北方の探検と蝦夷地対策
天明6年ころから幕府の命により蝦夷地の調査がはじまり、大石逸平、最上徳内、近藤重蔵、中村小市郎、高橋次太夫、松田伝十郎、間宮林蔵らが活躍する。
1785年 最上徳内、蝦夷地探検
1786年 最上徳内、蝦夷地探検
1798~99年、近藤重蔵、最上徳内の探検
1800年、伊能忠敬の測量
1807年、近藤重蔵の探検
1808年、間宮林蔵の探検
1845年、松浦武四郎の探検
松浦武四郎は1818年、伊勢国一志郡須川村(現・松阪市)の郷士として生まれる。10歳頃から諸国遍歴の志を抱き、1832年に江戸に出たのを契機に、翌年から本州、四国、九州の名跡、山岳をくまなく巡り、探検を志す。最初に蝦夷地へ渡ったのは1845年で、西蝦夷の瀬棚まで到達したが旅人取締が厳しく箱館へ引き返す。ここで松浦家家臣の計らいによって、東蝦夷の知床岬まで探検することができた。翌年には北蝦夷地(樺太)勤番役の従僕として樺太探検を果たす。さらに1849年には国後、択捉両島を探検し、この頃から蝦夷地として広く知られるようになった。1855年箱館奉行になった堀利熙の推挙により、同年12月幕府御雇に登用された。蝦夷地の上地により、翌年蝦夷地請取役向山源太夫手付として蝦夷地を一周し、さらに1857年に東西蝦夷山地理取調御用を命ぜられ、主要河川を遡って内陸部まで詳細な調査を行い、報文日誌を作成している。1859年御雇を辞任して著述生活に入ってからも数多くの著作を刊行した。
新政府誕生後、1868年東京府付属、次いで翌年には開拓使判官に任用され、北海道名及び国郡名の選定などを行ったが、アイヌ救済など政府の政策に同調できず、翌年辞任と同時に従五位の官位も返上する。その後は全国遊歴と著述で余生を送り、1888年東京神田の自邸において没した。
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