中原中也忌
孤独な魂を真摯にうたいあげた夭折の詩人・中原中也の1937年の忌日。大正12年、マキノ・プロの大部屋女優の長谷川泰子は、当時まだ立命館中学の中原中也(1907-1937)と知り合い、翌年から2人は同棲をはじめた。そして大正14年3月、2人は上京する。中原は詩作に専念し、富永太郎(1901-1925)、小林秀雄(1902-1983)等と交わった。小林秀雄は東大生の秀才で、やがて新進評論家となる。長谷川泰子は東京での暮らしの寂しさからか、やさしくてエリート学生の小林と親しい関係になる。やがて小林は中原から泰子を奪って同棲する。しかし、その生活も3年間転居を繰り返したあげく、小林は泰子のもとを逃げ出す。昭和3年、小林は奈良の志賀直哉のもとに身を寄せる。これが近代文学史上に知られる「奇怪な三角関係」のあらましであるが、運命的な出会いがそれぞれの青春の蹉跌であったことは事実であろう。このことを小林自身は後年「中原中也の思い出」で次のように書いている。
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私は中原との関係を一種の悪縁であったと思っている。大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出したがるものだ。中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人協力の下に、(人間は憎しみ合うことによっても協力する)奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間との間を目茶苦茶にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は、告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。だだ死後、雑然たるノートや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見つけただけであった。(昭和24年8月「文芸」)
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汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
中原中也は昭和12年10月22日、急性脳膜炎で没したが、かっての友人であった小林秀雄の手によって詩集「在りし日の歌」が翌年出版された。
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投稿: 高遠信次 | 2020年12月15日 (火) 15時25分