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2020年12月26日 (土)

ユトリロとシュザンヌ・ヴァラドン

Photo   ひとりの貧しい田舎娘マドレーヌ・ヴァラドンはフランス中西部リモージュ近郊のベッシーヌで道路建設技師との情事から一人の女児を生んだ。マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(通称シュザンヌ、1865-1938)である。5年後、マドレーヌは娘シュザンヌとともにパリに出た。彼女たちは貧しい労働者たちが住むロシュシュアール大通りに落ち着き、裕福な家庭の家事手伝いをしたり、洗濯屋で働いた。

   マリーは生まれつき人の言うことをきかない性格の子供であったらしいが、ロシュシュアール大通りの路上に白墨をつかって物を書くのが好きだった。強い好奇心と鋭い物を見る眼とがこの女の子に与えられた天の贈物だった。マリーは13歳の頃にはお針子としてオート・クチュールの仕事場で見習いとなったが、その後も転々と仕事を変えて行った。やがてマリーはパリ16区にあった「モリエ」サーカス団のアクロバットの美少女として人気がでた。ある時、空中ブランコから転落して、脚をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。写真で見るマリーは、濃い眉毛と刺すような目差すで男達の好き心をそそる美少女に成長していたらしい。15歳の時、当時画壇の大御所だったピュヴィウス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。シャヴァンヌは58歳、年齢的には孫娘にも近いマリーと画家はモデル以上の関係を結ぶようになる。この画家の最も有名な作品「聖なる森」に描かれた上半身裸の8人の女人像はすべてマリーがモデルをつとめたといわれる。1883年からほぼ7年にわたりマリーはポーズをとった。

   そんなころモンマルトルは酒場、あるいはダンスホールなどが開設され、歓楽街としての賑わいを大きくしてくる。ボヘミヤン風の生活を若さにまかせて楽しんでいたマリーは1883年12月26日、男児を出産する。将来のモーリス・ユトリロである。時にマリーは18歳だった。そして、このポトー通り8番地で生まれたモーリスの父親が一体誰であるかについては諸説ある。①ユトリロ姓を与えたスペイン人の芸術家ミゲル・ユトリロ説②カッフェ「黒猫」のなじみ客で、モンマルトルの酔いどれ詩人モーリス・ボワシー説③ピュヴィス・シャヴァンヌ説

   後年さまざまな推測がなされたがシュザンヌ自身が「本当のところは私にも分からない」と言っているとおり、浮気なシュザンヌだった。

   シュザンヌはドガ、ロートレック、ルノワールらのモデルをつとめた。2歳のモーリスを連れたシュザンヌはロートレックの愛人となる。ロートレックは身体が不具であったが、シュザンヌは彼にひとかたならぬ魅力を感じていたらしい。というのも、この美しく意志の強い女性は、彼に結婚する気にさせようとして狂言自殺を試みたといわれている。おそらくこれによって、数年間続いてきた彼らのつかず離れずの関係に終止符が打たれたと思われる。1893年にはエリック・サティと交際したが半年で破局した。1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚。その後、離婚し、1914年に息子のユトリロよりも若い画家アンドレ・ユテルと再婚する。まさにシュザンヌは恋多き女であった。ロートレックやドガの指導で画家として成功したシュザンヌは、息子のモーリスをアルコールから遠ざけるために、彼に絵をすすめたエピソードはあまりにも有名であろう。ユトリロが風景画家であるのに対して、シュザンヌの作品はほとんどが人物画であるが、その大胆なフォルムはロートレックの影響を思わせるものがある。(Maurice Utrillo,Suzanne Valadon)

2020年12月25日 (金)

ただ風が吹いているだけ

 今年もあと5日。年の瀬になると老人は「死」を考える。新型コロナが大流行した今年はなおさらである。除夜の鐘が待ち遠しい。人は死んだらどうなるのか?中川信夫監督の「地獄」(1960)は血の池地獄、針山など日本古来の地獄絵をスクリーンに再現している。水木しげるワールドのようだ。先ず「死出の山」と呼ばれる険しい山がある。暗い山道を登っていき峠を越えると、明るくなってくる。見下ろす山の麓には、曼珠沙華の美しい花畑が広がっている。山を降りると大きな川が見えてくる。これがこの世とあの世の境界となる「三途の川」である。賽の河原では奪衣婆が亡者から衣類をはぎとり、懸衣翁が枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計る。最後に閻魔大王(映画では嵐寛寿郎が扮している)が死者の生前の罪を裁く。判決が下り六道の辻と呼ばれる道にそれぞれが進む。出演は天知茂、三ツ矢歌子。沼田曜一がネズミ男のような悪魔の友人を演ずる。

 

キリンも食べていた!? 古代ローマ人の食卓

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  火山の噴火で埋もれた古代ローマの都市ポンペイの人々は穀物や果物、豆、魚、卵、オリーブなどの木の実を食べていた。米シンシナティ大学の研究チームが10年にわたる調査によると、インドネシア産の香辛料、スペイン産の魚を塩漬けしたものや、地元産ではない貝やウニも食べていた。ほかにキリンや、桃色の翼のフラミンゴも食べていたことが分かった。 

  このようなグルメブームが続いたローマでは「食べたい」でも「痩せたい!」という願望も生じてくる。この矛盾した願望を解決しようとした先駆もやはり古代ローマ人だった。蒸し風呂に入ってマッサージという減量法ができたのもこの時代である。すでにアンティファット(肥満防止)という秘薬もあった。これは海のコケから抽出した濃縮液で作るものだった。ローマ皇帝クラウディウス(在位41年-54年)は足が不自由で寝て食事をしていたらしい。宴会で客たちはボウルを持参し、ごちそうを食べてはそのボウルに吐き出してまた食べる、ということを繰り返していた。

朝鮮戦争

38dosen_s   思い違いで、ずっと勘違いしていることがある。「38度線」は、朝鮮半島の南北の分断を象徴する言葉だが、実際は38度線そのものが国境線ではない。

   1945年、日本の敗戦により朝鮮半島は36年に及ぶ日本の植民地支配から解放された。同年12月、米英ソ3国外相会議は朝鮮半島を向こう5年間信託統治する案を決めたが、東西冷戦の深まるなか、1947年10月、最終的に決裂。翌48年5月には南側地域のみで単独選挙が行われ、同年8月、大韓民国が成立。北側にも、ソ連などに後押しされる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、38度線は東西対決の軍事境界線となった。

   東西両陣営の対立を背景に、1950年6月27日に始まった朝鮮戦争はアメリカを主力とする国連軍が韓国側に、中国義勇軍が北朝鮮側に加わり、戦局は一進一退を繰り返した。1950年9月15日、国連軍が仁川に上陸しソウルを奪還した。1951年3月14日には国連軍がソウルを再奪回した。やがて、アイゼンハワー大統領の就任(1月)、スターリンの死(3月)という米ソ首脳の交替や、平和を切望する国際世論の高まりによって、53年7月27日、休戦協定が板門店(パンムンジョン)で調印された。「板門店」の地名の由来は一人の中国人兵士が食堂に書いた漢字の落書きが発端になったといわれる。協定で画定された休戦ラインは板門店がある38度線を横切り、その西端で38度線の南側へ、東は端で北側にそれぞれくいこむ形となっている。

 

 

 

 

2020年12月24日 (木)

梶川与惣兵衛、伊達宗春のその後

   毎年この時季になると全国12000人の梶川さんは憂うつになるという。テレビできまって忠臣蔵が放送される。「武士の情けをご存じあれ。その手をはなし今一太刀討たせて下され。梶川どの・・・」梶川与惣兵衛とは浅野匠頭を背後から抱きかかえて止めた人物。そのため吉良の傷は浅手で済んだ。

   元禄14年3月14日午前10時頃、江戸城中で公式の儀式が行なわれる白書院近くの松の廊下で刃傷事件が起こった。勅使接待役である播州赤穂5万3千石の領主浅野内匠頭長矩が差していた小刀を抜いて、梶川頼照と立ち話をしていた高家吉良上野介義央に切りかかった。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。頼照が抱き留める。急を知った高家衆が駆けつけ、両者を引き離し、監察の任にある大目付・目付に連絡をした。まず、城中の自分の控室にいた義央が事の次第を聞かれた。そしてその言い分が聞き入れられ、帰宅を許される。大目付の部屋で監察されていた長矩は、田村右京大夫建顕に当分の間預けるということで、その屋敷に移されたが、午後6時過ぎには建顕邸で切腹の申し渡しを受けた。この時、吉良義央は62歳、浅野長矩は37歳であった。以上が赤穂浪士討入り事件の発端となった「刃傷松の廊下」の概略である。

   松の廊下の主役となった三人、浅野長矩、吉良義央、梶川頼照。この中で梶川のその後はあまり知られていない。大奥留守居番、梶川与惣兵衛頼照は、突然目の前で起こった刃傷に動転し、浅野長矩を組み止めた咄嗟の行為に世間から強い非難の声が上がり、心ならずも彼の人生を、悔恨と自責の一生に終わらせる結果となった。事件より五日経って、刃傷を制した功績によって梶川に五百万加増の沙汰があり、千二百石に取立てられた。本来ならば家門の名誉と喜ぶべきところ、この事件に関する限り世間の目は冷たく、浅野が家名を捨て、死を賭しての刃傷になぜ討たせてやらなかったのか、武士の情けも弁えぬ武骨者よと、厳しい非難の声のみが彼に集中したのであった。晩年の梶川は、享保4年、御鎗奉行の任を辞し、同8年8月8日、77歳で亡くなっている。墓は天徳院(中野区上高田)にある。武士の墓らしく立派な墓塔であるにもかかわらず、無縁墓地の中に置かれ、殆ど訪れる人も無いという。彼もまた、刃傷の犠牲者の一人であった。ちなみに浅野内匠頭といっしょに勅使供応役を努めた伊達左京亮宗春も凶事の現場に居合わせ、浅野の取り押さえに加わっている。3年後に伊予吉田藩主に出世している。(参考:林亮勝「元禄事件 その虚と実」、窪田孟「刃傷の犠牲者 梶川与惣兵衛」『忠臣蔵のすべて』新人物往来社収録)

 

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 梶川与惣兵衛の墓(天徳院)

三国志のことわざ

 三国志は古代中国に実際にあったことをもとにした物語であり、そのためにことわざや故事成句といった様々のもとになった事件や出来事がその中にたくさん含まれている。劉備に関することだけで見てみても、「脾肉の嘆」や「三顧の礼」「水魚の交わり」「鶏肋」など世に知られている故事が多くある。これらは後代に創られた「三国志演義」によってさらに広く親しまれたことばであるが、正史「三国志」に書かれたことわざを調べてみよう。「苛砕に大体無し」かさいにだいたいなし。陳寿「三国志」魏書・梁習伝。重箱の隅をつつくように、細かいことをくどくどと言うような人は、大局的な見地に立ってものをみることができない、という意味である。

米国史の暗部KKK

Thecityofbirminghamalabamausavertic   1865年のこの日、ネイサン・ベッドフォード・フォレストら南部連合の退役軍人6人がクー・クラックス・クラン(KKK)を設立した。KKKは白装束で頭部全体を覆い、黒人に激しい暴力を振る舞う白人至上主義の集団。移民の国アメリカには、移民たちがそれぞれの故郷の名前をそのまんま付けた都市が幾つかある。ボストン、プリマス、ポーツマス。そしてアラバマ州バーミングハムもイギリス中部の工業都市にちなんで名付けられた。州の最大都市で、人口が増加しておよそ120万人以上あるという。1950年代から60年代にかけて黒人の公民権運動の中心地で、1963年にはキング牧師がバーミングハム市警に逮捕され、クー・クラックス・クランにより教会が爆破されるという事件が起こった。ここ出身の著名人にはコンドリーザ・ライス(国務長官)、テイラー・ヒックス(歌手)、カール・ルイス(陸上)。そして映画「カッコーの巣の上で」の冷酷な看護婦役で有名になった女優ルイーズ・フレッチャーがいる。(Birmingham,Louise Fletcher)12月24日。

 

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2020年12月23日 (水)

東条英機の命日

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    狐が檻の中のライオンを見て、そばにいって、ひどくばかにした。そこで、ライオンは狐に向かって言った。「私をばかにするのは、お前でなくて、私にふりかかった悲運だ」

    この寓話は石田三成や東条英機を思いおこさせる。三成は関ヶ原の戦場を脱出して近江の古橋村におちのびたところを捕えられ、京都六条河原で処刑された。

    本日12月23日は天皇陛下85歳の誕生日だが、東条英機の命日でもあることを知る日本人は少ない。昭和20年12月8日、占領軍は戦犯を指名した。近衛文麿は、軍事裁判の前に自決したが、東条は自決に失敗した。「生きて虜囚の辱をうくることなかれ」と布達した当の本人が、死にそびれたのだから惨めなことこのうえない。占領軍は皇太子(上皇さま)の誕生日(12月23日)をあえて選んで、東条英機を同日に絞首刑にした。

 

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2020年12月22日 (火)

小野篁

Photo  852年のこの日、小野篁の忌日。享年50歳。小野篁は病気を理由に遣唐使乗船を拒否したため隠岐に流された。彼の死から42年後、894年9月29日、菅原道真の建議によって遣唐使の廃止が決定した。遣唐使を派遣するには、唐の朝廷に対する朝貢品、使節・乗組員全員への支給物など膨大な費用を必要とする。しかし50年ほど前から疫病・凶作・飢饉が続いており、過重な財政に耐えられる状況ではなかった。また中瓘(ちゅうかん)より疲弊した唐の状況が伝えられた。遣唐使は停止されたが、民間の貿易、通交は以後も続いた。

    小野篁は不羈な性格で「野狂」ともいわれ奇行が多い。また、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえることより平安末期頃には、篁が閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがわれる。(12月22日)

2020年12月21日 (月)

ジェームス・パーキンソンとアロイス・アルツハイマー

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 パーキンソン          アルツハイマー

 

   医学の分野ではある症状の病名が、最初の症例報告者に因んでつけられることがしばしばみられる。バセドー病、アスペルガー症候群、クロイツフェルト・ヤコブ病、スティーブンス・ジョンソン症候群、リドル症候群、ギラン・バレー症候群、コルサコフ病、ターナー症候群、ダウン症候群、ハンセン病、ハンチントン病、ベーチェット病、メニエール病、シーハン症候群、シャイ・ドレーガー症候群など。なかでもパーキンソン病とアルツハイマー病はよく知られた病名である。イギリス医師ジェームス・パーキンソンは1817年初めてパーキンソン病を報告した。ドイツの医師アロイス・アルツハイマー(1864-1915)が1906年アルツハイマー病を報告した。( James Parkinsons,Aloysius Alzheimer,Hans Asperger,エポニム,eponym )

 

 

2020年12月19日 (土)

柔然アヴァール同族説

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   5世紀から6世紀にかけて中央アジアを支配した柔然は、563年ころ故地を突厥に追われて西進したのがアヴァール人であるとする柔然アヴァール同族説は古くからある。フランス人のジョゼフ・ドギーニョ(Joseph Deguignes 1721-1800)が最初に唱えた。日本の内田吟風も「柔然アヴァール説」を支持している。近年、ハンガリーなどでアヴァール人の古墳なども発掘されていると聞く。従来は文献上だけの検討であったが、考古学上の調査によって真相がわかるのではないだろうか。

 

 

キリスト十字架はりつけ刑の謎

800pxandrea_mantegna_029 磔刑図 アンドレア・マンテーニャ 1457-60年 

 

Img_0011 2人の盗賊の中に磔けられるキリスト アントネロ・ダ・メッシーナ 1475年

 

   イエスが処刑されたのは一般的には十字架であったと信じられている。しかし横木を用いた十字形ではなく、スタウロスという「杭」で処刑されたという学説もかなり古くから存在する。つまりイエスは両手を頭上に伸ばした形で杭に手と足に太い釘が打ち込まれた。釘の刺さった箇所が体の重みで裂けるため、痛みは耐え難いものである。当時のユダヤはローマ支配下にあってローマ時代の一般的な方法は十字架刑ではなく杭殺刑であったというのがその根拠である。中世の絵画では、マンテーニア(1431-1506)の作品にみられるような十字架刑がほとんどである。ところがメッシーナの作品のように左右の罪人を杭刑で、イエスを十字架刑に区別しているものもある。しかし、杭と十字架を並べることはいかにも不自然である。十字架磔刑説はキリスト教がヨーロッパに普及して成立したものであろう。

 

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中国史関係文献目録(概説・通史)

20120716_660715   高度な文明を始まりとして、東アジア世界の中心に君臨した中華帝国。6000年という悠久の歴史の中で中国は、数多くの王朝が興亡を繰り返した。現在に至るまでの歴史はどのような展開をしたのであろうか。中国史の時代区分の問題については、わが国では現在二つの見方が行われている。

    一つは内藤湖南(1866-1934)による説で、彼は唐宋の間に中国の社会・文化は一大転換をとげたとみ、それまでを古代、以後を近世とした。貴族階級の消滅、したがって貴族政治の終焉、君主独裁制の確立、庶民文化の向上・発展などがこの時に行われたとみたのである。この内藤説は、主として彼の教えを受けた京都の東洋史学者の間に継承されてきている。もっとも後漢末より唐末までを、内藤は中古という呼び方をしているから、後の学者にはこれを中世とみなしている。しかし彼らも近世の設定については、ほぼ内藤説をそのまま承認しているのである。

    一方、第二次世界大戦後、前田直典(1915-49)が、唐宋間に大きな変化があったことは認めるとしても、唐末までを古代、宋以後を中世とすべきであるという説をたてた。 前田の主張は生産関係に注目し、唐末までは大土地所有者の土地が奴隷によって耕作され、一般農民が徭役など半奴隷的収奪を受けており、宋からはそれが農奴使用による耕作へと変化したとみたのである。

   ところで中国では、1930年代に唯物史観の影響を受け社会史論戦なるものが起こり、多くの学者が色々な発展段階説によって時代区分をたてた。一般に奴隷制を古代、封建制を中世、資本制を近代と一応規定したが、それらを現実に中国史に当てはめる点では種々の主張が現れた。代表的な郭沫若(1892-1979)の説を例にとると、殷以前を原始共産制、西周期を奴隷制、春秋以後アヘン戦争までを封建制、以後を近代としている。現在の中国の大学テキストを調べてみても復旦大学「中国通論」(1986年刊行)などは原始社会、夏朝・商朝・西周・春秋を奴隷社会、戦国・秦漢から清末までを封建社会、以後を近代社会としていることから、おおむね郭沫若の説が定説となっていることがわかる。

    現在では時代区分論争は、日本における二つの主張、中国人の種々の考え方とともに結論を得ることなく実りある成果なく消滅したと言わざるを得ない。(参考:「東洋史概説」佛教大学)

 

  中国史関係文献目録

 

支那開化小史 田口卯吉 嵩山房 1888
支那通史 5冊 那珂通世 大日本図書株式会社 1888~1890
支那史 6巻 市村讃次郎、滝川亀太郎 1888~1892
支那帝国史 上下(万国歴史全書) 北村三郎 東京博文館 1889
支那史要 上下 市村讚次郎 吉川半七 1893~1895
東洋史 中等教育 棚橋一郎編 三省堂書店 1899
東洋史要 小川銀次郎 金港堂 1899
東洋史略 小川銀次郎 金港堂 1901
東洋史 秋月胤継 内田老鶴圃 1901
中学中国歴史教科書 夏曾佑 1902(のちに改題「中国古代史」)
東洋近世史 上下 田中革一郎 丸善 1902
東洋史 斎藤坦蔵、成田衡夫編 高等成師学会 1902
東洋史 箭内直、小川銀次郎、藤岡継手 杉本書翰秀館 1903
清国通考 第1~2篇 服部宇之吉 三省堂 1905
清朝史 早稲田大学講義録 矢野仁一 早稲田大学出版部 1905
中国歴史教科書第1冊 夏曾佑 金港堂 1905
東洋史 地理歴史研究叢書 歴史研究会編 1905
東洋歴史講義 上下 河野元三 金刺芳流堂 1905~1906
参考東洋大歴史 高桑駒吉 宝文館 1906
実業学校東洋歴史 宝文館編輯所編 宝文館 1907
東洋四千年史 伊賀駒吉郎 宝文館 1907
東洋歴史 土屋説教 修学堂 1908
通俗西漢紀事 通俗東漢紀事 通俗21史3 称好軒徽庵著 早稲田大学出版部 1911
清史稿 趙爾巽・柯劭忞等編 1914~1928
清朝全史 全2冊 稲葉岩吉 早稲田大学出版部 1914
清朝全史 稲葉岩吉 冨山房 1915
東洋史学要書目録 那珂通世 大日本図書株式会社 1915
支那古代史 フリードリッヒ・ヒルト著 西山栄久訳 三省堂 1918
史記・漢籍国字解全書本 8冊 桂五十郎、菊池三九郎、松平康国、牧野謙次郎 早稲田大学出版部 1919-1920
支那共和史 平川清風 上海・春申社 1920
支那古代社会史論 郭沫若 藤枝丈夫訳 内外社 1921
史記・国訳漢文大成13・14・15・16  公田連太郎・箭内亘共著 国民文庫刊行会 1922
支那古代史論 東洋文庫論叢5 飯島忠夫 東洋文庫 1925
東洋歴史講義 河野元三 金刺芳流堂 1925
東洋文化の研究 松本文三郎 岩波書店 1926
古代中国 H.マスペロ  1927
制度史 瞿兌之 広業書社 1928
支那古代史 フリードリッヒ・ヒルト 西山栄久訳補 丙午出版社 1929
綜合東洋史 文検参考文化詳説 桜井時太郎 三友社 1929
史漢研究 鄭鶴声 商務印書館 1930
中国古代社会研究 郭沫若 上海連合書房 1930
東洋史概説 松井等 共立社 1930
東洋史概説 白鳥清 大観堂 1930
漢晋西陲木簡彙編 張鳳 有正書局 1931
参考東洋歴史 中山久四郎、佐藤恵編 立川書店 1931
世界古代文化史1 緒論・先史時代概観・アジア文化 西村真次 東京堂 1931
古代文化論 松本信広 共立社 1932
参考東洋歴史 最も理解し易い 山上徳信 受験研究社 1932
東洋史 研究社小参考書 研究社編集部編 研究社 1932
東洋歴史(受験本位の) 三省堂編輯所編 三省堂 1932
古代文化史 J・H・ブレステッド著 間埼万里訳 刀江書院 1933
中国古代史 賈曾佑 1933
史学及東洋史の研究 中山久四郎 賢文館 1934
城子崖 中国考古報告集1 李済・梁思永著 国立中央研究院歴史語言研究所 1934
秦漢経済史稿 中国史学叢書 馬元材 商務印書館 1934 
東洋文明発生時代 第1期前編 東洋史講座2 橋本増吉 雄山閣 1934
新撰総合東洋史 同文書院編修局編 同文書院 1935
朝鮮・満州史 世界歴史大系11 稲葉岩吉・矢野仁一 平凡社 1935
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂書房 1935
世界歴史大系3 東洋古代史 橋本増吉 平凡社 1935
世界歴史大系11 朝鮮・満州史 稲葉岩吉・矢野仁一 平凡社 1935
中国古代史  大学叢書 夏曾佑 商務印書館 1935
中国文化史 柳詒徴 鍾山書局 1935
東洋史講座7 漢人復興時代 高桑駒吉、有高巌 雄山閣 1935 
満蒙歴史地理辞典 佐藤種治編 富山・佐藤家 1935
西漢社会経済研究  陳嘯江 新生命書局 1936
戦国式銅器の研究 東方文化学院京都研究所研究報告7 梅原末治 1936
周秦漢三代の古紐研究 上・下 高畑彦次郎 京都・東方文化学院京都研究所 1937
近世中国史 風間阜  叢文閣 1937
物語東洋史 全12巻 中山久四郎監修 雄山閣 1937
東洋文化史概説 上野菊爾 清教社 1937
東洋歴史概説 出石誠彦 大観堂 1937
古代の支那 支那正史1 オットー・フランケ著 高山洋吉訳 東学社 1938
古代北方系文物の研究 梅原末治 京都・星野書店 1938
支那正史 全5巻 オットー・フランケ著 高山洋吉訳 東学社 1938~39
支那通史 上中下 岩波文庫 那珂通世著 和田清訳 岩波書店 1938~39
支那の歴史 星一 星同窓会 1938
世界歴史大年表 改訂普及版 鈴木俊・井上幸治・宮城良造編 平凡社 1938
アロー戦争と円明園(支那外交史とイギリス2) 矢野仁一 弘文堂 1939
支那地方自治発達史 和田清編 中華民国法制研究会(中央大学出版部) 1939
東洋史概観 上野菊爾 清教社 1939
漢書及補注綜合引得 燕京大学引得編纂処編 1940
興亡五千年 支那歴史の話 加藤顕治 桑文社 1940
古代の蒙古 支那歴史地理叢書5 内田吟風 冨山房 1940
参考東洋史 鴛淵一 三省堂 1940
支那史物語 景山直治 清教社 1931
隋唐制度淵源略論稿 陳寅恪 商務印書館 1940
漢書紙背文書 古典保存会 1941
漢土の王道思想 亘理章三郎 金港堂 1941
近世満州開拓史 満州事情案内所 新京 1941
近世欧羅巴植民史 1 大川周明 慶応書房 1941
支那古代史論 補訂版 飯島忠夫 恒星社 1941
東洋史観 鳥山喜一 宝文館 1941
秦漢時代政治史 支那地理歴史体系4 宇都宮清吉 白揚社 1943
西南亜細亜の歴史と文化 満鉄調査局新亜細亜編輯部 大和書房 1943
アジア全史 ハーバーツ・H・ガウェン 白揚社 1944
亜細亜遊牧民族史 ルネ・グルセ 後藤十三雄訳 山一書房 1944
古代支那史要 岡崎文夫 弘文堂書房 1944
支那上古史 内藤虎次郎 弘文堂 1944
春秋繁露通検(盧文弨抱経堂校定本)  中法漢学研究所 1944
中国古代史学の発展 貝塚茂樹 弘文堂書房 1946
東亜の古代文化 梅原末治 養徳社 1946
秦漢史 上下 呂思勉 開明書店 1947
新観東洋史潮 有高巌 開成館 1947
漢代土地制度 王恒 正中書局 1947
中国古代文化史研究1 史学選書1 橋本増吉 鎌倉書房 1947
中国史鋼 翦伯賛 生活書店 1947
中国中古の文化 教養文庫 内藤虎次郎 弘文堂書房 1947
唐史叢鈔 石田幹之助 要書房 1947
アジア史概説 続編 宮崎市定 人文書林 1948
世界史における東洋社会 飯塚浩二 福村書店 1948
中国史学入門 下 東方文化協会 高桐書院 1948
明代建州女直史研究 園田一亀 東洋文庫 1948
漢の武帝 岩波新書 吉川幸次郎 岩波書店 1949
居延漢簡考釈 釈文之部1・2 労榦 国立中央研究院歴史語言研究所専刊21 1949
古代の世界 木村正雄 金星堂 1950
中国史概説 岩波全書 上下 和田清 岩波書店 1950
中国史綱 翦伯賛 三聯書店 1950
中国史綱 2 秦漢史 翦伯賛 三聯書店 1950
東洋史 岸辺成雄 世界書院 1950
東洋史 木村茂夫 日本通信教育会 1950
貴族社会 京大東洋史2 外山軍治 内田吟風ほか著 創元社 1951
古代帝国の成立 京大東洋史1 宮崎市定、宇都宮清吉ほか著 創元社 1951
西廂記 塩谷温 昌平堂 1951
中国史学入門 東方学術協会 平安文庫 1951
ユーラシア古代北方文化 江上波夫 山川出版社 1951
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂 1952
秦漢史 労榦 中華文化出版事業社 1952
中国の古代国家 アテネ文庫 貝塚茂樹 弘文堂 1952
匈奴史研究 内田吟風 創元社 1953
中国史 京大東洋史 上下 外山軍治ほか 創元社 1953
新中国 岩村三千夫 要書房 1953
新中国 目ざめた五億の人人 村上知行 櫻井書店 1953
新中国 木村荘十二 東峰書房 1953
東洋史学論集 東京教育大学東洋史学研究室編 清水書院 1953
古代北方文化の研究 角田文衛 祖国社 1954
中国史 世界各国史9 鈴木俊編 山川出版社 1954
中国土地制度史研究 周藤吉之 東京大学出版会 1954
中国歴史綱要 尚鉞主編 北京・人民出版社 1954
目で見る歴史 日本・東洋・西洋 毎日新聞社 1954
アジア史講座 6巻 田村実造・羽田明監修 岩崎書店 1955-1957
殷墟発掘 胡厚宣 学習生活出版社 1955
漢史初探 安作璋 学習生活出版社 1955
簡明中国通史 呂振羽 人民出版社 1955
教養東洋史 杉本直治郎、浦康一編 柳原書店 1955
史可法 魏宏運 新知識 1955
秦会要訂補 孫楷、除復訂補 上海・群聯出版社 1955
中国古代史概観 ハーバート・燕京・同志社東方文化講座8 宮崎市定 京都・東方文化講座委員会 1955
中国古代漆器図案選 北京歴史博物館編 北京・栄宝斎新記 1955
中国古代社会史論 侯外盧 人民出版社 1955
中国史 国民文庫 ソヴエト大百科事典 山田茂勝訳 国民文庫社 1955
中国史 1・2・3 アジア史講座 田村実造・羽田明監修 岩崎書店 1955
西ウイグル国史の研究 安部健夫 京大人文科学研究所 1955
近世のアジア 絵で見る世界史7 小島真治、小山正明 国民図書刊行会 1956
世界史におけるアジア 現代アジア史4 大月書店 1956
東洋史 NHK教養大学 和田清 宝文館 1956
アジア史研究 第1 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1957
居延漢簡 図版之部 台北・国立中央研究院歴史語言研究所専刊40 労榦 1957
後漢書集解 5冊 王先謙 商務院書館 1959
古代殷帝国 貝塚茂樹編 みすず書房 1957
司馬遷与史記 文史哲雑誌編輯委員会編 北京・中華書局 1957
秦漢史 瞿益錯 華北編訳館 1957
中国古代の社会と文化 中国古代史研究会編 東京大学出版会 1957
中国史学史 金毓黻  商務印書館 1957
中国史学論文索引 中国科学院歴史研究所第一、二所 北京大学歴史系合編 科学出版社 1957
中国史の時代区分 鈴木俊・西島定生編 東京大学出版会 1957
中国歴代口語文 太田辰夫 江南書院 1957
東洋史 榎一雄・鎌田重雄 小川書店 1957
東洋史 小竹文夫・鈴木俊編 有信堂 1957
教養の歴史(東洋史) 鈴木俊・千々和実・太田常蔵・小林幸輔編 小峰書店 1958
居延漢簡 釈文之部   労榦 台北・国立中央研究所歴史語言研究所専刊21  1958
商鞅変法 楊寛 上海人民出版社 1958
新・韓非子物語 中国古典物語6  千田久一 河出書房新社 1958
新唐書吐蕃伝箋証 王忠 科学出版社 1958
隋唐五代史 呉楓 人民出版社 1958
西漢経済史料論叢 陳直 陝西人民出版社 1958
中国史談 全6冊 奥野信太郎・佐藤春夫・増田渉 河出書房新社 1958-59
中国通史 第1編上 范文蘭瀾著 貝塚茂樹・陳顕明訳 岩波書店 1958
秦会要訂補 孫楷 中華書局 1957
十六国彊域志 洪亮吉撰 商務印書館 1958
十六国春秋輯補 湯球撰 商務印書館 1958
アジア史研究 第2 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1959
アジア歴史事典 平凡社編 平凡社 1959-62
居延漢簡甲編 中国科学院考古研究所編 科学出版社 1959
史記 中華書局標点本 10冊 中華書局 1959
秦末農民戦争史略 劉開揚 商務印書館 1959
隋唐五代史 呂思勉 中華書局 1959
中国史十話 世界の歴史1 植村清二 中村書店 1959
古代文明の発見 世界の歴史1 貝塚茂樹編 中央公論社 1960
秦漢思想史研究 金谷治 日本学術振興会 1960
秦漢史の研究 栗原朋信 吉川弘文館 1960
中国古代の社会と国家 秦漢帝国成立過程の社会史的研究 増淵竜夫 弘文堂 1960
後漢書語彙集成 上中下 藤田至善編 京都大学人文科学研究所 1960-62
漢書補注弁証 施之弁 香港・新亜研究所 1961
古代史講座 13巻 学生社 1961-66
史前期中国社会研究 呂振羽 三聯書店 1961
新中国的考古収穫 中国科学院考古研究所 北京・科学出版社 1961
隋唐五代史 呂史勉 中華書局 1961
先秦史 呂思勉 台北・台湾開明書店 1961
中国古代帝国の形成と構造 二十等爵制の研究 西嶋定生 東京大学出版会 1961
唐とインド 世界の歴史4  塚本義隆編 中央公論社 1961
ゆらぐ中華帝国 世界の歴史11 筑摩書房 1961
漢書 全12冊 校点本 中華書局 1962
中国古代工業史の研究 佐藤武敏 吉川弘文館 1962
古代文明の形成 古代史講座3 学生社 1962
古中国と新中国 カルピス文化叢書4 矢野仁一 カルピス食品工業株式会社 1962
アジア史研究 第3 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1963
古代の商業と工業 古代史講座9 学生社 1963
古代の土地制度 古代史講座8 学生社 1963
史記 春秋戦国篇 中国古典選6 田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1963
史論史話 1 鎌田重雄 南雲堂エルガ社 1963
The Ancient east(古代の東洋) D・G・Hogarth 丸善 1963
中国史学論文引得 1902年ー1962年 余秉権編 香港・亜東学社 1963
アジア史研究 第4 宮崎市定 京都・東洋史研究会 1964
朱元璋伝 呉晗 三聯書店 1964
中国征服王朝の研究 上中下 田村実造 京都大学東洋史研究会 1964
中国の歴史 上中下 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1964
東洋史通論 外山軍治、三田村泰助、大島利一、日比野丈夫 創元社 1964
教養としての中国史 講談社現代新書 植村清二 講談社 1965
古代中国 文庫クセジュ ジャック・ジェルネ 福井文雅訳 白水社 1965
古代における政治と民衆 古代史講座11 学生社 1965
楊貴妃伝 井上靖 中央公論社 1965
中国古代帝国の形成 特にその成立の基礎条件 木村正雄 不昧堂書店 1965
永楽帝 中国人物叢書10  寺田隆信 人物往来社 1966
漢書索引 黄福鑾 香港・中文大学崇基書院遠東学術研究所 1966
漢の高祖 中国人物叢書第二期1 河地重造 人物往来社 1966
教養人の東洋史 上 小倉芳彦、柳田節子、堀敏一、三木亘 社会思想社 1966
教養人の東洋史 下 田中正俊、小島晋治、新島淳良 社会思想社 1966
中国文化の成立 東洋の歴史1 水野清一、樋口隆康、伊藤道治、岡田芳三郎 人物往来社 1966
秦漢帝国 東洋の歴史3 日比野丈夫、米田賢次郎、大庭脩 人物往来社 1966
秦漢隋唐史の研究 上下 浜口重国 東京大学出版会 1966
新中国あんない 日中友好代表団編 法蔵館 1966
殷墟卜辞綜類 島邦男 大安 1967
古代殷王朝のなぞ 角川新書 伊藤道治 角川書店 1967
古代トルコ民族史研究1 護雅夫 山川出版社 1967
古代の復活 貝塚茂樹 講談社 1967
史記1 項羽本紀、伯夷列伝、魏公子列伝 大安 1967
史論史話 2 鎌田重雄 新生社 1967
中国古代の田制と税法 秦漢経済史研究 平中苓次 東洋史研究会 1967
武王伐紂王平話・七国春秋平話語彙索引 古屋二夫編著 采華書林 1967 
奴児哈赤 中国人物叢書 若松寛 人物往来社 1967
アジアのあらし(世界の歴史6) 栗原益男、山口修 集英社 1968
古代文明の発見 世界の歴史1 中公バックス 貝塚茂樹編 中央公論社 1968
史記 上 中国古典文学大系10 野口定男・近藤光男他訳 平凡社 1968
秦漢史  沈璋 自印 1968
秦漢史 李源澄 台北・商務印書館 1968
瞽説史記 村松暎 中央公論社 1968
中国古代の家族と国家 守屋美都雄 東洋史研究会 1968
中国史文鈔 大野実之助編 早稲田大学出版部 1968
モンゴル帝国史 1・2(東洋文庫) C・ドーソン 平凡社 1968-1975
乱世の英雄 桃源選書 栗原益男 桃源社 1968
五四運動 紀伊国屋新書 丸山松幸 紀伊国屋書店 1969
大唐の繁栄 世界歴史シリーズ7 世界文化社 1969
中華帝国の崩壊 世界歴史シリーズ20   世界文化社 1969
中国史研究 第1 佐伯富編 東洋史研究会 1969
中国の近代 世界の歴史20 市古宙三 河出書房新社 1969
中国文化の成熟 世界歴史シリーズ15 世界文化社 1969
中国チベット蒙古古代史考 三木偵、渋沢均 鷺の宮書房 1969
モンゴル帝国 世界歴史シリーズ12 世界文化社 1969
アジア史論 上 白鳥庫吉全集8 岩波書店 1970
漢代代田賦与土地問題 呉慶顕 油印本 1970
漢とローマ 東西文明の交流1 護雅夫編 平凡社 1970
陳書 和刻本正史 長沢規矩也解題 汲古書院 1970
後漢書 中国古典新書 藤田至善 明徳出版社 1970
東洋史研究 歴史地理篇 森鹿三 東洋史研究会 1970
鑑真 東洋美術選書 杉山二郎 三彩社 1971
アジアの歴史 松田壽男 日本放送出版協会 1971
後漢書 1~3 和刻本正史 長沢規矩也解題 古典研究会 1971-72
古代北方系文物の研究(復刻) 梅原末治 新時代社 1971
中国古代文明 世界古代史双書10  ウィリアム・ワトソン著 永田英正訳 創元社 1971
漢書 和刻本正史 評林本 古典保存会 汲古書院 1972
周秦漢政治社会結構之研究 徐復観 香港・新亜研究所 1972
乱世の英雄 史記2 司馬遷 奥平卓・守屋範太共訳 徳間書店 1972
漢代之長安与洛陽 馬先醒 油印本 1972
中国の先史時代 考古学選書6 松崎寿和 雄山閣出版 1972
中国の歴史と民衆 増井経夫 吉川弘文館 1972
史学論集 中国文明選12  川勝義雄 朝日新聞社 1972
隋書 全3冊 魏征、令狐徳棻撰 中華書局 1973
中国近代史論文資料索引 1960~1973.6  復旦大学歴史系資料室 1973
中国古代史教学参考地図 北京大学歴史系編 1973
中国神話の起源 角川文庫 貝塚茂樹 角川書店 1973
中国と中国人 岡田武彦 啓学出版 1973
中国歴史に生きる思想 重沢俊郎 日中出版 1973
漢代的以夷制夷政策 刑義田 油印本 1973
A History of Chinese Literature  Herbert G.Giles C.E.Tuttle Co.
アジア専制帝国 世界の歴史8 現代教養文庫 山本達郎、山口修 社会思想社 1974
元・明 中国の歴史6 愛宕松男・寺田隆信 講談社 1974
古代文明の発見 世界の歴史1 中公文庫 貝塚茂樹編 中央公論社 1974
西蔵仏教研究 長尾雅人 岩波書店 1974
中国文明の形成 薮内清 岩波書店 1974
中国文明と内陸アジア 人類文化史4 三上次男・護雅夫・佐久間重男 講談社 1974 
中国の歴史 全13巻 講談社 1974~1975
乱世の詩人たち 「詩経」から毛沢東まで 松本一男 徳間書店 1974
ユーラシア東西交渉史論攷 鈴木治 国書刊行会 1974
古代の東アジア世界 江上波夫・松本清張編 読売新聞社 1975
司馬遷史記入門 勝者と敗者の人間百科 ダルマブックス 竹内照夫 日本文芸社 1975
新唐書 全10冊 欧陽脩・宋祁撰 中華書局 1975
人物中国志 全6巻 毎日新聞社 1974
中国地方自治発達史 和田清編 汲古書院 1975
中国土地契約文書集 金~清 東洋文庫 明代史研究室編 平凡社 1975
アジア史論考 上中下 宮崎市定 朝日新聞社 1976
漢書 中国詩文選8 福島吉彦 筑摩書房 1976
古代東アジアの国際交流 市民講座・日本古代文化入門5 江波波夫・松本清張編 読売新聞社 1976
史記 南宋・黄善夫本(百衲本二十四史所収影印本上・下) 台湾商務印書館 1976
中国近代史論文資料篇目索引 杭州大学歴史系中国古代史近代史組 1976
中国古代文化 今枝二郎 高文堂出版社 1976
中国古代史論集 楠山修作 海南・著者刊 1976
中国史稿 第1冊 郭沫若 人民出版社 1976
中国の歴史 全15巻 陳舜臣 平凡社 1976
中国の歴史 貝塚茂樹著作集8 中央公論社 1976
中国歴史大事紀年 近古~1949年 徐州師範学院歴史系中国歴史大事紀年編写組 1979
漢史文献類目 増訂版 馬先醒編 簡牘社 1976
中国の古代国家 貝塚茂樹著作集 中央公論社 1976
よみがえる古代 図説中国の歴史1 伊藤道治 講談社 1976
漢書 上中下 小竹武夫訳 筑摩書房 1977-79
漢書 3冊 国宝宋慶元本 平中博士追悼出版委員会編 朋友書店 1977
門閥社会成立史 矢野主税 国書刊行会 1976
古代の中国 世界の歴史4 堀敏一 講談社 1977
古代の東アジアと日本 教育社歴史新書 佐伯有清 教育社 1977
中国近代史歴表 宋孟源編 中華書局 1977
中国古代中世史研究 東洋学叢書 宇都宮清吉 創文社 1977
中国の後宮 大空不二男 竜渓書舎 1977
中国歴史地理研究 日比野丈夫 同朋舎 1977
秦漢帝国の威容 図説中国の歴史2  大庭脩 講談社 1977
中国史と日本 三島一 新評論 1977
中国史 上 岩波全書 宮崎市定 岩波書店 1977
アジア史研究 第5 宮崎市定 同朋舎 1978
古代東アジア史論集 上下 末松保和博士古稀記念会編 吉川弘文館 1978
中国文明の原像 上下 放送ライブラリー 宮川寅雄・関野雄・長広敏雄編 日本放送出版協会 1978
秦漢帝国史研究 好並隆司 未来社 1978
秦漢思想研究文献目録 坂出祥伸編 関西大学出版広報部 1978
中国史 下 岩波全書 宮崎市定 岩波書店 1978
中国南北朝史研究 増補復刻 福島繁次郎 名著出版 1978
アジアの歴史 大沢陽典・大庭脩・小玉新次郎編 法律文化社 1978
アジア史論 斎藤実郎 高文堂出版会 1979
アジア遊牧民族史 上・下 ユーラシア叢書 ルネ・グルセ 後藤富男訳 1979
漢書藝文志・隋書経籍志 楊家駱主編 台北・世界書局 1979
漢の武帝 教育社歴史新書・東洋史 影山剛 教育社 1979
史論史話 鎌田重雄 大学教育社 1979
中国歴代皇帝文献目録 国書刊行会編 国書刊行会 1979
乱世の皇帝 後周の世宗とその時代 栗原益男 桃源社 1979
中国古代再発見 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1979
中国古代の再発見 1978-1979年 NHK大学講座 貝塚茂樹 日本放送出版協会 1979
中国史学論文索引 第二編 中国科学院歴史研究所資料室編 中華書局 1979
漢書食貨志訳注 黒羽英男 明治書院 1980
中国古代史籍挙要 張舜徽 湖北人民出版社 1980
中国古代の「家」と国家 皇帝支配下の秩序構造 尾形勇 岩波書店 1979
中国古代の文化 講談社学術文庫 白川静 講談社 1979
中国史稿地図集 上冊 郭沫若 地図出版社 1979
中国史における革命と宗教 鈴木中正 東京大学出版会 1980
中国史における宗教受難史 ホロート著 牧尾良海訳 国書刊行会  1980
中国史における仏教 アーサー・F・ライト著 木村隆一・小林俊孝訳 第三文社 1980
中国歴代年表 斉召南著 山根伸三訳補 国書刊行会 1980
楊貴妃後伝 渡辺龍策 秀英書房 1980
北アジア史 世界各国史12・新版 護雅夫・神田信夫編 山川出版社 1981
五四運動 丸山松幸 紀伊国屋書店 1981
人物中国の歴史 陳舜臣編 集英社 1981
秦漢音楽史料 吉聯抗輯訳 上海文芸出版社 1981
秦漢思想史研究 増補復刊 金谷治 平楽寺書店 1981
西安史話 武伯綸・武復興 陝西人民出版社 1981
戦国時代の群像 人物中国の歴史3 司馬遼太郎 集英社 1981
大統一時代 秦・前漢(中国の歴史3) 陳舜臣 平凡社 1981
中国古代の社会と経済 歴史学選書 西嶋定生 東京大学出版会 1981
中国史 そのしたたかな軌跡 人間の世界歴史10 増井経夫 三省堂 1981
中国歴史の旅 陳舜臣 東方書店 1981
三国志 完訳 全8巻 羅貫中 岩波書店 1982-83
史学論文索引 1979~1981 上 北京師範大学歴史系資料室 中華書局 1982
秦漢法制史の研究 大庭脩 創文社 1982
中国人の自然観と美意識  東洋学叢書 笠原仲二 創文社 1982
アジア歴史研究入門 1~5 別巻 宮崎市定ほか編 同朋舎  1983-1987
秦始皇陵兵馬俑 田辺昭三監修 平凡社 1983
中国古代国家と東アジア世界 西嶋定生 東京大学出版会 1983
中国古代の東西交流 考古学選書21  横田禎昭 雄山閣 1983
中国史における社会と民衆 増淵龍夫先生退官記念論集 汲古書院 1983
アジア史論叢 市古宙三教授古稀記念会 中央大学白東史学会編 刀水書房 1984
古代殷帝国 貝塚茂樹編 みすず書房 1984
三国志 4 秋風五丈原 谷崎旭寿 新人物往来社 1984
支那通史 全3冊 岩波文庫 那珂通世著 和田清訳 岩波書店 1984
秦漢官制史稿 上下 安作璋・熊鉄基 山東・斉魯書社 1984
中国史大事紀年 蔵雲浦・王雲度・朱崇業・何振東・叶青 山東教育出版社 1984
中国の古代国家 中公文庫 貝塚茂樹 中央公論社 1984
中国の歴史書 中国史学史 刀水歴史全書20 増井経夫 刀水書房 1984
中国文明の起源 NHKブックス453 夏鼐著 小南一郎訳 日本放送出版協会 1984
司馬遷と「史記」の成立 大島利一 清水書院 1985
秦漢思想史の研究 町田三郎 創文社 1985
秦漢土地制度与階級関係 朱紹侯 中州古籍出版社 1985
秦始皇帝 A・コットレル 田島淳 河出書房新社 1985
秦都咸陽 秦漢史研究双書 王学理 陝西人民出版社 1985
西漢人物故事 倉陽卿、張企栄 浙江教育出版 1985
中国の歴史と故事 旺文社文庫 藤堂明保 旺文社 1985
中国文明の成立 ビジュアル版世界の歴史5 松丸道雄・永田英正 講談社 1985
東アジアの変貌 ビジュアル版世界の歴史11  小山正明 講談社 1985
楊貴妃・安禄山 現代視点・中国の群像7 旺文社編 旺文社 1985
五・四運動史像の再検討 中央大学出版部  1986
昭和の戦争9 アジアの反乱 丸山静雄 講談社 1986
秦兵馬俑 張文立編写 西安・西北大学出版社 1986
秦陵同車馬 劉雲輝編写 西安・西北大学出版社 1986
西漢人口地理 葛剣雄 北京・人民出版社 1986
中国古代を掘る 城郭都市の発展 中公新書 杉本憲司 中央公論社 1986
中国史における乱の構図 野口鉄郎編 雄山閣 1986
中国の英傑 10 洪秀全 ユートピアをめざして 小島晋治 集英社 1986
アジア史概論 中公文庫 宮崎市定 中央公論社  1987
女たちの中国 古代を彩る史話 李家正文 東方書店 1987
漢書藝文志 顧實講疏 上海古籍 1987
漢書郊祁志 東洋文庫 班固 平凡社 1987
漢の武帝 中国の英傑3 福島吉彦 集英社 1987
中国からみた日本近大史  劉恵吾主編 早稲田大学出版部 1987
中国古代国家の支配構造 西周封建制度と金文 伊藤道治 中央公論社  1987
中国古代の身分制 明治大学人文科学研究所叢書 堀敏一 汲古書院 1987
中国の考古学 隋唐篇 岡崎敬 同朋舎 1987
新アジア学 板垣雄三、荒木重雄編 亜紀書房 1987
秦始皇帝とユダヤ人 鹿島曻 新国民社 1987
漢書古今人表疏證 王利器 斉魯 1988
漢武帝評伝 羅義俊 上海人民出版社 1988
古代中国の性生活 先史から明代まで R・H・ファン・フーリック 松平いを子訳 せりか書房 1988
中国古代史論 平凡社選書 宮崎市定 平凡社 1988
中国古代の法と社会 栗原益男先生古稀記念論集 汲古書院 1988
中国古代文明の謎 光文社文庫 工藤元男 光文社 1988
中国の歴史人物事典 中国の歴史別巻 集英社 1988
漢三国両晋南北朝の田制と税制 藤家禮之助 東海大学出版会 1989
秦漢帝国と稲作を始める倭人 マンガ日本の歴史1 石ノ森章太郎 中央公論社 1989
秦漢法制史論 堀毅 名著普及会 1989
真史ジンギス汗 谷崎旭寿 新人物往来社 1989
中国古代史を散歩する 李家正文 泰流社 1989
中国古代農業技術史研究 東洋史研究叢刊43 米田賢次郎 同朋舎  1989
中国の歴史と故事 徳間文庫 藤堂明保 徳間書店 1989
中国の歴史近・現代 全4巻 陳舜臣著 平凡社 1986-1991
アジア史を考える 田村実造 中央公論社 1990
アジア諸民族の歴史と文化 白鳥芳郎教授古稀記念論叢刊行会 六興出版 1990
漢書地名索引 陳家麟編 中華書局 1990
東洋史概説 岩見宏・清水稔編 佛教大学 1990
マンガ中国の歴史 陳舜臣・手塚治虫監修 中央公論社 1990
司馬遷 集英社文庫 林田慎之助 集英社 1991
中国古代国家論集 楠山修作 朋友書店 1991
中国の歴史と民俗 伊藤清司・大林太良ほか 第一書房 1991
中国文明史 ヴォルフラム・エーバーハルト著 大室幹緒・松平いを子訳 筑摩書房 1991
十八史略の人物列伝 守屋洋 プレジデント社 1992
図説中国近現代史 池田誠・安井三吉・副島昭一・西村成雄 法律文化社 1993
秦漢財政収入の研究 山田勝芳 汲古書院 1993
秦始皇陵研究 王学理 上海人民出版社 1994
中国古代漢族節日風情 中国文化史知識叢書44 朱啓新・朱篠新著 台湾商務印書館 1994
中國史1~5 松丸道雄ほか 山川出版社 1996
天空の玉座 中国古代帝国の朝政と儀礼 渡辺信一郎 柏書房 1996
三国志 英雄たちの100年戦争 瀬戸龍哉編 成美堂 1997
アジアと欧米世界 世界の歴史25 加藤祐三、川北稔 中央公論社  1998
中国史 新版世界各国史3 尾形勇・岸本美緒 山川出版社 1998
漢帝国の成立と劉邦集団 軍功受益階層の研究 李開元 汲古書院 2000
中国史論集 楠山修作 朋友書店 2001
中国史なるほど謎学事典 島崎晋 学習研究社 2001
すぐわかる中国の歴史 宇都木章監修 小田切英著 東京美術 2003
長城の中國史阪倉篤秀 講談社 2004
中国史のなかの諸民族 世界史リブレット 川本芳昭 山川出版社 2004
中国の歴史 全12巻 講談社 2004-2005
中国の歴史 上・下 愛宕元・冨谷至編 昭和堂 2005
清朝とは何か 別冊環16  岡田英弘編 藤原書店 2009
中国古代の財政と国家 渡辺信一郎 汲古書院 2010
中国の歴史 山本英史 河出書房新社 2010
中国王朝4000年史 渡邉義浩 新人物往来社 2012
秦帝国の形成と地域 鶴間和幸 汲古書院 2013
史記秦漢史の研究 藤田勝久 汲古書院 2015
中国の歴史 濱下武志・・平勢隆郎編 有斐閣 2015
中国の歴史 ちくま学芸文庫 岸本美緒 筑摩書房 2015
性からよむ中国史 男女隔離・纏足・同性愛 スーザン・マン著 小浜正子訳 平凡社 2015
中国の文明3 北京大学版 潮出版社 2015
武帝 始皇帝をこえた皇帝 世界史リブレット 冨田健之 吉川弘文館 2016
鏡鑑としての中国の歴史 礪波護 法蔵館 2017
簡牘が描く中国古代の政治と社会 藤田勝久 汲古書院 2017
96人の人物でわかる中国の歴史 ヴィクター・H・メア、サンピン・チェン、フランシス・ウッド著 大間知知子訳 原書房 2017
漢唐文化史 熊鉄基 湖南出版社
漢唐文化史論稿 汪籤 北京大学

 

 

 

 

2020年12月18日 (金)

ゲルマン民族の大移動

   西洋中世史の幕開きはゲルマン民族の登場によって始まる。4世紀の後半にフン族が黒海の北方から西に移動し、南ロシアにいた東ゴート族を圧迫し、さらに西ゴート族にせまったので、東ゴート族はフンに服属し、西ゴート族は375年にドナウ川をわたってローマ帝国の領内に移った。これがゲルマン民族の大移動のはじまりである。ゲルマン人の大移動はローマ帝国を衰亡へと導いた。だが、およそ未開民族の間には移動の習性は大昔からある。それは生活の必要によるもので、生存のためにより安易なところを求めようとする希望から出たものであり、ケルマン民族の大移動以前にも、種々さまざまにあったものと考えられる。とくに注目すべきはゲルマン人の一部族であるキンブリ人とテウトニ人の活動である。

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   彼らは原住地であるユトランド半島エルベ河口付近の地を出て、移動を始めた。その原因は、古い伝えでは、キンブリ人については大洪水に災いされたためであるとされるが、前120年頃、伝えるところでは、戦士30万、妻子を車に乗せ、牛馬に荷を積み、冬は屯営し、夏は行進を続けて移動した。故地を出て、エルベ河に沿って上流地方に遡り、ベーメンに近づいたが、ここでボイェル人に撃退されたので、その地を迂回して、パンノニアに出、そこから南下しようとしたが、そこでも抵抗を受けたので、西方に転じ、ノリクムに入り、ローマ軍の抵抗わ破った上、更に西に進んでヘルヴェティ人の住地を過ぎ、その一部を伴って、ローヌ河の流域に出て、そこにあったローマ軍を撃破し、河に沿って南下し、前105年アラウシオでローマ軍と戦い大勝して、その6万を全滅させた。さらにガリアに入り、スペインに進んだのち転じてイタリアに向かった。しかし前101年、ポー川渓谷のウェルケラエ付近でローマの将軍マリウスに撃滅された。ただし少数はガリア北部に定住し、原住民にも残存民が紀元5年ローマ軍の海路遠征のときに見いだされたといわれる。この事件はゲルマン人の初期移動を示す好例といえる。主なゲルマン民族が建国した国家は、西ゴート王国、スエヴィ王国、ヴァンダル王国、ブルグンド王国、フランク王国、東ゴート王国、ランゴバルド王国、アングロ・サクソン七王国、ゲピド王国などである。Cimbrii,Teutoni

 

 

ひれふりの嶺

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   佐賀県松浦の地方は、魏志倭人伝にも「末廬」と見えて、はやくから大陸文化と関わりの深いところである。唐津は大陸にわたる要港であった。宣化天皇のむかし(6世紀前半)新羅攻撃に向かう青年・大伴狭手彦が土地の長者の娘である松浦佐用姫と恋をした。しかし、やがて狭手彦は再会を約し、哀惜の情を1枚の鏡に託して航路についた。佐用姫は別れ易く、会うことの難いことを嘆いて、鏡山(唐津市)に登り領巾(ひれ、婦人の肩にかける布)を振って船を招いたので、その山を「ひれふりの嶺」と名づけたという伝説が残されている。さらに後日譚として、佐用姫は船を追い、松浦川を渡り、加部島の丘に果てた。七日七晩泣き続け、ついに石に化したという。

    この松浦佐用姫伝説は、万葉の歌人たちにも数多く詠まれている。

遠つ人松浦佐用比売つま恋ひに  頒巾振りしより負へる山の名 山上憶良(巻5-871)

行く船を帰れとか 頒巾振らしけむ松浦佐用比売 大伴旅人(巻5-874)

行く船を振り留みかね如何ばかり 恋しくありけむ松浦佐用比売 大伴旅人(巻5-875)

2020年12月17日 (木)

古ゲルマン社会

Imperium1  ゲルマン人は、バルト海沿岸やユトランド半島の森林・沼沢地帯を原住地としていたが、しだいに南下して先住のケルト人を駆逐し、紀元前後のころにはライン・ドナウ両河を境にしてローマ帝国と接触するようになった。大移動以前のゲルマン人の社会を古ゲルマン社会という。

   ゲルマンの社会組織は、貴族・自由民・奴僕・奴隷の4つの身分があった。社会の基礎をなす家庭については、家長権は絶対で、妻や子を抑え、奴僕、奴隷を従えていたが、その気分は健全で、殊に夫婦の間に一夫一婦制が厳重に守られていた。家族が寄って氏族をなしていた。大体これに基づいて、村落ができた。民族が幾つか集まって部族が組織され、それは地域的にはおおむねガウに相当する。さらにその上に国家組織があり、それがキヴィタスである。キヴィタスは50くらいあったが、それには大小があり、従属、同盟の関係で結びつけられたものもあって複雑であった。ゲルマンの政治で特色とすべきことは民意が尊重される傾向であり、ディングDing(ドイツ語)、シングthing(古北欧語)などと呼ばれる民会があって、全自由民が政治に参加し重要問題を決定した。(Gau,civitas、世界史)

聴いていて気恥ずかしくなる歌謡曲

   子供のころに聞いた曲で、題名も歌手もなかなか思い出せないが、忘れられない曲が誰にもあるものだ。ふとした切っ掛けで、耳にすることができた。なんとも気恥ずかしいような曲調で、いまではテレビで聞くことはほとんどできないだろう。愛川みさ「誰にも云わないで」(1969)である。当時、ラジオはもちろんテレビの歌番組でもよく流れていた。「♪どことなくさみしそな あのひとが好きなのよ じっと見ているだけで 泣けてくるわたし」女の媚びを含んだなまめかしい声、いわゆる嬌声である。昭和40年代は、特異な声が流行った時代であり、若い頃の日吉ミミも嬌声歌手の1人だった。作詞・作曲は国民栄誉賞の遠藤実である。遠藤には「星影のワルツ」や「北国の春」のような名曲もあるが、お色気ソングも多い。ミノルフォン・レコードの楽曲は気恥ずかしくなるような曲が多い。それが歌謡曲の醍醐味かもしれない。愛川みさ「誰にも云わないで」は誰もカバーできないだろう。実は1983年に小久保尚美でカバーしている。嬌声ではなくサラリと歌っていて聞きやすい。愛川のような気恥ずかしくなるほどの歌謡曲というのも遠い昭和の思い出かもしれない。五月みどり「おひまなら来てよね」(1961)は遠藤がたまたま目にした仏映画「今晩おひま?」ジャン・ピエール・モッキー監督のポスターから着想したそうだ。

ベートーベン生誕250年

4665c7c99cebb32ecc981c39a97baee25de     藤澤ノリマサが「希望の歌」が歌っている。むかし友人の結婚披露宴でベートーベンの「交響曲第九番」の「歓喜の歌」をドイツ語で歌っている人がいた。うらやましいと思ったがついに自分は練習した事はなかった。だからいまでも日本語で「♪晴れたる青空ただよう雲よ」と中学校の音楽の本にあった歌詞しかしらない。いまいち歌詞がつまらない。「希望の歌」は歌詞がやさしくて歌いやすいように思う。ベートーベンは12月が誕生月である。ベートーベンの父ヨハンは宮廷楽団のテノール歌手であったが、酒好きで喉を痛め、生活が困窮した。1767年にマリア・マグダレーナ・ライムという若い未亡人と結婚した。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンはその長男である。正確な誕生日はわからない。洗礼を受けたのが17日なので、17日と前日の16日を誕生日とすることが多い。ベートーベンの身長は160~167㎝。耳が遠いせいで声が大きかった。ワインが大気好きだった。BSプレミアム「ザ・プロファイラー」でベートーベンの不滅の恋人とはアントニア・ブレンターノが有力であるといっていた。彼女は当時すでに結婚しており4児の母であった。

 

 

2020年12月15日 (火)

フランス歴史と文化の多様性

  フランスはどのようにしてフランスになったのか。現在、パリをはじめ欧州各地にコロナウイルスの感染が拡大している。マクロン大統領は、国民に対して生活必要物資の買い物などの理由を除き外出を禁止するように命じている。

    国名フランスは、5世紀末にフランク王国をたてたフランク族の名に由来する。この種族はゲルマン人の勇敢な一部族で、フランカfranka(投槍)を主要な武器としたため、フランカ族(投槍族)と呼ばれた。しかし、さらに昔のフランス、森林地帯に覆われた時代はローマ人からガリGalli(ガリア)と呼ばれていた。

Rekishi_furansu    カエサル「ガリア戦記」によれば全ガリアは、ベルガエ(北東部)、アクイタニア(南西部)、ケルタエ(中央部)に区分されている。前8世紀からケルト人が来住していたが、ゲルマン人とガリア人が混血してベルガエ人が定住するようになった。前52年、カエサルによって全ガリアがローマに支配されるようになった。476年、西ローマ帝国が滅び、クロヴィスによってメロヴィング朝が開かれる。クロヴィスの死後、フランクの慣習によって分割相続がとられたため、王国は分裂・内紛を繰り返して衰退した。クロタール2世によって再統一されたが、7世紀後半から王国の行政を取り仕切った宮宰に実権が移ってゆく。751年、ピピン3世がカロリング朝を開く。987年にユーグ・カペーがフランス王に即位し、以降、カペー朝、ヴァロア朝、ブルボン朝と王朝は交替したが、その血筋は続いている。14世紀初めに教皇庁をローマからアヴィニョンに移転させ、フランス王権の優位性を示した。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた。(ガリカニスム)近世はイタリアのフィレンツェから始まり、西ヨーロッパに広まった。フランス近世の萌芽は16世紀の前半、フランソワ1世やアンリ2世の時代にみられる。国王の支配はほぼ全土におよび、この頃ヨーロッパで、最も人口の多い強国となった。しかし16世紀の後半、宗教戦争による惨禍・不安・混乱があった。フフラン絶対主義の基礎がきずかれたのは、1589年に王位についたブルボン朝の祖アンリ4世の時代である。彼はユグノー戦争をナント勅令によって終わらせる一方、国内の経済復興に努め、農業の保護奨励策をとって農民の救済をはかり商工業の発展にも力をいれた。とくに絹織物業をおこしたり、東インド会社を設立したりしたことで名高い。18世紀初め、ルイ14世の時代、絶対王政の最盛期を迎えた。そして18世紀末に始まるフランス革命、ナポレオン時代に際して、数々の歴史的大事件が繰り広げられた。王政復古、第2共和制、ナポレオン3世の第2帝政に続き、1871年の普仏戦争の敗北後、パリ・コミューンの乱があったが、政局は安定せず、1879年には第3共和制が設立し、ここにフランス共和政の基礎がつくられた。

Img_0016   第2次大戦で国土の半分がドイツに占領されたが、南半分に対ドイツ協力政権のビシー政権(ペタン元帥)が成立、1944年8月連合軍がパリを解放、9月ドゴールを首班とする臨時政府が成立、ドゴールは1958年に第5共和制を発足させ、1962年に大統領直接選挙制を導入した。(France,Jeanne d'Arc,Belgae,Celtae,Aquitania)

 

 

2020年12月14日 (月)

「今日は何の日」の特異日

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  12月14日は「今日は何の日」の特異日である。「快挙の日」とでもいうべきか。1911年、人類初の南極点到達を果たしたロアール・アムンセンに対して、スコットは翌年に南極点に到達するも隊ごと帰路に遭難し、全滅する。もちろん赤穂義士が吉良邸に討ち入りし、主君浅野長矩の仇を討った日としてあまりにも有名ですね(1702年)。ノストラダムスの誕生日(1503年)。そしてライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した日(1903年)。ただしこれには注釈がいる。この日の飛行時間はわずか3秒半だった。もちろんライト兄弟も失敗したとして3日後の17日に再挑戦。ついに852フィート(255m)、59秒間の飛行に成功したので17日を「ライト兄弟の日」「飛行機の日」としている。ただし14日は日本人にとっては忠臣蔵の吉日として、7年後の1910年の12月14日に日野熊蔵(1878-1946)が60mの日本初の飛行実験に成功している。(Wilber Wright,Orville Wright,Roald Amundsen)

2020年12月13日 (日)

ロシア革命の悪役コルニーロフ将軍

 第一次世界大戦が始まるとロシアの専制政治はたちまちその弱点を露呈し、1917年3月には首都に暴動がおこり、それが各地にひろまり、労働者・兵士はソビエトを組織して革命を推進した。政府はこれを抑える力がなく、国会の自由主義者によって臨時政府が組織され、皇帝は退位し共和国が設立された(三月革命)。そしてボルシェヴィキの指導者レーニンが「四月テーゼ」を発表した。8月、ロシア帝国(臨時政府)の軍人ラ―ヴル・コルニーコフはボルシェヴィキを攻撃するため軍隊を首都ペトログラートに向かわせた。ところが9月になるとケレンスキー首相は怖気て不安となり、コルニーロフの部隊は戦意喪失の状態となる。コルニーロフは戦わずして逮捕され、クーデターは失敗する。この結果、ボルシェヴィキに対する国民の支持が増大され軍事力・政治力を蓄え十月革命が成功する。

三毛別羆事件と山本兵吉

   時は大正初期。炭を売る心優しき少年・炭治郎の日常は家族を鬼に皆殺しにされたことで一変する。唯一生き残ったものの、鬼に変貌した妹・禰津豆子を元に戻すため、また家族を殺した鬼を討つため、炭治郎と禰豆子は旅立つ。今年は「鬼滅の刃」が大ブームとなった。実はこの漫画は1915年12月に北海道で起こった「三毛別羆事件」がモチーフになっているらしい。7名の住民が巨大ヒグマに殺され、軍隊が出動したが、この熊を射殺したのは山本兵吉(1858-1950)という1人の猟師だ。ちなみにドラマで高倉健や三國連太郎が演じている。

愛を語るハイネのような

 ばら ゆり はと 太陽

 

 むかしはそれらにうっとりした

 

 だがもういまは おまえだけ

 

 ちいさな かわいい きよらかな

 

 愛のいずみよ ああ おまえこそ

 

 ばら ゆり はと 太陽

 

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 ハインリヒ・ハイネは1797年12月13日、デュッセルドルフにユダヤ人であったザームゾン・ハイネとベティ・フォン・ゲルデルンの子として生れた。ハイネは「歌の本」(1827年)などの叙情性と、その高い音楽性によってブラームス、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンなど多くの作曲家に曲想を与え、一般に愛の詩人として知られている。だが社会主義にめざめたハイネは恋愛詩人というよりも急進的思想の社会批評家だった。パリに亡命し、社会風刺に富む革命詩や、国境を越えた民衆の相互理解を求める多くの詩論を執筆し、ロマン主義をこえたものであった。「それは前触れに過ぎない。本を焼き払う処では人間をも焼いてしまう」とハイネは書いている。そのことは、1933年以降現実となり、ナチスは、書物を燃やしたのみならず、ついにはユダヤ人を大量虐殺し、焼却している。現在ドイツには各地の多くの通りに、彼の名がつけられ、またデッセルドルフ大学はハイネの名にちなんで、ハインリヒ・ハイネ大学と命名されている

2020年12月12日 (土)

神に祈るしかない

  幸福というものはある永続的な状態なのであって、それはこの世では人間にあたえられないものらしい。(ルソー「孤独な散歩者の夢想」)

   今年もあとわずか。歴史をみると国家も街もいつかは滅ぶ。南イタリアのポンペイという人口2万人の町は、紀元79年、火山の大爆発により一瞬にして壊滅した。やがてローマ帝国も滅んだ。南米に栄えたインカ帝国はスペイン人によって1533年、突如として滅んだ。13世紀末に小アジアに栄えたオスマン・トルコ帝国は1922年に滅亡した。ロシア革命で誕生したソヴィエト連邦は1991年、わずか69年で滅亡した。災害は突然にやってくる。ヨハネの黙示録に記している。「わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。7人の天使が最後の7つの災害を携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである」「不幸だ、不幸だ、大いなる都。あれほどの富が、ひとときの間にみな荒れ果ててしまうとは」「その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁いた」これらは大いなる都バビロンのことであるが東京に当てはまるのか。六本木ヒルズなど東京の街が神に享楽の都とみられたのか。東京スカイツリーが神をも恐れぬ所業とみられたためか。永田町の金権政治に神の怒りがおちたのか。原発事故やコロナ禍を、不安に思うか、安心しているのか。終息すると思うか、さらに拡大すると思うのか。Go To トラベル、菅を信じますか、神を信じますか?

2020年12月11日 (金)

ゴルチュンの法典の3身分制

   クレタ島の都ゴルチュンには紀元前450年頃にできた市民法典を刻んだ石碑が残っている。12の石版をつなげた長さは9メートルにも及ぶ。その一部はルーブル博物館にあるが、ほとんどはそのまま現地に保存されている。そのころのポリス社会の身分構成は大きく3つに区分されていた。市民エレウテロイ(自由人の意)、アペタイロイ(市民を組織する下部集団)、奴隷(ドロイ)の3身分に構成されていた。市民とアペタイロイは自由民であるが、アペタイロイは戦士市民の共同食事に加わる資格を失った脱落市民、在留外人、解放奴隷などであろうと推測する。これとは対照的に古典期のアテネは、アペタイロイのような中間的隷属者を全く欠き、ミケーネ時代の小ポリスが先進地域として大きく発展を遂げた。

2020年12月 8日 (火)

ジョン・レノンの眼鏡

Yokoonogunslennonglasses    1980年のこの日、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で、マーク・チャップマンに撃たれて死亡した。アメリカで銃規制強化をめぐる論議が高まる中、オノ・ヨーコはジョン・レノンが射殺された際に掛けていた眼鏡をツイッターに投稿した。「1980年12月8日にジョン・レノンが射殺されて以来、米国で105万7000人以上が銃によって殺害されました」「私たちはこの美しい国を戦場にしようとしています」「力を合わせて平和なアメリカを取り戻しましょう」と呼びかけている。眼鏡は1979年夏に来日したとき白山眼鏡店で購入した日本製。メイフェアの色はクリア。ガラスレンズはニコンのソフルックスS1。

 

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2020年12月 7日 (月)

日米開戦前夜

   開戦・・・。昭和16年12月8日、午前3時19分(ハワイ時間12月7日午前7時49分)、日本海軍第一次攻撃隊がハワイ・オアフ島の真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊の主力部隊を攻撃開始。三分後、渕田美津雄第一次攻撃隊長は「トラ トラ トラ」と奇襲成功電報を打つ。第一次攻撃は一時間あまりつづく。奇襲攻撃は山本五十六連合艦隊司令長官の発案で、緒戦にアメリカ太平洋艦隊の主力を撃破して、南方作戦をスムースに展開させるとともに「米国の海軍および国民の士気を救うべからざる程度に阻喪させる」意図のもとに決行。つづく第二次攻撃171機の攻撃が約一時間つづく。日本海軍は、戦艦六隻(オクラホマ、アリゾナ、カリフォルニア、ウェストバージニア、ネヴァダ)、重巡1隻を撃沈、戦艦2隻(メリーランド、テネシー)、重巡1隻、軽巡6隻、駆逐艦3隻、補助艦3隻を大中破、飛行機300~400機を撃破する戦果をあげた。

   この日ハワイは、日曜日で休日を楽しもうとしていた矢先であり、多くの人が初めは演習と思った。米軍は「真珠湾攻撃さる、演習にあらず」と各方面に打電。アメリカの被害は史上空前で、逆にアメリカ軍民の士気を一気に高め「リメンバー・パール・ハーバー」となる。野村・来栖両大使はハル長官に最後通牒を渡す。米英両国に対して宣戦布告。午前7時、臨時ニュース放送「大本営陸海軍十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ。」

 

 

2020年12月 6日 (日)

洞ヶ峠の順慶はウソだった!?

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  京都府八幡市と大阪府枚方市との間に洞ヶ峠がある。現在、国道1号線「八幡洞ヶ峠」交差点付近に筒井順慶陣所跡の石碑が残っている。筒井順慶は、松永久秀との抗争を繰り返した戦国大名。本能寺の変後の1582年、豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦の折、光秀は順慶に加勢を求めたが、秀吉有利とみるや直ちに洞ヶ峠を下り、秀吉に味方したといわれる。古来より「洞ヶ峠を決め込む」とは日和見の代名詞となり名高い故事となっている。しかし史実では順慶が洞ヶ峠に出陣したという事実はなく、郡山城を一歩も動かず、洞ヶ峠に着陣したのは光秀本人である。秀吉は順慶の遅参を「曲事」(けしからんこと)としたが、引き続き大和の支配を順慶にまかせた。順慶は翌年、越前の柴田勝家を滅ぼした時には功をたてた。順慶洞ヶ峠の逸話は豊臣恩顧の大名を牽制するための江戸史観の作り話である。

水戸黄門の旅行は一番遠くて鎌倉まで

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 加賀邦男 月形竜之介 大友柳太朗 千原しのぶ

 水戸藩第2代藩主・徳川光圀(1628-1701)の1700年の忌日。光圀は黄門様として庶民に親しまれている。映画やテレビでは助さん格さんを連れて旅に出たことになっているが、実際には、諸国はおろか、ほとんど旅に出たことはなかった。唯一旅らしいのは、延宝2年江戸参府の途中、水戸から江戸に直行せず、上総、安房へ回り、そこから船で鎌倉へ渡ったことがあるだけだった。ではなぜ漫遊したことになってしまったのだろうか。学問好きの光圀は「大日本史」の編纂のため、家臣を諸国に派遣し、資料の収集をさせている。この家臣の旅が光圀自身の旅として誤って伝えられたという。水戸黄門の役者といえば、近年は武田鉄矢が演じているが、渋さでは月形竜之介が天下一品であった。なんと昭和29年には「水戸黄門漫遊記」「副将軍初上り」「地獄極楽大騒ぎ」「闘犬崎の逆襲」の4本の映画が作られている。助さんは第1作は徳大寺伸、第2作は大友柳太朗、第3作は月形哲之介。格さんは3作とも加賀邦男だった。加賀は志賀勝の父。(12月6日)

 

 

 

 

2020年12月 5日 (土)

アダムのりんご

18adameve   今日すべてのリンゴの起源はカザフスタンの野性リンゴの子孫だと考えられる。そして、リンゴは中央アジアの山岳地帯を越えて、西へ東へ広まった。旧約聖書の創世記にしるされた話。エデンの園で、アダムとイブが食べた禁断の木の実は、英語の聖書には単に the fruit of the treeと書かれているが、一般に appleといわれている。

  民間の伝承から生まれた言葉として、英語で「アダムス・アップル」というのがある。これは、喉頭隆起、つまり、のどぼとけのことで、アダムが神の眼を盗んで禁断の実を食べたとき、神から声をかけられあわてて飲み込んだところ、それが喉につかえたために、子々孫々の男性は、それを、喉に記念として残した、というのである。

 ギリシア神話ではトロイ戦争の発端ともなった黄金のりんごの話がある。りんごは愛情の表象ともいわれる。(世界史こぼれ話)

バミューダトライアングルの日

Bermudatriangle 1943年のこの日、大西洋上で米軍機5機が突然消息を経った。フロリダ半島の先端と、プエルトリコ、バミューダ諸島と結んだ三角形の海域は、むかしから船や飛行機が消えてしまうという伝説があった。ヴィンセント・ガディスが1964年「バミューダ・トライアングル」という言葉を初めて使った。1974年、チャールズ・バーリッツはこの科学では説明のつかない話を研究し、失われた都市アトランティスの崩壊によって生じたエネルギーの渦が原因という仮説をたて「謎のバミューダトライアングル」という本を出版した。(12月5日)

 

 

2020年12月 4日 (金)

「黒いナポレオン」ボカサ皇帝

Bokassai1sized 1977年のこの日、中央アジアのジャン・ベデル・ボカサ終身大統領(1921-1996)は、国名を中央アフリカ帝国と改め、自らをボカサ皇帝と宣言し、国家予算の2倍にあたる2500万ドルを費やしてナポレオン1世を真似た豪華な戴冠式 を行った。その後独裁政治が続くと、国際的な非難が高まり、旧宗主国のフランスも政府打倒を画策しはじめた。1979年9月、ダヴィド・ダッコが無血クーデターに成功、共和制に戻った。ボカサを仏大統領ジスカール・デスタンは支援したため、彼の人気は急落し、選挙でミッテランに敗れる一因となる。(12月4日,Jean Bedel Bokassa)

 

 

2020年12月 3日 (木)

口ひげの二枚目ドン・アメチー

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    1930年代は口ひげの二枚目が全盛だった。ロナルド・コールマン、クラーク・ゲーブル、ロバート・テーラー、エロール・フリン、ギルバート・ローランドなどのスターがいた。だがラテン系美男ドン・アメチー(1908-1993)こそ長い芸歴で映画、テレビ出演で楽しませてくれた口髭スターの一人だ。代表作は「天国は待ってくれる」(1943)「ラモナ」(1936)など。「コクーン」(1985)では77歳でアカデミー賞助演男優賞を受賞している。日本未公開作品が多く、わが国でその名をあまり知られなかったのは残念である。

 

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 「懐かしのスワニー」1939年

 

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  「シカゴ」(1937年)

 

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   「天晴れ着陸」(1938年)

 

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   「ラモナ」(1936)

 

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  「遥かなるアルゼンチン」(1940)

 

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ニアサ湖(「ニ」事項索引)

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   「ニアサ湖(マラウイ湖)」モザンビーク、マラウイ、タンザニアの国境をなす湖。マラウイという名は、マラウイの公用語チエワ語で1964年の独立時に国名と採用され、湖名にも用いられる。タンザニアとモザンビークでは現在もニアサ湖と呼んでいる。▽「ニキアスの平和」前421年ペロポネソス戦争中アテナイとスパルタとの間に一時成立した講和条約。▽「ニケーア公会議(325年)」アリウス派を異端とし、アタナシウス派を正統とした。▽「ニョクマム」魚介類を原料にした液体状のベトナムの調味料。 ▽「尼港事件」1920年、ロシア黒龍江下流のニコライエフスクで日本軍・一般邦人が革命軍パルチザンに虐殺された事件。わが軍は賠償を要求して北樺太を保障占領した。▽「ニスタット条約」1721年ロシア・スウェーデン間に締結された北方戦争終結の条約。▽「西田恵泉」1902-1980働く農民の姿や琵琶湖周辺の風景を描き続けた日本画家。▽「ニホニウム」日本発見の新元素113番。▽「ニポポ人形」北海道、アイヌの郷土玩具。▽「認諾」にんだく。被告が原告の請求を認めて、それに同意すること。確定判決と同じ効力を持つ。(ににに)

 

ニアサ湖
ニアス島(インドネシア)
新潟県
新潟水俣病
新座市(埼玉県)
新島襄
二・一ゼネスト
新居浜市(愛媛県)
新嘗祭
ニカイア公会議
二階堂是円
二科会
二月革命
ニカラグア
ニキアスの平和
握斧(にぎりおの)
ニクソン・ショック
ニクソン訪中
肉弾三勇士
ニケーア公会議
尼港事件
二コチアナ・シルベストリス(植物)
ニコチン
二コポリスの戦い
二コライ1世
ニコライ2世
ニコライ堂
ニザーミーヤ寺院
ニザーム・アルムルク
西周
西インド会社
西川如見
西ゴート族
西陣織
二十一ヵ条の要求
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ルノワールと印象派の仲間たち

20100124_1372889     本日はフランスの画家ピェール・オーギュスト・ルノワールの1919年の忌日。1841年2月25日、中仏リモージュで5人兄弟の第4子として生まれた。父のレオナールは仕立屋、母のマルグリットはお針子だった。ルノワールが4歳のときに一家はパリに移ったので、彼は首都で育つことになる。13歳のとき、ルノワールは小さな陶磁器工場の絵付け見習いとなった。工場に勤めていた時代、昼休みにルーヴル美術館にたびたび通っていた。彼の好んだ絵は、ヴァトーやブーシェやフラゴナールの描いた宮廷生活の目も綾な18世紀名画であり、劇的で鮮やかな色彩に富んだドラクロワの油絵だった。

   1862年、21歳のルノワールは、パリで有名な私立画塾シャルル・グレールのアトリエ学生となった。画塾の性格は伝統を重んじ保守的だったが、おかげでルーヴルに行って昔の巨匠たちに学ぶ時間がたっぷりでき、それが彼に良い影響を与えた。だが、グレールはまた戸外でスケッチすることの大切さも強調し、ルノワールにフォンテンブローの森へ行くように強くすすめた。

   学生仲間であったクロード・モネ、アルフレッド・シスレーやフレデリック・バジールらを通じてルノワールはエドガー・ドガやエドゥワール・マネをはじめ、多くの作家や批評家を知った。彼らはしだいに友情で固く結ばれ、定期的にパリのカフェで会っては自分たちの方法論を語り合ったのが印象主義という考え方であった。さらにピサロ、セザンヌ、ギョーマンらとも交わり、のちの印象派運動に向かう若い革新画家の一団に仲間入りした。こうして初期にはコロー、ドラクロア、クールベからの影響を受けた。ところが、1870年に普仏戦争が起こり、ルノワールも従軍し、仲間たちとの交遊も突然の休止を余儀なくされた。1874年パリで第1回印象派展が開催された。1907年、ルノワールは南仏ニースの隣町カーニュ・シュル・メールに12年間過ごした。サロンにはモネ・マティスなど名だたる芸術家を歓待した。晩年、リュウマチを患いながらも車いすに座り、握れなくなった絵筆を手に縛りつけて描き続けた。(12月3日)

 

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 眠る少女
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  眠
る裸婦

 

 

 

 

2020年12月 2日 (水)

北京原人は火を使用しなかった!?(異説世界史)

Img_1548940_28906951_0    1929年12月2日、裴文中が中国・周口店で北京原人の完全な頭蓋骨を発見した。これまで人類が初めて火を使ったのは50万年前の北京原人(学名ホモ・エレクトス・ペキネンシス)と考えられていた。近年、南アフリカ北部で約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べていたとみられる跡が発見された。しかし欧米の学者は、洞窟内の灰の跡は堆積したコウモリの糞が自然発火したものであり、北京原人が火を使い、調理したり、火種を保存する能力がなかったのではと見ている。ブラックによって学名シナントロプス・ペキネンシスと名付けられていたが、現在はホモ・エレクトス・ペキネンシスと改称されている。アフリカ起源の人類が世界各地域に広がったとする単一起源説が優位であるが、米学者ミルフォード・ヴォルポフらは北京原人を根拠に多地域並行起源説を唱えている。中国の学者らも単一起源説に批判的であり、北京原人が火を使い、火種を保存する能力があったと反論している。

 

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    20世紀初頭の北京原人の調査にあたった学者たちは米の古生物学者ヘンリー・オズボーン(1857-1935)の影響下にあった。オズボーンは中央アジアこそが人類の起源であるという仮説をたてた。1914年、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソン(1874-1934)は中国全土を調査した。1919年にカナダ人のダヴィッドソン・ブラック(1884-1934)が北京にやって来た。1921年、ブラックとオットー・ツダンスキーは周口店で北京原人の歯を発見した。続いて輩斐文中がほぼ完全な頭蓋骨の化石を発見し、世界的に注目が集まった。ワイデンライヒは北京原人を現生人類の祖先と考えたが、現在では否定する学者が多い。未だ北京原人がアジア人の祖先か、火を使用したのか、使用しなかったのか、決定的なことは謎のままである。もつとも確実な炉の址が見つかったのはフランスのテラ・アマタ遺蹟で約40~35万年前である。

 

 

 

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  アンダーソン              ブラック

( keyword;Homm erectus Pekinensis,F・Weidenreich,Davidson Black,Johan Gannar Andersson )

角度を正しく表すメルカトル図法

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メルカトルの世界地図(1569年)オーストラリア大陸はまだ描かれていない

   1594年のこの日、オランダの地理学者、ゲラルドウス・メルカトルの忌日。地理的発見時代の到来により、地図の出版活動も盛んとなった。十字軍遠征がいくどとなく行なわれた中世の後半は地中海を中心とする時代であり、したがって地図製作もベネチア、ジェノバなどのイタリア諸都市が中心であった。しかし、新大陸が発見されると、新たに北海を介して大西洋に臨む北西ヨーロッパの都市が元気づいてきた。とくにその中心的位置を占めるネーデルランドは活気にあふれ、アムステルダムはやがてヨーロッパ第一の商業・貿易都市になった。ゲラルドゥス・メルカトル(1512-1594)はこの時代の代表的な地図学者・地図製作者である。当時の旅行者や商人の旅行記や見聞録などから広く資料を集めて、「ヨーロッパ地図」「南北アメリカ地図」「世界地図」などを作成した。

 

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     今日の地理学においてメルカトルの考案した地図は円筒図法のひとつでその正角性から正角円筒図法ともいう。経線からの角度が正しい等角図法で、等角航路が直線となるため、羅針盤に頼った大航海時代には海図・航海用地図としてよく用いられてきた。ただし正角図法の原理はメルカトルの独創ではなく、ドイツのエアハルト・エッツラウプが1511年に作成した地図にすでに使用されている。

   メルカトル図法は経線からの角度は正しく現されるが面積関係が正しく得られない欠点がある。赤道付近の形は正確に近いが、高緯度地域に向かうにしたがい、距離・面積の歪みが大きくなる。また正角の地図であるからといって、土地の輪郭が実際の形と相似に描かれるわけではない。緯度的ひろがりの大きい土地ほど、その輪郭は歪んでいる。またメルカトル図法では東京・ニューヨークを結ぶ直線は、東京・ニューヨーク間の最短通路ではない。この図法の一種であるユニバーサル横メルカトル(UTM)図法は、国土地理院発行の地形図にも利用されている。 (12月2日)

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