チャールズ1世の処刑
英国王の名前は、1000年の歴史でもリチャード、エドワード、ヘンリー、ウィリアム、チャールズ、ジョージ、ジョンなど10種類くらいしかない。1649年のこの日、チャールズ1世が清教徒革命で処刑された。12年後、王政復古によりクロムウェルの墓が暴かれ、遺体の首が刎ねられたのも今日である。チャールズ1世は英国史でも有名な国王の1人で、関ヶ原合戦の年に生まれたので、1600年から1649年と生没年が記憶しやすい。
王権神授説を信じたイギリス王チャールズ1世は、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こった。1642年国王は北部のヨークに逃れ、ノッティグガムで兵を挙げた。1642年10月、エッジ・ヒルの戦いは勝敗なく終わったが、議会派にオリヴァー・クロムウェルが現れると、鉄騎兵を編成し、1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦い、1645年6月、ネーズビーの戦いで国王派は敗れ、第1次内戦は終結した。
1647年12月、チャールズ1世はスコットランドへ逃亡し、これと軍事同盟を締結して革命軍に対抗し、第2次内乱が始まった。革命軍は国王軍ならびにスコットランド軍を破り、1648年3月再び国王は囚われた。一旦は脱出したものの、1648年11月、国王はワイド島のカリスブルック城に難を避けた。しかるに議会の多数派なる長老派は王との妥協を決議した。ここにおいて、クロムウェルはプライド大佐(?-1658)に命じて長老派議員140名を議会から締め出して、わずか60名の独立議員(ランプ議会という)で1649年1月1日、国王チャールズ1世の特別裁判所設置法案が可決された。反逆罪で裁かれたチャールズ1世は、1月27日に死刑の判決が下され、1月30日ロンドンのセント・ジェームズ宮殿からホワイトホールの門を出て、ホール前につくられた処刑台に登った。最後まで身につけていた宝石と勲章をカンタベリー大司教に渡し、首切り台に身をかがめると、群衆のうめき声のうちに、チャールズ1世の首がころげ落ちた。
この清教徒革命の後、一旦王政復古になるが、1688年、名誉革命をへて、イギリスの立憲君主制が確立する。(Charles,Henrry,William)
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