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2021年1月27日 (水)

難しい人名漢字

   元科学技術庁長官の浦野烋興(やすおき)氏が、肝細胞がんのため死去された。ところで「烋」という漢字はあまり見慣れない漢字である。意味は「やわらぐ、さいわい、めでたい、よい」現在では人名で使われない漢字である。人名の漢字制限は1946年に戸籍法が改正され、翌年の1947年12月29日から出生届の人名に使用される漢字は当用漢字に限定された。つまり戦前は漢字に制限はなく、自由に難しい漢字が使えた。つまり1947年12月28日以前に生まれた人の名前にはとても難しい漢字でも使用されていた。浦野氏は1941年の生まれで、名前の漢字には自由に使えることができたのだろう。難しい漢字が使われている有名人には南極探検家の白瀬矗(しらせのぶ)がいる。「矗」という漢字をほかで見かけることは少ない。物理学者に桑木彧雄がいる。「あやお」と読む。東洋史学者の桑原隲蔵は「じつぞう」と読む。「隲」という漢字はそれほど難しくはないかもしれないが、現在では人名に使用できない。

 

 

2021年1月26日 (火)

帝銀事件と三菱銀行人質事件

Yohgisha    帝銀事件と三菱銀行人質事件。東京と大阪に起こった2つの事件は51年の隔たりはあるがともに1月26日に発生している。1948年、東京豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員12名が毒殺され、現金・小切手18万1千円が強奪された。警察は毒物の専門的知識を持つ者の犯行として、犯人像を旧関東軍の細菌兵器研究部隊(731部隊)関係者とみていた。ところが事件から7ヵ月後、突如、捜査方針が転換した、8月22日、テンペラ画家平沢貞通が逮捕された。物的証拠がなく、毒物の入手経路も判明しないまま、昭和30年に平沢の死刑が確定した。しかし、死刑は執行されず、平沢は昭和62年95歳で獄死した。
    昭和54年1月26日、三菱銀行北畠支店で強盗事件が発生した。犯人梅川昭美は猟銃で警官と行員4人を殺害し、客らを人質に42時間籠城、28日に梅川は射殺された。

2021年1月24日 (日)

フリードリヒ大王生誕日

2011817102134641  フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテーアの子として生まれた。ドイツは近世になっても中央集権が完成せず、オーストリア大公が皇帝として選出されて、ハプスブルク家が支配していた。しかし、18世紀になると、プロシアのホーエンツォルレン家が強力になり、ブルボン・ハプスブルク家に対立していく。プロシアのフリードリヒ大王(1740-86)とオーストラリアのマリア・テレジア(1740-80)は即位の年も同じで40年もの間、宿敵のライバルとなる。

    オーストリア継承戦争(1740-1748)は、オーストリア皇帝が男子がなくて没したため、相続権を主張するバヴァリア侯、ハプスブルク家の打倒をめざすフランス、亜麻工業の中心地であるシレジアの領有を望むプロシアは同盟を結んで、オーストリアに侵入した。フランスと植民地を争っていたイギリスと、プロシアの強大を恐れるロシアは、共にマリア・テレジアを助け、8年にわたる大戦となったが、アーヘン条約(1748)によって、列国はマリア・テレジアの帝位継承を認め、プロシアはシレジアを得た。8年後、マリア・テレジアはシレジアを回復しようと、国力を養い、ロシア・フランス・スウェーデンを誘って、反プロシア同盟をつくった。これに対して、プロシアはイギリスと同盟を結んだ。いわゆる七年戦争(1756-63)は、プロシアが機先を制してザクセンに侵入、プラーグの戦でオーストリア軍を破り、またプロイセンに侵入したロシア、フランス、スウェーデン、オーストリア軍をロスバッハの戦、ロイテンの戦などで撃破した。その後、イギリスではピットが失脚したため、イギリスの援助を失ったプロシアは苦境に陥った。しかしロシアではピョートル3世(在位1761-62)が即位して、突然プロシアと和睦し、次いでイギリス・フランスも和を講じたため、マリア・テレジアもフベルツスブルク条約を結んで(1763)、ついにプロシアのシレジア領有が確認され、戦争は終結した。

   オーストリアのハプスブルク家は、ドイツ皇帝としての勢力は失っていったが、一方その領地であるオーストリアでは、漸次支配力をつよめ、18世紀後半マリア・テレジアとその子ヨーゼフ2世(在位1780-90)のときに、専制主義を確立した。しかしその支配地には異民族が多くて、封建的要素を多分に残したまま衰退していった。(FriedrichⅡ) 参考:「フリードリヒ大王 祖国と寛容」世界史リブレット人 屋敷二郎著 山川出版社 2016

2021年1月20日 (水)

「ノーベル賞」もとは人名が由来の言葉あれこれ

20090520193122deb   イギリスのサンドイッチ伯爵(4代目)は寝食を忘れるほどの賭博好きで、ゲームをしながら片手で食事できるようにとパンにハムをはさんで食らっていたら、その食べ方が有名になって「サンドイッチ」と呼ばれるようになった。このように人の名前から別の言葉が派生することを「エポニム」と呼ぶ。ギリシア神話に登場するアキレスから生まれた「アキレス腱」のようにもともと人名に由来する語は英語にはおよそ35000語以上あると言われる。

   毎年六月初旬にロンドンで行われる、サラブレッド四歳馬による競馬「ダービー」。1780年にレースが創設された際の中心人物、第12代ダービー卿にちなんだ命名される。レース名決定の折、ダービーとするか、同じく創設に関わったバンバリー卿の名からバンバリーとするか、コインで決めたとも言うが、真偽は不明。「ニコチン」は1550年にタバコ種をパリに持ち帰ったフランスの駐ポルトガル大使ジャン・ニコ(1530-1600)に由来する。

 避妊具「コンドーム」は性豪チャールズ2世のお抱え医師コンドーム伯爵が作ったという説がある。本当はそれより100年ほど前に、イタリアの医師ガブリエル・ファロビオによって開発された。

 毛糸で編まれた前開き式のセーター「カーディガン」、もともとはイギリスのカーデガン伯爵(7代目)が考案し自ら使用していたことから。

 小型の胎生メダカ類の「グッピー」は1858年イギリスの学者ロバート・グッピー(1836-1916)によって発見され、彼の名前にちなんで命名された。「サディズム(加虐性愛)」はフランスの小説家マルキ・ド・サドの名にちなむ。法によらない私的制裁を「リンチ」と呼ぶ。この言葉は人名が元になっている。18世紀バージニア州のウィリアム・リンチは私設の裁判で、次々と「悪い人」を裁き、絞首台送りにした。彼の名「リンチ」がやがて、「私刑」「集団による制裁」を意味するようになった。電流の単位A(アンペア)の由来は仏の物理学者アンドレ・マリ・アンペールによる。そのほか多くは専門用語なので、いくつか知られているものをあげる。「ノーベル賞」「ギロチン」「サクソフォン」「シルエット」「ドーベルマン」「パンタロン」「ブルマー」「ボイコット」「マッハ」「レオタード」「レントゲン」「ウィンパー・テント」「ラマーズ法」「ガトリング銃」「ヴァン・アレン帯」「ハミング符号」など。

  邦人にもいろいろある。心房と心室の間にある刺激伝導系を1906年に解明した医師の田原淳の功績をたたえて「Towara node(タワラ結節)」という。鎮痛剤で知られるトクホンの社名は、戦国時代から江戸初期の医師・永田徳本に由来しているという。このほかにも、「隠元豆」「伊達巻」「タクワン漬」「出刃亀」「出刃包丁」「土左衛門」「のろま」「ハヤシライス」「八百長」「市松模様」「小町針」などなど、沢山のエポニムがある。「金時豆」が大江山の鬼退治で有名な坂田金時。その子、金平が「キンピラごぼう」の名前の由来になっている。北海道松前藩の斉藤三平が草案した「三平汁」。(参考:宮武外骨「日本擬人名辞書」)

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  三平汁

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 懐かしいブルマーは人名

 

 

エドワード8世

1936年のこの日、エドワード8世は英国王に即した。同年12月11日、米国人女性ウォリス・シンプソンと結婚するため、王は在任期間わずか325日で退位した。兄エドワード8世の退位により、不本意ながら王に就いたのがジョージ6世である。(1月20日)

 

日本文学史・岩野泡鳴

102636   岩野泡鳴(1873-1920)は1873年のこの日、現・兵庫県洲本市で生まれた。泡鳴は他の自然主義の作家たち、たとえば「破戒」(1906)「家」(1910)の島崎藤村、「蒲団」(1907)の田山花袋、「あらくれ」(1915)の徳田秋声などと比較すると、今日その名は忘れさられようとしている気がする。だが彼の日記によれば、大正8年の小説だけの収入は4千5百円余とあり、当時の作家の最高位になるほどの人気であった。なせそれほど人気があったのか?今でこそ自由恋愛の時代だが、明治・大正時代は「自由」「恋愛」という概念すらなかった。結婚相手は親が決めるのが当然という時代に、個人の自由な恋愛をテーマとしたり、女性との肉体関係を赤裸々に告白することが、誠実な作家の態度であると信じていた。岩野泡鳴は決していいかげんな人物ではなく、なにごとにも真剣であり、真実をもとめたために、私生活は物議をかもすことが多かった。

    泡鳴は父直夫が経営していた下宿屋「日の出館」(芝区西久保八幡町)をそのまま妻の竹腰幸に任せて、小説を書いていた。最初の妻の幸は年上の小学校教師で周囲の反対をおして駆け落ちまでして一緒になった二人である。明治42年に「新小説」に「耽溺」を発表し、高い評価をえた。ところがこの頃、突然に樺太へ移住を計画し、事業をするが失敗する。このころのことは「泡鳴五部作」に書かれている。あらすじは、父の死後、下宿屋の当主になった田村義雄が紀州から上京した清水お鳥と知り合い妾に囲う経緯が「発展」「毒薬を飲む女」で、缶詰事業に失敗して北海道に放浪し、帰京するまでが「放浪」「断橋」「憑き物」に描かれている。私生活でも増田しも江(「毒薬を飲む女」のモデル)を芝切通広町に囲っていた。ところが明治42年には、妻と別居し、増田しも江とも別れ、12月には婦人運動家の遠藤清子と同棲する。大正4年には新潮社の筆記者、蒲原英枝と深い仲となり巣鴨町に同棲する。しかし、英枝には前夫がいて、世間から「姦夫姦婦」と非難され、訴訟にまで発展する。身辺に取材した描写は小説の本道と考えていた自然主義の作家ではあるが、岩野泡鳴はもっとも思い切った自己暴露を試みた作家であった。(1月20日)

 

 

 

2021年1月18日 (月)

中国史 27

UNIT27.五胡十六国時代(304-439)

 

北魏の華北統一 鮮卑の発展 386年、拓跋氏が自立。北魏建国。都は平城(大同) 439年、太武帝、華北統一

 

孝文帝 都を洛陽に遷す。均田制、三長制の実施。中国の習俗に同化。

 

分裂 中国化政策への反感。東西に分裂(535年) 北魏以降の5朝を北朝(439-581)という。東魏(高歓)は北斉に、西魏(宇文泰)は北周(宇文護)に倒される(557年)。

 

北周の武帝 北斉を併せる(577年)。隋唐による統一への道を開く。仏教・道教を禁止(574年)

 

滅亡 外戚楊堅(隋の文帝)により簒奪される(578年)。一説によると、楊堅は漢族ではなく鮮卑出身であるといわれる。

ヒョウタンはどこから来たか

Photo   果実の中身を取り去って、その外皮を乾燥して容器にしたもの。日本にも古くから伝来し、「ひさご」と呼ばれて水や酒を入れたり、飾りひもをつけて愛玩用に加工された。朝鮮では「バカチ」と呼び、同様の用途に使われ、日常生活の重要な用具である。ヒョウタンはアジアだけでなく、ヨーロッパでも紀元前から栽培され、容器として利用されていた。ではヒョウタンはどのようなルートで日本に伝来したのだろうか。

   日本の国土は、四面海で囲まれているから、どこからでも外来文化が入ってくる。北方ルート、朝鮮半島経由の大陸ルート、江南ルート、南海ルートなど。ヒョウタンは西アフリカのニジェール地方が原産の植物で、エジプトからインドを経て、約6000年前には東南アジアの地まで、古代人によって栽培されていた。日本にも南海ルートで縄文時代早期中葉には、伝播していたと考えられる。考古学の発掘でヒョウタンの種が見つかっている。

 

 

2021年1月17日 (日)

アメ横の由来

 名前の由来は2つある。戦後、砂糖が手に入りにくかった時代に、中国からの引揚者が飴を販売し、飴屋横丁と呼ばれた。もう一つは、アメリカ進駐軍の放出物資を売る店が多く、アメリカ横丁の呼び名ができたから。

 

悲運のスコット南極探検隊

    ロバート・ファルコン・スコット(1868-1912)。イギリス海軍士官であり、南極探検家であるスコットは、1910年、テラ・ノバ号にて第2回の南極探検に出発する。この探検は、世界初の南極点到達を目標としていた。1911年11月旧極点パーティ5名、支援隊とも11名で南進の途についた。だが寒気に強い犬より劣る橇引きの馬と自動橇は殺すか捨てるほかなかった。支援隊と別れてのち、重い橇を滑らないサストルギー雪の上を肩で引き上げ、顔も向けられない暴風雪に体力を消耗しながら、1912年1月17日辿りついた極点には、すでにノルウェーの旗が立ち、スキーと犬の足跡が残っていた。帰途は一層苦しく、隊員は倒れ、3月末にスコットとウィルソンの2人も、空しい亡き骸となり、7ヵ月後に発見された。最後まで重い採集品を手放さず、かたわらの日記には探検の詳細、イギリス国民に宛てたメッセージがしたためてあった。それを読む者には不屈の精神力と悲しい心情を訴えていて涙をさそうものである。

2021年1月16日 (土)

「あ」で始まる話

    百科事典を引くと「あ」の項目は多い。「あ」は発音しやすく、明るい感じがするからであろうか、どの言語でも地名・人名、タイトル名など固有名詞が豊富にある。朝ドラ「あまちゃん」のヒロイン海女の天野アキ。「まちゃん」「ま」「まのき」と「あ」づくしである。

   ありとあらゆる名辞を五十音順で排列した場合、どのような言葉が一番最初にくるのであろうか。きようちくとう科の多肉植物で、マダガスカル原産の「ああそうかい」は順番からいうとかなり始めのほうにあるであろう。

  日本のすべての人を名簿順に並べたら、どんな名前の人が最初になるだろうか?「愛」「藍」「阿井」という苗字が最初にくる。「雪国艶性抄」(創童舎)の著者名は「阿井上男」である。「あいうえお」と読むらしいが、面白いペンネームだ。おそらくは五十音の名簿順で、必ず一番にくるというねらいでつられれたのだろう。むかしの図書館では著者名の目録カードがあって、「あ」の一番に最初に排列されるのである。この人は作家の高橋克彦の伯父で、雪崩研究家の高橋喜平(1910-2006)である。芸名OKならば歌手の愛内里菜。実在著名人で本名と限定すれば、元プロ野球選手の阿井英二郎、小説家、阿井景子(あいけいこ)がいる。

 

 

お尻をみせると悪魔が退散する

Photo 森永製菓のロゴマークにはお尻をみせた天使が描かれている。なぜだろうか?アイドル歌手きゃりーぱみゅぱみゅはお風呂のあとで自分のお尻をプリンプリンして、友だちに見せつける癖があるという。癖といえば笑福亭鶴瓶の露出癖。いまでこそ鶴瓶は全国区のタレントだが、一時期、在京のテレビ局から、まったくおよびがかからない時代があった。鶴瓶は山口百恵が歌っている最中に急に下半身を露出し、百恵がその局部を見て絶叫したという。事態を重くみた、テレビ局は数年間、鶴瓶を出入り禁止処分とした。民放で見放された鶴瓶だが、さだまさしの後を継いだ家族に乾杯で人気を回復したというのは人生わからないものである。下半身を露出したり、お尻をカメラに突出したりすることは、タブーだが、むかしのヨーロッパの迷信に「お尻をみせると悪魔が退散する」というのがある。お尻信仰の由来は、ほかの類人猿にはない丸いお尻こそが、人間であることの特徴とされるからだと説かれている。

 

 

2021年1月15日 (金)

英語:人の性格・性質などを表す語

bold  はっきりした、ずうずうしい

cheerful  陽気な

diligent  勤勉な

earnest  真剣な、まじめな

gentle  素直な

gloomy  陰気な

impatient  せっかち

leisurely  のんびりや

obstinate  いじっぱり

passive  消極的な

persistent  しつこい

positive  積極的な 肯定的な

reserved  遠慮がち

rough  がさつ

shy    内気な

sincere   誠実な

sloppy  ずぼら

trustworthy   信頼できる

modest  控えめな

異なる意味を持つ英単語

Kyam_47_2  「ドロップ(drop)」と聞けば、日本では英語を知らない人でも「サクマのドロップ」を連想する。英語では「落ちる」が原義。名詞は「しずく」。飴玉がしずくの形をしていることから。▽「run(ラン)」はもちろん「走る」の意味ですが、手元にある辞書を引くと「立候補する」「動く」「経営する」など全部で14の意味があります。▽「ドライブ(drive)」という語はクルマの運転をイメージするが、「やる気」という意味もある。▽「クレーン」と聞けば起重機を思いうかべる。ところが英単語のcraneは、もともと長い首が特徴的なツルから来ている。▽「マフラー」は襟巻き。でもアメリカでは古語で、ふつうは自動車の消音装置のこと。▽「アーチン(urchin)」は「ウニ」と「いたずらっ子」という意味がある。古語で「浮浪児」のことで、「ウニ」のときは「sea urchin」という。▽「ラスト」には「最後の」と「この前の」の意味がある。ワㇺの「ラストクリスマス」は「去年のクリスマス」のほうの意味です。多義語の英単語を集める。

 

age     年齢、時代
bank   銀行、堤
bat     こうもり、野球のバット
blue    青い、憂鬱な
broom  ほうき、エニシダ
case   箱、場合
crane   鶴、起重機
cross   横切る、十字架
die      死ぬ、サイコロ
figure  人の姿、数字、フィギュア(舞踊)
field    野原、分野
grave   墓、重大な
kind     親切な、種類
long     長い、切望する
marble  大理石、おはじき
match   マッチ、試合
mean   意味する(動詞) 卑しい(形容詞) 平均的な(形容詞)
muffler  消音装置、襟巻き
nail       つめ、釘
own     自分自身の、ひとりで
pink      桃色の、なでしこ
plane   飛行機、平面
rape    強姦、菜の花
run     走る、経営する
saw     のこぎり、ことわざ
scale   目盛り、うろこ
school  学校、魚などの群れ
star      星、人気者
staff     職員、つえ
staple   主要産物、ホッチキスの針、繊維
story     物語、建物の階
strip     脱ぐ、薄い金属板
swallow  飲み込む、つばめ
tear       涙、引き裂く
toast      トースト、乾杯
top         頂上、独楽
trip        旅、トースト
trunk      旅行用かばん、象の鼻
urchin     ウニ、いたずらっ子
vessel     容器、船
well        上手に、井戸
wind       風、曲がりくねる
wire        針金、電報

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人類の誕生

    およそ500万年前、アフリカ大陸で活発な火山活動が始まった。その結果、アフリカ大陸を南北に貫く険しい山脈と渓谷が出現した。アフリカ大地溝帯、グレート・リフト・バレーと呼ばれる山脈と渓谷は、長さ7000kmにも及んだ。大地溝帯ができたことで、この地域の自然環境が次第に変わっていった。かつては、西からの湿った風がもたらす雨によって、熱帯雨林が広がっていた。しかし、高い山脈ができたことで、風下になる山脈の東側では、極端に雨の量が減ったと考えられる。東側でこのような新しい環境に適応したのが、アファール猿人だった。木の上でくらすのではなく、草原を2本足で歩くようになった。アフリカ、ケニア北部では猿人からさらに進化した人類の化石が発見されている。最新の発見では、アフリカのチャドでサヘラントロプス・チャデンシスはおよそ700万年前と推測される。150万年ほど前に現れた「現人」、ホモ・エレクトゥス。背骨を真っ直ぐに伸ばし、現代人とほぼ同じような姿勢で直立2足歩行していたと考えられている。そしておよそ10万年前、現在の人類と同じ種である「新人」、ホモ・サピエンス・サピエンスが登場する。原人は、ユーラシアへ拡散後、長い時間をかけて各地で独特な進化をした。ヨーロッパでは、約50万年前の古代型ホモ・サピエンスから、約20~4万年前のネアンデルタール人へ進化。アジアでは、原人が約30万年前まで存続した。

 

現代人の起源については、2つの説がある。現在ではアフリカ単一起源説はほぼ正しいとされている。

①アフリカ単一起源説

アフリカ産の現代型ホモ・サピエンスが10万~5万年前の間に世界中に拡散し、結果的にヨーロッパではネアンデルタール人が、東アジアでは残存した原人もしくは古代型ホモ・サピエンスが絶滅したという考え。

②多地域進化説

各地に分布した原人が古代型ホモ・サピエンスを経て現代型ホモ・サピエンスへ移行した、という考え。

1つ目のアフリカ起源説の方が、特にヨーロッパでは有力。

2021年1月14日 (木)

洪秀全

 1851年のこの日、洪秀全は1万人ほどの民衆を率いて金田村において武双蜂起した。洪秀全は広東省花県を原籍とする。洪氏の一族は北方から移住してきた客家であり、代々農業を営んでいた。かれは早くより科挙を志したが、三度失敗した。第二の試験を広州で受験したとき、「勧世良言」というキリスト教入門書を手にいれ、大いに感動した。かれが32歳のとき、キリスト教の洗礼を受け、布教活動に従事した。かれは同志馮雲山とともに、広西で上帝会を組織し、上帝は天夫、キリストは天兄、洪秀全は天弟であるとする変形のキリスト教を説いた。そして清朝政府とその軍隊と官僚は妖魔であると説き、重税に苦しむ貧農層に信者を獲得した。また客家出身者は本地人より差別され圧迫されていたが、かれらが上帝会の会員となって、地主、富裕層である本地人の作る団連の圧迫に抵抗していた。1850年洪秀全は広西省桂平県金田村で起兵し、拝満興漢・土地均分・纏足の禁止などのスローガンをかかげて連戦連勝し、1851年には永安を陥し、太平天国と号し、官制や王号を定めた。そのご武漢を衝き、1853年には南京も陥し、そこを天京と改めた。このころより政府の内部に血なまぐさい抗争が始まり、わずか3ヶ月たらずで指導者を次々に失った。太平天国は南の巨大な財産を獲得したのち、たちまちのうちに腐敗堕落したといわれる。洪秀全自身も1864年南京が陥落すると、毒を仰いで死んだ。(1月11日)

 

 

 

2021年1月12日 (火)

レルヒ少佐が日本で初めてスキーを教える

Photo_2   本日は「スキーの日」。スポーツ選手が競技で識別のため用いる番号票をレースナンバー(racing number)、あるいは「ゼッケン」という。このゼッケンという言葉の語源は不詳で広辞苑には「馬の鞍に敷く毛布の意のドイツ語Deckeの転訛など諸説あるが未詳」とある。明治の新聞では「番号票」という語が使われていたが最初に「ゼッケン」が使われたのはいつ頃からであろうか。1911年1月12日に高田歩兵第58連隊営庭でテオドール・レルヒ少佐(1869-1945)が初めてスキー指導を行ったことはスキー史で知られているが、このときの報告書に「レルヒのゼッケンの番号は10」という記述がある。おそらくこれが「ゼッケン」という語が使われた最初であろう。(Theodor Lerch,Decken)

2021年1月10日 (日)

スペインの雪

 スペインの首都マドリードでは50年ぶりの大雪だそうだ。

    ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(作詞・脚本アラン・ジェイ・ラーナー、作曲フレデリック・ロウ)がブロードウェイで初演されたのが1956年のことであるが、いまでもどこかの国で上演されている。「素敵じゃない」「ほんの少し運が良けりゃ」「踊り明かそう」「君住む街角」「時間通りに教会へ」、中でも「スペインの雨」というナンバーは、ミュージカルの楽しさ、面白さを圧縮したようなところがあって、秀逸な場面となっている。花売り娘イライザが、キングズ・イングリッシュの発音ができるように言語学者ヒギンズから猛特訓を受ける。

スペインの雨はおもに平野に降る

The rain in Spain stays mainly in the plain!

    スペインは、国土の大部分がメセタと呼ばれる高原である。気候は、大部分が地中海性気候で、特に内陸部で乾燥が激しい。ところどころ砂漠や、ステップと呼ばれる温帯草原もある。そんなスペインでは水がたいへん貴重で、ワインより水のほうが値段が高いということもよくある。いまでは水道も完備されたが、むかしはロバの背中に水がめをのせた水売りがみられた。

インドネシア航空機事故

1月9日午後2時36分、スカルノ・ハッタ国際空港(ジャカルタ)発ポンティアナク行きのスリウィジャヤ航空SJ182便の旅客機が墜落したらしい。乗客乗員は計62人。インドネシアでは2018年にもライオン航空の旅客機が墜落事故を起こしている。

 

 

明治文学史

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       高山樗牛                   姉崎正治

 

    高山樗牛(1871-1902)の誕生日。樗牛は、はじめは井上哲次郎らと盛んに日本主義を唱えてキリスト教、仏教を攻撃した。だが明治34年頃からニーチェの哲学思想を讃美し、「美的生活を論ず」などの評論を発表、これをめぐって坪内逍遥、島村抱月らと論争を展開した。明治35年12月24日、危篤状態に陥ったとき、叔父に「自分は人生の光をみつけたが、これを世に伝えることは嘲風に頼みたい」と言い残した。32歳だった。遺言のなかの嘲風とは、友人で宗教学者の姉崎嘲風(姉崎正治)のことである。ともに「帝国文学」の発刊に携わり、宗教的色彩の強い文芸評論で知られた人物である。高山樗牛と姉崎嘲風との友情は厚く、二人の往復書簡は当代の青年層に大きな影響を与えた。明治の頃のニーチェの研究はまだ原典にもとづかない西洋流の解釈をそのまま紹介しただけのものだった。明治44年に生田長江によって初めて「ツァラツストラ」が刊行された。生田は初め夏目漱石に翻訳の助言を求めた。しかし漱石は断った。なぜ漱石は生田を嫌ったのか。それは底の浅い学問で有名になった樗牛を生田が崇拝したからだといわれている。大正期になると本格的なニーチェ研究がおこり、和辻哲郎や阿部次郎のようなすぐれた研究が盛んになる。(1月10日)

2021年1月 9日 (土)

バイオントダム災害

バイオント川は、イタリア北東部のヴェネト州を流れるピア―ヴェ川の支流川である。バイオントダムは1957年に着工し、1960年に竣工。262mの堤高は世界一であった。1963年10月9日、大規模な地滑りによって貯水湖から押し出された水が津波となって、ダムの下流の集落に壊滅的な被害をもたらした。2000名以上が死亡したとされる。Vajont

 

2021年1月 5日 (火)

夏目漱石の生い立ち

    夏目漱石は、慶応3年1月5日(1867年新暦2月9日)、江戸牛馬場下横町の名主(なぬし)夏目小兵衛直克(なおかつ)の五男として生まれ、金之助と名づけられた。1月5日は庚申の日にあたり、その日生まれたものは大泥棒になるが、名前に金の字を入れれば難を避けられるという俗信があったので、夏目金之助という名前が誕生したのだ。

   漱石は雅号で、「枕石漱流」(ちんせきそりゅう)すなわち「石に枕して流に漱ぐ」という中国の故事からつけられたものである。その意味は、「負けおしみ」ということで、他人から変人あつかいされていたので、それから考えついたものである。

   明治元年が慶応4年にあたるので、慶応3年は明治改元の1年前ということになる。つまり、簡単にいうと、明治に生まれたといってよく、大正5年、数え年50歳でなくなったから、明治に生まれ、明治を生きぬいた生粋の明治人、江戸の郷士出身の純粋の江戸っ子といえるだろう。慶応3年生まれというのは、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉の三人もあい前後して生まれており、ともに明治の文豪といわれるようになったのだから、この年は、日本の近代文学史上、記念すべき年である。

   漱石は、父・夏目直克53歳(1817-1897)、母は後妻で千枝40歳(1826-1881)、五男で末っ子である。夏目家は名門で、牛込馬場下横町以下九ヵ町を支配していたいわゆる名主で、紋どころが、井桁に16弁の菊なので、明治になって新たに町名を決める時、喜久井町としたりするくらいの有力者であった。祖父小兵衛直基(1852没)は養子で、武州多摩郡中野邑名主堀江卯右衛門の弟、同州内藤新宿名主高松善六の甥にあたり、高松家を実家として夏目家に入り、道楽者で一代で身代を傾けたといわれる。

   母の千枝は、四谷大番町の質商鍵屋こと福田庄兵衛の三女で、武家奉公をしてきたからさる質屋に嫁したが、まもなく去り、長姉かく(鶴)の婿芝金杉一丁目高橋長左衛門(炭問屋)の養女として28歳の時直克の後妻が来た。これまで、千枝の生家とされていた新宿仲町の遊女屋伊豆橋は、生家を継いだ次姉ひさ(久)一時経営していたものである。漱石の次男伸六が調べた結果、事実、千枝は質屋の娘だったことがわかった。(『父・夏目漱石』所収「漱石の母とその里」)。千枝は、ながく御殿女中をつとめていたことがあり、教養も高かった。漱石は、遺伝的には、母のすぐれているところを受け継いでいるらしい。

    夏目家は名門であったが、維新の変動で、生活がだんだん苦しくなっていった。夏目金之助には、さわ(佐和、1846-1878)、ふさ(房、1852-1915)の異母姉、大一(大助、1856-1887)、栄之助(直則、1858-1887)、和三郎(直矩、1859-1931)、久吉(1864-1865)、ちか(1864-1865)の兄弟があった。末子の出生は祝福されず、生後すぐ四谷の古道具屋(一説によれば源兵衛村の八百屋)に里子に出されたが、やがて連れ戻された。

    慶応4年、金之助、満一歳のときに新宿の名主であった塩原昌之助(29歳)の養子にやられ、9歳のころまで塩原家にやしなわれた。塩原昌之助の父は四谷太宗寺門前の名主で、昌之助が11歳の時死んだので、夏目直克が後見人となり、手元に引き取って書生とし、14歳に至って父の跡目を継がせた。塩原家は内藤新宿北町裏16番地にあった。養母やす(29歳)は武州多摩郡榎戸新出の農榎戸覚左衛門の次男榎本現二の長女で、昌之助との仲人には直克がなったといわれる。

    その後、養家は養父母の間にもめごとが起こったために、実家に養母とともにひきとられたが、籍は21歳になるまで、塩原家に残っていた。つまりこのときまで塩原金之助といっていた。養父との間にゆううつな金銭的交渉が後をひいていたことは、『道草』の中に描かれている。

    この出生を漱石自身がどんな風にうけとめていたかその言葉をひろってみる。

私は両親の晩年になって出来た所謂末ッ子である。(『硝子戸の中』)

先生自身の言葉によれば 「余計な要らぬ子」として遇せられ、生まれ落ちると直ぐに、その頃家に使ってゐた女中の実家へ里子に遣られた(森田草平『漱石の文学』)

何、僕の故家かね、君、軽蔑しては困るよ。僕はこれでも江戸っ子だよ。しかし大分江戸っ子でも幅の利かない山の手だ。牛込の馬場下で生まれたのだ。(談話筆記『僕の昔』)

私は明治維新の丁度前に生まれた人間でありますから、/どつちかといふと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のやふな怪しげなものであります。(講演『文芸と道徳』)

 

 

 

 

2021年1月 3日 (日)

鴎外、漱石の墓

    明治29年1月3日、根岸の子規庵で俳句会が催された。第1回には夏目漱石、内藤鳴雪、高浜虚子、五百木瓢亭、河東可全、第2回には森鴎外、河東碧梧桐らが加わった。つまり子規、漱石、鴎外の3人が揃ったのはこの時だけであろう。記録によれば、漱石と鴎外が会ったのはこれが初めてであり、両者は互いに言葉をかわすことはなかったという。実際に5歳の年の差があり、漱石が作家となったのも鴎外の存在があったからであるという江藤淳の指摘がある。表面冷ややかで無関心を装い、鴎外と漱石の親しい交友は生まれなかったがお互いに敬意を抱いていたと思われる。

 

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三鷹禅林寺 鷗外墓 隣に後妻の志げ子の墓がある

 

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 雑司ヶ谷霊園 漱石、鏡子、ひな子(五女)

2021年1月 1日 (金)

おうちで正月

   コロナ東京都感染者1300人余で最多。ようやく政府は1都3県に緊急事態宣言を検討。年末年始はおうちでテレビ三昧。「岸辺露伴は動かない」の第二夜「くしゃがら」高橋一生と森山未來が迫真の演技。意外にも2人は「世界の中心で愛をさけぶ」以来の共演というが友人関係だろう。それにしても「くしゃがら」の意味が気になって、夜も寝られない。紅白歌合戦、嵐のラストパフォーマンスに感涙。元日から「邪馬台国サミット」。正月ドラマは「生」を描いた新垣結衣「逃げるが恥だが役に立つ 新春スペシャル」、「死」をテーマにした石原さとみ「人生最高の贈りもの」が佳作。年末年始の番組で感じたこと。二階堂ふみは小賢しく、吉岡里帆はあざとい可愛い。だがガッキーはひたすら生真面目で可愛い。 

大江戸の春

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  鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春  (其角)

 

    江戸では元旦からが春である。春とともに新年を迎えて、江戸では七日までが松の内。この間は家の掃除を行わないが、それは箒で幸福をはき出したりしないため。七日まで手足の爪を切らないのも理由は同じ。

 

    「一年の計は元旦にあり」というように、元旦は心身ともに改まって屠蘇を飲み、雑煮を食べる。雑煮は元は烹雑(ほうぞう)と呼ばれており、いろいろの物(餅・大根・芋・昆布・いりこ)を煮まぜたから雑煮と呼ぶようになった。室町時代にはすでにあったが、この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及したものとみられる。一般的に関東では澄まし仕立てで四角い餅を入れ、関西では白味噌仕立てで丸餅が多くみられる。新年の行事としては、元旦の恵方(えほう)参り。初日の出。若水汲み。年賀の回礼。二日は初夢。初商い。三日は芸事初め。「恵方参り」とは、その年に歳徳神(としとくじん)が来る方角が恵方で、その方角にある神社仏閣に元旦未明に参詣する。今の初詣の原型がみられる。松の内に七福神を祀る寺社を順に参詣する。初日の出は江戸の東端、洲崎が有名であった。だが現代の東京と違って高層ビルがなかったので、高輪や芝浦の海辺、須愛宕山や神田明神、湯島天神の高台など江戸の市街からも初日の出がよくみえた。

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