ロバート・バンクス・ジェンキンソン
イギリスのボリス・ジョンソン首相が結婚式を挙げたことが明らかになった。首相在任中の結婚は200年ぶりというニュース。1822年当時のイギリス首相は第22代のロバート・バンクス・ジェンキンソン(1777-1828)でメアリー・チェスターと再婚している。リヴァプール卿。トーリー党。当時はナポレオン戦争が終結し、ウィーン体制が構築された。Robert Jenkinson
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イギリスのボリス・ジョンソン首相が結婚式を挙げたことが明らかになった。首相在任中の結婚は200年ぶりというニュース。1822年当時のイギリス首相は第22代のロバート・バンクス・ジェンキンソン(1777-1828)でメアリー・チェスターと再婚している。リヴァプール卿。トーリー党。当時はナポレオン戦争が終結し、ウィーン体制が構築された。Robert Jenkinson
ロンドン大学東洋アフリカ研究室のニッコール教授は、秦始皇帝は古代ギリシア彫刻の巨像を観て衝撃を受け、それと同じものを青銅で造らせたといっている。始皇帝以前の中国には等身大の彫像は存在しなかった。つまり古代ギリシア文明との接触により、あの兵馬俑にある8000体もの像が造られたと説いている。前4世紀アレクサンドロスの遠征によって、大勢のギリシア人が移住し、西北インドのガンダーラ地方ではヘレニズム風の仏像が作られた。
様式とは何か。民族や時代がさまざまな様式を生み出すが、そのスタイルは模倣され伝播する。ギリシア様式、ヘレニズム様式、ローマ様式、これらの様式には明白な移り変わりが確認できる。ヴァチカン博物館にあるラオコーン像。この像の制作の年代については、紀元前160年から紀元後20年までと考えられている。この作品はオリジナルな彫像なのか、他の彫像の模倣なのかも不明である。紀元前200年にペルガモン王国で制作された銅像がオリジナルであるとする意見もある。秦始皇兵馬俑の制作時期は紀元前221年から206年の間と推測されるので同時代の作品とみなすことも可能である。人類の造形への様式や美意識は、地域を超えても影響するものなのかもしれない。等身大の像もさることながら、表現の写実性など共通点がうかがえる。
チェ・ジニ
トロットとは韓国歌謡における演歌である。「愛の迷路」や「離別」など韓国歌謡の多くはキム・ヨンジャや桂銀淑などで日本語訳詞でカバーされているが、原曲は60年代から80年代のヒット曲。「愛の迷路」はチェ・ジニ(崔辰熙)が1983年に歌った。「離別(イビョル)」は日本語歌詞でもお馴染み。「♫時には思い出すでしょう 冷たい人だけど あんなに愛した思い出を忘れはしないでしょう」ブォン・ソンケイ(潘秀瓊)はマカオ生まれで現在も元気でシンガホールに在住しているらしい。
韓国歌謡で有名な歌は「木浦の涙」(1935)イ・ナンヨン(李蘭影、1916-1965)は戦後渡米しラスベガスで活躍したが晩年は不遇でアル中で49歳で亡くなった。韓国歌謡で定番曲は、アン・ジョンエ(安貞愛)の「大田ブルース」(1959)、イ・ソンエ(李成愛)の「カスマブゲ」(1977)など。イ・ソンヒ(李仙姫)の「J」(1984)は門倉有希がカバーして日本でもよく知られる。
朝鮮戦争が終わったあとの1955年「タンジャンのミアリ峠」イ・へヨン(李海燕)が流行した。日本語訳詞では「断腸のミアリ峠」。「連れて行かれたあなた、ミアリ峠は涙の峠、恨み多い峠」ミアリ峠はソウル北東部にあり、朝鮮戦争の激戦地だった。
1970年代、ナ・フナ(羅勲児)とナ・ムジン(南珍)が人気を二分した。現在、ディスコとトロットを融合した「トロットの女神」ホン・ジニョンが人気ある。「愛のバッテリー」「生きるということは」「私の好きなもの」
本日は「広辞苑の日」。新村出(1876-1967)が生前に編纂した広辞苑は初版のみである。掲載された用語は人文系には強いが自然科学系には弱い傾向がみえる。1955年5月25日に広辞苑初版は刊行されたが、初版を引いてみると、「コンピューター」とか「エスエフ(SF)」(科学小説)など日常よく使用される外来語が載っていない。14年後の1969年刊行の第二版に多くの外来語が追加された。外来語としては未だ日本語に定着していないものの、専門の技術者たちは「コンピューター」について研究していた。中尾伸二「コンピューター経営学 電子計算機を100%活かす法」(ブルーバックス)が刊行されたのは翌年のことである。
マヨネーズはフランス語であるが、語源に関しては諸説ある。①地名マヨルカ島 ②地名メノルカ島のマオン。③人名パドリス・ド・マクマオン将軍(1808-1893)。現在のところ、②のスペイン語「マオンのソース」がフランスに広まり、マオンネーズと呼ばれ、マヨネーズになったというのが最も有力とされている。
サンテレビで「王の顔」を放送中。チョ・ユニ演じる貧しい出自ながらその美貌で光海君の寵愛を受けて尚宮に上り詰めるケトン。金介屎(キム・ゲシ)は「きんかいし」と読む。変な名前だと思ったら、朝鮮語の「犬の糞」という意味。悪女として名高く、国政に関与し、政敵を落とすが、1623年仁祖反正により処刑されるという悲惨な末路をたどる。
連続クイズホールドオン!2013年5月23日の問題。「中国の詩・農を憫(あわれ)む」から生まれた四字熟語。一粒一粒が苦労の結晶であることを「粒々(?)」35歳の男性回答者「粒々細々」×。正解はもちろん「粒々辛苦」米を作る農民の一粒一粒にかける苦労のひととおりでないこと。転じて、ある仕事の成就にこつこつ苦労を重ねて努力すること。ご飯の一粒一粒、みんなお百姓さんの汗と苦労の賜物だ。ところで四字熟語「粒々辛苦」の出典を初めて知る。李紳は中唐の詩人、政治家。農民が苦しい作業をしてもなお、餓死する者があることを慨嘆し「憫農の詩」で百姓の労苦を詠い、その刻苦勉励ぶりを称えている。もともと律詩であるが、日本では五言絶句として知られている。(訳)春に一粒だけ穀物の種を播くと、秋には万もの実がなる。国内には休耕田はなく農民は精励しているのに、なお餓死しようとしている。稲の間の草を除こうと鋤きかえしていると、太陽は真南に来て、もう昼時である。汗は稲の根元に滴り落ちる。誰が知ってくれよう。食器の中の飯つぶの来歴を。その一粒一粒のすべてが、農夫の苦労の結晶である事を。
フランソワ・ルビック少年は赤い髪とそばかすのある顔のため家族から「にんじん」という仇名で呼ばれている。作者ジュール・ルナールは1910年5月22日、46歳で亡くなっている。原題は「Poil de Carotte」(ボアル デ カロットゥ)「にんじんのような毛」を「赤毛」と訳されたが、「にんじん」で定着した。
英語carrot(キャロット)、仏語carotte、ドイツ語Karotte(カロッテ)、スペイン語Zanahoria(サナオリア)、イタリア語carota(カロータ)、スウェーデン語morot(ギリシャムーロット)、ギリシャ語カロート、アラビア語カザル、ロシア語マルコーヘフィ、ラテン語carote((カロト) 。(Jule Renard)
ハイネ、メンデルスゾーン、マルクス、フロイト、ロスチャイルド、アインシュタイン、シャガール、エリア・カザン、キッシンジャー、スティーブン・スピルバーグなどなど。これらの有名人は「白人系ユダヤ人」といわれる。むかしから「白人系ユダヤ人」というのがよく理解でなかった。モーセやダビデ、ソロモン、そしてイエスは非白人(オリエンタル)で人種的に「セム系」と呼ばれている。一般にユダヤ社会では、白人系ユダヤ人を「アシュケナジー系ユダヤ人」と呼び、オリエンタル(アジア・アフリカ系)ユダヤ人を「スファラディ系ユダヤ人」と呼んで区別している。8世紀以前の世界には、ごくわずかな混血者を除いて白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった。それがなぜか8・9世紀を境に突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に登場したのである。いったいなにが起こったのか?それはコーカサスからカスピ海北岸にかって存在した遊牧民国家、ハザール国と大きく関係している。ハザールはイスラーム商人を通じてスラブ人奴隷を輸出して繁栄していた。だが11世紀になると、イスラム帝国とビザンツ帝国が東西に対立、そしてローマ教皇は聖地エルサレム奪回のため十字軍を派遣した。キリスト教とイスラム教の東西両陣営は、ハザール国に圧迫を加えた。そのため、ハザール国王のオベデア王は、国民をまとめてユダヤ教に改宗させた。理由は、キリスト教もイスラム教もユダヤ教を母体にした宗教だから、ユダヤ教は中立国として安全と考えたのである。ハザール国は両陣営からの干渉をなんとか逃れたが、結局10世紀前後にモンゴル人の攻撃を受け、滅亡した。このとき大量の難民が生まれて、西へ西へと移動し、東欧に着いた。これが「アシュケナジー系ユダヤ人」のルーツと考えられる。つまりナチスに虐殺されたほとんどのユダヤ人たちは古代イスラエルの子孫ではなく、ハザール国の末裔であるという説が存在する。しかしこれはあくまで仮説の段階であって、世界史の教科書には記されていない。おそらくユダヤ資本を中心とするアメリカ金融界にとってハザール国の存在は都合の悪い事実なのであろう。(参考:フリエート・二ェヴァ「ハザール謎の帝国」)
1565年のこの日、室町幕府第13代将軍、足利義輝が自害する。大河ドラマ「麒麟がくる」は向井理が演ずる義輝が詳細に描かれているので、人物像が少しわかったが、武術に優れた人物であった。「将軍の器」では義輝の最期が描かれる。永禄8年、松永久通、三好義雄、三好三人衆らは1万の軍勢を率い二条御所に侵入し、義輝を殺す(永禄の変)。義輝の最期については、討ち死説とか自害説などさまざまな説がある。光秀とことあるごとに対立する政所執事、摂津晴門。ゲーム「信長の野望」にも登場したことがないので、彼の知名度は低い。今回片岡鶴太郎の怪演でその知名度は高まった。(5月19日)
【クイズ】1980年から2010年までのアからエの出来事の中から古いものを2つ選び、順に記号で答えよ。
ア さくら銀行と住友銀行が合併し、三井住友銀行に イ 一般消費税導入 ウ リーマンショック エ 山一証券破産
【答え】イエ
映画「ジオストーム」に「ダッチボーイ」という人工衛星が登場する。意味は「オランダの少年」。堤防に穴があいているのを見つけた少年が自分の指で決壊を防いだ話がもとになっている。オランダのアムステルダムに近い町スパールンダムに堤防からの漏水に気がついたハンス・ブリンカー少年の像がある。それはこんな話である。
ある晴れた日の午後、少年は堤防の向こう側の、ハールレムの町はずれに住んでいるおじさんにお菓子を持っていくことになった。おじさんの家で1時間ばかり遊んで、別れをつげて、家路についた。運河のふちを歩いているうち、見れば、秋の長雨で、運河の水が、ひどく増えている。その時、少年は、ちょろちょろ流れる水の音を聞きつけて、はっとした。いったい、どこから聞こえてくるのであろうか。堤防を見上げると、上のほうに小さな穴があいていて、そこからすこしずつ水が流れ出ている。ちょろちょろ水の流れるままにしておけば、この小さな穴が、じきに大きな穴になって、やがて、恐ろしい大洪水になるだろう。とっさのまに、少年は、どうしなければならないかをさとった。少年は、穴にとどくところまで、堤防をよじのぼった。そして夢中で、自分の小さな指をその穴につっこんだ。水は止まった。最初のうちは、まずうまくいった。けれど、そのうち、夜になって、寒さと恐ろしさで震えだした。「だれか来てください」けれど、誰も来なかった。少年は神に助けを祈った。祈りは答えられて、やがて少年の心には、「朝までここを守ろう」という神々しい決意が生まれた。明け方、ある牧師さんが、堤防の上を歩いていた。彼は、何かうめき声が聞こえるように思った。かがんでみると、ずっと下のほうに、ひとりの子供が、苦しみもだえている。「これこれ、何をしてるのだね」と、牧師は叫んだ。「水をとめているんです。」と、けなげな子供は、短く答えた。「みんなに、すぐ来るように言ってください。」そこで、言うまでもなく、村人たちはかけつけてきた。(メアリー・メイプス・ドッジ著「銀のスケート靴」にでてくるオランダの古い話) Spaarndam,Hans Brinker
永野芽郁がクイズ番組に登場し、ナポレオン・ボナパルトの肖像を見て、名前の空欄一文字を入れる問題で苦戦していた。なんとか正解したものの、ナポレオンのことはほとんど知らないという。有名な絵画「アルプス越えのナポレオン」を観てもわからないし、トルストイの「戦争と平和」はもちろん横光利一の短編小説「ナポレオンと田虫」も読んでいないだろう。だが不図、自分自身、ナポレオンのことをどれだけ正確に知っているだろうかと自問してみる。妻はジョゼフィーヌとマリー・ルイーズ。では19世紀西欧諸国の代表的な人物の配偶者の名前は?リンカーンはメアリー・トッド・リンカーン。ヴィクトリア女王はアルバート・オブ・ザクセン・コーブルク・ゴータ。プロイセンのビスマルクの妻になるとあまり有名ではない。名前はヨハンナ・フォン・ビスマルクという。旧姓ヨハンナ・フォン・プットカマー。Johanna von Puttkamer。1824-1894
忠臣蔵で松の廊下、浅野内匠頭を羽交い絞めにして刃傷をとめたため世間から一生非難され続けた不運な男、梶川与惣兵衛がいた。大津事件の向畑治三郎と北駕市市太郎も梶川と同じような運命をたどった。1891年5月11日、ロシア皇太子ニコライが大津で警官・津田三蔵に斬りつけられた。この事件で重傷を負った皇太子を助けた2人の人力車の車夫は国民的英雄となった。ロシアからは一時金2500円と終身年金1000円が贈られた。日本政府からも勲章と年金36円というご褒美が与えられ、大金持ちになった。だが、1904年、日露戦争が始まると状況は一変した。敵国のロシア皇帝が、かつて彼らが助けたロシア皇太子だったからである。もちろんロシア側から支給されていた年金も取り消された。2人は世間の羨望と妬みの対象となった。向畑は博打と女などの遊興に明け暮れ金を浪費した。70歳を過ぎると少女暴行事件で勲位も剥奪され、1928年74歳で死去した。独身だった北駕市には妻になりたいという女性が殺到した。彼は車夫をやめて郷里の加賀市で、田畑を買い堅実に暮らした。しかし日露戦争が始まると世間から「露探」と呼ばれ白い眼で見られた。堪りかねた北駕市は「そんなに露探というなら俺を兵隊にとってくれ、そうでないことを戦場で証明してやる」と言った。1914年に54歳で死去。
渡辺水巴(わたなべすいは、1882-1946)。本名は渡辺義。明治15年6月16日、東京浅草小鳥町に生まれる。父は日本画家の渡辺省亭(わたなべせいてい、1851-1918)、母きく。水巴の江戸趣味、気質、性行はこの父に負うところが大きい。明治32年、日本中学校3年修業後退学、翌33年初春、19歳にて俳句に志し、翌34年初夏、内藤鳴雪に入門、のち高浜虚子にも選評を受け、終生職を持たなかった。明治39年5月、「俳諧草紙」創刊主宰、明治42年1月同誌廃刊、12月内外出版協会発行「文庫」に合流、明治43年8月「文庫」廃刊後は「智仁勇」俳壇を担当した。大正2年10月、情調本位の俳句を標榜して曲水吟社を設立。大正5年10月、曲水吟社より「曲水」を創刊、以後没するまで主宰した。この間、水巴編「鳴雪句集」を俳書堂より刊行(明治42年1月)、曲水文庫第1編「水巴句集」(大正4年2月)水巴編「虚子句集」が植竹書院より刊行され、また雑詠復活後のホトトギスにおいても活躍、蛇笏、鬼城、石鼎、普羅などとともに大正前期の同誌のにない手となった。大正7年4月、父省亭死去、経済的に父の庇護を受け、またみずから父を敬愛するところ深かったので、その死は大きな転機となり、従来の江戸趣味的な唯美調に人間的重みを加えている。大正11年1月、片桐花子と結婚したが、これは失敗で、昭和2年8月離婚。昭和4年、長谷川きく子(長谷川桂子)と結婚。昭和20年4月、強制疎開のため藤沢市鵠沼7327へ仮寓、翌21年8月1日夜、発病臥床、13日朝没した。病名腸閉塞症。法名夏岳院正心義道居士。享年65歳。浅草今戸潮江院に埋葬。
ほんの少し家賃下がりぬ蜆汁
「水巴句集」所収。「蜆」(春)の句。下町情緒纏綿たる句である。庶民感情のさながらに伝わる。ほんの少しばかりでも家賃のさがったことは食膳の語らいにやすらぎを与える。蜆は安価であるし、味噌汁にして美味。一般の食膳を賑わし、親しまれている。
渡辺省亭(1851-1918)は嘉永4年、江戸神田佐久間町に生まれる。本名は吉川義復。父吉川長兵衛は蔵前の札差で、歌人でもある。22歳で父の歌友渡辺光枝の養嗣子となる。酒井抱一、柴田是真に傾倒し、菊池容斎(1787-1878)の門下となる。起立工商会社で図案を描いていたが、明治10年第1回内国勧業博覧会で花紋賞を受ける。翌11年、パリ万国博覧会を機に日本画家として初めてヨーロッパに遊学する。印象派が旗上げされつつある西欧の近代絵画の息吹きに触れて帰国し、明治時代の挿絵界の興隆期に活躍した。山田美妙の小説「蝴蝶」(明治22年)では主人公の女性が裸体で武者と対面する場面を描いた挿絵が当時話題となり、明治22年11月、内務省は裸体画取締令を出した。省亭はパリ留学経験から裸体画を試みたらしいが、明治期の黒田清輝の「朝妝事件」(明治28)よりも6年も前の裸体画論争であった。明治20年代中葉から「美術世界」の主筆として健筆をふるうが、晩年は画壇に属さず、悠々自適の生活を送り、いつしか忘れ去られた。67歳で没す。
渡辺水巴が大正5年に創刊した俳誌「曲水」は没後も、主宰は妻の渡辺桂子、次女の渡辺恭子(昭和8年生)へと受け継がれている。
露土戦争に参戦したルーマニアが1877年のこの日、オスマン帝国からの独立宣言をする。4年後ルーマニア王国が成立した。
ルーマニアは、ドナウ川の北岸に位置し、黒海に面した国で、日本の本州程度の広さを有する。ルーマニアとは「ローマの」の意味である。古代ローマ帝国による植民地ダキア州を起源とし、周囲がハンガリーを除いてスラブ民族国家であるのに対して、ラテン系の民族島を形成している。(5月9日)
1945年のこの日、ドイツ国防軍作戦部長のアルフレート・ヨ―ドルは連合軍アイゼンハワーの司令部に赴き、降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた。翌11時にはベルリン市内のカールスホルストの工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテルと連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー元帥が降伏文書の批准措置を行った。これによりドイツとイタリアの2国の枢軸国が連合国側に無条件降伏し、欧州戦線は終結した。(5月7日)
江戸幕府は長崎出島を通じて西洋の文物を移入したので、オランダ語を語源とした、いまでも日常生活で普通に使われている外来語が日本語の中に多く入っている。たとえば「卑怯者のレッテルを貼られる」の「レッテル」。もともとオランダ語の「letter」。「お転婆」は「ontembaar」(手に負えないの意)。「博多どんたく」は「zondag」。「エレキテル」は「elektriciteit(電気の意)」は最も人々を驚かし江戸の和製洋語ブームが起こった。平賀源内は蘭語を学んで、身の回りの道具に、いろいろ西洋風の名をつけて楽しんでいた。たとえば、自分の発明した、くるくる振りまわして蚊をとる機械は、「マアストカアトル」、つまり「まわすと蚊をとる」という洒落である。源内の周囲では、一時、こうした和製の洋語が流行していたという。糊を包んで、隅に穴をあけ、押し出して使う「万年糊」のことは「オストデール」。また、もの忘れのひどい人のことを、「スポントワースル」などと名づけてよろこんでいたらしい。(理斎随筆)
インキ inki
カンテラ kandelaar
カンテル kamfer
コーヒー coffee
コック kok
コップ kop
ゴム gom
コンパス kompas
サーベル sabel
サテン satijn
シロップ siroop
スコップ schop
ズック doek
ソーダ soda
ソップ soup スープ
ビール bier
ベンガラ bengala
ホース hoos 水を送る管
ポンズ pons ポン酢
ポンプ pomp
マッチ match
マドロス matroos 船員
モートル motor モーター
ラッパ
ランドセル ransel
ランプ lamp
リュウマチ rheumatisch
参考:斎藤静「日本語に及ぼしたオランダ語の影」 1967年
1889年5月5日、パリのエッフェル塔が公開された。フランス政府はフランス革命100周年にあたるこの年に開催するパリ万博の目玉にエッフェル塔の建設を決定した。ところが作家、詩人など約50人が、「パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と大変な剣幕で連名の陳情書が出された。陳情書には作家のアレクサンドル・デュマ・フィス、ギ・ド・モーパッサン、ジョリス・カルル・ユイスマンス、作曲家のシャルル・グノー、画家のエルネスト・メイソニエ、詩人のフランソワ・コペー、シュリー・プリュードムらが名を連ねていた。とくにモーパッサンのエッフェル塔嫌いは有名で、「工場の煙突のように滑稽でうすっぺらな生まれぞこないの横顔をみせる、巨大で不格好な骸骨」と罵った。1889年3月31日、エッフェル塔は完成した。
ところが1889年5月6日、エッフェル塔が公開されると大評判となり、とくにレストランは美味しい料理と上等のワインで大賑わいであった。あるとき新聞記者がエッフェル塔に取材に行くと、なんと反対運動をしたモーパッサンがレストランにいた。それを見た記者は「あんなに反対したのに、やっぱり出来てみればあなたもこの塔が気に入ったのですね」と話しかけた。ところが流石はモーパッサン。落ち着きはらって「ここがパリでエッフェル塔が見えない唯一の場所だからね」と平然と答えたという。
( keywod;Alexander Gustave Eiffel,Maupasant,Alexandre Dumas,Jons Karl Huismans,Charles Fracois Gounod,Jean Louis Ernest Meissonier,Francois Coppee,Sully Prudhomme )
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