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2021年1月 5日 (火)

夏目漱石の生い立ち

    夏目漱石は、慶応3年1月5日(1867年新暦2月9日)、江戸牛馬場下横町の名主(なぬし)夏目小兵衛直克(なおかつ)の五男として生まれ、金之助と名づけられた。1月5日は庚申の日にあたり、その日生まれたものは大泥棒になるが、名前に金の字を入れれば難を避けられるという俗信があったので、夏目金之助という名前が誕生したのだ。

   漱石は雅号で、「枕石漱流」(ちんせきそりゅう)すなわち「石に枕して流に漱ぐ」という中国の故事からつけられたものである。その意味は、「負けおしみ」ということで、他人から変人あつかいされていたので、それから考えついたものである。

   明治元年が慶応4年にあたるので、慶応3年は明治改元の1年前ということになる。つまり、簡単にいうと、明治に生まれたといってよく、大正5年、数え年50歳でなくなったから、明治に生まれ、明治を生きぬいた生粋の明治人、江戸の郷士出身の純粋の江戸っ子といえるだろう。慶応3年生まれというのは、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉の三人もあい前後して生まれており、ともに明治の文豪といわれるようになったのだから、この年は、日本の近代文学史上、記念すべき年である。

   漱石は、父・夏目直克53歳(1817-1897)、母は後妻で千枝40歳(1826-1881)、五男で末っ子である。夏目家は名門で、牛込馬場下横町以下九ヵ町を支配していたいわゆる名主で、紋どころが、井桁に16弁の菊なので、明治になって新たに町名を決める時、喜久井町としたりするくらいの有力者であった。祖父小兵衛直基(1852没)は養子で、武州多摩郡中野邑名主堀江卯右衛門の弟、同州内藤新宿名主高松善六の甥にあたり、高松家を実家として夏目家に入り、道楽者で一代で身代を傾けたといわれる。

   母の千枝は、四谷大番町の質商鍵屋こと福田庄兵衛の三女で、武家奉公をしてきたからさる質屋に嫁したが、まもなく去り、長姉かく(鶴)の婿芝金杉一丁目高橋長左衛門(炭問屋)の養女として28歳の時直克の後妻が来た。これまで、千枝の生家とされていた新宿仲町の遊女屋伊豆橋は、生家を継いだ次姉ひさ(久)一時経営していたものである。漱石の次男伸六が調べた結果、事実、千枝は質屋の娘だったことがわかった。(『父・夏目漱石』所収「漱石の母とその里」)。千枝は、ながく御殿女中をつとめていたことがあり、教養も高かった。漱石は、遺伝的には、母のすぐれているところを受け継いでいるらしい。

    夏目家は名門であったが、維新の変動で、生活がだんだん苦しくなっていった。夏目金之助には、さわ(佐和、1846-1878)、ふさ(房、1852-1915)の異母姉、大一(大助、1856-1887)、栄之助(直則、1858-1887)、和三郎(直矩、1859-1931)、久吉(1864-1865)、ちか(1864-1865)の兄弟があった。末子の出生は祝福されず、生後すぐ四谷の古道具屋(一説によれば源兵衛村の八百屋)に里子に出されたが、やがて連れ戻された。

    慶応4年、金之助、満一歳のときに新宿の名主であった塩原昌之助(29歳)の養子にやられ、9歳のころまで塩原家にやしなわれた。塩原昌之助の父は四谷太宗寺門前の名主で、昌之助が11歳の時死んだので、夏目直克が後見人となり、手元に引き取って書生とし、14歳に至って父の跡目を継がせた。塩原家は内藤新宿北町裏16番地にあった。養母やす(29歳)は武州多摩郡榎戸新出の農榎戸覚左衛門の次男榎本現二の長女で、昌之助との仲人には直克がなったといわれる。

    その後、養家は養父母の間にもめごとが起こったために、実家に養母とともにひきとられたが、籍は21歳になるまで、塩原家に残っていた。つまりこのときまで塩原金之助といっていた。養父との間にゆううつな金銭的交渉が後をひいていたことは、『道草』の中に描かれている。

    この出生を漱石自身がどんな風にうけとめていたかその言葉をひろってみる。

私は両親の晩年になって出来た所謂末ッ子である。(『硝子戸の中』)

先生自身の言葉によれば 「余計な要らぬ子」として遇せられ、生まれ落ちると直ぐに、その頃家に使ってゐた女中の実家へ里子に遣られた(森田草平『漱石の文学』)

何、僕の故家かね、君、軽蔑しては困るよ。僕はこれでも江戸っ子だよ。しかし大分江戸っ子でも幅の利かない山の手だ。牛込の馬場下で生まれたのだ。(談話筆記『僕の昔』)

私は明治維新の丁度前に生まれた人間でありますから、/どつちかといふと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のやふな怪しげなものであります。(講演『文芸と道徳』)

 

 

 

 

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