓国歌謡で定番曲は、アン・ジョンエ(安貞愛)の「大田ブルース」(1959)、イ・ソンエ(李成愛)の「カスマブゲ」(1977)など。イ・ソンヒ(李仙姫)の「J」(1984)は門倉有希がカバーして日本でもよく知られる。
朝鮮戦争が終わったあとの1955年「タンジャンのミアリ峠」イ・へヨン(李海燕)が流行した。日本語訳詞では「断腸のミアリ峠」。「連れて行かれたあなた、ミアリ峠は涙の峠、恨み多い峠」ミアリ峠はソウル北東部にあり、朝鮮戦争の激戦地だった。
1970年代、ナ・フナ(羅勲児)とナ・ムジン(南珍)が人気を二分した。現在、ディスコとトロットを融合した「トロットの女神」ホン・ジニョンが人気ある。「愛のバッテリー」「生きるということは」「私の好きなもの」
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
歌集「一握の砂」の巻頭を飾る秀歌で、石川啄木の作品中最も有名なものである。作歌は明治41年6月24日で、翌7月1日発行の「明星」に「石破集」の題下に発表された140首中の一首である。初出歌は「東海の小島の磯の白妙にわれ泣きぬれて蟹と戯る」と一行書きで発表され、明治43年7月の「創作」自選歌号にも再掲されている。「東海の小島」は特定の地名や場所を指すのではないという解釈も可能であるが、この一首を啄木の閲歴、実生活との関連において鑑賞するとき、彼が生涯において親しんだ唯一の海岸である函館大森浜を念頭において歌ったのではないかと考えられる。すでに函館に渡った直後の明治40年5月26日に作った「蟹」と題する詩が「ハコダテの歌」にある。
潮満ちくれば穴に入り、
潮落ちゆけば這ひ出でて、
ひねもす横に歩むなる
東の海の砂浜の
かしこき蟹よ、今此處を、
運命(さだめ)の浪にさらはれて、
心の龕(づし)の燈明(みあかし)の
汝(なれ)が眼よりも小(ささ)やかに
滅(き)えみ明るみすなる子の
行方も知らに、草臥れて、
辿り行くとは、知るや、知らずや。
歌集「一握の砂」は明治43年12月1日、東雲堂書店から刊行された。四六判290頁、定価60銭であった。「東海の」歌は現在函館市住吉町共同墓地東南の一角、立待崎の眺望のよい断崖の上に建つ啄木一族の墓の碑面に刻まれているが、これは岡田健蔵と宮崎郁雨によって、大正15年8月1日建てられたもので、郁雨がその資金を提供した。岡田健蔵(1881-1944)は市立函館図書館(大正11年創設)の初代館長である。宮崎郁雨は本名宮崎大四郎といい、啄木が函館へ渡ったとき以来、生涯、生活的な援助をした人で、著書に「函館の砂」がある。
楠木正成(1294-1336)は43歳のとき、建武3年5月25日、兵庫・湊川で戦死したといわれるが、その年齢については、確かな証拠があるわけではなく、その生地も不詳である。楠木正成が史料にその名を現すのは元弘元年6月から8月ごろである。臨川寺領和泉国若松庄に、「悪党楠兵衛尉」として乱入押妨をしたという記事が天竜寺文書に見えるのが最初で、それ以前の行動はわからない。楠木正成といえば忠臣の代表として戦前は国民に親しまれた人物である。楠公ゆかりの場所は関西一円に多数存在するが、阪神間は神戸の湊川神社をはじめ、芦屋・西宮一帯にもゆかりの地はある。元弘元年、吉田定房の密告により、後醍醐天皇(1288-1339)は笠置山に逃れたが、幕府軍に攻められて陥落、後醍醐は捕らえられて隠岐に流された。しかし、足利尊氏や新田義貞らの反幕の動きが高まると、元弘3年隠岐を脱出した。帰洛をめざす後醍醐は山陽道をのぼって摂津の芦屋を過ぎて、「川東の手前までのところで」(太平記)楠木正成の出迎えをうけた。天皇はじきじきに「よくぞ参った。その方の忠誠と励ましこそ心の支えであった。回天の事業をなしたのは、ひとえにその方の忠誠にもとづくものだ」と声をかけられた。地に伏して感激する正成。この後醍醐天皇・楠木正成、面会の場所はどこであろうか。阪神香枦園駅の西方と考えられる。駅の西端を夙川が流れ、その東側は旧字名が川東で、今も川東町がある。阪神高速芦屋料金所(芦屋市大東町)あたりであろうか。
本日は「広辞苑の日」。新村出(1876-1967)が生前に編纂した広辞苑は初版のみである。掲載された用語は人文系には強いが自然科学系には弱い傾向がみえる。1955年5月25日に広辞苑初版は刊行されたが、初版を引いてみると、「コンピューター」とか「エスエフ(SF)」(科学小説)など日常よく使用される外来語が載っていない。14年後の1969年刊行の第二版に多くの外来語が追加された。外来語としては未だ日本語に定着していないものの、専門の技術者たちは「コンピューター」について研究していた。中尾伸二「コンピューター経営学 電子計算機を100%活かす法」(ブルーバックス)が刊行されたのは翌年のことである。
マヨネーズはフランス語であるが、語源に関しては諸説ある。①地名マヨルカ島 ②地名メノルカ島のマオン。③人名パドリス・ド・マクマオン将軍(1808-1893)。現在のところ、②のスペイン語「マオンのソース」がフランスに広まり、マオンネーズと呼ばれ、マヨネーズになったというのが最も有力とされている。
本日は蝉丸忌。蝉丸とは、平安初期の歌人で、盲目の琵琶の名手であったといわれている。しかし、後撰集の「これやこの」の歌から、関所を行き交う旅人を見て詠んだことから、盲人ではなかつたという説もある。逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)
(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。
孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。(5月24日)
サンテレビで「王の顔」を放送中。チョ・ユニ演じる貧しい出自ながらその美貌で光海君の寵愛を受けて尚宮に上り詰めるケトン。金介屎(キム・ゲシ)は「きんかいし」と読む。変な名前だと思ったら、朝鮮語の「犬の糞」という意味。悪女として名高く、国政に関与し、政敵を落とすが、1623年仁祖反正により処刑されるという悲惨な末路をたどる。
講談、武者絵、錦絵などで日本人にはお馴染みの加藤清正(1562-1611)の虎退治の逸話であるが、信憑性のある史実かどうかは知らない。朝鮮侵攻の当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)、シベリア虎が相当多く生息していた。江戸中期の湯浅常山の『常山紀談』に虎退治の記述がある。小姓の上月左膳が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したという。吉田輝元なども虎の皮10枚を豊臣秀吉に献上している。だが加藤清正がどれくらい虎を殺したか記録にはない。そもそも日本の武将が何故朝鮮まで行って虎狩りをする必要性があるのだろうか。後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。敵を前にして、大切な命を、猛獣のために危険にさらすとは、なにごとかというわけである。虎刈りの理由として挙げられる説として、①武芸の訓練のため②領地の安全確保のため③豊臣秀吉の命令、の3点である。①の説は後藤又兵衛の叱責事件のように、ありえない話であろう。②の説は男色の加藤清正が愛人の小姓が殺されたために復讐鬼となって虎を殺したという話であるが、にかわに信じ難いであろう。片鎌槍で殺したことになっているが、実際は鉄砲だったという説もある。③の説は、老いた秀吉が回春のため、虎の肉を必要としていた。虎の肉を食うと、精力がつくらしい。だが当時の輸送で食用肉を朝鮮から大坂まで安全管理で運搬できたのであろうか。虎の利用としてはせいぜい虎の皮で敷物に使うくらいしか用途はないのではないか。加藤清正虎退治の伝説は、岩見重太郎の狒狒退治と並んで江戸期に民間に流布した豪傑譚の一つであろう。
連続クイズホールドオン!2013年5月23日の問題。「中国の詩・農を憫(あわれ)む」から生まれた四字熟語。一粒一粒が苦労の結晶であることを「粒々(?)」35歳の男性回答者「粒々細々」×。正解はもちろん「粒々辛苦」米を作る農民の一粒一粒にかける苦労のひととおりでないこと。転じて、ある仕事の成就にこつこつ苦労を重ねて努力すること。ご飯の一粒一粒、みんなお百姓さんの汗と苦労の賜物だ。ところで四字熟語「粒々辛苦」の出典を初めて知る。李紳は中唐の詩人、政治家。農民が苦しい作業をしてもなお、餓死する者があることを慨嘆し「憫農の詩」で百姓の労苦を詠い、その刻苦勉励ぶりを称えている。もともと律詩であるが、日本では五言絶句として知られている。(訳)春に一粒だけ穀物の種を播くと、秋には万もの実がなる。国内には休耕田はなく農民は精励しているのに、なお餓死しようとしている。稲の間の草を除こうと鋤きかえしていると、太陽は真南に来て、もう昼時である。汗は稲の根元に滴り落ちる。誰が知ってくれよう。食器の中の飯つぶの来歴を。その一粒一粒のすべてが、農夫の苦労の結晶である事を。
フランソワ・ルビック少年は赤い髪とそばかすのある顔のため家族から「にんじん」という仇名で呼ばれている。作者ジュール・ルナールは1910年5月22日、46歳で亡くなっている。原題は「Poil de Carotte」(ボアル デ カロットゥ)「にんじんのような毛」を「赤毛」と訳されたが、「にんじん」で定着した。
英語carrot(キャロット)、仏語carotte、ドイツ語Karotte(カロッテ)、スペイン語Zanahoria(サナオリア)、イタリア語carota(カロータ)、スウェーデン語morot(ギリシャムーロット)、ギリシャ語カロート、アラビア語カザル、ロシア語マルコーヘフィ、ラテン語carote((カロト) 。(Jule Renard)
1927年5月20日、チャールズ・リンドバーグが操縦する単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」がニューヨーク郊外のルーズベルト飛行場を飛び立った。それから33時間30分後の21日、彼はパリのブールジュ飛行場に着陸する。大西洋単独無着陸飛行の成功である。飛行場には10万人にのぼる群集が、一目リンドバーグを見ようと押し寄せた。彼は航空機時代を象徴する空の英雄であった。しかし彼の人生には脱ぐ去りようのない暗い事件がある。
1932年3月1日、チャールズ・リンドバーグの長男が遺体で発見された。これより1年前の3月1日に、ニュージャージー州ホープウェルの自宅から誘拐されるという事件が発生していた。現場には犯人からの身代金5万ドル要求の手紙が残されていた。事件から2日たった4日に、新聞はリンドバーグの声明文を掲載した。「身代金を支払って息子の身柄を引き取ることができるなら、犯人の不利になるようなことは、断じてしない」。これを見た法務長官は「リンドバーグに、犯罪訴追の免責を申し出る権限などはない」と語った。3月8日には、ジョン・コンドンという72歳の老講師が、誘拐事件の仲介役を申し出た。12日に、コンドンはジョンという男(「墓場のジョン」)と会い、子どもは船の中で元気にしていると聞く。16日には、コンドンの家に息子のパジャマと身代金の受け渡し方法が書かれたメモの入った小包が届けられた。リンドバーグは警察には一切干渉しないことを約束させた。4月2日、1通の封筒がタクシー運転手によってコンドンの家に届けられた。コンドンとリンドバーグは、現金を持って指定されたブロンクスのセント・レイモン墓地に着き、コンドンは「墓場のジョン」と会い、子どもが隠されている場所の書いてあるメモの入った封筒と身代金を交換することになった。しかし子どもは発見できなかった。子どもの遺体が発見され、検視結果は、子どもは誘拐された直後に死亡していたことが判明した。
それから2年半後、ドイツ系移民の大工のブルーノ・ハウプトマン(画像)という男が逮捕された。身代金として支払われた紙幣をガソリンスタンドで使ったこと、そして、何よりも自宅から残りの紙幣が大量に発見されたことが決め手になった。法廷では、リンドバーグはハウプトマンを指さして犯人と断言した。コンドンは、公判開始前の段階ではハウプトマンを「墓場のジョン」と断定するのを繰り返し拒んでいたが、証言を翻し、ハウプトマンを「墓場のジョン」と断定した。人間は、たった一度しか聞いたことのない人の声を2年も3年もたってから思い出すことができるのだろうかという疑問は最後まで残った。しかし、デビット・ウィレンツ法務長官は当時広がっていた反独感情をたくみに利用しながら、ハウプトマンを蛇呼ばわりして彼の人格を誹謗し、陪審員に偏見を持たせようとしていた。
ハウプトマンは最後まで無罪を主張したが、1936年4月3日、トレントン刑務所で電気椅子によって処刑された。しかし、彼の有罪を疑問視する人も少なくなかった。ニュージャージー州知事のハロルド・ホフマンもその一人だ。彼は「私はこの犯罪が1人の人物によってなされ得たとは思えない」と、彼は公式に声明した。70年たった今も真相は謎であり、この事件の裁判は米国司法史上に疑問と汚点を残すことになった。
疑問は多数ある。ハウプトマン逮捕後も、リンドバーグの身代金に使われた紙幣はいまだに街にながれていた。それに決定的なアリバイがハウプトマンにはあった。1931年3月1日にはニューヨークのアパートで仕事をしていた。それが事実なら、同じ日にニュージャージー州ホープウェルに行って、夜9時すぎにリンドバーグ家に行って、息子を誘拐することは極めて困難になる。アパートの所有者は、ハウプトマンの主張が事実であることを証言したが、作業時間記録表と賃金支払い記録はなくなっていた。記録はすでに検察と警察に押収され、検察側の主張を裏付けるものに改ざんされていた。驚くべきことに弁護人のレイリーは法廷でのこれらの決定的な物証を十分に調べることもせずに、ハウプトマンのアリバイを立証できなかった。弁護人エドワード・レイリーは、反ハウプトマンを標榜していたヒュース・プレス社から金をもらっていただけではなく、以前からリンドバーグの熱烈なファンだった。法廷でのあまりの失策に、次席弁護人のフィッシャーは公判の審理中に「あなたは、ハウプトマンを電気椅子に送ろうとしている。それでも彼を弁護しているつもりなのか?」と公然と非難した。
検察側は、事件の夜にハウプトマンを見たと証言する87歳のアマンダス・ホークス(彼は1000ドルの賞金を得た)を証人として喚問した。彼はハウプトマンがはしごを積んだ車に乗っているのを見たと主張した。このほとんど目の見えない老人の信頼しがたい証言に対して、弁護側はほとんど反論していない。
結審後5か月たった1935年7月には、米国法律家協会が「純然たる裁判を公開ショーのように扱うのは、生命そのものを軽んずることと同じだ」と述べ、検察・弁護側双方を手厳しく批判した。
リンドバーグは、晩年はハワイでひっそりと暮らし、72歳で他界した。ハウプトマンの遺体が霊柩車で刑務所から出で行くのを見守る群集を写した一枚の写真がある。司法が過ちを犯したと考える人々も多かったのだ。(3月1日、5月21日)
ハイネ、メンデルスゾーン、マルクス、フロイト、ロスチャイルド、アインシュタイン、シャガール、エリア・カザン、キッシンジャー、スティーブン・スピルバーグなどなど。これらの有名人は「白人系ユダヤ人」といわれる。むかしから「白人系ユダヤ人」というのがよく理解でなかった。モーセやダビデ、ソロモン、そしてイエスは非白人(オリエンタル)で人種的に「セム系」と呼ばれている。一般にユダヤ社会では、白人系ユダヤ人を「アシュケナジー系ユダヤ人」と呼び、オリエンタル(アジア・アフリカ系)ユダヤ人を「スファラディ系ユダヤ人」と呼んで区別している。8世紀以前の世界には、ごくわずかな混血者を除いて白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった。それがなぜか8・9世紀を境に突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に登場したのである。いったいなにが起こったのか?それはコーカサスからカスピ海北岸にかって存在した遊牧民国家、ハザール国と大きく関係している。ハザールはイスラーム商人を通じてスラブ人奴隷を輸出して繁栄していた。だが11世紀になると、イスラム帝国とビザンツ帝国が東西に対立、そしてローマ教皇は聖地エルサレム奪回のため十字軍を派遣した。キリスト教とイスラム教の東西両陣営は、ハザール国に圧迫を加えた。そのため、ハザール国王のオベデア王は、国民をまとめてユダヤ教に改宗させた。理由は、キリスト教もイスラム教もユダヤ教を母体にした宗教だから、ユダヤ教は中立国として安全と考えたのである。ハザール国は両陣営からの干渉をなんとか逃れたが、結局10世紀前後にモンゴル人の攻撃を受け、滅亡した。このとき大量の難民が生まれて、西へ西へと移動し、東欧に着いた。これが「アシュケナジー系ユダヤ人」のルーツと考えられる。つまりナチスに虐殺されたほとんどのユダヤ人たちは古代イスラエルの子孫ではなく、ハザール国の末裔であるという説が存在する。しかしこれはあくまで仮説の段階であって、世界史の教科書には記されていない。おそらくユダヤ資本を中心とするアメリカ金融界にとってハザール国の存在は都合の悪い事実なのであろう。(参考:フリエート・二ェヴァ「ハザール謎の帝国」)
16世紀大航海時代をもたらした要因の一つは、香辛料をはじめアジア物産に対するヨーロッパ人の欲求であったが、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)とカリカット領主のやりとりはアジア物産の豊かさを物語っている。1498年5月20日、ガマは香辛料や宝石の交易で賑わうカリカットに上陸すると、この地の領主ザモリンに面会を求めた。ガマが領主に用意した贈物は、布、帽子、珊瑚玉などである。領主の執事はこれを見て、「とても王様に差し出す品物ではない。アジアの最も貧しい商人でもこれ以上の贈物を持ってくる」と罵った。ガマはどうにか香辛料を手に入れたが、結局、贈物は拒否され、出航許可として税金を命じられた。しかし、ガマはその税金も支払わず、出航を強行したのであった。( Vasco da Gama,Zamorin )
1565年のこの日、室町幕府第13代将軍、足利義輝が自害する。大河ドラマ「麒麟がくる」は向井理が演ずる義輝が詳細に描かれているので、人物像が少しわかったが、武術に優れた人物であった。「将軍の器」では義輝の最期が描かれる。永禄8年、松永久通、三好義雄、三好三人衆らは1万の軍勢を率い二条御所に侵入し、義輝を殺す(永禄の変)。義輝の最期については、討ち死説とか自害説などさまざまな説がある。光秀とことあるごとに対立する政所執事、摂津晴門。ゲーム「信長の野望」にも登場したことがないので、彼の知名度は低い。今回片岡鶴太郎の怪演でその知名度は高まった。(5月19日)
本日は桶狭間の戦いがあった日。永禄3年(1560)5月、天下に野望を抱く今川義元は、斎藤道三の亡きあと衰えた美濃を踏み破り、諸城を落として一気に上洛せんものと25000の大軍を率いて西上の途にのぼった。5月18日、織田領の丸根・鷲津両城にも今川の脅威が迫ったとの報に接した信長は清洲城で軍議を開いた。織田の兵力はわずか3000にすぎず、籠城説が大勢を占めた。しかしその夜信長はにわかに出陣を触れ、真っ先に馬を駆けさせた。信長のあとを追ってきた兵は熱田神宮まできたとき1000人となり、善照寺についたときは3000人にふえていた。今川の25000人に比すれば問題にならない劣勢である。しかし危機に立たされた信長としては、死中に活を求めるしかなかった。翌19日。今川義元はこのとき、桶狭間の北、田楽狭間(愛知県豊明市栄町)に駐屯して、勝ち戦の祝杯をあげていた。兵士にも酒を配り、警備は全くおろそかにしていた。折から空には黒雲がたれこめ、豪雨がふり注ぎ、あたりは全く見通しがきかなくなった。その機をのがさず信長は横合いから義元の旗本めがけて襲いかかった。義元の軍はたちまち混乱し、軍を立て直す暇もなく、ついに義元が毛利新介によって討ち取られたのである。大将を討たれた今川軍はたちまち敗走した。この時徳川家康は義元軍に従軍していたが、この合戦ののち自立し、信長に属している。この戦いには迅速果断な信長の面目がよくあらわれている。信長の武名は一躍とどろき、今川義元に代わって上洛を志すに至った。(5月19日)
【クイズ】1980年から2010年までのアからエの出来事の中から古いものを2つ選び、順に記号で答えよ。
ア さくら銀行と住友銀行が合併し、三井住友銀行に イ 一般消費税導入 ウ リーマンショック エ 山一証券破産
【答え】イエ
映画「ジオストーム」に「ダッチボーイ」という人工衛星が登場する。意味は「オランダの少年」。堤防に穴があいているのを見つけた少年が自分の指で決壊を防いだ話がもとになっている。オランダのアムステルダムに近い町スパールンダムに堤防からの漏水に気がついたハンス・ブリンカー少年の像がある。それはこんな話である。
ある晴れた日の午後、少年は堤防の向こう側の、ハールレムの町はずれに住んでいるおじさんにお菓子を持っていくことになった。おじさんの家で1時間ばかり遊んで、別れをつげて、家路についた。運河のふちを歩いているうち、見れば、秋の長雨で、運河の水が、ひどく増えている。その時、少年は、ちょろちょろ流れる水の音を聞きつけて、はっとした。いったい、どこから聞こえてくるのであろうか。堤防を見上げると、上のほうに小さな穴があいていて、そこからすこしずつ水が流れ出ている。ちょろちょろ水の流れるままにしておけば、この小さな穴が、じきに大きな穴になって、やがて、恐ろしい大洪水になるだろう。とっさのまに、少年は、どうしなければならないかをさとった。少年は、穴にとどくところまで、堤防をよじのぼった。そして夢中で、自分の小さな指をその穴につっこんだ。水は止まった。最初のうちは、まずうまくいった。けれど、そのうち、夜になって、寒さと恐ろしさで震えだした。「だれか来てください」けれど、誰も来なかった。少年は神に助けを祈った。祈りは答えられて、やがて少年の心には、「朝までここを守ろう」という神々しい決意が生まれた。明け方、ある牧師さんが、堤防の上を歩いていた。彼は、何かうめき声が聞こえるように思った。かがんでみると、ずっと下のほうに、ひとりの子供が、苦しみもだえている。「これこれ、何をしてるのだね」と、牧師は叫んだ。「水をとめているんです。」と、けなげな子供は、短く答えた。「みんなに、すぐ来るように言ってください。」そこで、言うまでもなく、村人たちはかけつけてきた。(メアリー・メイプス・ドッジ著「銀のスケート靴」にでてくるオランダの古い話) Spaarndam,Hans Brinker
膳所藩は近江国大津周辺に位置した6万石を領する譜代藩であった。禁裏御所方火消しを任務とすることから、朝廷を守護する意識が強く、藩内には川瀬太宰(1819-1868)を中心とする尊攘派の勢力が強かった。慶応元年5月、第14代将軍徳川家茂が上洛することになった。老中水野忠精から、将軍の膳所泊城が藩主本多康穣に言い渡された。5月16日、予定どおり江戸を進発した家茂は、東海道を西行し、近江愛知川宿に到着したが、そのとき突然、以後の将軍の宿泊予定が変更され、膳所泊城の中止、大津宿への宿泊が発表された。ちなみにこの日程変更の5日前、膳所藩では尊攘派の一斉検挙が行われており、それらが重なって、将軍暗殺の噂が流布していた。このとき検挙された尊攘派は数十名にのぼったが、当時の記録は少なく真相はいまもって不明である。逮捕より5ヵ月後の慶応元年10月、逮捕者の内11名が死罪に処せられた。首謀者とみられる川瀬太宰(膳所藩家老戸田資能の子)は雲母越えで捕らわれ、慶応2年6月、京都六角獄舎において斬首された。妻の幸は、大津の尾花川の居宅で新撰組に襲われ、匕首で喉を刺して自害を図った。一命はとりとめたが、後に自ら食を断ち、夫の跡を追った。膳所藩の将軍暗殺計画は家老たち藩内保守派たちによる捏造事件であるのか真相は闇のままである。
Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.
エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。
5月14日はイギリスの外科医エドワード・ジェンナー(1749-1823)が種痘の接種に成功した日である。彼は乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹らないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィッブス(1788-1823)の腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行なった。(Edward Jenner,James Phipps,Sarah Nelmes)
永野芽郁がクイズ番組に登場し、ナポレオン・ボナパルトの肖像を見て、名前の空欄一文字を入れる問題で苦戦していた。なんとか正解したものの、ナポレオンのことはほとんど知らないという。有名な絵画「アルプス越えのナポレオン」を観てもわからないし、トルストイの「戦争と平和」はもちろん横光利一の短編小説「ナポレオンと田虫」も読んでいないだろう。だが不図、自分自身、ナポレオンのことをどれだけ正確に知っているだろうかと自問してみる。妻はジョゼフィーヌとマリー・ルイーズ。では19世紀西欧諸国の代表的な人物の配偶者の名前は?リンカーンはメアリー・トッド・リンカーン。ヴィクトリア女王はアルバート・オブ・ザクセン・コーブルク・ゴータ。プロイセンのビスマルクの妻になるとあまり有名ではない。名前はヨハンナ・フォン・ビスマルクという。旧姓ヨハンナ・フォン・プットカマー。Johanna von Puttkamer。1824-1894
忠臣蔵で松の廊下、浅野内匠頭を羽交い絞めにして刃傷をとめたため世間から一生非難され続けた不運な男、梶川与惣兵衛がいた。大津事件の向畑治三郎と北駕市市太郎も梶川と同じような運命をたどった。1891年5月11日、ロシア皇太子ニコライが大津で警官・津田三蔵に斬りつけられた。この事件で重傷を負った皇太子を助けた2人の人力車の車夫は国民的英雄となった。ロシアからは一時金2500円と終身年金1000円が贈られた。日本政府からも勲章と年金36円というご褒美が与えられ、大金持ちになった。だが、1904年、日露戦争が始まると状況は一変した。敵国のロシア皇帝が、かつて彼らが助けたロシア皇太子だったからである。もちろんロシア側から支給されていた年金も取り消された。2人は世間の羨望と妬みの対象となった。向畑は博打と女などの遊興に明け暮れ金を浪費した。70歳を過ぎると少女暴行事件で勲位も剥奪され、1928年74歳で死去した。独身だった北駕市には妻になりたいという女性が殺到した。彼は車夫をやめて郷里の加賀市で、田畑を買い堅実に暮らした。しかし日露戦争が始まると世間から「露探」と呼ばれ白い眼で見られた。堪りかねた北駕市は「そんなに露探というなら俺を兵隊にとってくれ、そうでないことを戦場で証明してやる」と言った。1914年に54歳で死去。
渡辺水巴(わたなべすいは、1882-1946)。本名は渡辺義。明治15年6月16日、東京浅草小鳥町に生まれる。父は日本画家の渡辺省亭(わたなべせいてい、1851-1918)、母きく。水巴の江戸趣味、気質、性行はこの父に負うところが大きい。明治32年、日本中学校3年修業後退学、翌33年初春、19歳にて俳句に志し、翌34年初夏、内藤鳴雪に入門、のち高浜虚子にも選評を受け、終生職を持たなかった。明治39年5月、「俳諧草紙」創刊主宰、明治42年1月同誌廃刊、12月内外出版協会発行「文庫」に合流、明治43年8月「文庫」廃刊後は「智仁勇」俳壇を担当した。大正2年10月、情調本位の俳句を標榜して曲水吟社を設立。大正5年10月、曲水吟社より「曲水」を創刊、以後没するまで主宰した。この間、水巴編「鳴雪句集」を俳書堂より刊行(明治42年1月)、曲水文庫第1編「水巴句集」(大正4年2月)水巴編「虚子句集」が植竹書院より刊行され、また雑詠復活後のホトトギスにおいても活躍、蛇笏、鬼城、石鼎、普羅などとともに大正前期の同誌のにない手となった。大正7年4月、父省亭死去、経済的に父の庇護を受け、またみずから父を敬愛するところ深かったので、その死は大きな転機となり、従来の江戸趣味的な唯美調に人間的重みを加えている。大正11年1月、片桐花子と結婚したが、これは失敗で、昭和2年8月離婚。昭和4年、長谷川きく子(長谷川桂子)と結婚。昭和20年4月、強制疎開のため藤沢市鵠沼7327へ仮寓、翌21年8月1日夜、発病臥床、13日朝没した。病名腸閉塞症。法名夏岳院正心義道居士。享年65歳。浅草今戸潮江院に埋葬。
ほんの少し家賃下がりぬ蜆汁
「水巴句集」所収。「蜆」(春)の句。下町情緒纏綿たる句である。庶民感情のさながらに伝わる。ほんの少しばかりでも家賃のさがったことは食膳の語らいにやすらぎを与える。蜆は安価であるし、味噌汁にして美味。一般の食膳を賑わし、親しまれている。
渡辺省亭(1851-1918)は嘉永4年、江戸神田佐久間町に生まれる。本名は吉川義復。父吉川長兵衛は蔵前の札差で、歌人でもある。22歳で父の歌友渡辺光枝の養嗣子となる。酒井抱一、柴田是真に傾倒し、菊池容斎(1787-1878)の門下となる。起立工商会社で図案を描いていたが、明治10年第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受ける。翌11年、パリ万国博覧会を機に日本画家として初めてヨーロッパに遊学する。印象派が旗上げされつつある西欧の近代絵画の息吹きに触れて帰国し、明治時代の挿絵界の興隆期に活躍した。山田美妙の小説「蝴蝶」(明治22年)では主人公の女性が裸体で武者と対面する場面を描いた挿絵が当時話題となり、明治22年11月、内務省は裸体画取締令を出した。省亭はパリ留学経験から裸体画を試みたらしいが、明治期の黒田清輝の「朝妝事件」(明治28)よりも6年も前の裸体画論争であった。明治20年代中葉から「美術世界」の主筆として健筆をふるうが、晩年は画壇に属さず、悠々自適の生活を送り、いつしか忘れ去られた。67歳で没す。
渡辺水巴が大正5年に創刊した俳誌「曲水」は没後も、主宰は妻の渡辺桂子、次女の渡辺恭子(昭和8年生)へと受け継がれている。
1945年、第二次大戦が終わると、これまで厳重な鎖国政策をとり続けていたネパールが開国し、1950年、ネパール入りしたフランス隊は、たった一度の攻撃で、人類初の8000m峰アンナブルナに初登頂してしまった。これを皮切りに53年、世界最高峰エベレストが悲願のニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとテンジンによってようやく落ち、同年、ナンガパルバットもドイツ・オーストリア隊によって登られた。こうして第二次大戦前には1つとして登られなかった8000m峰が、次々と登られ、56年5月9日、日本隊も宿願のマナスルの初登頂に成功した。そしてチベット領内にそびえる8000m峰の最後を飾るゴサインタンが、64年、中国隊によって登られた。これをもってヒマラヤの黄金時代はあっけなく去った。1970年5月11日、松浦輝夫、植村直己が日本人とし初登頂に成功する。そして、100座を超す7000m峰も、目ぼしいものはほとんど登りつくされ、新しい処女峰を地図の上で見つけることもむずかしくなった。これからはすでに登られた山の別ルートによる開拓、とくにカラビナ・ハーケン・アイゼンなどを用いる人工登山、すなわち鉄の時代にはいりつつある。またスキーを使った娯楽・スポーツといった観光化と、ヒマラヤはしだいに大衆化しようとしている。
露土戦争に参戦したルーマニアが1877年のこの日、オスマン帝国からの独立宣言をする。4年後ルーマニア王国が成立した。
ルーマニアは、ドナウ川の北岸に位置し、黒海に面した国で、日本の本州程度の広さを有する。ルーマニアとは「ローマの」の意味である。古代ローマ帝国による植民地ダキア州を起源とし、周囲がハンガリーを除いてスラブ民族国家であるのに対して、ラテン系の民族島を形成している。(5月9日)
5月9日は「アイスクリームの日」。今では暑くても、寒くても一年中アイスクリームを食べる人が多くなった。アイスクリームが嫌いという人はあまり聞いたことがない。アイスクリームのそもそものルーツは諸説あるが、古代ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼる。冬の間に降った雪や、自然にできた氷を保存し、蜜などを加えたものを戦場で戦っている兵士に疲労回復の健康食として供したのが始まりといわれる。ほかに中国が起源とする説もある。13世紀の終わりころ、中国でアイスクリームを食べたマルコ・ポーロが帰国後、そのつくり方をイタリアに伝えたといわれる。楽聖ベートーヴェンもアイスクリームが好きだった。「今年の冬は暖かいので氷が少なく、アイスクリームが食べられるかどうか心配だ」と日記に書いている。日本でアイスクリームが広まるのは明治になってから。米国で製法を学んだ出島松蔵が明治6年、明治天皇にレイシの果物と共に「あいすくりん」を献上したのが始まりである。
1945年のこの日、ドイツ国防軍作戦部長のアルフレート・ヨ―ドルは連合軍アイゼンハワーの司令部に赴き、降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた。翌11時にはベルリン市内のカールスホルストの工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテルと連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。これによりドイツとイタリアの2国の枢軸国が連合国側に無条件降伏し、欧州戦線は終結した。(5月7日)
本日は「ゴムの日」。 物を束ねたりする時などに用いる輪状のゴム。日本語ではゴムバンドというが英語ではラバーバンド。ドイツ語でグンミリング、フランス語でエラスティーク、ロシア語でリズィーンカ。
イギリスの馬車製作工だったトーマス・ハンコック(1786-1865)は、馬車の乗客を保護したいと防水布に興味をもち、1819年までに数々のゴム液を使って実験をしていた。輪ゴムは1820年、中南米の先住民族が使用していたゴム製の袋を薄く輪切りにすることで、靴下や服の袖を止めるのに利用できることを発見したことに始まる。
加硫ゴムの特許を得たのは、1843年11月21日のことで、アメリカのチャールズ・グッドイヤー(1800-1844)の8週間前のことである。加硫ゴムの発明によりゴムはべたつきにくくなり、タイヤ・ホース・靴の踵が効率的に製造できるようになった。( rubber band,Thomas Hancock,Charles Goodyear,Stephen Perry ) 5月6日
江戸幕府は長崎出島を通じて西洋の文物を移入したので、オランダ語を語源とした、いまでも日常生活で普通に使われている外来語が日本語の中に多く入っている。たとえば「卑怯者のレッテルを貼られる」の「レッテル」。もともとオランダ語の「letter」。「お転婆」は「ontembaar」(手に負えないの意)。「博多どんたく」は「zondag」。「エレキテル」は「elektriciteit(電気の意)」は最も人々を驚かし江戸の和製洋語ブームが起こった。平賀源内は蘭語を学んで、身の回りの道具に、いろいろ西洋風の名をつけて楽しんでいた。たとえば、自分の発明した、くるくる振りまわして蚊をとる機械は、「マアストカアトル」、つまり「まわすと蚊をとる」という洒落である。源内の周囲では、一時、こうした和製の洋語が流行していたという。糊を包んで、隅に穴をあけ、押し出して使う「万年糊」のことは「オストデール」。また、もの忘れのひどい人のことを、「スポントワースル」などと名づけてよろこんでいたらしい。(理斎随筆)
インキ inki
カンテラ kandelaar
カンテル kamfer
コーヒー coffee
コック kok
コップ kop
ゴム gom
コンパス kompas
サーベル sabel
サテン satijn
シロップ siroop
スコップ schop
ズック doek
ソーダ soda
ソップ soup スープ
ビール bier
ベンガラ bengala
ホース hoos 水を送る管
ポンズ pons ポン酢
ポンプ pomp
マッチ match
マドロス matroos 船員
モートル motor モーター
ラッパ
ランドセル ransel
ランプ lamp
リュウマチ rheumatisch
参考:斎藤静「日本語に及ぼしたオランダ語の影」 1967年
左からリンゼイ・ショウ、イーサン・ペック、メガン・ジェット・マーティン
本日のBSプレミアムはグレゴリー・ペック主演の西部劇「無頼の群」(1957年)。ペックはニューシネマ全盛の70年代においても孤軍奮闘、「レッド・ムーン」「マッケンナの黄金」など西部劇映画の主演作品を残した。グレゴリー・ペックの孫イーサン・ペックが「恋のからさわぎ」などドラマで俳優として活躍している。新作は「The Selection」で、イーサンは大勢の女性たちの憧れの王子さまを演じる。祖父のような大スターになれるだろうか。ペックは2度の結婚で5人の子どもがいる。最初の妻はペックがニューヨークの劇団員時代に化粧係をしていたフィンランド系の女性で5歳年上のグレタ・クッコネン(1911-2008)。ジョナサン、スティーヴン、カーリーという3人の男子が生れた。2番目の妻はフランス人記者ヴェロニク・パッサーニ(1932-2012)というフランス人記者で2人の子が生れている。長男ジョナサンはテレビのレポーターとして活躍していたが、1975年に謎の拳銃自殺を遂げている。俳優イーサン・ペックは次男スティーヴンの子である。
1889年5月5日、パリのエッフェル塔が公開された。フランス政府はフランス革命100周年にあたるこの年に開催するパリ万博の目玉にエッフェル塔の建設を決定した。ところが作家、詩人など約50人が、「パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と大変な剣幕で連名の陳情書が出された。陳情書には作家のアレクサンドル・デュマ・フィス、ギ・ド・モーパッサン、ジョリス・カルル・ユイスマンス、作曲家のシャルル・グノー、画家のエルネスト・メイソニエ、詩人のフランソワ・コペー、シュリー・プリュードムらが名を連ねていた。とくにモーパッサンのエッフェル塔嫌いは有名で、「工場の煙突のように滑稽でうすっぺらな生まれぞこないの横顔をみせる、巨大で不格好な骸骨」と罵った。1889年3月31日、エッフェル塔は完成した。
ところが1889年5月6日、エッフェル塔が公開されると大評判となり、とくにレストランは美味しい料理と上等のワインで大賑わいであった。あるとき新聞記者がエッフェル塔に取材に行くと、なんと反対運動をしたモーパッサンがレストランにいた。それを見た記者は「あんなに反対したのに、やっぱり出来てみればあなたもこの塔が気に入ったのですね」と話しかけた。ところが流石はモーパッサン。落ち着きはらって「ここがパリでエッフェル塔が見えない唯一の場所だからね」と平然と答えたという。
( keywod;Alexander Gustave Eiffel,Maupasant,Alexandre Dumas,Jons Karl Huismans,Charles Fracois Gounod,Jean Louis Ernest Meissonier,Francois Coppee,Sully Prudhomme )
朝日新聞しつもん!ドラえもん「田んぼで米づくりがはじまった弥生時代。どうして弥生とよばれるようになったのかな」答えは、「この時代の土器がでた地名から」もちろん知っていた。ではなぜ「縄文は大森ではないのか?」と考える。ふつう考古学では初めて遺物が出土した地名を命名されることが多い。オーリニャック、グラヴェット、マドレーヌ、ソリュートレ、タルドノワ、ムスティエなどみなフランスの地名である。「弥生」は東京都文京区にある弥生町。縄文土器の発見者はエドワード・モース(1838-1925)である。彼は発見から2年後の1879年に刊行した本の中で「cord marked pottery」としている。1886年に白井光太郎(1863-1932)が「縄紋土器」とし、1888年に神田孝平が「縄文土器」とした。しかし坪井正五郎(1863-1913)は「貝塚土器」と名称を使い、「貝塚土器」のほうが一般的であった。浜田耕作(1881-1938)が「縄紋土器」を使った。今日では、「弥生土器」と対比するため「縄文土器」「縄文文化」という語が用いられる。
狩猟漁撈採集を生業とする縄文時代は竪穴式住居で暮らし、多くの土地では、ある程度生活すると資源が枯渇します。食べるものがなくなると、別の土地に移動して、しばらくしてまた枯渇したら元の土地に戻ってくる・・・というサイクルを繰り返していました。しかし石川県の真脇遺跡では、縄文時代前期の約6000年前から2500年前より、約4000年にわたって人々が同じ土地で生活していたことがわかっています。そして集団漁業によりイルカを食べていたそうです。また国内最大級の環状木柱列が発掘され祭祀をもった文明と考えられる。
本日は「名刺の日」。May(メイ)と四(し)で「めいし」の語呂合わせ。日本のサラリーマンが必ず持っているもので、欧米ではあまり見られないものに名刺がある。だが世界で最初に名刺が使われたのはヨーロッパで、16世紀のドイツが起源といわれている。当時、人を訪ねていって不在だった場合、自分の名前を書いたカードを残していったのが名刺の始まり。その後18世紀、名刺はヨーロッパ社交界で盛んになる。この頃の名刺は銅版画を入れた美しいものが流行った。
官僚制度が古くから発達した中国では名刺の起源は、少なくとも秦の末期に遡ることができる。漢代には「刺」「謁」と言い、謁見を求める者の姓名と身分を札に記して、取り次ぎを要請するのに使われた。三国、唐と「名謁」「名刺」と呼ばれ、宋代以降「名帖」「名紙」「拝帖」などの呼称がある。近年、古い名刺が墓から出土している。1984年に呉の武将、朱然(182-248)の名刺が発見された。「丹陽朱然再拝 問起居 字義封」と墨書してあり、木簡の長さは24.8㎝、幅3.4㎝。(参考:「漢晋時期における名謁・名刺」呂静香、程博麗、東洋文化研究所紀要160、「人間関係のはじまり」貝塚茂樹 1971、5月4日)
明治43年のこの日、乾いた強い西風が吹いており、午後1時少し前に菓子製造工場から発生した火事は暴風に煽られて飛び火、国道の北側から海岸付近までの大部分と旧線路通りの北側の一部、さらに堤川を越えて対岸の柳原遊郭(現港町付近)焼き尽くし、ようやく4時間半後に鎮火した。この大火で5246戸が焼失したが、民家のみならず市役所、市民病院、郵便局、郡役所、警察署、市立図書館などのほか、新町尋常小学校、橋本尋常小学校、善知鳥神社、聖アンデレ教会など多数の建物が失われた。(5月3日)
「マウリッツハイス美術館」オランダのデン・ハークにある美術館。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を所蔵する。▽「マアリブ(イエメン)」シバの女王ビルキスの居城(前10世紀頃)があったとされるアルシュ・ビルキスなどの遺跡がある。▽インドのマウシンラムは世界一雨が降る町。▽「マウマウ団(ケニア土地自由軍)」指導者デダン・キマジ・ワキウリによる1952年から植民地ケニアで起こった民族主義的独立運動。▽「纒向遺跡」奈良県桜井市にある纒向遺跡は弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。初期の大和政権の本拠地といわれ邪馬台国大和説の有力候補地。2013年に国の指定史跡となる。▽「益田岩船」奈良県橿原市にある巨大な石造物。占星術のための天体観測台という説があるが、確かなことは不明。▽「マアト山」金星にある高さ約8000mの山。▽「マクマード基地」アメリカ合衆国の南極観測基地。▽「真脇遺跡」縄文時代の代表的遺跡。大量のイルカの骨、土面、彫刻木柱、巨大木柱根などが発掘された。▽「マングローブ」南国の海岸の象徴的な景観であるマングローブとは、木の種類の名前ではなく、熱帯・亜熱帯地域の河口に紅樹林を構成する森林のことである。▽「マンサ・ムーサ」在位1312-1337。マリ王国の王。▽「マンサブザール制」16世紀後半、インドのムガル帝国のアクバル帝が定めた軍人の位階制。32段階の官位(マンサ)が定められ、この官位に応じて俸禄が支給された。(まままま)
マアト山
マアリブ
マイアミビーチ(フロリダ州)
舞子
マイセン
マイソール戦争
毎日新聞
マイノリティ
マイヨール
マインツ
マウシンラム
マウナケア山(ハワイ)
マウナロア山(ハワイ)
マウマウ団の乱
マウリア王朝
マウリッツハイス美術館
マウントアイザ(オーストラリア)
馬王堆漢墓
マオリ人
蒔絵
マカオ
曲垣平九郎
マガダ
マーガレット(木春菊)
牧野富太郎
纒向遺跡
マキャヴェリ
マグデブルクの半球
マーク・トウェーン
マグナ・カルタ
マグニツキ―法
マグマオーシャン
マクマーティン保育園裁判(1983年)
マクマード基地
マクロ経済学
マクワウリ
枕草子
マクンバ
マケドニア
マサゲテ
マザー・シプトンの洞窟
正岡子規
マザラン
益子焼
マジノ線
マジャパヒト王朝
マジャール人
マーシャル・プラン
魔女狩り
増鏡
マスカレイド(仮面舞踏会)
マスクラット
益田岩船
マーストリヒト条約
磨製石器
マゼラン
マゾヒズム
マダガスカル共和国
町年寄
マチュ・ピチュ
松尾芭蕉
マッカーサー
マッキンリー
マッシュルーム
マディソン郡
マーティン・マルプレレット論争
マテーラの洞窟住居
曲直瀬道三
間部詮房
マニュファクチュア
マニラ
マヌ法典
マネ
間引き
マーピラの反乱
マフディー派
マホメット
間宮海峡
マヤ文明
マラウィ共和国
マラッカ
マラトンの戦い
マラヤ
マラヤーラム語
マリア・ルース号事件
マリ王国
マリ共和国
マリ文書
マリモ
マルクス
マルコポーロ
マルサス
マルジュ・ダービクの戦い
マルドゥク
マルヌの会戦
マルピーギ小体
マルファン症候群
丸山ワクチン
マレーシア
マレンコフ
真脇遺跡
漫画
マングース
マングローブ
マンサブダール制
マンサ・ムーサ
マンジケルトの戦い
満州国
満州事変
満州文字
マンチェスター
マンティネイアの戦い
マンディンゴ
政所
マンハッタン
万宝山事件
万年筆
万葉集
1707年のこの日、イングランドとスコットランドが合併しグレートブリテン王国が成立した。最初の君主はアン女王(在位1707-1714)。イギリスについて知らないことは多い。先ず一つ目はロンドンの地名の由来。ケルト人がテムズ河畔に建てたロンディニウムに起源があるらしいが、専門書にもあまり起源がはっきりしないとある。二つ目がマグナ・カルタ(大憲章)。ジョン失地王が国内で重税を課して貴族・国民の反感を買った。マグナ・カルタが2015年に制定800年を迎えるのを前に謎解明のためのプロジェクトをつくるそうである。三つがシャーロット妃、プリンセス・オブ・ウェールズ。ダイアナ妃は誰でも知っているが、1817年に男子を死産した後、間もなく21歳で死んだシャーロット妃に関してはほとんど資料がない。
ロンドンの地名の由来については、ラテン名であるロンディニウム(Londinium)がもともとケルト語のリィンディン(Lyndyn 沼沢地の砦)にその語源があるという。ロンドンの起源は、おそらくテムズ河畔に住みついたケルト人の集落であろう。紀元前55年のカエサルの軍勢がこの地に押し寄せたとき、すでに砦を擁した要害の地であったという。のちに紀元43年、ローマ皇帝クラウディウスのときローマ人によって建造物が造られた。(5月1日)
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