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2020年8月23日 (日)

諸葛孔明と日本人

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    いま映画「レッドクリフ」連作の上映で再び三国志ブームだという。乱世の奸雄曹操、赤壁で防いだ孫権と周瑜、義人劉備と関羽と張飛。三顧の礼で迎えられた軍師諸葛孔明。三国志に登場する英雄で誰が一番に人気があるのか?中国では、時代劇をする場合、登場人物を赤顔(善人)と白顔(悪人)に分ける。白顔の代表は曹操、映画ではチャン・フォンイーが演じていた。関羽は中国では一番人気だ。他に趙雲、呉の周瑜(トニー・レオン)なども人気だ。しかし金城武の美男すぎる孔明像により新たに「三国志」の女性ファンが急増したようだ。日本では昔も今も至誠の忠臣、稀代の軍師として諸葛孔明には絶大な人気がある。そもそも日本の文献で孔明の名が初見されるのは、かの弘法大師、空海(774-835)の「招提寺の達嚫文(だつしんぶん)」という文章においてである。これは唐招提寺に供物を捧げた際の文で、如宝(?-814)という人物を「法城の葛亮(諸葛孔明のことをさす)なり」とたたえている。つまり天皇と如宝との関係を「水魚の交わり」のようだといったのである。以来中世には『太平記』『義経記』などにも登場するが、江戸期の湖南文山の『通俗三国志』のベストセラーの影響が大きいであろう。

   諸葛孔明(181-234)。名は亮。孔明はその字。没後、忠武と名を贈られたので、諸葛武侯ともいう。234年8月23日も五丈原の陣中で没した。諸葛孔明は日本人にとっては、おそらく孔子についでよくその名が知られている中国人ではないだろうか。明治期、とくに土井晩翠(1871-1952)の「星落秋風五丈原」(「帝国文学」明治31年11月号、『天地有情』明治32年4月刊行)によって愛唱され、ますますその人気は高まった。

 

  祁山悲秋の風更けて

 

  陣雲暗し五丈原

 

 零露の文は繁くして

 

 草枯れ馬は肥ゆれども

 

 蜀軍の旗光無く

 

 鼓角の音も今しづか

 

 丞相病篤かりき

 

 草盧にありて竜と臥し

 

 四海に出でて竜と飛ぶ

 

 千載の末今も尚

 

 名はかんばしき諸葛亮

 

   土井晩翠は、後年「無題録」(『雨の降る日は天気が悪い』所収)で次のように述べている。

「私は小学校時代から父に八犬伝、水滸伝、三国志に対する趣味を鼓吹された。孔明に対する崇拝はその頃からである。大学卒業後、星落秋風五丈原を書いたのも思えば父の教えからであった」

   明治から昭和戦前期にかけて大家も孔明に関する著作をのこしている。内藤虎次郎「諸葛武侯」(明治30年)、白河次郎「諸葛孔明」(明治42年)、猪狩又蔵「諸葛亮」(大正2年)、宮川尚志「諸葛孔明」(昭和15年)、そして吉川英治「三国志」が昭和15年に刊行されている。東洋史家の市村讃次郎も「諸葛亮伝」(教材講座第3巻1-2)を昭和3年に発表し、『支那史研究』(昭和14年)として刊行された。戦後、植村清二「諸葛孔明」(昭和39年)や狩野直禎らが多数の諸葛孔明関連の論文を著述している。

 

 

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コメント

ご指摘の文章にある安如宝は天皇と水魚の交わりがあったのですか。
「法城の」と言う事から考えても師匠と崇め、唐から一緒に苦難の末、した渡日鑑真和尚と解釈するのが自然なのではないでしょうか。
 ご指導ください。

興味あるご指摘をいただきありがとうございます。この頃は奈良天平後期から平安・延暦・弘仁時代、唐風文化が興隆する時期でもある。唐招提寺は759年に鑑真によって開基されたものであるが、763年に鑑真が亡くなってからも、寺の造営は宝亀年間まで続いた。寺の隆盛は他の僧の努力によるものである。如宝は渡来時はまだ十代であったが、在日60年にも及び、唐風文化を伝えた功績は大きい。「遍照発揮性霊集」には、空海が嵯峨天皇に法帖を献上したと伝えられるが、唐からの帰朝僧空海にとって如宝は唐文化の師である。また三筆として知られる空海と嵯峨天皇が王義之書法で親しいことは著名であり、如宝と空海とが交流があったことも事実である。嵯峨天皇と如宝とは年もかなり離れているものの、空海が「水魚の交わり」という中国故事を引用して、二人の親密なる関係を譬えとしたことは、実態の交流関係の有無はさておき、当時の唐風文化サロンの中国趣味をうかがわす意味でも興味深い。また嵯峨天皇は弱年ながら英明で王者としての風格があったという。唐風文芸趣味で一致する彼らの拠点が唐招提寺であった。鑑真はわが国に王義之の法帖を献上したと「唐大和上東征伝」に記されている。この唐招提寺に供物を捧げた際の空海の文中に、その管長である如宝を「法城の葛亮なり」と讃えたことは文脈上から明らかである。日本漢文学の菅野礼行先生(静岡大学)の「日本における諸葛孔明像」(154p-156p)にその見解が明らかにされています。(加地信行編「諸葛孔明の世界』新人物往来社)

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