2枚のマハの絵
1826年のこの日、スペインの画家フランシスコ・ホセ・ゴヤの忌日。半世紀も前の話である。小学校の図書の時間で、私は画集からゴヤ「裸のマハ」を目ざとく見つけ出し、同級生たちとワイワイふざけていた。光に包まれた美しい肉体は小学生の目にも、リアルな実在感があり、芸術開眼の瞬間だった。「マハ」には着衣と裸体の2点がある。まったく同じモデルを、同じ寸法で描いたものだが、「裸のマハ」は西洋美術で、初めて実在の女性の陰毛を描いた作品でもある。かつてこの名画はスペインの宰相であるマヌエル・デ・ゴドイ(1767-1851)が所蔵するものだった。ゴドイは世界史においてきわめて重要な人物であるが、なぜか日本ではあまり知られていない。本名がマヌエル・デ・ゴドイ・イ・アールバレス・デ・ファリアと長くて覚えられない名前だからだろうか。
スペイン・ブルボン王朝の第5代の王カルロス4世(在位1789-1808)が即位した年にフランス革命が起きた。王は政治は王妃マリア・ルイサにまかせ、自分は狩猟に明け暮れた。王妃に気に入れたゴドイは、昇進した。ゴドイはルイ16世が処刑されると、フランス革命政府に兵を向けたが、カタルーニャの戦いに敗れ、バーゼル和約を結んだ。だが1804年、ナポレオンが皇帝になると、フランスと同盟を結びイギリスと戦ったが、1805年トラファルガーの海戦で敗れた。1807年、フォンテーヌブロー条約で、スペインからその領土の通過を認められたフランス軍は、スペイン北部も占領した。ゴドイは首相を罷免され、1808年アランフェスの反乱で、ローマへ亡命する。1851年、パリで亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に眠っている。ゴヤの有名な絵画「マハ」のモデルは長い間、アルバ公妃と言われてきたが、近年ではゴドイの愛人ぺピータ・トゥドーではないかという説が有力である。ゴドイ邸では、ふだんは「着衣のマハ」を飾り、ハンドルを回すと「裸のマハ」がくるりと現れるという仕組みになっていたらしい。「マハ」とはゴヤの時代の伊達女の総称である。(Goya,Manuel Godoy、4月16日)
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