ゲルマン民族の大移動
西洋中世史の幕開きはゲルマン民族の登場によって始まる。4世紀の後半にフン族が黒海の北方から西に移動し、南ロシアにいた東ゴート族を圧迫し、さらに西ゴート族にせまったので、東ゴート族はフンに服属し、西ゴート族は375年にドナウ川をわたってローマ帝国の領内に移った。これがゲルマン民族の大移動のはじまりである。ゲルマン人の大移動はローマ帝国を衰亡へと導いた。だが、およそ未開民族の間には移動の習性は大昔からある。それは生活の必要によるもので、生存のためにより安易なところを求めようとする希望から出たものであり、ケルマン民族の大移動以前にも、種々さまざまにあったものと考えられる。とくに注目すべきはゲルマン人の一部族であるキンブリ人とテウトニ人の活動である。
彼らは原住地であるユトランド半島エルベ河口付近の地を出て、移動を始めた。その原因は、古い伝えでは、キンブリ人については大洪水に災いされたためであるとされるが、前120年頃、伝えるところでは、戦士30万、妻子を車に乗せ、牛馬に荷を積み、冬は屯営し、夏は行進を続けて移動した。故地を出て、エルベ河に沿って上流地方に遡り、ベーメンに近づいたが、ここでボイェル人に撃退されたので、その地を迂回して、パンノニアに出、そこから南下しようとしたが、そこでも抵抗を受けたので、西方に転じ、ノリクムに入り、ローマ軍の抵抗わ破った上、更に西に進んでヘルヴェティ人の住地を過ぎ、その一部を伴って、ローヌ河の流域に出て、そこにあったローマ軍を撃破し、河に沿って南下し、前105年アラウシオでローマ軍と戦い大勝して、その6万を全滅させた。さらにガリアに入り、スペインに進んだのち転じてイタリアに向かった。しかし前101年、ポー川渓谷のウェルケラエ付近でローマの将軍マリウスに撃滅された。ただし少数はガリア北部に定住し、原住民にも残存民が紀元5年ローマ軍の海路遠征のときに見いだされたといわれる。この事件はゲルマン人の初期移動を示す好例といえる。主なゲルマン民族が建国した国家は、西ゴート王国、スエヴィ王国、ヴァンダル王国、ブルグンド王国、フランク王国、東ゴート王国、ランゴバルド王国、アングロ・サクソン七王国、ゲピド王国などである。Cimbrii,Teutoni
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