エカテリーナ2世と農奴制
エカテリーナ2世(在位1762-96)は、元来ドイツ人で1754年にピョートル3世と結婚しギリシア正教に改宗したが、近衛連隊のオルロフ一派とむすびクーデターをおこして、夫を殺害し自ら帝位につく。彼女は、口に「法治国家」と「人道主義」を唱え、啓蒙専制君主と呼ばれるにふさわしいかのようにみえる。だが、彼女の治世に、貴族の特権はますます拡大され、農民たちは貴族の奴隷に等しい地位につきおとされてしまう。フランス革命の影響も加わって、彼女の治世に反動体制はいっそう強化された。
34年間にわたる治世を通じて、彼女は農奴制の強化につとめ、農奴制貴族国家の最盛期を現出した。「農奴を徒刑にする権利の地主への賦与」(1765)、「農奴が地主を告訴することを禁止」(1767)などの政策を遂行、1767年法典編纂委員会を召集、若干の行政上の改革により絶対王政の強化を行おうとした。農奴への圧迫はブガチョフ指導下の農民戦争(1773-75)を惹起する。対外的にはポーランド分割を行い、露土戦争(1768-74、89-92)でクリミア半島を占有してセバストポール軍港を築き、黒海への出口を開いた。東方では、アラスカ・千島の大部分を占領し、1792年には日本にもラクスマンを派遣して通商を求めた。また、フランス革命の進展と新思想の普及には敵意を示し、ラジシチェフ、ノヴィコフらの進歩主義者を迫害した。
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