ユトリロとシュザンヌ・ヴァラドン
ひとりの貧しい田舎娘マドレーヌ・ヴァラドンはフランス中西部リモージュ近郊のベッシーヌで道路建設技師との情事から一人の女児を生んだ。マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(通称シュザンヌ、1865-1938)である。5年後、マドレーヌは娘シュザンヌとともにパリに出た。彼女たちは貧しい労働者たちが住むロシュシュアール大通りに落ち着き、裕福な家庭の家事手伝いをしたり、洗濯屋で働いた。
マリーは生まれつき人の言うことをきかない性格の子供であったらしいが、ロシュシュアール大通りの路上に白墨をつかって物を書くのが好きだった。強い好奇心と鋭い物を見る眼とがこの女の子に与えられた天の贈物だった。マリーは13歳の頃にはお針子としてオート・クチュールの仕事場で見習いとなったが、その後も転々と仕事を変えて行った。やがてマリーはパリ16区にあった「モリエ」サーカス団のアクロバットの美少女として人気がでた。ある時、空中ブランコから転落して、脚をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。写真で見るマリーは、濃い眉毛と刺すような目差すで男達の好き心をそそる美少女に成長していたらしい。15歳の時、当時画壇の大御所だったピュヴィウス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。シャヴァンヌは58歳、年齢的には孫娘にも近いマリーと画家はモデル以上の関係を結ぶようになる。この画家の最も有名な作品「聖なる森」に描かれた上半身裸の8人の女人像はすべてマリーがモデルをつとめたといわれる。1883年からほぼ7年にわたりマリーはポーズをとった。
そんなころモンマルトルは酒場、あるいはダンスホールなどが開設され、歓楽街としての賑わいを大きくしてくる。ボヘミヤン風の生活を若さにまかせて楽しんでいたマリーは1883年12月26日、男児を出産する。将来のモーリス・ユトリロである。時にマリーは18歳だった。そして、このポトー通り8番地で生まれたモーリスの父親が一体誰であるかについては諸説ある。①ユトリロ姓を与えたスペイン人の芸術家ミゲル・ユトリロ説②カッフェ「黒猫」のなじみ客で、モンマルトルの酔いどれ詩人モーリス・ボワシー説③ピュヴィス・シャヴァンヌ説
後年さまざまな推測がなされたがシュザンヌ自身が「本当のところは私にも分からない」と言っているとおり、浮気なシュザンヌだった。
シュザンヌはドガ、ロートレック、ルノワールらのモデルをつとめた。2歳のモーリスを連れたシュザンヌはロートレックの愛人となる。ロートレックは身体が不具であったが、シュザンヌは彼にひとかたならぬ魅力を感じていたらしい。というのも、この美しく意志の強い女性は、彼に結婚する気にさせようとして狂言自殺を試みたといわれている。おそらくこれによって、数年間続いてきた彼らのつかず離れずの関係に終止符が打たれたと思われる。1893年にはエリック・サティと交際したが半年で破局した。1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚。その後、離婚し、1914年に息子のユトリロよりも若い画家アンドレ・ユテルと再婚する。まさにシュザンヌは恋多き女であった。ロートレックやドガの指導で画家として成功したシュザンヌは、息子のモーリスをアルコールから遠ざけるために、彼に絵をすすめたエピソードはあまりにも有名であろう。ユトリロが風景画家であるのに対して、シュザンヌの作品はほとんどが人物画であるが、その大胆なフォルムはロートレックの影響を思わせるものがある。(Maurice Utrillo,Suzanne Valadon)



















藤澤ノリマサが「希望の歌」が歌っている。むかし友人の結婚披露宴でベートーベンの「交響曲第九番」の「歓喜の歌」をドイツ語で歌っている人がいた。うらやましいと思ったがついに自分は練習した事はなかった。だからいまでも日本語で「♪晴れたる青空ただよう雲よ」と中学校の音楽の本にあった歌詞しかしらない。いまいち歌詞がつまらない。「希望の歌」は歌詞がやさしくて歌いやすいように思う。ベートーベンは12月が誕生月である。ベートーベンの父ヨハンは宮廷楽団のテノール歌手であったが、酒好きで喉を痛め、生活が困窮した。1767年にマリア・マグダレーナ・ライムという若い未亡人と結婚した。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンはその長男である。正確な誕生日はわからない。洗礼を受けたのが17日なので、17日と前日の16日を誕生日とすることが多い。ベートーベンの身長は160~167㎝。耳が遠いせいで声が大きかった。ワインが大気好きだった。BSプレミアム「ザ・プロファイラー」でベートーベンの不滅の恋人とはアントニア・ブレンターノが有力であるといっていた。彼女は当時すでに結婚しており4児の母であった。




















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